【記事の題名】自由と相互承認の社会原理へ ・【著者】竹田青嗣【掲載誌のNO】25 (2003/08/30)

・まず竹田さんとの出遭いからお話します。
『現代批評の遠近法――夢の外部』(講談社学術文庫)という竹田さんの本の解説にも書いていますが、八五年の十一月にお会いしたのが最初です。当時ぼくは「ておりあ」という雑誌をやっていて、そこで差別問題について企画したとき、ある人から竹田青嗣という批評家が『〈在日〉という根拠』というたいへん優れた本を書いていると教えられたんです。読ませてもらうと、これまでの在日の作家が、在日としての自分は民族として生きるか、日本人として同化するのかという二元論で考えていたのに、金鶴泳という作家が、初めて二元論を超えた文学の問題として捉え直している、ということが書かれていて、ぼくは非常に感心したんです。
・これまでの在日作家は、文学を借りながら、在日の問題を実は政治的に語り、立場のために文学を利用している、そういうものしかないという偏見を持っていたのですね。ところが竹田さんは金鶴泳を材料として、そうした二項対立問題をどのように捉え返したらいいかという発想で書いているのですね。こういう書き手がいるのかとびっくりし、お会いしに行ったわけです。すると期待にたがわず、たいへん明晰に差別の問題を話される。
・そのときのエピソードがあって、解説にも書いているのですが、帰りに車で送ってもらったのです。当時竹田さんは中央線の沿線に住んでいたと思いますが、あの辺りは道が入り組んでいて、狭いですね。深夜だったので、ある通りからそこを横切る通りに出かかったところで、タクシーが走ってきて、警笛を鳴らしたんです。竹田さんは急ブレーキを踏んで止まったのですが、相手の運転手がずうっと睨みつけているわけです。竹田さんは苦笑いしながら、「なにもそんなに睨まなくってもいいのに」と言ったのですね。
・なぜかそのことが印象に残っていて、こういうとき自分だったら「なんだあの野郎、睨みやがって」みたいな、そういう反応をするだろうな、と思ったんです。その印象をあとあと考えてみると、もしぶつかって相手の運転手が殴りかかってきたとしても、竹田さんの物事の処理の仕方というのはこういうものかもしれないと思い当たった。つまり、自分の非は非として認めつつ、相手に対しても、そんなに怒ってもいいことはないんだと説得し、分からせてしまうような、そういう処理の仕方だろうと感じたのです。それは、ちょっと自分にはできないな、と思ったのです。
・ちょうどこの時期というのが、彼が『現代批評の遠近法』に収められた論考を発表していた時期です。なるほど、竹田青嗣はこうかと。あなたが怒るのも分からなくはないが、そんな怒ってばかりいと楽しく生きることはできませんよ、ということを納得させようとする強靭な精神と、強い思考に貫かれている。その基本的な構えを垣間見たような気がしたわけです。
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・政治の世界でも保守と革新の対立があり、セクシュアリティの世界でも男の女の対立があり、哲学の世界でも主観と客観は一致しないという対立的な問題意識があるわけですね。二項対立の原理は物事を考え進める上での基本ではあるのですが、しかし対立のまま終始してしまえばただの泥仕合です。現に歴史上の言説は、それを繰り返してきているわけです。そのアポリアに気がついたとき、どうすれば不毛な対立を解決できるのか。その考え方を、竹田さんは徹底して追及している人だという気がするんです。そこが竹田欲望論のポイントだと思います。
・なぜそのような対立が生ずるのか。それぞれの主張なり実感に基づいた言い分には、それぞれがそれぞれに根拠を持つ。しかしどちらかの根拠に依拠して言い合いを続けるのではなく、どういう基盤からそうした二つの異なる立場が生ずるのかをしっかりと照らし出していけば、少なくとも、なぜわれわれが不毛な対立を繰り返しているのかという条件が明らかになる、まずはそういう共通了解に達することが大事だというポリシーを、彼ははっきりと持っている書き手です。
・ぼくはそこが彼に惚れるところであり、ぼくにとって勉強になるところです。ぼくもものを考えるときに、なぜこういう考え方を人はするのか、なぜこう感じてしまうのか、そのことを明らかにしよう、そこからもう一度考えてみようとしているわけです。それは竹田さんから学んだところが少なくない。自分の信仰や心情にただ固執して、自分だけが正しいと言い張るのではなく――竹田さんは、天皇制を論じても在日の問題を論じても文学を論じていても、なぜ対立が生ずるのかについて理と意を尽くすわけで――そうした竹田さんのあり方は、本当の意味での強い思考だと感じますし、ぼくにとってとても勇気付けになります。
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・竹田さんは哲学というターミノロジーの領域内で、いまお話した姿勢を貫きながら、これまでの形而上学の歴史をすべて総括し、「欲望」というキーワードをもとに、もう一度哲学を立てなおすという非常に壮大な視野を持って取り組んでいます。ぼくはその点、大いに期待しています。
・彼は、フッサールの現象学の中にその可能性を見たのだと思うのです。ぼくはフッサールをよく知らないので、あまり立ち入っては言えないのですが、フッサールは独我論であるという批判をよく受けますね。しかしそれは事物の存在に対する確信というものがなぜ存在するのか、確信というものがなぜ成立するのか、その条件を見きわめるために、方法的、意識的にとった立場であって、特定の世界観ではないわけです。様々な哲学的解釈とか自然科学的世界観といったものをいったん判断中止し、意識のなかに内在的に与えられている所与――これを見て私は赤いと感じるとか、何かを言われて傷ついたとか――そういう意識や心情の所与というものは、正しいか間違いであるかは問題外であり、主観の中に映し出される体験として必ずあるわけです。それは主観的に感じたことが絶対に正しいということではなく、体験的な所与としてあることをまず認める。そしてそこから、意識の構造がどうなっているのかを分析していく、それがフッサール現象学の方法だと思うのですが、その方法のなかに、竹田さんは大きな可能性を見たわけです。
・さらにそこに加え、ニーチェとハイデガーの考え方が、竹田さんの精神的資産として入っている気がするんです。単純に言うと、この世を徹底的に意味と価値の体系として捉えるという考え方ですね。主観にとって世界がどう見えるか。その見え方や感じられ方は、意味と価値の体系として現われてくる。客観世界は主観とは無関係に唯物論的にあるのではなく、かならずある色合いを伴っている。そしてその色合いを特定の色合いたらしめているものが、一人一人の欲望である。意味や価値とは関係のないただの事物と思えるものも、必ず意味付けられ、価値付けられたものとして現われてくる。しかもそこには普遍共通性がある。たぶんそれが竹田さんの捉え方です。ただ、これは必ずしも竹田さんの独創ではなく、問題はここから先の原理をどう展開するかですね。
・フォン・ユクスキュルという生物学者がいますね。ヤドカリがイソギンチャクに対してどう対応するか。あるときには食料として食べてしまう。あるときにはイソギンチャクを乗せて運び、餌を捕ってもらい、そのおこぼれに預かる。そんなふうにいろいろな対応をするわけです。生物においては、環境と主体とのそのときどきの関係のあり方によって、世界の見え方が異なる。そういう主張をユクスキュールはしたわけです。その見方は人間という存在を考えるときにもおおきひんとになります。人間という生物種は、自分たちの欲望と性の目的に従ってこの世界を切り取り、色づけているし、ナメクジにはナメクジの、ダニにはダニの世界の見え方がある。
・つまり人間はどういう意味と価値の体系を持っているのか。どういう欲望の体系をもってこの世界を見て、世界に関わっているのか。そのことを解き明かそうとしているのが、竹田欲望論だと思います。それが原理的にかつ総合的に展開されたら、すごいことだと思います。(談)

■『哲学的思考』について
――西さんと竹田さんとはある種、共同作業的なところがあって、読書会などを通してお互いの読みを鍛えあい、考え合ってきたわけですね。それで、西さんの今度の著作『哲学的思考…フッサール現象学の核心』のセールスポイントと言いますか、竹田=フッサールとはここが違っている、ここが西=フッサールであるという点をあえて出していただくならば、それはどこですか。
西 うーん、どこだろうな。ゼミや読書会を通して、互いに意見交換をしながらかなり詰めてきたので、フッサールについて持っている像はあまり違わないですね。でもあえて言うなら、竹田さんの『現象学入門』や『はじめての現象学』は、フッサールの核心はここだということを、鋭い直観でつかみ出して、それを展開していますね。ぼくの仕事は、フッサールのテキストに即して、フッサール自身のモチーフがどこにあり、何を考え、ということを取り出そうとしたものです。フッサールに即して語らせている、という点が、違いだといえば言えますが、それは竹田さんが捕まえたものと、一致しています。ですから竹田さんがこれまで提示していた像を、文献を丹念に辿ることで検証できたと言えるかもしれません。
・もう一つは、近代哲学の流れの中にフッサールを位置付けようというモチーフがぼくの本にはあります。この作業も、竹田さんと同時に進めていた面もあるので、いまはほとんど意見が一致しています。竹田さんが最初に書いていた時期には、ポストモダンの形而上学批判の文脈のなかで『意味とエロス』など書いていますから、近代哲学に対して評価が辛いわけです。ヘーゲルに対する評価が低いですし、近代哲学は基本的には「真理」を求めようとしてきた歴史で、それをニーチェが壊した。その意義は大きかったですが、ニーチェの壊し方だけではまずいというのが、フッサールを出してくるときの、かつての竹田さんのやり方ですね。
・ぼくも同じように考えていますが、『はじめての哲学史』(有斐閣)という本で、竹田さんと近代哲学の歴史の読み直しをしたのですが、あれが大きかったですね。つまり近代哲学が究極の「真理」に近づこうとしてきたものだ、というこれまでの像そのものが違っている、それが確認されたということですね。竹田さんは『近代哲学再考』という本を出そうとしているわけですが、ぼくも近代哲学のなしとげたことというテーマの本を書こうと思っていて、近代哲学の意味を徹底させたところにフッサールが出てきている。フッサールの「還元」の方法は、近代哲学のエッセンスとしてある、という像が、ぼくの『哲学的思考』で新しく付け加わっているところだと思いますね。
・それから違いというよりも、より詳しく述べているということでしょうが、フッサールの根本問題は、ぼくの本では「超越論的問題」を扱ったところが要になっています。第三章を「何のための〈還元〉か―体験への"内在"」としていますが、要するに現象学は自分自身の体験から考えて行く方法です。これはメルロ=ポンティもそうなのですが、科学的客観的な世界像がありますね、そういうものに抗い、体験から考えようという方法です。ベルクソンにもそういう面がありますし、小林秀雄もまさにそうです。歴史的客観主義に抗い、どうやって生きられているかという歴史観ですね。いわば内在して考えるというのが一つ目ですが、この考えだけだと、科学を否定します。小林も客観主義や科学を嫌い、ついには本居宣長に近づいて行くわけです。このような感覚からの現象学理解だと、科学に対して否定的な態度をとることになる。フッサールのお弟子さんたち、たとえばハイデガーにもその感覚は強い。
・でもフッサールのスタンスは少し違っています。むろん人間にとっての実存的な場所はもちろん重要で、そこで生きているわけですが、もう一方で客観性を打ちたててもいるわけです。科学というものにぼくらは信頼を持っているし、実存的な生を生きながら、その実存的生を客観化して見ていたり、社会というあり方から鳥瞰して見ていたり、そういう水準も持っているわけです。客観的な水準自体も生のなかで要請されているものである、そういう発想です。実存的ありかたと歴史的な世界、いわば客観的な歴史の捉えかたですね、これが相克し、対立していたわけです。科学的な捉え方に対して生きられた捉え方でもいいです。
・客観的科学的見方を否定するのではなく、この相克を解きほぐす必要がある。解きほぐすためには、実は科学的な捉え方や歴史的な捉え方も誤りなのではなく、人間の生が自分のなかに要請しているものでもあるわけです。つまり客観性の根拠や意味ということも人間の生のなかにある。それを簡単に言えば、実存的世界と客観的世界ですね。そのつど具体的な感触をもって生きている世界があり、一方には自分が死のうと死ぬまいと世界は客観的にある、この二つの関係をどう解きほぐせばいいのか。それがフッサールの根本問題なんだということを書いたのです。
・しかしこのような問題設定――実存的な生の感触と客観的世界の信念との関係の解明――という問題設定は、あまり理解されてこなかった。フッサールの弟子たちもあまり理解しなかった。これを、フッサール自身の書き方の問題もあるんですね。『イデーン』でもあまり上手に言えていない。後期になってそのことがきちんと言えるようになってくる。ぼくは特に『ブリタニカ草稿』という文章に即して、この課題を明確に取り出すというやり方をしてみました。
――いまの問題は、竹田さんのお仕事では、西さんが力点を置かれたほどには置かれていないということですか。
西 いや、竹田さんはこれを鋭く捉えていて、たとえば『エロスの世界像』で「実存的視線と客観的視線」の相互関係を追及していますね。これはまさにフッサールの課題を竹田さんなりに展開したものです。ですから、ぼくのやったのは、フッサールに即して、そのことを浮かび上がらせた、ということになりますね。(2001/6/12)(了)

村瀬学ロングインタビュー:思想の継承とはなにか
――吉本隆明『心的現象論序説』を読みながら(聞き手・佐藤幹夫)
――村瀬さんは、人間存在に対してたいへん独自でユニークな方法で光をあてつづけてこられた思想家だ、という印象があります。まず、「いのち論」という大きな器があること。この「いのち論」の広がりとやさしさや深さは、ぜひ多くの人に読んでいただきたいところなのですが、もうひとつ「こころ」や感情の問題も、これまで村瀬さんが追求してこられた重要なテーマだったと思います。それは身体と交じり合うものであり、また衣食住という生活とも交じり合うものです。そしてここに、衣食住・身体・「いのち」・「こころ」が交差した、たいへんダイナミックな世界が描かれることになります。
・こうした思想的な基盤から「おくれた子」「寝たきりの子」にも思考の目が伸びて行く
のですが、最初の著作である『初期心的現象の世界』と『理解のおくれの本質』に出会ったときの印象はたいへん鮮烈でした。きわめて個人的な話になりますが、ぼくは養護学校の教員になったばかりで、この場でなにができるのか、なにをしたらよいのかまったく分からないままに毎日が過ぎてゆく。自分の人間理解といったものも歯が立たない。ぼくの弟はいわゆる脳性マヒの、寝たきりの子でしたので、障害を持つ子どもたちと接する機会は子どものころから多々あったわけですが、それにもかかわらず、彼らに対する構えがまるで作れない。そんな苛立ちともつかない思いの只中で、本当に偶然に本屋で村瀬さんの本に出会い、読ませていただくことになりました。
・そしてこんな観点から彼らを見、考えることができるのかと、とても衝撃を受けました。この本があれば、自分にももう少しこの仕事が続けられるのではないか、という、そういう力を与えていただいたと思っています。それから村瀬さんのお仕事は欠かさず拝見するようにしてきました。
・それで今回インタビューをお願いするにあたって、こちらのモチーフは大きく二つあります。一つは最新作の『13歳論』を拝見して、これまで以上に踏み込んだ発言をされていると感じたこと。いくつかのいじめ事件や宮崎勤事件いった現実の事件について、これまでにも発言されてこられたのですが、この『13歳論』では制度的な改変といった印象を与えるところまで踏み込まれている。この変化は何だろうかということですね。
・もう一点は吉本隆明さんについてです。吉本さんの思想はもうまったく影響力はないとか、読まれてさえいない、といった意見が聞こえてくる一方、ある場所では護教化されているという気がします。実際『樹が陣営』でも、オウム事件の後、小浜逸郎さんと竹田青嗣さんによる吉本さんへの批判的言及を掲載させていただいたのですが(14,15号)、そのあと、最近の編集の方針に疑問があるので定期購読を解約したいと申し出てこられた方が、何人かいたのですね。ある程度予期してはいたのですが、吉本さんへの批判的言辞はタブーだという読者層がいることを目の当たりにさせられました。しかし吉本さんこそ、思想が持ってしまう党派性や権力性を、どう解体できるかということを追求されてきた思想家のはずです。そのことをもう一度考えてみたい、というのが二つ目のモチーフです。つまり思想が継承されるとはどういうことか、ということですね。
・村瀬さんの『初期心的現象の世界』には吉本さんの『心的現象論序説』とたいへん響き合うものがあります。それで、今回ぼくにとって無謀であることは承知で、吉本さんの『心的現象論序説』を取り上げながら、村瀬さんのお話を伺ってみたいと考えました。長くなりましたが、よろしくお願いします。
■酒鬼薔薇少年をめぐって
――確かに観念ではあるのですが、性が生殖から切り離され、そして言語を持ち、そのことによって背負わされた生活と観念の二重性、あるいは生理と観念の二重性ですね。そこに性愛の悲喜こもごもも生ずるわけですが、その二重性こそが、村瀬さんの「いのち論」ではまさに絡み合いや交わりというものになるのだな、とお聞きして感じました。
・次には、『13歳論』について少し伺いたいと思います。『13歳論』についての感想
は最初に話させていただいたのですが、ここでは酒鬼薔薇事件の分析について、吉本さんの書かれたものと対比するかたちでお話しを伺えればと思います。村瀬さんの書かれたものは、酒鬼薔薇少年の中に棲みついた「魔物」とはいったい何であり、それが少年にどんな力を及ぼすことになったのか、という内面のメカニズムの分析に主眼が注がれているように読みました。
・この、「少年期を超える」という主題を、村瀬さんはこれまでさまざまなかたちで追求されてきたわけですが、この時期「もう一人の自分を孕む」こと、そのときに何を尺度にするかが、その「もう一人の自分」を決定することなどが書かれています。そして『13歳論』は新たに生まれた「もう一人の自分」についての、文化論や社会論、そして人間論的な視座をも含んだまさに「13歳の論」、13歳を発見する論なのですね。そのときに法的な人格として生まれ変わること、国籍、生、名前、親を選びなおすという言い方をされていますが、その点でもう一つ、これまでより踏み込まれているなと感じたわけです。
・一方吉本さんの『少年』における酒鬼薔薇少年の分析は、家族関係に主眼が注がれてい
るように受け取られます。現代家族はほとんど機能しなくなり、親としての役割が不可能になっていること。そのことが再三指摘されます。現代家族は家庭内暴力(親によるものであれ、子によるものであれ)の一歩手前にあり、それが噴出しないのは偶然による、という認識をまず示し、酒鬼薔薇少年の殺戮行為は、家庭内暴力に向かうべき行為が、同じ資質を持つ少年を囲い込むようなかたちで、外に現われたこと。そして「強大な常軌を逸した母親に生まれ育てられたというところまで煮詰めれば確からしさが少しで出くる」(p188)と書かれています。吉本さんは宮沢賢治を引きながら、いじめることといじめられることの聖性の問題にも触れてはいるのですが、家族関係、とくに母親との関係への絞り込み方には、凄まじささえ感じました。
・村瀬さんはほとんど家族関係には触れていませんね。このお二人の落差がとても印象的だったのですが、この辺のことについてお話いただければと思います。
村瀬 一つは、ぼくに彼の母親に関する資料がなかったということがあるんです。母親との関係がいちぱん問題だというのは、ぼくもそう思っていますし、講演などでもそんなことを喋ってはいるんです。ただ、母親との関係が最悪だからというだけで、あそこまで行ってしまうとは、ぼくにはどうっしても思われないんですよ。母親との関係が劣悪な家庭はいっぱいあるわけですし、問題を母親との関係だけにしてしまうのはキツイと感じますね。
・ぼくはむしろ、あそこで首を切られた少年が、実は知的な障害をもっていた子だったということが、あまりにも論じられない、そのことが不満なんですよ。あの子がもし知的な障害をもっている子でなかったら、あんなふうには殺されなかったとぼくは思いますね。事件の前に、彼が友達に言っていたことがあるんですよ。なんて言っていたかといいますと、これは彼の友人がテレビのインタビューで話していたのですが、障害を持った子どものことを彼は「NG」と呼んでいたというんです。テレビでよく使われるNGシーンというあの言葉です。失敗というか、間違って生まれてきたので「NG」だというわけです。ですから、あの子はカットされないといけない。そういうことを言っていたと言うんです。
・そういう理念が、あの中学生をあそこまでさせていっているということも、見落としてはいけないことだとぼくは思っています。もちろん、他にも撲られて死んだ女の子もいますが、あんな異様な殺し方をされるというのは、やはりその子に他の子どもとは違うイメージをもっていたからとしか考えられないですね。以前「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に対して小浜さんがあるところに書かれ、それに対してぼくの書いた短い文章があるんです。「『なぜ人を殺してはいけないのか』という問いをめぐって」というタイトルだったんですけれど。そこで何を書いたかといいますと、「なぜ人を殺してはいけないのか」というときの「人」というのは、いった誰のことなんやということについてですね。
――NGの子は含まれているのか、ということですね。
村瀬 そうなんです。人を殺すことがいいのか悪いのか、悪いとしたらなんでなんやという話しにぱかりなってしまっているからわけが分からないんですけれども、その問いの裏にある、人でなかったら殺してもいいんだというイメージを読み取らないといかんとぼくは考えたんです。彼は人殺しをしたとは思っていないんですよ。人ではないと思つていたから、あそこまでのことができたんです。NGなら消去してもいいんだという発想ですね。つまり彼の観念の作られ方、そのNGという観念の作られ方がここで問題になってくるんです。
・おそらく彼が読んでいた『デビルマン』のマンガとか、ヒトラーの伝記とかは、NGの
イメージを膨らませるきっかけにもなったかなと思います。しかし、NGはだめなんやという思想を心底きっちりとたたき込んだのが、母親やとぼくは思うんですね。失敗(NG)はあかんということを、母親は言っているんですね。さっきのインタビューの話しですが、小学校の五年生のときに修学旅行に行き、店先で試食があつて、立ち食いをみんなでした時に、みんながおいしいと言うのに、少年だけが、まずいと店の人に言ったというんですね。友達の女の子が、こんなときはお店の人に失礼やから、嘘でもいいからおいしいと言わなあかんと言ったら、お母さんが嘘をついたらあかんといった、と答えたと言うんですよ。子ども心に、そのときの会話のちぐはぐさがとても印象に残っている、という話しぶりだったんですね。子どもがそんな場面でそんなことを言うというのは、ちょっと異様なことですよ。
・母親はかなり神経質になって、きちんとしたことをさせたかったんでしょうけれども、それは想像以上にかなりきつくやったみたいですね。まちがったことは絶対にダメなんや、嘘をついたらいかん、とかなり厳しく躾けていたみたいです。そうしないと家に入れてもらえない時もあった、つまり許してもらえなかったんですね。ですから助けを求める意味でもおばあちゃんの存在に避難場所を感じていたみたいです。でも母親に許してもらえないという状況はほんとにきつかったと思うんですよ。
・鶴見俊輪さんも小さいとき、クリスチャンだった母親に、嘘をつくと絶対に許してもらえなくて、追い詰められていったという体験をあちこちで書かれていますね。それで鶴見さんは小学生の時点で、非行や万引きや女遊ぴに走ったりするわけですが、それは母親の追及から逃れたいためだったといってます。まさにそうやったんではないかと思うんです。神戸の少年の場合も、度が過ぎた追い詰められ方があったと思うんですね。吉本さんも、少年が異様な泣き方をしたことに触れています。彼は居たたまれなかったんですよ。追いつめられたとき、恐怖感を覚え、異様な泣き方をしていたんでしょう。失敗したとかまちがいは許されないんや、NGは絶対にダメなんや、ということですね。
・NGであることはダメ、ちゃんとした人間でなければならないということが、親にきつ
く追求されて行く中で、視野狭窄のようなことが起こっていったんではないでしょうか。彼は殺害を儀式と考え、清めの儀式のようなことをしています。彼の血を飲むことで自分の汚れが清められるというような、そういう儀式ですね。タンク山も、あの池も儀式の場だと彼は考えていたようです。ここには、正しさと間違い、清めと汚れというような対立の構図が抜きがたく作用しているんですね。それで自分が間違いや汚れを犯したときに、そういう自分を清めるために、清めの儀式をする必要がある、そこに生け贄のようなおぞましい観念が入って行くことになる。少年は事実そういう神懸かりなことを考えてゆくんですね。そこで自分なりの再生の体験をしょうとする。
・そういう経過を考えてみると、この事件が、母親だけのせいで起こったとはどうしても考えられないんですよ。母親の言動をきっかけに、自分のNGの部分を排除しょうとするように考え出したときに、ユダヤ人をNGと見なして殺害してゆくナチスの思想などが身近に感じられたりしていったんでしょうね。ヒットラーの『わが闘争』という文庫本を買ってもらったりもしていたのですから。ですからぼくは、吉本さんはちょつと母親だけを取り上げすぎてるなと感じて読んだんですけどね。
――村瀬さんのいまの母親の話は、『13歳論』には入つていませんね。
村瀬 あの事件のときに、ぼくはいろんなところにたくさん書いたんです。母親のことも書いてはいたんです。でも、本にするときに分量として多すぎることになるので、カットしていたんです。(了)

世界思想のはじまり (4)世界思想の根本的アポリア
・さて、いま主に西洋哲学におけるフィロソフィーという方法について、その本質につい
て見てきました。それはむしろ、これまでの伝統的な「真理」の概念を超えて、諸信念から新しい共通了解を導くという思想の「普遍性」という考え方をはっきり示すものでした。「
普遍性」の概念それ自体も、これまで伝統的な「真理」概念と結びつけられていたのですが
。
・それで最後にいま見てきたような観点から、もう一度世界思想のはじまりのシーンに注
意を移してみたいと思います。
・ヨーロッパでも、インドでも中国でも、哲学的思考のあるところ(さし当たり言うと、「原理」や「抽象概念」で考えるというのが共通項です)、必ずある範型的な対立やアポリア(
難問)が存在します。たとえば代表的なのが実在論と観念論、絶対的一者と根源絶対相対
主義、つまり一切は相対であり、絶対というものはどこにもないということだけは絶対である、絶対論と相対論という考えの対立。それから一元論対二元論、こうした問題は東西を問わず、必ず現われてくる対立です。そしてそのことには根拠があるのです。
・たとえば一元論対二元論の対立はどこにでもあり、前も言いましたが、東洋が一元論的
で西洋が二元論的だというのはたいした根拠がない、まず近代だけを取り出していった図式です。ところが日本の六十才以上の哲学者は、ほとんどそんなふうに言う人が多い。あえて名前を言うと、まず西田幾多郎、大森荘蔵、廣松渉。現象学の木田元や竹内芳郎などもそういう傾向がある。どうも東洋的一元論には近代二元論をのり超えるキーポイントがある、という構えがある。ところが、近代二元論は、もちろんいろいろな問題点もあるけれど、もともと汎神論的、あるいは自然=精神的一元論の克服の試みとして現われてきた
ことは、よく理解されていないと思えます。
・一元論と二元論の対立について言えば、たんに片方をのり超えればいいのではなく、な
ぜそういう対立が出てくるのかを本質的に解明すべきだ、ということですね。二元論が出てくるいちばん大きなモチーフは心と物質です。心は自由ですが、物質は因果関係(法則)の中にあります。心の存在原理と物質の存在原理は、誰でも直観的に違うと思いますが、それは二元論として考えた方が考えやすいわけです。つまり自由と法則の問題として考える。その方が考えやすいですし、根拠がある。だから人間が自分の自由を自覚した近代では、一切は神の摂理のなかで動いている、という世界像は後退し、自由と必然というアポリアにはっきりした輪郭を与えるために二元論が現われたのです。ところが二元論でずっと進むと、厄介な問題に行き当たります。
・例えば体というものは、精神が命令して動かしていると感じますね。すると、ここに関連がなくてはならないと考え始めます。つまり心と身体(物質)とに、厳密な因果関係があるはずだと考えたくなる。すると論理の整合性は、二元論を一元論に統一したいという考えを生み出します。つまり、二元論がでてくると一元論へと統合されようとし、一元論だけでは説明がつかなくなると再び二元論が出てくるということの、生活世界上の根拠があるわけです。これが理論的に表現されると、ややこしい一元論と二元論の議論の対立になります。一元論対二元論の対立がそれなりに面白さを持っているのは、ぼくらが身体を持ち、一方でこころを持ち、外側に自分が使う道具や対象を持って、その中でたえず諸行為の可能、不可能の条件を考えざるを得ないからですね。
・実在論対観念論の問題も昔からある大きな対立です。デモクリトス対ソクラテス。アリストテレス対プラトン。小乗と大乗。この問題は、社会関係や実体的な関係と内的世界の問題で、あえて言うと、自分自身より他人との関係の世界の方をよりリアルに感じる人、いわば外交的な人ですね、そういう人と、自分の内側に求心的で、自分自身の心の状態がもっとも現実的であるような人とが、やはりいるように思えます。ギリシャ哲学でも近代哲学でも、また現代の思想でもそうですね。政治と文学というのは、その範型の一表出です。
・自分のもっている外的関係がリアルな人は、内的世界を重要視する人を見ると、いい感
じは持たないですし、逆も言えますね。つまり観念論と実在論はどちらが正しいかということではなく、それぞれ根拠がある。それぞれ世界観としてのモチーフがあるわけです。客観主義と実存主義、構造主義あるいは深層心理学と現象学という現代思想における対立も、このヴァリエーションといえます。一方はある関係上の見通しを立てて実践的に働きかけようとするのに対して、もう一方は自分の内部現実に依拠してそこから現実関係の意味を確かめようとします。この二つの観点は、どちらが正しいかという問題ではないのです。たとえば近代哲学はキリスト教的世界観の「現実像」を確かめ直すために強く「観念論」の性格をもちましたが、一方で近代の自然科学はやはりキリスト教的自然観に代わる自然関係をうち立てるために、はっきりと実在論の立場をとったのです。つまり、世の中はこうなっているという地図も必要であれば、それを一から疑いなおす観点も必要なのです。こうした二項対立として現われてくる難問の意味をうまく考えることができないと、哲学はいったい何が「真理」かというスコラ的な議論になってしまい、するとますます、人間生活の役に立たなくなるわけです。
・総じてこういう対立的議論は本当は大問題ではないのです。人間と社会にとって何より
中心的な問題は、生の意味、善し悪しや「ほんとう」ということの基準をどのように自分や社会関係の中で適切に設定していけるか、ということです。だから、この一元論二元論の問題や、観念論対実在論の対立の問題を百万言費やすことで体系を作っているような哲学は怪しい、気をつけろ(笑)ということですね。そういう問題には早く決着をつけて、もっと重要な問題に踏み込まないと、本当の哲学にはならないわけです。
・現代では、哲学は古びてしまったのであり、それに代わるものが科学だ、人間の問題は
科学で捉えることが大事だというような言い方もあります。例えば脳を解明することで、こころの問題を説明するとかですね。しかしこれは哲学の方法がいかによく理解されていないかを物語るものです。これについては、現象学の考え方を敷衍していうと、こうなります。科学が考察するのは対象的な事象、人間が対象化したり利用したりするものですね。利用可能性を高めるために自然科学があり、そこから派生するさまざまな科学があります。それぞれの事象の対象性は何かという観点で、あらゆるものを秩序付けて考えることができる。「それは何であるか」という科学の問いの意味はそこにあります。それが科学の考え方です。
・ところが哲学においては、そこから自然科学の方法も出ているのですが、もっとも肝心な問題は人間世界の意味や価値ということです。この問題は、科学とは違う観点と方法でとらえなければならない。「それが何であるか」という問いと、「それはどういう意味をもつか」という問いには、ある重要な違いがあります。つまり、問題の本質が違うのです。
・人間は一方では他人から対象化される存在であると同時に、本質的には自分が対象化さ
れるということも含めて、また自他を対象化しつつ生きるような存在です。ここでの対象化は、その利用可能性、処理可能性、という意味での「対象認識」ではなく、自他の「関係了解」ということなのです。この自他の「関係了解」という人間存在のあり方が、「価値や意味」なるものの「原理」です。そしてまたこの「関係了解」を可能にしている根拠が、自他の欲望―エロス関係です。
・人間が世界をどう意識し、欲望しているか、世界はどのようなエロス性であるのか(快
苦を含めて)。そのことが哲学では価値や意味の原理論になります。科学はそれが、事象の対象的意味を「対象認識」として把握するという原則のうちにあるかぎり、この問題を追い詰めることはできません。脳の因果関係を精密に追い詰めれば、人間存在が理解できるかのように考える人もいますが、そこからは意味や価値の原理論は出てこないのです。生きることにとって何が価値であり、何が「ほんとう」であり、善きことなのかという問題を探求すること、それは哲学の古くからの中心テーマでしたが、このテーマと方法の意味は現代でも死んでいないはずです。(了)
・哲学者竹田青嗣と西研が「近代哲学の見直し」というテーマを標榜していることは、すでに皆様もご存知の事と思われます。そのテーマに関するお二人の「記念碑的論考」が『樹が陣営』19号以降に掲載されておりました。
・全文を掲載するのもどうか、と思案しておりましたが、何回か読み直し、ポイントだけを押さえた形でダイジェスト化してみることに致しました。
・今回の西研の記事は『樹が陣営』19号から21号に掲載された「哲学の道しるべ:近代哲学とは何だったのか」を大幅にダイジェスト化したものです。(mori)
★NO19号「近代とデカルト」
★NO20号「デカルトと大陸合理論」
★NO21号「主観に定位する哲学の存在理由について」
・参考文献:『はじめての哲学史』 竹田青嗣/西 研(編) 有斐閣アルマ刊 定価1,800円
★NO19号「近代とデカルト」
1.世界像について
・世界像を確かめ、組立てなおし、共有するという問題は、いまとても重要であり、それを原理的に考えようとするのが「哲学」である、と僕(西)は思っていますので、まず、世界像について話します。
・「人は、世界とはどんなものであり、自分はそこで何をなしてよいか(よくないか)、何をしたいか、その像(世界像)を見つけてはじめて行動することが出来ます。それがわからないと不安や孤独感に陥るわけです。それが世界像の役割です。その世界像とは「自己イメージを中核とする信念の体系」、言い替えると「自分と世界との関わり方の了解」と僕は思っています。
・かつての日本人の世界像は、後進国近代的なものであり、先進国に追いつき追い越せという感覚でした。その世界像が80年代から大きく崩れて行くわけです。つまり豊かな社会になって行き、そこから個々人が自由に快楽を求めて生きてよいことになった。(小浜逸郎さんに拠ると、こういう状況/意識の変化は、75年を境に起っているようです。)このことは同時に、「共有された生の理由」がなくなったことを意味しています。つまり、豊かになり高学歴になり、「目標」が無くなったということ。更に、マルクス主義に代表される「進歩の物語」が解体したことが、世界像の崩れになっていると思います。
2.哲学とは何か
・世界像は個人の欲望の方向付けをもたらすものであり、又ある面で「人々に共有される」必要があるため、それが崩れると問題なのですが、簡単に言って、世界像が崩れたときに始まるのが「哲学」です。
・世界像は、人類の歴史の中で、宗教、神話、伝説によって伝えられてきた訳ですが、その世界像は、ある条件(異文化接触等)で崩れてきます。それが、古代ギリシャと近代ヨーロッパにおいて典型的な形で起ってきます。
・近代ヨーロッパにおいては、ルネッサンスのあと、ルターによる宗教改革があり、プロテスタントとカトリックの争いが始まり、キリスト教の権威を決定的に相対化してしまい、世界像が崩れた所から哲学が始まったのです。ですから、哲学とは、ある道筋を通じて共通了解に達しようとする営みのことです。つまり、どこからどう考えていけば、多くの人が了解できる考えとして積み上げることができるのか。その土台があるとすれば、それはどこか。どんな方法があるのか。このことが哲学の根本問題になったのです。
★そのためには、@物語を禁じ手にしA言葉/概念を論理的に使いB原理的に考えることが前提となる。(mori)
3.ヨーロッパ近代とは
・こうして出来あがった近代の社会観、自然観の一番の根本にあるのが「自由=自律」です。フッサールが言った様に「近代のヨーロッパが目指したものは、理性に従って、生と社会を形成しようとすること。そこに自由がある」ということです。
・けれども、ヨーロッパ近代が何をもたらしたか。自然をコントロールした結果、科学主義で地球は汚染されてしまい、社会をコントロールした結果、マルクス主義はファシズムに終わってしまったではないか。結局ヨーロッパ近代の考え方は根本的に間違っていたのではないか。近代哲学は理性信仰であり、進歩を素朴に信じているが、このような哲学は、もう古いと言う考え方がいま支配的な訳です。ところが、そうではない姿が、僕には見えてきた。そのことを竹田青嗣さんたちとの共著である『はじめての哲学史』(有斐閣アルマ)で書いたのですが、デカルトには、人間は世界の客観的真理には手を触れることができないということが、はっきり分かっていたのです。要するに様々な「信念の体系」が有るだけだ、世界像の多様性を前にしつつ、それでも誰でもが納得し得る理路はあるのか、というのがデカルトの問いだったのです。そこから近代哲学が始まっているのです。
(朝日カルチャー新宿 1998/04/06)
★NO20号「デカルトと大陸合理論」
1.デカルトについて
・前回最後にお話した通り、デカルトの出発点となったのは、「世界像の多様性」という事実でした。つまり、哲学や宗教、そして世間も、さまざまな「信念の体系」が、バラバラにあり、どれも自分が真理であると主張している訳です。(信念対立のアポリア)そこで、確実で共有できる知識の土台を示すことが、デカルトの意図だったのです。
2.『省察』について
・何が本当に確実だと言えるかということを考察した結果、デカルトはあの有名な「われ思う、ゆえに我あり」という言葉になるわけです。じゃあ、この「我」とは、何だ、という疑問がでるのですが、デカルトは慎重に、「我」は、意識の働き、と言っています。何故、デカルトはこの様に全てのものを懐疑しなければならなかったのか。それは、客観的な世界があるとしても、それを直接把握できる特権的な場所はどこにも無いと気づいたからです。客観と一致しうる特権的な場所はない。従って、誰もが生きている、この主観という場所から考えようというのが、デカルトの戦略だったのです。
3.主客2元論のアポリア(難問)
・その結果、世界は、思惟する実体(精神)、延長する実体(肉体や物体)という異なった二つの本質をもつ実体から成り立っている、というのがデカルトの世界像となったわけです。しかし、本質の異なる実体である「精神と肉体」がどうやって相互作用ができるのか、と言う「心身2元論」が生まれました。更に、デカルトは主観と客観の世界をはっきり分けてしまったために「主客2元論」という難問も残したのです。
4.観念論について
・さて、先ほど「主観という場所から考えようというのが、デカルトの戦略だった」と言いましたが、このデカルトの記述は、確かに「観念論」です。しかし、どんな人でも、デカルトの記述を、自分の意識を引き合いに出して確かめてみることが出来るわけです。このように誰もが検証できるように記述し得る場所として、「主観」というものを発見したことは、デカルトの大きな功績だったのです。
・自然の像を打ち立てる自然科学は、客観的自然が存在することを前提としなくてはならない訳ですから、必然的に「実在論」になります。しかしながら、、人間のもつ心的世界そのものの構造や、そこに生ずる観念、またそこに生ずる「真善美」の意味などを取り出そうとする思考方法、これを「観念論」と言います。ところで、デカルトの観念論的発想の一番の基礎になっているのは<世界像は多様にある、しかし、それを作り出してくる意識には、誰にとっても共通する構造がある。その構造そのものを問おうとする>ということです。それは、確実性と共有性を持って記述していくことが出来る。こういうデカルトの記述を自覚的に受け継いで、拡張したところに「フッサール現象学」が成り立っているのですが、この話は、本日は致しません。
・観念論というとすぐカントやヘーゲルなどのドイツの観念論哲学を思いますが、イギリス経験論もやはり観念論なのですね。デカルトのモチーフは、むしろイギリス経験論のほうに良く引き継がれていると言えます。
(朝日カルチャー新宿 1998/04/20)
★NO21号「主観に定位する哲学の存在理由について」
1.主観に定位する哲学は、もう古い?
・前回にお話した通り、デカルトは「主観」から出発しました。世界や現実を問うのではなく、主観はどうなっているか、と問う訳です。このように「主観」という場に定位して考えることが、デカルト以降、近代哲学の王道となって行きます。
・しかし、こうした「主観の哲学」は、現代哲学では極めて古臭いものとみなされています。たとえば、リチャード・ローティという人は「主観の哲学は、心に定位することで特権的な、絶対的な真理を確保しようとする悪しき戦略である。」と言って批判しました。また、J・デリダはフッサール現象学を「意識に直接に現前するものから特権的な真理を入手しようとする『現前の形而上学』だ」と言ったことは広く知られています。
2.だれもが認める「出発点」
・あらためて、デカルトが何故、主観に立ち戻ることになったかを考えてみると、それは「多様な信念(世界像)の対立」が存在している事実を重く受け止める所から生まれてきた考え方でした。その「信念の対立」に直面した時、「では、本当に誰もが納得し得るような思考の出発点を定めることができるか」という課題をデカルトは本気で引き受けようとした、ということです。その結果、「私は意識する(コギト)」が、どんな人も認めざるを得ない出発点として提示されたのです。
3.意識体験の反省的記述
・デカルトはまず、この意識の中に認められる諸観念の特質について「内省的」に確かめる作業を行っています。この手続きは、デカルト同様に、誰もが自らの意識体験に問い尋ねることができるのです。その問い尋ねた結果を互い報告し合い、共通な記述を作り上げることが出来るのです。それは「どんな人の意識にも共通する構造がある」という信憑を作ります。つまり、各人が作り上げる世界像は多様でも、その意識にも共通の構造が存在しているはずである、という信憑です。
4.哲学とは何か
・あらためて、哲学とは何か。僕は「ある事柄の意味がはっきりしなくなった時、あらためて、その事柄の意味を問い確かめようとすること」と考えています。その際、大事なことは「意識体験に立ち戻って、その意味を問い確かめる以外の方法は、存在しない」と知ることです。哲学とは、私たちの「生」の有り方を深く理解するためのアート(技術)と言ってもいいのですが、それは、生に向かって問い掛ける以外の方法を持たないのです。そういう意味での「主観から始める哲学」は、近代ではデカルトに始まってフッサール現象学に至る仕方で継承され発展してきました。
5.デカルトの不徹底性とフッサール現象学
主観の哲学(観念論・超越論的哲学)の特徴は、内省と記述ですが、デカルトではそこまでは自覚されていませんでした。そのために「主観と客観の一致」という難問を後世に残したのです。フッサールはこの難問に対し、「主観の<外>を考えることは無意味・背理だ」と言います。つまり、『真とは、意識の<外>にそれ自体として存在する客観と一致すること等ではない。真とはそもそも、意識の内部で生じる「確信」なのだ』ということです。これが20世紀フッサール現象学の立場です。
・あるのは、客観的世界ではなく、「客観的世界がある」という確信です。意識を超越した客観世界/現実世界がある、ということ自体が、意識の中で信じられているのです。こう考えたとき始めて、次の事を「問う」ことができることになります。<では、この「意識を超越した現実がある」という確信は、どのようにして各自の意識の中で信じられ、また再生産されているのか> この問いは「超越論的な問い」と呼ばれるものですが、これこそフッサール現象学の中核をなす問いなのです。
・この問いに対する答えを簡単に言っておきます。自分の経験する事柄が、時間的空間的に首尾一貫した整合性を持っているのです。(現実とは首尾一貫した秩序のことなのです。)その自分の経験が他の人の経験とが整合することによって、「万人にとって共通の現実がある」という確信が維持・再生産されているのです。(了)

・竹田青嗣の『近代哲学再考』は、当初、明治学院大学国際学部『研究書年報』No.3に発出された論考で、『樹が陣営』22号に掲載された時点で、「近代哲学再考――現象学的覚書き」として既にダイジェスト化されており、これ以上のダイジェスト化は不要と考えました。
・その論考の重要性に鑑み、今回は『樹が陣営』22号掲載時のままでここに再掲載することに致します。(mori)
近代哲学再考――現象学的覚書き
哲学の理解にとって、個人的経験というものがどの程度の意味をもつものか、わたしはよく知っているというわけではない。わたしがとくに愛読する哲学者たち、プラトンについても、ヘーゲルやニーチェやフッサールについても、彼らがどのような微妙な個人的動機から哲学に足を踏み入れたか知らないからだ。ただ、自分自身の場合は、明確なきっかけがある。
いまは何の混乱もないというわけではないが、とりわけ混乱のひどかった青年期に、わたしはたまたまフロイトの『夢判断』という書物にぶつかった。恐ろしい吸引力をもった著作で、わたしはたちまちミニ・フロイディアンとなった。ある意味ではわたしにとってこれがはじめて出会った強力な「西洋」の思考だった気がする。そしてそのあと、フッサールの現象学にぶつかった。両者は、極めてタイプの異なった思考の両極に位置するものだった。フロイトの思考は「物語」の威力を最大限に引き延ばしたものである。これに対してフッサールは、まったく逆に一切のフィクションを取り払って「原理」として確定できる思考だけを取り出そうとする。当時、わたしの中で「自己」というものが壊れかけていたのだが、これをなんとか建て直し了解する上で、両者はまったく異なったタイプの思考のモデルを示してくれた。結局、フロイトではなく、フッサールがわたしにとってより重大な役割を果たすことになった。
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わたしは文学の仕事もしてきたので、「物語」の威力の本質について自分なりに知っていて、これを軽んじるつもりはない。わたしがフロイトの思考ではなくフッサールの思考を必要とした理由は、明らかで、わたしの「自己」の壊れは、いわば「物語」の病(=ヘーゲルでは「不幸の意識」)に由来するものだったからである。ヘーゲルによれば、「不幸の意識」は、強力な物語(規範的自己像)と現実の自分のあり方の間の、乖離と分裂に由来する。「物語」によって生じた病を「物語」によって治癒すると、悪無限的自家中毒に陥る。フッサールは、一切の「物語」をいったん消去する方法なのである。
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ありていに言って、これがわたしのフッサール理解の第一前提である。人間は自分自身について「自己像」をもち、世界について「世界像」をもっている。そして、それを自明のものと考えるか、ロマン化し、信念化したりしている。それを自分の現在的価値=身体性として是認しながら、同時に、他の多様な価値=身体性との関係において相対化することは、決して容易なことではない。
しかし、まさしくそのことを、「超越論的現象学的還元」の方法の名において、フッサールは要求する。像と物語は、われわれの価値=身体性の自然与件である。これを端的に取り払えば、人間は、外的世界への関心=欲望とエロス的対象を失って文字どおりの自己喪失が生じる。そこで現象学ではこれをいわば“括弧に入れる”。「物語」や価値=身体性を端的に“抹消”するのではなく、その「確信成立の条件」を吟味する。これはおよそ、諸信念の根拠の検証ということを意味している。
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自分がすでに身につけている価値=身体性や「物語」(=アイデンティティ了解)の「根拠」を十全に解明できるかどうかは、一つの哲学的難問である。もしこれが自己内思考に閉じられているなら、不可能だと言うほかない。現象学はこの問題の困難を予想し、そこから「 間主観性」という概念を作り出している。
「間主観性」の概念の核は、自己了解と他者による了解との間の弁証法的展開以外には、自己了解の進展のプロセスはありえない、ということである。これは人間が自分の価値=身体性や「物語」性をいかに了解しうるかについての核心的原理である。しかし「現象学的還元」の方法は、その前段階的な前提を支えるものだ。人間は、誰でも、自分の諸思念、諸確信の「根拠」について、これを把握し、確証できるか。この問いについての現象学の答えが「還元」である。「還元」の方法は、これに対して原理に可能である、と答える。しかし、全面的に一切の根拠が明らかになる、というのではない。「還元」の方法によってのみ、この「根拠」の判明性の境界線が了解できる、というのである。
*
これは、世界と自己という対象についての一般的な了解可能性の「原理」である、と考えてよい。ある対象について把握するというとき、この了解可能性の原理をどう考えればいいのか、現象学は、一切が判明に理解可能であるか、そうでないか、という問いを廃棄し、どこまでが判明な了解が可能でありどこからが判明でなくなるか、このことについては明確な境界線が確定できる、という原理をおいたのである。
わたしはこの現象学の「原理」を十全に理解したと感じた。この理解は、哲学的な「原理」ということについてはある判明な理解のモデルとなった、同時にそれは、わたしの中で、近代哲学の諸学説の理解について、決定的な意味をもっていた。
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近代哲学の世界理解の努力は、伝統的キリスト教の「世界像」をいったん“消去”(括弧入れ)し、その一切の信念根拠を一から検証し直すことであった。何が判明と言えるものであり、何が「物語」や「臆見」で構成されているのかを検証しなおすことであった。
つまり、諸信念の一般的妥当性の境界線を明確に引こうとする努力だった。こう考えると、ながく実在論的合理主義の観念的転倒と見られていた近代哲学の「観念論」的性格の位置づけがまったく変更されるべきことが分かる。
近代実在論(唯物論)は、スコラ哲学の実念論的世界像に対して、近代的な実在論的世界像を対置したわけだが、近代哲学の観念論は、世界像の「妥当性一般」の原理論を志向していたことが理解できる。
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わたしが現象学と出会ったころから、現象学は「真理の基礎づけ」の学として、現代思想では批判の的となっていた。
これは、近代哲学の諸学説が、自閉的な「観念論」的体系の内部で構築された絶対的「真理主義」に陥っている、という現代哲学諸派からの批判と軌を一にしている。わたしは現象学の理解から出発したので、この批判にまどわされることがなかった。要点は、どの説が、一つの「物語」に別の「物語」を対置しているか、またどれが「世界像」(=物語)の妥当性の一般理論を作ろうとしているか、を読みとるということだからである。
マルクスは、経済原理を中心とする社会構造の「一般原理」をうち立てようとした。この仕事は非常に良質で普遍性をもつものである。マルクス主義はこれに対して、その八割が、近代国家のナショナリズム的「物語」や帝国主義的諸「物語」に対抗する、カウンター「物語」によって作られている。いったん、現象学的原理がつかめればこれを理解するのは困難なことではない。
ポストモダン思想や分析哲学や深層心理学が、どの程度「物語」性を持っているか、一目瞭然であり、またその「物語」が有効性をもつものか、イデオロギー的転化を起こしているかも、判明に理解することができる。それが「世界像」の一般原理の強みである。
ソシュールの「一般言語学講義」は、まさしくそのような普遍性をもった強度のある原理的言語論だが、デリダのグラマトロジーは、ヘーゲル的な「絶対知」の「物語」(これはデリダ他の現代思想家たちのそうだいな思い込みだが)に対抗する「解体する知」の「物語」であり、一定の時代的重要性をもったが、言語学的原理論としてはほとんど強度をもたないのである。
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哲学が「原理」の学であるということを、はじめて明確に自覚した哲学者は、疑いなくヘーゲルである。彼の『哲学史講義』にその自覚の形がもっともよく表現されている。哲学は、普遍性を追求する学であって、「絶対的真理」を取り出すものではない。「絶対的真理」という考え方は、きまって「真理」は言葉によっては決して表現できない、という対抗的思考を生み出す。哲学によってつかみ出された「原理」(ヘーゲルは当時の習慣に従ってこれを「真理」と呼んでいるが)は、決して後退しない。それは、人間の生活欲望の限界底辺が歴史的に不可逆的にあるのと同じく、不可逆的で、後戻りしない(哲学は、科学と違って誰もが納得するような「真理」を生み出しはしない、というヤスパースの哲学観は、ヘーゲルからはわらうべきものである)。哲学は、強度のある「原理」を時代の中から取り出す言語ゲームであり、いったん取り出された強い原理は、権力や時代的風潮の一次的な勢い以外の要因では、決して消え去ったりはしない。それは、人間の精神と欲望の本質からの必然的な規定を受けており、有為転変はあっても、必ずその「原理」の強度を実現していく。これがヘーゲルの歴史哲学の要旨であって、知の運動は必ず「絶対知」に到達する、などというのは、当時のヘーゲルの口調を素朴に受け取っていることの結果にすぎない。
*
哲学の方法と近代科学の方法をまったく相容れないものとして対置したり(論理実証主義や分析哲学)、哲学の形而上学性を近代科学の方法で鍛えようとしたり(プラグマティズム)、哲学の方法を全否定してこれに代わる新しい思想のモードを作り上げようとしたり(ポストモダン思想)、これが現代思想の世界地図の様相だ。
しかし重要なことは、科学の方法は、まさしく哲学の方法から生まれてきたものであり、その本質はいまもまったく変わっていないということ。つまり、「原理」を取り出し、そのことによって「真理」を発見するのではなく、普遍性を創出するという点に哲学と科学の本質があるということだ。
普遍性という概念自体がヨーロッパから現れたもので、それ自体ローカルなものにすぎない、といった言い方は、一見気がきいている。しかし、すこしでも科学的な、あるいは数学的な訓練を受けたものにとっては、そのような言い方は、ある風潮を後ろ盾にしただけの「レトリック」にすぎないことが明らかである。それがはじめにヨーロッパから出ようが、アジアから出ようが、人間という種にとって「普遍的」なことがらというものは必ず存在する。それをどう言葉によってしっかり規定し、確定するかが容易な業ではないだけで、上のようなレトリックは、思想語という符帳を習いおぼえた人間なら誰でも言える体のものであろう。
同じく、理性的に世界を見ることが果たして理性的か、という言い方もある。理性を疑え、理性はヨーロッパが作り出したものだ、と。わたしはそういう言い方を推奨しない。ヨーロッパの問題点はヨーロッパの問題点として、徹底的に理性的に理解すべきことである。理性や合理主義や普遍性はヨーロッパから現われた。だからそれらを信用しない、という思考は、理性や合理主義や普遍性の本質を鍛え上げる方向に進まず、これに“対抗”する諸概念を作り上げる方向へ進む。これがひとつの「物語」にべつの「物語」を対抗させる典型である。ある場合にそれは意義をもつ。しかしある場合にはただちに別の「イデオロギー」に転化する。実存の本質を探求することから出発しながら、「存在」という概念を、理性や普遍性に対抗させ、奇怪な反=ヨーロッパイデオロギーに加担したハイデガーがそのもっとも象徴的な例である、
*
哲学(フィロソフィー)は独自の方法原理をもった思考法である。しかしそれは、十九世紀後半以降、いくつかの理由でその方法原理が完全に覆い隠されてきた。いまこれを、その本質的な形で再生したいとわたしは考える。普遍性の探求の方法としての「哲学」を回復するには、まず伝統的な「真理」の概念を解体しなければならない。しかしそれは、ポストモダン思想や分析哲学が行なっている仕方では不可能である。それは「真理」を“相対主義的、懐疑論的本質において、解体する。そのことによって、「普遍性」の概念の本質をも解体する。あとに残るは、否定的、否認的批判主義一般である。十九世紀末にそれが蔓延したとき、ニーチェはこれを「貧血したニヒリズム」と呼んだ。
「普遍性」を立て直そう、とどこかで声がすると、たちまち、「真理主義だ」、「形而上学だ」、「ヨーロッパ中心主義だ」という叫びが上がる。ここでは、「普遍性」という概念が、スコラ哲学で使用されていたままで理解されているのである。
「普遍性」とは何か。もし神のような超越項が存在するならば、それは、世界の一切を普く照らす至上の叡智のことだ。もし神のような超越項が存在しないとするなら、それは、異質な「物語」、異質な価値=身体性、異質な文化、異質な慣習をもった異質な人間たちが、それにもかかわらず、互いに共通のメンバーシップとして承認しあえる了解の関係を創出する行為を指示するものなのである。
*
近代哲学の中枢をなす思考の努力を、われわれはもう一度辿りなおす必要がある。それは絶対的「真理」などという概念によって生きてはいない。仮にそのような概念が“信じられている”場面があるとしても、近代哲学者たちは歴史的には、普遍性の創出にむかってその方法を積み重ねている。そこで「物語」を使用するものは、徐々に消えていく運命にある。そのことに少し注意しさえすれば、哲学の歴史は如実にそのことをわれわれに教えてくれる。 (初出 明治学院大学国際学部『研究書年報』No.3)

・竹田エロス論から竹田社会論へと向かいつつある竹田青嗣が、「共同幻想論」等の吉本隆明主要著作について、「樹が陣営」発行人・佐藤幹夫のインタビューに応じて、語り出します。そのポイントを、全体の3分の1程度に圧縮して、簡単にご紹介します。(この抜粋だけでも一応の意味が分かるようにしましたが、より詳細に読みたい場合には、「樹が陣営」25号を取り寄せてご覧下さい。)(mori)
[インタビュー] 自由と相互承認の社会原理へ――『共同幻想論』以後、国家論をどう構想するか
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『共同幻想論』の基本構想の独創性と先駆性
――最初に、吉本さんの『共同幻想論』について、竹田さんの現在の到達点を踏まえていただきながらお話ください。(佐藤)
竹田 『共同幻想論』は一九六八年、我々が学生の頃に出たのですが、それまでのマルクス主義国家論に対する新しい国家論として、非常に大きなインパクトがありました。マルクス主義の国家論の基本は、国家そのものが暴力装置という考えです。
吉本さんの場合には、ひとことで言うと、むしろ「我々は一体である」という「一体幻想」をうまく作り上げているのが国家の本質である。国家論としてはそこを捉える必要がある。おそらくこれが基本の構想ですが、その構想を非常に独創的なかたちで展開したのが『共同幻想論』ですね。
『共同幻想論』は大きく前半と後半に分かれていますが、前半部の基軸は、異界に対する人間の不安の意識がはじめの共同性を形づくるという場所から書き始められる(禁制論)。
後半部の国家論の大きなポイントは三つあります。一つは、素朴な家族的、氏族的共同体が大きな政治共同体へと転化してゆくことを可能にしたのは何かという問いですが、吉本さんはむしろ「母系列」の氏族共同体をその軸に据えます。第二は、この母系制氏族共同体の紐帯の中心的原理は、「姉妹‐兄弟」という独自の「対幻想」(姉妹が宗教権を、兄弟が政治権を司るという典型をとる)であるということ。最後に、日本の天皇制の起源です。
それで、現在の時点で吉本さんの『共同幻想論』を評価するとなると、ひとつは、一九五〇年代以降の先進国の状況の変化という問題があります。つまり、それまでは、強権的な国家権力が被支配民衆を実力によって押さえつけているという構図が先進国でも共通に存在していて、そのことが従来のマルクス主義国家論にリアリティを与えていた、という問題です。
「国家の解体」から次の課題へ
竹田 吉本さんの国家論にはいくつか前提があります。一つは国家あるいは共同幻想は基本的に個人の幻想あるいは対の幻想と逆立し、背立的なものだという考えです。もうひとつは、国家の共同幻想は、ほんとうは存在している理由のないものだから、国家の共同幻想の秘密を解明すれば、国家は次第に解体されていくはずである、従って共同幻想の秘密を解くことが、国家が解体されてゆく大きな手がかりになるという考えです。というこの二つの考えが大きな前提になっています。
この考えのリアリティはよく覚えています。われわれがはじめに国家論の問題にぶつかった時代では、国家というものは実際に抑圧的なものであって、なぜそのようなものが存在しているのかという感覚が強くあった。
ところがぼくのいまの立場は、国家や権力は解体することはできないし、「国家解体」ということは歴史にとって重要な課題ではまったくないばかりか、歴史的にも、まったく可能性のない考え方になっているということです。
そういう考えに至ったのはやはり近代哲学をずっと遡行して読み直したからです。結論から言うと、近代国家は、一般民衆の「自由」の解放という根本構想によって動いてきました。近代国家だけがこのことを可能にするのであって、近代哲学はこの原理を長く探求してきたのです。
国家を解体し、権力なしに人間は自由な社会を形成してやっていけるという考えは、アナーキズムをはじめとしていろんな形で登場しましたが、少し厳密に考えるなら原理としてありえません。それはひとことで言って、社会が「道徳的完成」に達するような場合だけで成立しうるものです。
このような事態の中で、対外的緊張が激しいほど国民国家の国家権力は、一般人民に対して"抑圧的"な形態をとらざるをえない。われわれがかつて国家と国家権力を諸悪の根源と考えたのも無理のないところなので、国家権力は近代を通して例外なくそのような現われを人民に対して見せたからです。
市民社会的近代国家の成熟に向けて
竹田 そこでこうなります。われわれの展望としては、いまある国家を、その基本理念にふさわしいものとして、すなわちまず市民社会的近代国家として成熟させてゆくこと、また、このことで国家の競合原理を引き下げてゆくこと、国家間競争のルールを成熟させてゆくこと、その先に、権力一般の、政治原理の合理性を推し進めてゆく可能性がはじめて現われるということです。
これまでのそのような原理的な国家論で最も重要なのはヘーゲルの『法の哲学』です。だからそれをやり直してみようと、いま考えています。
ともあれ、吉本さんの共同幻想と個人幻想の「逆立」のテーゼですが、これはヘーゲルでは、近代の自己意識に固有の「個別性」と「普遍性」のアポリアと重なるところがあります。
要するに、社会的な矛盾が激しいほど、普遍的なものを求める青年の自己意識は、社会的なものと個人的な実存の意識の間に解決できない矛盾の意識を見いだす。それは近代国家の形成期における本質的なアポリアであって、「共同幻想」と「個人幻想」の対立はそのような事態の現われと理解できます。
共同性というものは、もちろん悪い面もあるわけですが、根本的には人間の生活及び生の不安に由来するものであり、また人間が集合的に生活するために不可欠な一定の秩序の必要性から来ています。
「共存の原理」をどう構想するか
――この問題(国家間の対立、紛争)が今後どう克服されていくのかという点に対する共存の原理として、竹田さんはどんな展望をお持ちでしょうか。
竹田 近代社会のひとつの眼目は、共同性の共存です。その共同性を共存させることができる原理を作り出すこと、それが近代哲学の大きな課題だったわけです。それが市民社会の原理です。
その市民社会原理には、「信念対立を克服する原理」が含まれていますが、これは哲学的にはやはりフッサールの現象学の考えがいちばん遠くまで進んでいると思います。それを、ヘーゲルがすべて集大成しているといえます。
近代とは何かと簡単にいうと、理性的な合理性の力で、それまでの物語的な、あるいは神話的な「聖なる考え」を徹底的に解体していくプロセスだったと言えます。
もちろん、そのためには「自由の相互承認」だけでは成立しないので、市民的政府、その国家権力による近代的な「法」の整備によってはじめて確保されるわけです。これで原理としてはほぼ尽されています。
要するに、共同体に対する近代哲学の典型的な考え方は、個人の自由の自覚によって共同体は次第に解体されていくというものですが、そう簡単にはいかない。そこは近代哲学がうまく問題を設定できなかったところです。われわれがこれから考えるべき課題として残っていると思います。
ヨーロッパ近代哲学集大成者としてのヘーゲル
――ヨーロッパ哲学の社会思想の原理がヘーゲルによって集大成されたという点について、もう少しお話していただけますか。
竹田 近代哲学はそういう思想のリレーの見事な典型になっています。ぼくの見るところでは、ニーチェやフッサールやハイデガーもいるけれど、近代哲学の集大成ということで言うとやはりヘーゲルをおいてない。その場合、ポイントは二つで、ヘーゲルは「近代社会」とは何か、近代社会の「本質」について最も深くまで原理を掘り進めた哲学者であり、もう一つは近代の「人間」ですね。近代的な意味での「人間」の存在本質をとことんまで考えた。
ヘーゲルが近代社会の本質をどう考えたかと言うと、その原理、すなわちキーコンセプトをいうと、「自由」です。
じつはヘーゲルのこの近代社会の本質論について、今度文芸誌で長い論文を書きました。(『群像』2003年8月号「絶対知と欲望――近代社会の本質」)。
さて、コジェーヴによるヘーゲル論の大事なポイントは、ヘーゲルは人間の欲望の本質を「他者の欲望」というかたちで定位したという点です。動物の欲望は、たんに他を否定し自分を維持し続ける、そういう欲望である。ところが人間の欲望は、「自己意識の欲望」(=「自己意識の自由」)であって、自己価値、自分は立派な存在であるという確証を得たいという欲望になっている。ここから、人間の欲望は必ず他者の承認を必要とする。こうして「人間の欲望は他者の欲望である」というこれも有名なテーゼが出てきます。
「他者の欲望である」という言い方はいろいろなニュアンスがあるのですが、ポイントは人間は「他者が欲望するその対象」になりたいということ、また他者の承認をつかもうとする欲望だということです。
コジェーヴの論で興味深いのは、このときヘーゲルは、自由の自覚とは、近代的な「死」の観念の受け容れの過程でもあるという観点をもちこんでいるということです。
『精神現象学』で、ヘーゲルは近代社会と近代の人間の構想する上で、ふたつの「原理」を立てている。一つは個人の欲望の原理としての「自己意識の自由」です。そしてもう一つは、この近代的な人間の「自由」への欲望が向かうその対象、人間的欲望の固有の対象としての「絶対本質」(「絶対実在」と訳されている)です。ポイントは、近代思想は、根本的に、各人が相互に他者を、尊厳をもった「自由な個人」として承認してゆくという契機、つまり「自由の相互承認」の進展のプロセスとして理解するとき、最もよくその本質を顕わにするということです。
「自由と相互承認」について
――竹田さんが進められている社会思想の原理も、いまお話いただいた自由と相互承認の問題が大きな主題となるのですか。
竹田 そうです。それが中心になります。ヘーゲルとは違う言い方なのですが、ぼくは、社会の本質は「ゲーム」という概念で捉えるのが一番いいと考えています。
「ゲーム」としての社会という観点から
――自由と欲望の相互承認が進むほど、社会は「ゲーム」の本質を明らかにすると言われましたが、この点について、もう少しお話いただけますか。
竹田 「自由の相互承認」の原理は、政治原理においても社会原理においても、さまざまな重要な帰結を生み出します。哲学的な原理ではそれは、各人が他者の「自由」をはっきりと承認し、その結果として社会をフェアなルールゲームとして承認するということになる。これが近代社会、近代国家の原理であって、おそらく他の原理は成立しえないと思います。
社会はフェアなルールゲームであるというのは、すなわち「自由競争」原理ということですが、もちろんそこにいろいろやっかいな問題が出てきます。最大のものが、誰でも感じている資本主義の矛盾です。
実際は、フェアなルールに基づく自由競争が始まったところ、自由競争による貧富の差がむしろそれまでより拡大した。
マルクス主義の基本プランは、自由競争と私有財産をなくせば平等になるはずだというものです。ところが、そうはならなかった。
ぼくの考えはこうです。可能な原理は、おそらく、近代社会を資本主義ゲームの支配する社会と考えるのではなくて、資本主義ゲームを、近代社会というルールゲームの一つと考えることです。われわれの原則からは、近代社会の本質は「相互承認」によるルールゲームであるということです。
簡単に言って、ゲームの本質は、ゲームに参加している個々のプレーヤーが、そのゲームからエロスをくみ取るということです。これ以外にゲームの本質はありません。ゲームを成立させるための条件は、ゲームの本質とは関係がありません。
われわれは「近代国家」の原理を徹底的に推し進め、フェアなルールゲームとしての近代国家の本質を展開するような方向に進む以外にない。それがいまぼくが考えている場所です。自分としては、それについては長い間考えてきたし、これからも充分考えてゆくつもりです。
吉本国家論と思想のリレー
竹田 自分がこんな具合に考えるに至った最大の要因は、やはり若いころに吉本思想に出会ったことだと思います。思想を立てるというのはこういうことだな、という感触を日本の思想家からうけとったのは、なんと言っても吉本思想なのです。
『言語にとって美とはなにか』と竹田言語論
――社会思想の原理についてずいぶん長くお話いただきましたが、次に言語論の問題についてお聞きします。竹田さんが『言語的思考へ』をお書きになるにあたって、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』から何を受け取られたのか。あるいは吉本さんが出された問題をどう展開されようとしたのか。この点についてはいかがですか。
竹田 『言語にとって美とはなにか』の中で強く印象に残っているのは、さまざまな言語理論を取り上げながら、言語を分類しいわば標本のように区分し、形式的に分析する理論を、彼がすべ斥けていることです。そして、言語論では、本質論だけが重要だということを強調している。それがぼくにとっては『言語にとって美とはなにか』の最大のメッセージです。こんど『言語的思考へ』という言語本質論を書いたのですが、そこでのぼくの強調点は、現代思想、現代言語学は、すべて形式論理的分析になっているということです。
ぼくが今回やった言語論で、吉本さんの言語論から自覚的に受け取っているのは、言語は形式性として分析すると一定のところまでしか進めない、言語を「表現され発語されたもの」として分析しないと、言語の本質はつかめないという発想です。
「言語の謎」と「世界の謎」
竹田 この発想がなぜ出てきたかと言うと、ひとつはマルクス主義的な文学論(現実反映論)や古典的な客観主義的認識論に対して、それを相対化するためです。じつは主客関係のこちら側に真理があるのだという考えに対して、そうではない、そう考えてしまうと解釈の多様性も失われるし、言っている内容(真実)は「ただひとつ」であるというような、真理主義的な、あるいは規範主義的な考え方に逆戻りしてしまう。それを相対化するためにソシュールの形式体系としての言語論が強く受け取られたわけです。
そもそも「言語の謎」は、「世界の謎」と並んで哲学では固有の問題です。その中でも最大のものが「言語」の多義性の問題です。
この問題はじつは、世界の「客観」と「主観」の関係とまったく相同的です。
このことは一言で言うのは難しいのですが、たとえば認識論の問題を解くのに、現象学は「確信の構造」というかたちで解いたわけです。我々はある「もの」を認識しているが、それは「確信の構造」というかたちで理解すると、綿密な共通性が成立する領域とそうではない領域との区分がはっきりする。
吉本思想をどう読むか
――最後の質問になりますが、これから吉本隆明を読もうという若い人に、こういう点をぜひ読み取って欲しいという、アドバイス的なお話をお願いできますか。
竹田 ぼくのお奨め本をいうと、やはり『マチウ書試論』です。これは吉本思想の出発点といえるような記念碑的な文章です。何を書いてあるかというと、たとえば我々が社会に対する矛盾の意識をもってこれを推し進めようとするときに、必ずいくつかの問題にぶつかるわけです。
問題のひとつは、これが正しいという考え方が対立したときに、つい自分のフィーリングでどっちか正しそうなものを選んでしまうのですが、そうした信念対立のときに、そこからどう推し進めるかという難問がひとつです。
もうひとつは、普通の人間がもっている一般的な欲望と、もう一方に真面目な人間が抱く社会的な「義」への欲望があるとき、どちらか片方だけを真実として取ると決定的に誤るという問題があります。人間は「正義」だけでは生きてゆけず、しかし自分だけの「欲望」の実現を求めるだけでも生きていけない。これはさっきヘーゲルで言った、近代精神に固有の「個別性と普遍性」の矛盾の問題です。
この二つの問題は、およそ近代精神が社会において出会う最も重要な問題といっていいですが、それが個々人が自分の思想を生きる上での先鋭的な問題として非常に鋭く生々しい形で描かれている。
もうひとつはやはり『共同幻想論』ですね。これは難しい本ですが、 根本的な考え方は、人間や社会を歴史についてできるだけ、いちばん一から考えなおすような考え方です。
国家とはなにかということについて、吉本隆明がどういう原理の枠組みでこれを考えなおそうとしたかということを読み取ってほしいですね。ついでにもうひとつ言うと、近代思想は「理想理念」を生み出すのです。しかし重要なのは理想理念は決して唯一のものに収斂しないということです。人間の自由と同じく「理想理念」も本質的に多様性を持つのです。近代思想が理想理念にとどまると、一方で「絶対正義」や「絶対的普遍主義」をうみ出し、もう一方で「理想理念」どうしの信念対立をもたらしてその先にでてゆくことができません。
近代思想において近代の「理想理念」に対して本質的な批判をしたのはヘーゲルとニーチェです。現代ヨーロッパ思想では、ポスト・モダン思想がそれを少し行ったけれど、それは論理的相対化という仕方だったので、価値相対主義に帰着しました。
現代思想の「理想理念」の批判という点では、おそらく吉本隆明が最大の思想家です。そういう観点から『マチウ諸試論』や『共同幻想論』を呼んで欲しい。また、吉本隆明の「理想理念」の批判は、文学の考え方、文学の感度、文学の根拠に対する本質的な理解から来ていて、そこがヘーゲルやニーチェと大きく違うところであり、読んで味わいの深いところです。(了)
聞き手・構成 佐藤幹夫
【補足=蛇足】
・1990年にJICC出版局から刊行された「わかりたいあなたのための 現代思想・入門1及び2」の中に竹田青嗣の、【「マス・イメージ論」を中心に解説した「吉本隆明論」】が掲載されていますが、本インタビューとはかなりニュアンスの違う内容となっており、大変に興味深いと思いました。
(但し、「現代思想・入門1及び2」は現在、入手できないかもしれません。)
その興味深い特徴を一つだけご紹介すると、インタビューに頻出する”「ヘーゲル」と「自己意識の自由」”というキーワードが、「現代思想・入門1及び2」には一箇所にしか出てこない点です。竹田青嗣が「ヘーゲル」と親密に出会う以前の「吉本隆明論」という意味でも、興味深いものがあります。
・また、他にも吉本隆明に関する論考としては、「竹田青嗣コレクション3 ”世界の「壊れ」を見る”【1 「マス・イメージ」は変えられたか―吉本隆明『マス・イメージ論』】」及び、「竹田青嗣コレクション4 ”現代社会と「超越」”【1 変容する世界像と不断革命(吉本隆明) 2 エロス・死・権力(吉本隆明) 3 インタビュー:新しい思想の根拠と方法―オウム・超越・吉本隆明】」にまとめられていますが、いずれも本インタビューとはかなりニュアンスが違います。
「国家論」よりも「戦後思想」とか「大衆の原像」の方により大きな関心を持っていた時期の「吉本隆明観」を知る上で役立つと思います。(mori)
【『共同幻想論』の紹介】
『共同幻想論』の書籍紹介と書評はこちらで見れます。(クリック)
【吉本隆明ワールド】
本文中の吉本隆明の写真を借用した「吉本隆明ワールド」のURLを下記に紹介します。
吉本隆明ワールドのURL:http://shomon.net/ryumei/(クリック)

最終更新日:2003年8月30日