【樹が陣営の歩み】その1 ・佐藤幹夫(『樹が陣営』発行人)
- このたび、市井の哲人、moriさんのご尽力により、このようなホームぺ―ジの開設となり、「うれしはずかし」を通り越しています。 はじめてタバコを吸って、ああ、これでオレもやっと仲間入りか(なんの?)、と感じたときの感慨にも似ています。
- 編集・発行人の、わたくし佐藤は2001年3月まで、養護学校の教員をしていましたが、4月よりフリー。(日本沈没が叫ばれ、不況たけなわのこのとき、なにを考えているんだか)。
- 現在は、『樹が陣営』発行のかたわら、インタビュー集の企画・編集、批評活動、イベント企画などをしています。
- 当ホームページを、なにとぞよろしくお願いします。以上(発行人sato)
・さて『樹が陣営』といっても、多くの皆さんは、ご存じないことでしょう。
・じつは、知る人ぞ知る、思想・批評満載のミニコミ誌であります。 北は北海道から、南は沖縄まで広く愛読者を持ち、知る人は、自分だけが知っている、という密かな歓びを感じつつ手にしている、とも伝え聞きます。
・一時間もあれば読み終え、読めば忘れられていく本に、1000円、1500円と値段がつけられ、大量に出回っている昨今です。 「ヤワな読者は、いらない!」という殺し文句(捨てゼリフ?)を胸に、「ヤワ」ではない読者に向けて、現在とあいまみえる硬派のメッセージを発信し続けています。
・そしてもうひとつ、豪華執筆陣が居並ぶ当誌ですが、なんと皆さんノーギャラ。あの、丸山圭三郎さんにまでノーギャラで仕事をしていただいた、不届ききわまりない雑誌でもあります。しかしノーギャラとは言え、皆さん、決してはんぱな仕事はされておりません。 くれぐれも、その熱気に圧倒されないように。
・創刊号は1987年,現在22号です。年2回の発行をめざしています。 以上(発行人sato)
『樹が陣営』のご注文
・当サイトは、批評誌『樹が陣営』を紹介するためのサイトですが、ここを訪問された方が、当サイトでの紹介記事等を読んで、この思想・批評誌『樹が陣営』を購入したいと考えた場合のことを書いておきます。
・この『樹が陣営』は発行部数が少ないため、ごく限られた書店でしか取り扱っていません。
・そこで、下記の取扱い書店に行けない方は、下記の「『樹が陣営』予約&バックナンバー購入」の「飢餓陣営発行所」に、郵便振替用紙に必要事項(住所、氏名、メールアドレス、電話番号、所望冊子NO、金額)を記入して送金し購入してください。
・なお、新らしく発行される『樹が陣営』を購入又は予約できるだけでなく、バックナンバーも購入することが出来ます。その際はメールにて在庫等を確認してからご注文下さるようお願い致します。 以上(管理人mori敬白)
『樹が陣営』予約&バックナンバー購入
・バックナンバーの価格は、左側の「バックナンバー」で分かります。
・22号以降は1000円になります。☆予約は2号分2000円、3号分3000円、4号分4000円です。
・予約&バックナンバー購入時,1冊注文の場合は送料250円加算 一度に2冊以上注文の場合は送料不要
・郵便振替 00160−4−184978 飢餓陣営発行所
・〒273−0105 鎌ヶ谷市鎌ヶ谷8−2−14−102 佐藤幹夫
・E-Mail:sato-mikio-kiga@msc.biglobe.ne.jp
『樹が陣営』の取扱い書店
- 池袋・リブロ 池袋・ぽえむ 池袋・ぱろうる
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- 新宿・模索舎 高田馬場・芳林堂 三鷹・燈書房
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- 大阪・りょうざんはく
発行人も「樹が陣営」もまだ過去を振り返るような「タマ」ではないが、ホームページを覗いてくださる方へのお礼と紹介をかね、少しばかり「歩み」などというやつを記してみる。
「樹が陣営」は多くの方々のご協力により、ここまで続けることができた。そのことを一番驚いているのが、実は発行人自身である。
本来なら全員のお名前を出して感謝すべきところであるが、批評家小浜逸郎さんは「樹が陣営」初期から寄稿を続けてくださっており、小浜さんとの出会いがなければ、ここまでの展開はおそらくありえなかったろう。こんなことを書くと、「党派組んでる」とか「小浜という神輿を担いで」とかいろいろ言われるだろうが、だからなんなんだ、てなもんである。小浜逸郎ファンの手になるHpからの要請もあり、執筆一覧に留まらず、小浜さんと発行人とのアヤシイ「関係」を中心に「樹が陣営」の歩みをここで紹介する。
●「樹が陣営」の創刊は1987年7月。わたくし、34歳。うーん、わかい!
出発時は「飢餓陣営」という誌名であり、すこぶる愉快な名前のつもりで付けた。ところが「シャレ」は大ハズレ、顰蹙を買うことしきりであった。詩人の根石吉久さんに「ひねりが足りない、『真実一路』、これぐらいやらないと」といわれ、なるほどと思ったが後の祭りであった。もっとも、誌名になにごとかを託すという趣味を、発行人はあまり持っていない。
創刊のメンバーは5名。大学時代の先輩・後輩、職場の同僚など。装丁は、同郷の先輩であり、現代美術家である廣田茂さん。いまだ無名ではあるが、その才能と力量が群を抜いていることを発行人は疑わない。
●そして第2号。1988年4月
創刊号はまったく反応がなかったが、唯一、仙台で『路上』という雑誌をやっておられる佐藤通雅さんが、礼状を下さった。どれほど勇気付けられたか。それで勢いを得、通雅さんにインタビューをお願いし、この号に収録してある。
●第3号(1988・12)
小浜さんに最初にご登場いただいたのはここからであった。
発行人は右も左も分からずに、まったくのドシロウト状態で雑誌発行を続けていたが、だめもと、と思い、思い切って面識もないのに寄稿依頼の手紙を書いた。小浜さんはそのとき『学校の現象学のために』『方法としての子ども』『可能性としての家族』とたて続けに力作評論を刊行しており、発行人はその強靭な論理展開と、繊細な感性にすっかり魅了されていたのだった。
それにしてもいきなりの依頼である。まあ無理だろうと半ばあきらめていたところ、わが自宅にある日電話が入った。「アグネス論争について書きたいが、よろしいか」とのこと。よろしいもなにも、わたしは耳を疑った。そして「『アグネス論争を読む』を読む」と題された15枚ほどの原稿をいただいたのが、出逢いだった。すなわち、発行人の人生、最良の僥倖の始まりである。書き出しの数行。
無責任な傍観者としてなりゆきを見守っているとこんなに面白い論争も珍しいが、さて自分も責任ある論評者のひとりとして論争の渦のなかにはいってみようという意志を一旦もつと、明快な立場に立つことがこれほど難しい論争も珍しい。
小浜さんの初期からの読者であれば気づかれたことと思うが、この小論は『男がさばくアグネス論争』へと結実する。発行人は原稿をいただいたとき、やったー、というか、半信半疑というか、そんな感じだった。
なぜ発行人が小浜さんを存じ上げていたか。小浜さんの編集・発行されていた「ておりあ」を池袋「リブロ」で見つけて以来、その購読者だったのである(この雑誌には、無名時代の竹田青嗣さん、瀬尾育生さん、小阪修平さんも登場する)。ここに連載されていた「学校の現象学のために」を読むたびに、何でこんなすごいものを書く人が無名なんだ?、と思い続けていた発行人だった。
他に三点ほど触れておく。一つは、この号より印刷を長野の根石さんが請け負ってくれたことである。制作費が格段に廉くなり、思い切った誌面づくりができるようになった。それと共に「編集」という魔物に魅入られ、深入りしていくことになる。書き手としては「埋め草」程度で十分であり、「編集」こそ本分であると考えていてのであった。
もう一つは「現代詩手帖」月評欄で、宗近真一郎さんが「佐藤はきわめつけのオルガナイザーだといえよう」とか「書く瞬間に呼び込まれる他者性によって現実の断面がぐんぐん編成する時間感覚を佐藤はよくモノにしており、寄稿者たちがそこに気分よくノッて見せているのだ。この破壊的均衡は、どこまで持続できるか」というように、まさにそのものズバリを言い当ててくれており(なんて)、これでイケイケになってしまったのであった。単純な発行人である。
三点目は、装丁を友人である加岳井広のイラストに変えたこと。「生真面目すぎるから、おれが壊す」という目論みそのもののイラストが、5号まで続く。
●そして次の第4号(1989・8)
さらに図に乗った発行人は、今度は小浜さんにインタビューを申し込んだ。『ミニメディアの風景』なる企画を2号よりはじめており(2号、佐藤通雅さん「路上」、3号、野沢啓さん「走都」、根石吉久さん「月刊ヘルニア」)、そこで「ておりあ」のことをお聞きしたいというのが、発行人の目論見だった。(もうひと方は詩人の北川透さん「あんかるわ」)
インタビューの前、東京八重洲ブックセンターではじめてお会いすることとなった。「ておりあ」の前身である「座標」を拝読したく、お貸し願えないかとお願いしたところ、直接会って渡しましょう、というご返事だった。その日は、昭和天皇崩御の日だったので、よく覚えている。
インタビューは、1989年4月5日、横浜市港南台の自宅で行われた。
インタビューは、題して「『ておりあ』小浜逸郎氏に聞く/複数の『私』とミニメディアの可能性について」。この号は品切れになっており、記事もフロッピー化されていない。ホームページ読者のために、特別に少し紹介しよう。
★佐藤・「座標」の刊行と「ておりあ」までの経緯を。
★小浜・それで、「すくるぱ」というのを九号で解体させて、じゃあ「座標」というのを出そうということで始めたんです。これは大学の仲間というんではなくて、大学の仲間一人と、彼の弟と、その弟の高校時代の友人っていうような、そういう変則的な繋がりで、五人ぐらいのメンバーでやりだしたんですよね。それで三号まで出しましたらば、書く人はぼくも含めて一回二百枚とか二百枚とかね、すごい量で書いちゃったりして、それでけっこう成り立ったんですけれど、やっぱり書けない人はあまり書けないっていう状況になっちゃって、大体ほとんどのページを占めるのが、赤坂憲雄君とぼくと二人ぐらいだったですね。それで三号までやってきましたらば、書きたいことをとことん深めようという了解でやったんだけれども、今度は逆に表現そのもの社会性っていうのかな、とても閉鎖的になってきちゃいまして、もう少しこう、俗な言葉でいえば、世の中の移り変わりみたいなものとの接点というのを表現のなかに取り込むべきなんじゃないかっていうような、まあこれはぼくが独断で考えたんですけれども、そういう雑誌に改めて、体裁も変えて、さまざまなファクターですね、たとえばアンケートをやってみたりとか、それから状況への発言的なものをちょっと入れるだとか、そういうメニューを少し多くして、社会とのつながりを今度は深めようじゃないかと、少し内にこもりすぎたからちょっと外へ出ようじゃないかみたいな感じだったんですよね。それが「座標」から「ておりあ」へ変わる動機っていうようなものだと思うんですけど。
★佐藤・「売る」ということも戦略的にやられたわけですね。
★小浜・ええ、そうですね、そのつもりだったんですけれどね。意気込みがだんだんしぼんでくるっていうのは、これは書き手の共同性というものが成り立ちにくくなってくるという部分がとても多いですよね。共同性といったって、個人編集誌なんだから、お前が勝手に全部やればいいんじゃないかっていう意見があるかと思うんだけれど、なかなかこれがー弱音吐きますけれどーきつくてね、一人で書き手を発掘して全部をお願いして、編集から販売から全部やるっていうのはなかなかきつくて、経済的な理由ももちろんありますしね。だいたい一冊出すのに四十万から五十万かかりますからね。
・これはもう大先輩の吉本さんの「試行」とか、北川さんの「あんかるわ」とか佐藤(通雅)さんの「路上」なんか見てると、やっぱりこめ方が全然違いますよね。ぼくら甘いですよ、やっぱり。いい加減ですよ。お金の問題にしても、赤字出しても仕様がないやってあきらめちゃってるところがあるのね。でも「試行」や「あんかるわ」や「路上」はそうじゃないですよね。儲けまではそんなにいかないにしても、もとはとるぜっていうような意気込みはあるから、そのへんはぼくなんかだめですよ、ほんと。
★佐藤・(小浜さんも一つの雑誌の中でさまざまなペンネームを使っておられるし、自分もそうであるがが)これはかなり必然性のあることだといいますか、必要なことじゃないかという気がするのですが。
★小浜・ああ、そういうふうに思いますか。
★佐藤・(いま、固定した像として読者というものがとてもつかみにくい)そうしたときに、多様な読者にどう対応していったらいいのかといえば、やはりさまざまな「私」を雑誌の中で露出させていくやり方、それしかないといいますか、そんな感じなのですが。
★小浜・そうですね、やはり現代では必然性があることだと思いますね。村瀬さんは複数性っていうことを強調されていますしね。いま佐藤さんがおっしゃったとおりだと思うんだけれども、自分一個の言葉が出てくる過程を反省してみても、あるたとえば外的な言葉に論評してみろっていわれたときに、それにどういう判断を下すかというときに、発語の段階から迷ってしまうっていうことがとても多いわけですよね。こうも言えるし、まったく逆の方に加担していくこともできるっていう状況が、今すごくあるっていう気がして仕様がないですね。
・それに加えて文体の質の違いみたいなものも、多様なかたちっていうのをぼくら一人一人が結構こなせたり、可能であったりするっていうことがあるわけでしょ。それは一種の演技だと思うんですよね。役者さんがいろんな役をこなせるっていうことなんだと思うんだけれど、可能であるというよりはどうしてもそういうふうに強いられてしまうっていうことはあっちゃうと思うんですよね。だからほんとおっしゃるとおりだと思います。
加えてこの号で、手塚治虫の追悼を企画している。執筆者、松本孝幸、高野幸雄、添田馨の各氏にわたくし。
バッグに雑誌を詰め、扱ってくれる書店を求めて回り始めたのはこの号からだったと思う。むろんほとんどが断られた。高田馬場芳林堂書店、池袋ぽえむ・ぱろうる、三鷹燈書房などは、いまもお付き合いが続いている。ありがたいことである。芳林堂で20部okと言ってもらったときは、泣けましたね、ほんと。
●ますます図に乗っていく第5号(1990・1)
とうとうこの号で、小浜さんの「可能性としての家族」を取り上げ、「樹が陣営」初の「本格特集」を組んだのであった。
そのタイトルも「小浜逸郎『可能性としての家族』を読む」。そしておりしもあの「幼女連続誘拐殺人事件」の直後で、第二特集を「『彼』は今どこにいるのか?―『M事件』をめぐって」としたのであった。この号は、作成過程からこれまで以上に充実した印象があり、初期の一つの峰をなす号だと思っている。
ラインアップを紹介しよう。「小浜逸郎『可能性としての家族』を読む」は小浜逸郎(インタビュー・家族という主題)、月村敏行さん、梶木剛さん、芹沢俊介さん、宗近真一郎さん、松本孝幸さん、卜部一郎さん、野沢啓さん、枝々あきらこと高橋秀明さん、村瀬学さん。
村瀬さんもこのとき初登場してくださっている。まあよくもこれだけの陣容がお付き合いくださったものだ、と思う。とにかくだめもと。勢いと押しの一手であった。しかし明かすが、「有名人もちゃんと頼めば書いてくれるよ」とは根石さん、「いいんじゃないですか、どんどんやって」とは小浜さん。発行人は、それ以来、この「だめもと」をモットーに生きている(のだろうか)。
インタビュー終了後、夕食とビールをご馳走になった記憶がある。ちなみに、このときのインタビューの一部を、手を入れて小浜さんと佐藤の対談集『中年男に恋はできるか』に収録してある。
●第6号(1990・8)この号から名前が「樹が陣営」となる。
編集後記に「今号の誌名を「樹が陣営」としたのには、深いわけがあるわけではない。「きがじんえい」とワープロに入力して変換したら、「樹が陣営」と打ち出されたからである。」などと書いているが、半分は本当、あとの半分は、とにかく変わりたかった。一号一号、別の雑誌になるくらい変わっていきたいと思っていた。
特集「1990 夏 吉本ランド『言葉からの触手』にて」。
●第7号(1991・2)
特集は『平成のラブソング』。10人の詩人に『ラブソング』を書いていただき、それに、誰に歌って欲しいか(歌手名)と、その理由をコメントしてもらった。
6,7号と、小浜さんは登場していない。
●第8号(1991・9)
この号は、非常に悔しい号である。どう言ったらいいのだろうか。かなりの出来になるはずであったのに、イメージ通りの仕上がりにならなかった。印刷がひどい。同人誌など作り慣れているからということで印刷屋を変えたのだが、ムラだらけの仕上がりとなっていた。そして、装丁ももう一つだし、わたしのレイアウトもきわめて粗悪である。
特集を「死をめぐる思想と言語について」とし、長谷川宏さんへのインタビュー(あの、ヘーゲルの名翻訳者の長谷川さんですよ)。論文が、高堂敏治さん、瀬尾育生さん、添田馨さん、岡田啓さん、そして小浜さんと、しっかりと陣容はそろえている。
そして「超常現象のアナグラム」と題して「死」の問題を無意識の側面から挟み込むように、と目論み(わたしは、超常現象やらオカルトは、「死」の無意識の表現ではないかという仮説をもっている)、意気込みは壮大であった。こちらは横木徳久さん、阿賀猥さん、秋山基夫さん、由紀草一さんというメンバーであった。その他小さな企画もいくつかあり、それだけに版下の制作と印刷が惜しまれてならないのである。
小浜さんの原稿は、「人が死を自覚するということ」と題された本格的な論考である。これは後に『癒しとしての死の哲学』にまとめられていく。このころ、『症状としての学校言説』を刊行。
●第9号(1992・5)
大胆にも、この号で詩人、瀬尾育生さんの特集を組んだ。瀬尾さんは6号より、作品と論考を寄せて下さっている。瀬尾さんの書かれるものは、「難解」ということになるのかもしれないが、わたしは大変好きである。当方の理解の深浅は別としても、シビレル、と言ってもいい。その瀬尾さんを「解明」すべく試みだったが、悔しいことに、わたしはとうとう「瀬尾育生論」を一行も書けなかった。出来上がった雑誌を見て、チクショ―、死ぬまで絶対「瀬尾育生論」一冊書いてやる、と誓ったのであった。まだ果たしていない。果たせるかどうか、出版社が付いてくれるかどうかも覚束ないのだが、今に見てろよ、というコケの一念だけは抱き続けている。
特集メンバー、野沢啓さん、成田昭男さん、阿賀猥さん、宗近真一郎さん、添田馨さん。中でも添田瀬尾論は、以後のわたしの範とするものであった。
ところで、この号より、竹田青嗣さんの登場となる。「横浜朝カル」で連続対談が始まり、第一回目のゲストが小浜さんであった(タイトル、「恋愛と結婚の現象学」)。小浜さんを通して紹介していただいたところ、竹田さんより快諾を得た。(以後、2回目丸山圭三郎さん、3回目加藤典洋さん、4回目川村湊さん、5回目小坂修平さん、6回目笠井潔さんと、そうそうたる顔ぶれが続くことになる。しかも皆さん、ノ―ギャラでお付き合いくださったのであった)
●第10号(1993・3)
この号は7名の女性詩人にお集まりいただいた。90年代に入ると、女性がやたら元気がいい。それは詩の世界も同様であった。(小浜さんは欠場)
そしてこの号から、友人黒岩某氏の表紙を写真とし、イメージチェンジを図った。以後、某氏の写真は現在まで続くことになる。
そして、わたしは少しずつ、詩のネットワークからの離脱を図り始めていた。詩のネットワークにあれば、確かにそれなりに流通はする。しかし詩誌は「無料交換」の世界である。わたしは当初より「売り―買い」のできるものを、ない頭を絞って何とか銭を出してもらえるものを、と考えていた。書店回りなどしているのもその現われである。そのためには社会批評や思想を中心としての特色をいっそう打ち出す必要があった。以後、その姿勢を明確にしていくことになる。
そのためにもなんとか小浜さんにご協力をいただきたかったが、すでにフリーになられ、お忙しくなっていたのは知っていた。だからこれまでのように、「原稿」依頼というかたちでの無理は願えないと考えていた。それに加え、小浜さんが「面白そうだな、ちょっとやってみようか」と思ってくれる企画でないといけない。そこであれこれと、さらに「編集」に知恵を絞ることになった。そして、現在まで継続して参加していただいていることは、すでにご存知の通りである。
以上さまざまな意味で、ここまでを「樹が陣営」第一期としてよいだろうと思う。
なお1〜5号までと9号は品切れ、それ以外は残部がある。(続く)

最終更新日:2002年3月24日