| 1.自己の支配はあくまでも自分主体 欲望という言葉は、人間であれば誰しも持ち合わせている意識である。
金銭、物質、社会的地位、愛情、理想・・・
様々なものに対して、人はその欲望を感じ、それを手にしたいと、誰しもが一度は感じる。
人間は欲なくして発展はありえなかった。世界が夜の闇に包まれたとき、その中で明るさを欲したことにより、人類は火を発見し、電球を発明した。
人間は欲によって動くという言葉も、的外れではないはずだ。
しかし、身分不相応の欲を露わにすることにより、人は何らかのものを失うことがある。
欲望とは、色々な意味で恐ろしくもあり、また発展的でもある。
その中で、もっとも大切なことは。
欲望を支配することは良くても、欲望に支配されないことだ。
目的のある欲望を追求するのは発展的だが、目的のない欲望を追求するのは愚かなことだ。
主体性のない欲望に一旦心をとらわれると
手に入れたもの以上に、多くの自分の大切なものが浪費されてしまうことに気づかねばならない。
欲望を満たすということは、それなりの代償が伴う行為なのである。
欲望に一旦とらわれてしまうと、それが見えなくなる。
私はこの感情を、とても恐ろしいものと感じる。
たとえば、何かの小説にあるようなこんな話。
妻子を幸せにしたいと願う男がいるとする。
彼は、まず妻子に何不自由ないゆとりある暮らしをさせたいと、寝る間も惜しんで働き続けた。
彼は収入が上がり、出世していった。望んだ通り、何不自由ない暮らしが手に入った。
彼が家にいる時間はほとんどない。
けれど、彼はもっともっとお金を稼ぎたくなる。シビアにもなり、人からは強欲とささやかれる。
気づいたら、彼のなにより大切にしている妻子は、彼の存在自体を自分たちの生活から遠くに認識し
そして、何より彼らが幸せではなかったら・・・
幸せという感情を感じるファクターは、人によりけりである。
決して、皆同じ事に対して幸せを感じる人間ばかりじゃない。
幸せという感情は、いつも、自分の心だけがそれを決定するのだ。
他人と比較する幸せは、所詮自分のファクターに合致していなければ、比較する意味はない。
いわば大きな誤差のある、「比較対照にするべきでないデータ」なのだ。
本来的な欲望というものは、常にその「幸せを感じる対象」に向かうべきものである。
決して他人との比較対象において決定づけられるものではない。
自分は自分の幸せを追求するために、すなわち自分の欲望を追い求めるために存在するのであって、決して他人の幸せを追求するために存在するべきではない。
また、自分の欲望というのは、自分のためだけにあらず、生まれてきた一人の人間として、他の人間に対してしてあげたいという感情も、また自己の欲望の一つの形態である。
そこで
その欲望の限界について考えてみたい。
人間は、欲望をかなえるということに対して、先に述べたように「それなりの代償が伴う行為」であることを認識すべきである。
自分が幸せを感じる以上に、欲望を追い求むることは、それだけ自分の気づかない大切なものを削る行為に等しい。
身分不相応の欲にとらわれた瞬間から、その限界の境界線が見えなくなり、その結果、自分の幸せが主体でなく、欲望が主体と変化するのである。
何とばからしいことか。
自分を支配するものは、「自己」であるべきである。
しかし、その瞬間、支配の主体は「自己」から「欲望」へと変化する。
欲望に支配されるということは、自分の心の中で、幸せを感じる基準を失ってしまうことなのだ。
人生における、物質的な全財産以上に価値のあるものを、あっけなく、なくしてしまうことなのだ。
人生は常に歴史を刻み続けている。
人の中にあらず、自分の人生という歴史だけに。
自分が死ぬときに、自分の歴史を振り返るのは、ただ自分だけでしかない。
そんな最後に気づ後悔するのはばからしい。
動いている歴史のうちでしか、自分の幸せを追い求むることができないのであれば、より多くの幸せに気づくべきではないだろうか。
人間には、今このときときでしかできない経験、感じられない気持ちがある。
そんな大切な一瞬一瞬を、自己の支配ではなく、欲望の支配で一時でも生きていくなんて、なんと無駄なことか。
だからこそ、私はいつも自分に言い聞かせる。
身分不相応な欲は、自分を失うに等しい、愚鈍な行為である、と。
先日、「レインメーカー」(F・コッポラ監督)という映画を観た。
希望を持って、弱者の楯となるべく、弁護士になったばかりの主人公の物語。
この映画にも、そんなことを考える一瞬が数多く存在する。 |