7.人生はかくの如き・・・

何度も書きかけて挫折した、私自身の人生哲学について
少しだけその片鱗を書き記しておこうと思います。
難しくて、少し偏った視点があることは十分承知ですが、非常に文才に乏しくて・・・。
自分の言葉で最後までうまく表現できませんでした。ごめんなさい。
1.書物のススメ

最近書店にも出回り始めた新刊に、「生きがいの本質」(福島大学経済学部・経営学科助教授 飯田史彦著:PHP研究所刊\1600)という本がある。(注:これを書き始めたのは99年5月です)
この本は、ベストセラーにもなった「生きがいの創造(1996)」「生きがいのマネジメント(1998)」に続く3部作の完結編(正確には、4月末にさらに特集編「生きがいのメッセージ」が出版された。この本のみ、徳間書店刊)であり、私は21歳の頃、当時の恋人に薦められたことをきっかけとして、初めて彼の著作に出会った。
物心ついた頃から、自分という人生、生きていくことの意味に対して、答えのでない疑問をずっと考えていた自分にとって、この本との出会いは言葉では言い表せない程の衝撃を受けた。それまでに漠然ながら感じていた事を、これだけ論理的に筋道立てて著された本を、私は他に知らない。
感動をするというたぐいのものではない。心に刻みつけられるという種類の書物に属する。

書物とは、すべてが良い書物とは限らない。
いくら世間で絶賛されている書物でも、それが良書であるとは言い切れない。私はベストセラーの中の見るに耐えない悪書も多く知っているし、売れずに埋もれてしまっていたすばらしい良書も多く読んできた。
私の母も、私も、多くの本を読むことが好きだ。
そんな母は、私に「たくさんの本を読むことは、人生においてとても有益なことよ。けれど悪い書物は、いくらお金を出して買ったとしても、いくらベストセラーで多くの人に読まれていても、判った時点で読まないほうがいいわ」とよく言う。
その通りだと思う。本というのは、生命から湧き出る「言葉のエネルギー」の凝縮されたエッセンスなのである。
負のエネルギーもあれば、正(生)のエネルギーもまたしかり。
自分が生まれてきた瞬間、誰しも純粋無垢な状態で生まれてきたはずなのに、年を重ねるごとに、色々な”音楽”や”雑音”という名の言葉が自分の中を通り過ぎ、今の自分が成り立っている。
そんな中で、自分にとって有害な”雑音”をシャットアウトするということは何よりも大切であり、そして”雑音”を見抜く、本質を見る目を養うことは、それよりももっと大切なことである。「言葉」の持つ負のエネルギーに、自分がよどんでしまう、なんて、なんともったいないことか。
自分の人生は、自分が作り上げるものである。自分でしか作り上げられないものである。
だから、いい人生を過ごしたいと願うならば、自分が吸収するすべてのものに対して、自分自身が責任を持たねばならないと、私は思う。
そんな考えの基で、この本は、私にとって、たとえてみれば珠玉のシャンパンのような存在である。

この本のタイトルからして、オカルトや宗教色を感じ、敬遠するという人は多いと思う。事実、私もその1人だった。
けれど、人生の中で出会うべき人には、必ず出会うべき時に出会い、そして、本においてもそれは同じである。
絶対に読んで!なんて言わないけれど、ふと、思い出したときに手に取ってみてほしいなと思う。
オカルト、宗教等というキーワードをすべて取り払い、素で本質を見ようとする人に対して、出会うべき時に出会うべき本であると私は思っている。
この本の受け取り方は、本質を見ようとする人にとっては、きっと珠玉のシャンパン。でも、偏見をもった人が読めば、単なるオカルトでしかないので、きっとがっかりすると思うから。
あえて言うなら、「生きがいの創造」から読むのがお薦め。(「生きがいの本質」からでもいいかも)
難しい内容ではないし、値段も安いので、誰にでも読みやすい本です。

<<参考までに>>
PHP研究所とは、ビジネス、啓蒙思想の分野について強い出版社で、故松下幸之助氏の思想を受け継いで設立された企業である。松下氏の意志を受け継いで、市場のニーズよりも先に、本当の良書を届けたい、という思想のもとで社会活動をしている。
私はPHPの本は何冊も読んだけれど、確かに、心に残るおもしろいものは少なく、思想が偏り気味であるが、前向きなエネルギーを感じる。この本がPHPから出ていると判り納得した。また、PHPにしては大変珍しいクリーンヒット。(失礼)
他の出版社では、いくら良書といっても市場のニーズ第一で、とても刊行しなかっただろうなぁ。

 

2.人生の意味を考え始めたきっかけ

物心ついた頃から、私は自分の体が自分のものであり、けれど自分のものではないような微妙なバランスに支えられた疑問を感じていた。
そして、生まれてきて、朝起きて、呼吸をし、食事をし、排泄をし、睡眠をとって、そして死んでゆく。という単調な人間の生活に、一体どんな意味があるのだろうと感じてもいた。
そんな中で、貧富の差が社会には存在し、その恩恵よって手にいれた華やかなものたち。
そう、私の学生時代はまさにバブルの絶頂期だった。その中で私は比較的裕福に過ごしてきたと思う。
そんな社会生活の営みで手に入れたものや生活が、私の人生かといえばそうではない。
原点に戻ってみれば、私たちはただ、起きて、呼吸をし、食事をし、排泄をし、睡眠をとって、そんな毎日を過ごしているだけにすぎないのだ。

私は、今でこそ「鉄人」と言われるようなハードワークが当たり前のように日常に組み込まれているけれど、10代の頃まで、ずっと非常にデリケートで病弱な子供だった。
今の私を知る人には想像もつかないだろうけれど。
神経の虚弱さにはじまって、アトピーやアレルギー、喘息と、いわゆる環境病をよく患い、年に何度も風邪を引き、運動も苦手で、バスケ部や陸上部などで走り回っている友達をいつも尊敬していた。
今でこそ笑い話にもなるけれど、何度も突発的に、何の前触れもなく死の淵をさまよっていた。
アレルギーにより、ある日突然、呼吸ができず、意識が遠くなる。つい先ほどまで元気に表を飛び回って大笑いしていたというのに、その瞬間、私は自分の体なのに、自分で自由にならないもどかしさを痛感し、まさに死と隣り合わせになった自分に気づく。
そう、人間とは、自由にならない生き物。
体だけでなく、思想にしても、仕事にしても、人間関係にしても・・・。
そして、死とは本当に一瞬にしてやってくるものなのだ。自分の力が抗っても、抗いきれないことがある。
それが、「生命」だ、と、私は何度も幼いながらに実感した。
何度も死にかけ、意識を失ったり呼吸が止まったりした。
そんな経験を通して、人間の生命の儚さを感じた。そして、それでも生きているという事実。
私は、自分の命が自らの意志と、そして、それの及ばない、何か大きな意志とによって生かされていると感じる。
その頃から、私は「人生の意味」を自分に問うようになった。

何故、自分がここに、生きているのか。

考えてみれば、私だけでなく、すべての人間が、生まれてきて、朝起きて、呼吸をし、食事をし、排泄をし、睡眠をとって、子供を残し、いつか死にゆく。というサイクルで動いているのだ。
人間というものは、1個の肉体という物質にすぎない。
一人で生まれてきて、そして死ぬときも一人。
肉体は土に還る。そして、その存在はそこから消滅してしまう。
そして、肉体は物質であり、死んでしまえば、ただ灰になるのみ。無に帰する。
肉体だけでなく、それまでに積み上げた財産、知識、経験、家族、友人・・・すべて自分が死ねば、それらの環から切り離される。
生まれて、生きて、老いて死ぬだけのサイクル。
自分がどれだけ功績を残しても、知識や技を磨いても、死というときがくればすべてそれらは消滅するのだ。
無から始まり、無に終わる、秩序。
生まれてきて、人間社会で生命活動を行って、そしてまた、何事もなかったかのように土に還る。

生まれてくるということは、必ず「死」を前提として生まれてくるのだ。
人間は、死ぬために生まれてきたといっても過言ではない。
さすれば、人生とは何なのか。死ぬためだけにあらざる何が存在するのか。
そんな疑問を持った瞬間から、私の「考えること」が始まった。

 

3.縁について

人生は思い通りにならない。
飯田氏の著書の中で「人生は思うとおりにいかないからこそ価値がある」という話が目に留まった。
誰しもが辛い悩みや、問題に突き当たり、挫折を経験した事があると思う。もちろん、挫折なんて経験を知らない人もいることも事実だろう。
私自身も、何度も小さな挫折をして、今日まで生きている。
世の中には本当に思い通りにいかない事ばかりだ。
矛盾が渦巻いて、その渦に自分が飲み込まれ、もがき続けながら、まるで出口の見えない深いトンネルに一人取り残されたような、絶望。
私自身の挫折は、人から見れば世の中に流れている「不幸な身の上話」に比べて、まだまだ救いのある、小さな挫折ばかりだっただろう。けれど、私自身にとっては、その時々に応じて、自分の力が及ばないことを何度も実感する苦しさを味わった。
そう、あの頃乗り越えられないと、あれほど思っていた事なのに、その山が過ぎた今、私は見事にその挫折を乗り越えてきているのだ。そして、「あの時の自分がいたから今の自分がここにある」と、心から思えるのだ。
これこそ、「思い通りにいかない人生に対する価値と感謝」という気持ちなのだ。
思い通りにいかないからこそ、感じられる気持ちがある。

そんな挫折の最中にも、私は多くの新しい出会い、そして別れがあった。
あの出会いがなかったら、今の私は存在しないとも言い切れるような不思議な縁を感じる出会い。
それらはいつも、出会うべきときに出会うことが決まっているかのように、私の前に現れる。
まるで、自分がその出会いを呼び寄せたかのような。
そして、私は自分の絶望した心の状態をも、彼らに救ってももらっている。
彼らとは、人間だけにあらず、書物や芸術品、そして旅先の風景など、自分が出会うものを総称する。
それらは私の心の中に、常に感謝という気持ちで収まる。
そう。思い通りにならない自分だからこそ気づける、他人の愛。
「縁」というのは偶然であると言われているが、私は偶然とは言い切れない、何か必然のようなものと感じてもいた。
見えない何かのネットワークでつながっているような、自分とすべての物質が一体となったような、何とも言えない力。
飯田氏はそんな「大きな力」についても、解説していた。
その内容に触れることはここでは止めておくが、出会い、別れ。すべてのイベントは、偶然ではなく必然であること。
そう私は感じる。

そして、時が過ぎた今。
「乗り越えられない試練は、自分に決してやってくることはない」
とも感じる。

 

4.人生の目的

死ぬためだけにあらざる何が存在するのか。すべての必然的な人生のイベントは何を意味しているのか。
すべての自然界の秩序は、そのひとつひとつに意味があり、働きがあり、環が存在する。
死にゆくことを前提とした人間という体で、その意味は何か、働くべきことは何かという疑問は、まるで鏡のない世界で自分の背中を見ようとするような微妙なバランスを確立していた。
そう、なんとなく、わかるようでわからないもの。まるで自分の背中のような。それが生命であり、人生。

人生は、財力にあらず。
人生は、華やかな生活にあらず。
人生は、博識にあらず。
人生は、いつか終焉を迎える。
自らの人生が終わった時に、何が残るのか。
自然界のすべては、そのすべてに意味があり、自然の摂理に従って循環している。
で、あれば、人間という存在はどのような意味を持っているのか。
人間という存在は何のために存在しているのか。

考えても考えても、必ずいきついてしまう答え。それが、「愛」だった。

ヒトが死んだときに、何が残るか考えてみる。
自分の築いた遺産。(物的遺産、知的遺産を含む)
遺骨。
思い出。

ここでいう、遺産とは。
物的遺産と、知的遺産に分類される。
物的遺産というのは、人間が作り上げたものである。金銭にしても、土地の権利書にしても、それは人間の営みの中で、経済という行為を円滑化するために作り上げられたものにすぎない。
そのような遺産は、自分が死を迎えたとき、自分にとっては、無に帰するものだ。
知的遺産というのは、後生に残る意識。すなわち、「思い出」というに一番近いものだろう。
そこで、その「知的遺産」と「思い出」を、都合上ひとくくりにして考えてみる。

「思い出」を作り上げる要素は何か。
思い出には、辛い思い出、そして幸せな思い出・・・数え切れない思い出が存在する。
その「思い出」には、多くの場合、自分以外の誰かがそこに介在する。
誰かと力を合わせた経験、裏切られた経験、美しい作品に出会った時の感動、無条件に愛された経験、無私の気持ちで愛した経験・・・。
その経験は、自分だけでない、誰かとの共有。
自分だけで生きているのではなく、誰かとすれ違い、関係を営んできた過程の1つのステップ。
自分が死んだとき、自分以外の誰かの心に、自分との思い出が残る。
そしてその人間は、自分が死んだ後も、自分の思い出という存在を胸に生き続ける。
そして、子供へ。孫へ。
誰かの構成要素となった自分が生き続ける。

自分という存在は、自分以外の人間の心の中で、永続的にずっと生き続ける。
その人の、人生経験の構成要素のわずかな破片として。
自分という存在は、誰かの人生の構成要素として、根付くのだ。

自分を誰よりも愛しているなら。
誰かの心の構成要素となる自分に責任を持たなければいけない。
自分という存在が消えても、いつまでも自分という存在を愛するために。
そして、その結論が、人を愛すること、だと、私は思う。

愛とは何か。

愛とは、まず自分を愛すること。
自分を精一杯愛すること。
そしたら、きっと人を愛することができる。
人の心の中の構成要素となる自分を愛せるからだ。
人生において、永続的になりうるのは、物質的なものではない。愛だけが残る。
そして、同時に、憎しみも。

自分を愛していれば、憎しみを感じたくはないはずだ。
だから、人は人を愛せる。
人は、人を愛するために、生まれてきたといっても過言ではない。

 

5.人間の強さ

人間の強さは、これもまた、愛に支えられる。
生まれたときから、人は愛し、愛されて生きてきた。

どうしょうもなく辛く、出口のないトンネルに迷い込んだ自分に気づいたとき、愕然とする自分。
そんな時に支えられるのは、自分を愛してくれたすべての経験。
こんな自分でも、愛されたという記憶が、自分を励まして強くする。
愛してくれたという事実に恥じない自分でいようという気持ちが、明日の自分につながる。
そして、一歩一歩、歩き出す強さが生まれるのだ。

愛というのは、心地よい経験ばかりではない。
絶望に突き落とされるような辛い仕打ちも、またそれを愛と認めよう。
心の痛みは、それを経験した人でなければわからない事が、たくさん、たくさんある。
苦悩して、前に進めなくて、ただじっともがいている自分を認めよう。
いつか、前に進めたとき、自分の受けた辛さを誰よりわかってるからこそ
誰かを救うことができるのだから。
少し、成長した自分は、もっと人を愛することができるはず。
人の心の中に根付く、自分という存在を愛するために。
人を愛することは、何よりも自分を愛することだ。

どんな出来事も、自分という人間を作り出す大切なイベント。
立ち止まっても、それでいい。自分という人間は、他人には決して動かすことができない。
他人ができるのは、少しの愛を心の構成要素の破片として、プレゼントすることだけ。
自分を愛せることから、人間は強くなれる。
歩き出せる勇気が生まれる。

愛とは見えない存在。
自分の人生のように。自分の背中のように。
私は、別れても、離れても、憎んでも、それでも人を愛することをやめない。
自分の構成要素の破片の一つ一つを。自分自身が大切だから。
だから、私は強くなる勇気を持ち続けられる。

愛された記憶が、自分自身を励まし、強くする。
自分自身の行動や、行いや、すべては私の心の中の構成要素によって決定される。
大切な人たちを裏切りたくない自分は、いつも真剣勝負。
そして、もっと、強く人を愛せる。

愛するために一生懸命になれる人間って、本当に尊い存在だと思います。
今まで私のそばにいて、支えてくれたすべての人たち。
本当に、ありがとう。
心から、愛しています。

私の強さは、皆の強さに、支えられてきた。
人生の大切な財産です。

 


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