5.欲望と人間との主従関係

1.自己の支配はあくまでも自分主体

欲望という言葉は、人間であれば誰しも持ち合わせている意識である。
金銭、物質、社会的地位、愛情、理想・・・
様々なものに対して、人はその欲望を感じ、それを手にしたいと、誰しもが一度は感じる。
人間は欲なくして発展はありえなかった。世界が夜の闇に包まれたとき、その中で明るさを欲したことにより、人類は火を発見し、電球を発明した。
人間は欲によって動くという言葉も、的外れではないはずだ。
しかし、身分不相応の欲を露わにすることにより、人は何らかのものを失うことがある。
欲望とは、色々な意味で恐ろしくもあり、また発展的でもある。

その中で、もっとも大切なことは。
欲望を支配することは良くても、欲望に支配されないことだ。
目的のある欲望を追求するのは発展的だが、目的のない欲望を追求するのは愚かなことだ。
主体性のない欲望に一旦心をとらわれると
手に入れたもの以上に、多くの自分の大切なものが浪費されてしまうことに気づかねばならない。
欲望を満たすということは、それなりの代償が伴う行為なのである。
欲望に一旦とらわれてしまうと、それが見えなくなる。
私はこの感情を、とても恐ろしいものと感じる。

たとえば、何かの小説にあるようなこんな話。
妻子を幸せにしたいと願う男がいるとする。
彼は、まず妻子に何不自由ないゆとりある暮らしをさせたいと、寝る間も惜しんで働き続けた。
彼は収入が上がり、出世していった。望んだ通り、何不自由ない暮らしが手に入った。
彼が家にいる時間はほとんどない。
けれど、彼はもっともっとお金を稼ぎたくなる。シビアにもなり、人からは強欲とささやかれる。
気づいたら、彼のなにより大切にしている妻子は、彼の存在自体を自分たちの生活から遠くに認識し
そして、何より彼らが幸せではなかったら・・・

幸せという感情を感じるファクターは、人によりけりである。
決して、皆同じ事に対して幸せを感じる人間ばかりじゃない。
幸せという感情は、いつも、自分の心だけがそれを決定するのだ。
他人と比較する幸せは、所詮自分のファクターに合致していなければ、比較する意味はない。
いわば大きな誤差のある、「比較対照にするべきでないデータ」なのだ。
本来的な欲望というものは、常にその「幸せを感じる対象」に向かうべきものである。
決して他人との比較対象において決定づけられるものではない。
自分は自分の幸せを追求するために、すなわち自分の欲望を追い求めるために存在するのであって、決して他人の幸せを追求するために存在するべきではない。
また、自分の欲望というのは、自分のためだけにあらず、生まれてきた一人の人間として、他の人間に対してしてあげたいという感情も、また自己の欲望の一つの形態である。

そこで
その欲望の限界について考えてみたい。

人間は、欲望をかなえるということに対して、先に述べたように「それなりの代償が伴う行為」であることを認識すべきである。
自分が幸せを感じる以上に、欲望を追い求むることは、それだけ自分の気づかない大切なものを削る行為に等しい。
身分不相応の欲にとらわれた瞬間から、その限界の境界線が見えなくなり、その結果、自分の幸せが主体でなく、欲望が主体と変化するのである。
何とばからしいことか。
自分を支配するものは、「自己」であるべきである。
しかし、その瞬間、支配の主体は「自己」から「欲望」へと変化する。
欲望に支配されるということは、自分の心の中で、幸せを感じる基準を失ってしまうことなのだ。
人生における、物質的な全財産以上に価値のあるものを、あっけなく、なくしてしまうことなのだ。

人生は常に歴史を刻み続けている。
人の中にあらず、自分の人生という歴史だけに。
自分が死ぬときに、自分の歴史を振り返るのは、ただ自分だけでしかない。
そんな最後に気づ後悔するのはばからしい。
動いている歴史のうちでしか、自分の幸せを追い求むることができないのであれば、より多くの幸せに気づくべきではないだろうか。
人間には、今このときときでしかできない経験、感じられない気持ちがある。
そんな大切な一瞬一瞬を、自己の支配ではなく、欲望の支配で一時でも生きていくなんて、なんと無駄なことか。
だからこそ、私はいつも自分に言い聞かせる。
身分不相応な欲は、自分を失うに等しい、愚鈍な行為である、と。

先日、「レインメーカー」(F・コッポラ監督)という映画を観た。
希望を持って、弱者の楯となるべく、弁護士になったばかりの主人公の物語。
この映画にも、そんなことを考える一瞬が数多く存在する。

2.私個人の「欲望」

私は、金銭や貴金属などに対する欲望があまりない。
おそらく、自分自身が金銭的に、自分なりに充足した生活を送ってきていたからだろう。
母親の持つ高価な貴金属や着物、祖父母の遺産などを与えると言われても、「私は別にいらない」と、一度も手をつけたことがない。
私がそう望めば、JJやViViに載っている、お嬢様のファッションも生活もすぐに手に入れられる。
成人式の振り袖も、泥大島の留袖も、真珠のネックレスも、貴金属も、外車も買ってあげると言われながら、「いらないわ」と主張する私を変わってるともよく言われる。
でも、いらないもんはいらない。
強がりでなく、ホントに要らないものは要らないのだ。
私にとっては、どれもが身分不相応なのだ。今の私はそれらを何も必要としていない。
ただ、愛情のこもった贈り物だけは何であれ、それだけで嬉しい。
気持ちがこもっているからこそ、その贈り物は私の中で価値がある。
要らないと主張する理由は、その気持ちだけでも、十分だから。

努力せずに手にいれたものはつまらない。持っても幸せじゃない。
自分がそれらのものを存分に生かせる人間じゃないから、私のような持ち主にわたったら、ものが可哀想というものだ。
大げさでなく、本気で思う。
そして、自分の努力以上の金銭も同じである。
仕事においても、自分の努力以上に金銭を給料として頂くと申し訳ないと思い、むしろ、恥ずかしいと思う。
物質的なものに私はあまり価値を見いだせない。
私の生活に、宝石も貴金属も豪華な着物も別に必要じゃない。
安全な住処と、動く車、そして生活に必要なだけのお金があればいい。

ただ、自分のなすべきことには私はプライドを持っていて、どん欲だと思う。
人の作ったいい加減なプログラムは許せないし、それを赤字出しても解決したいという欲はものすごく高い。
お客様をはじめ自分の周りの人たちの事を何より先に考える。
自分の売上金額を人にまわして、生産性が落ちても、いい仕事ができればそれに越したことはないとも思う。
妥協した仕事で要領よくお金を稼ぐより、苦労してでも技術者としていい仕事をした方がずっといい。
そして、その結果として、いくばくかのお給料を頂き、やりくりして、自分が本当に欲しいと思うものには、お金を惜しまないし何としても手に入れようとあがき、手に入れたものはとことん使い倒す。
そんな生活はいつも私の幸せが第一にあるから。
私は、欲がないように見えて、ものすごく細かいところでどん欲なのだろうと、時々思う。

でも、やっぱり身分不相応の欲は持ちたくない。
どんなものより大切な自分の幸せだけは、決して見失いたくないなって感じ。


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