【記事の題名】和歌 4首・・・【寺山修司/若山牧水/三好達治/伊東静雄】

・ひとりの少年。
☆幼児の頃から極度な存在不安に脅かされつづける少年。時おりしずかな夜などに、わっと大声で喚き出したいようなはげしい不安にわしづかみにされる。もえつきて行くローソクの芯のように、みるみる自分が細って行くような心細さに捉えられる。(「一九五六年から一九五八年までのノートから」)
・詩に熱中しはじめる少年。
☆小学校三年の時はじめて詩のようなものを書いて、同級生の前で読まされて以来、散文よりも詩の方を好んで来たように思う。(……)中学四年のとき、初めて藤村の『若菜集』を読んだ時は、一週間ほど熱に浮かされたような気持ちだった。(「私の詩歴・『サンチョ・パンサの帰郷まで』」)
・自分にたいする徹底した嫌悪と徹底した執着だけが筋金入りだった少年。だがかれは自分をかぎりなく愛したわけではなかった。
☆私は、自分の少年の頃から、どのように自分を嫌悪したか分からない(それにもかかわらず、自分自身にかぎりなく執着した)。(「一九五六年から一九五八年までのノートから」)
・やがて将来の自分の運命を見透かすかのように、寂滅するヒロイズムを想いえがくようになる少年。
☆かつて、まだ少年期を脱したばかりの頃、私は貧窮にやせ細った姿で一人ルターの注解を読みつづける一人の青年を、自分の未来の理想像として熱っぽく想い描いた時期がある。それがいわば私のヒロイズムであった。
(「一九五九年から一九六二年までのノートから」)
・大正初期(四年)、伊豆のとある村に生をうけたこの少年が、青年になるまでにはなお数年が必要だ。そして少年期の資性をそのまま青年期にもちこした。
さらにその数年後、戦争が、かつて同級生の前で詩を読まされたこの「少年」を満州へ連れていく。
終戦時、さらに遠くシベリア奥地の強制収容所へ、かつて「貧窮にやせ細った姿で一人ルターの注解を読みつづける」ことを夢見た「少年」は拉し去られる。
☆一時間に十分ずつ、作業現場で許される休憩のほとんどを、私は河のほとりへ座ったまま無言ですごした。
(「海への思想」)
・そして抑留から八年後、「少年」は故国へ帰還する。
第一章 喪失 あるいは私
(注意)以下の文章は、HP向きの長さにするため、一部途中省略した部分があります。その部分は空白行を入れて示しておきますので、ご注意ください。
◆奇妙な帰還
・石原吉郎が故国へむけてナホトカを出港したのは、昭和二十八年(一九五三年)の十一月三十日である。翌十二月一日、かれは季節はずれの帰還者として舞鶴港に上陸した。昭和二十年(一九四五年)十二月中旬、ハルピン市内でロシア軍に捕らわれて以来、まる八年におよぶシベリア抑留からの帰還であった。ハルピンの関東軍情報部配属(表向きは、満州電々調査局)のために日本を離れた昭和十六年(一九四一年)七月下旬にまで遡って数えるなら、帰国までにじつに十二年四ヵ月を閲したことになる。二十六歳で出征した若き石原吉郎は舞鶴港埠頭に降りたったときすでに三十八歳を数えた。
・石原吉郎の帰還は静かであった。
・石原は帰国した翌日、舞鶴の引揚収容所で堀辰雄の『風立ちぬ』とニーチェの『反時代的考察』の文庫本を購入している。十二年ぶりに帰国したその翌日に、しかもあろうことか「本」を買うという行為に、わたしは感嘆した。そんなものなのか、と思った。
・いったいこれはどういう行為なのだろうか。石原はいきなり凝縮した。十二年の歳月が刻みつけられた身体を、ほんのかすかな刺激にも反応することを惧れるかのように急に内側に丸めこんだ。帰還した翌日に「本」を買うというこの行為は、帰還という事態を自分ひとりの内部に括りこもうとする象徴的行為である。もしかしたら石原は、すでにシベリアにあったときから抑留という事態を自分ひとりに括りこんでいたのではなかったか、とさえ思わせるようなエピソードだといってもよい。わたしが石原の帰還にたいして感じる静寂は、ひたすらに自己の内部に凝縮しようとするかのような、この象徴的な姿勢にたいしてである。
・石原吉郎は戦後日本にほとんどなにも望まなかった。いかなる有形なものの獲得も補償も要求しなかった。だが、たったひとつだけ望んだことがあった。それもひそかに、しかし痛切に期待したことがあった。〈自分〉という「存在性」(注1)に「理解」を示してくれること。それだけが石原が戦後日本に差しだした唯一のことであった。
(注1)「存在性」という言葉について。
本論には「存在」と「存在性」という言葉が頻出する。端的にいえば、「存在」とは存在そのもの(在ること)のことであり「存在性」とは存在のしかた(在りかた)のことである。
・石原の痛憤やるかたない躓きは、シベリアで忘れ去られた自分じしんの喪失が帰国後も回復されなかったというところにある。回復されるどころではなかった。石原は帰国後もう一度忘れられたのである。
☆私たちが舞鶴に上陸したとき、私たちは自分の故国、自分たちの
理解者の中へ帰ってきたのだという事実だけに単純に満足して、そ
れまで多くの帰還者がやったように帰国後の生活保障を要求した
り、失われたものへの補償を要求するようなことを一切しなかった
ことはよく知っておられるはずです。とも角非常に単純に、「ごく
ろうさん」といわれた言葉に満足し、「私たちは日本の戦争の責任
を身をもって背負って来た。誰かが背負わなければならない責任と
義務を、まがりなりにも自分のなまの躰で果たして来た」という自
負をもってそれぞれの家へ帰っていったわけです。
☆しかし、私自身が一応おちつき場所を与えられ、興奮が少しづつ
さめてくるに従って 、次第にはっきりしてきたことは、私たちが果
たしたと思っている〈責任〉とか〈義務〉とかを認めるような人は誰
もいないということでした。せいぜいのところ〈運の悪い男〉とか〈不
幸な人間〉とかいう目で私たちのことを見たり考えているにすぎな
いということでした。しかも、そのような浅薄な関心さえもまたた
くまに消え去って行き、私たちは完全に忘れ去られ、無視されて行
ったのです。(「肉親へあてた手紙・一九五九年一〇月」)
・石原が戦後日本にたいして求めたものは、「誰かが背負わなければならない責任と義務
」を、まさに「自分のなまの躰で果たして来た」自分への理解と承認だけだった。シベリアでの失われた八年間を相殺するためになされた要求にしては、あまりにも控え目すぎたとさえいってもよいくらいだ。
◆忘れた者と忘れられた者
☆誰がどのように言いくるめようと、私がここにいる日本人・・血族
と知己の一切を含めた日本人に代わって、戦争の責任を「具体的
に」背負って来たのだという事実は消し去ることのできないものであ
るからです。(同前)
・石原にしてみれば当然の自負であったにちがいなかった。そしてそのことを戦後日本に
真に「理解」してもらうことだけが石原にとって最低限かつ最大の願いであった。また、「誰がどのように言いくるめようと」石原(たち)にだけはそのように要求することのできる資格があった。
◆「石原吉郎」という存在
☆私は自我の凝縮と防衛しか考えない。自我の展開とか消滅にはほ
とんど関心がない。それが自我のたどる運命であるなら、当然そう
なるはずである。戦争中、私はそのようにして自我の放棄を迫られ
たのであり、私は当然のこととしてそれを受容したのである。ただ その場合、放棄を
しいられた部分と、みずからすすんで放棄した部
分があるはずである。私が戦争に参加したのは、放棄のこの積極的な部分においてであ
って、その部分の真の意味での、最終的な責任者は私自身である。
(「体刑と自己否定」)
…… 私たちが堕落の過程を踏んだのは事実であり、それに責任
を負わなければならないのは私たち自身である。ある偶然によって
私たちを管理したものが、規定にしたがって私たちを人間以下のか
たちで扱ったにせよ、その扱いにまさにふさわしいまでに私たちが
堕落したことは、まちがいなく私たちの側の出来事だからである。
(「強制された日常から」・傍点はいずれも引用者)
・これが石原に独特の論理である。論理というよりもほとんど存在原理であるといってよい。
・石原が、自分が生まの身体で果たしてきたと自負する戦争責任の〈責任〉とか〈義務〉という言葉でほんとうにいいたかったことは、すなわち自分という存在性への理解と承認だけである。それゆえに「肉親へあてた手紙」のなかで最も重要な一行は、「浅薄な関心さえもまたたくまに消え去って行き、私たちは完全に忘れ去られ、無視されて行ったのです」という箇所でなければならない。この一行だけが石原の真の「絶望」を表現しているのだ。石原は、〈責任〉とか〈義務〉などはどうでもいいから「石原吉郎」というおれのことはけっして忘れてくれるな、といっている。おれという存在を理解し、承認し、証明してくれ、といっているのである。
・ロシア共和国刑法の反ソ行為・諜報という罪状によって起訴され、判決をまつ二ケ月の
あいだ独房に収監されていたときの心境を、石原は端的にこのように記している。
☆私たちは故国と、どのようにしても結ばれていなくてはならなか
った。しかもそれは、私たちの側からの希求であるとともに、<向う側>からの希求でなければならないと、かたく私は考えた。
(「望郷と海」)
☆海をわたることのない想念。私が陸へ近づきえぬとき、陸が私に近
づかなければならないはずであった。それが棄民されたものへの責
任である。
(同前)
・自分が被った理不尽がかれらに届かないのなら、むしろかれらの「理解」のほうが自分
に届かなければならなかった。わたしはここでいいきってよいと思うが、石原がほんとうに求めたものは、日本の「戦争責任」を身をもって果たしてきた(といわざるをえなかった)〈自分〉というひとつの存在性への明確な承認である。すなわち「石原吉郎」という存在性の意味の証明であり承認であった。
・「忘れ去られ」ることへの不安と恐怖は、「石原吉郎」という存在性へのたしかなる納得と承認がただのひとりからももたらされない(もたらされなかった)という不安と恐怖にまっすぐに繋がっている。そしてあらかじめいっておくなら、「忘れ去られ」ることへの不安と恐怖は、「石原吉郎」という存在性を終生うち顫えさせ悩ましつづけた。
◆戦後日本のなかで自己を抑留する
石原吉郎はみずからの帰国を、いく分かの自嘲と、なにものかへの叛意をこめるように「サンチョ・パンサの帰郷」と呼んだ。その同題詩第三連はつぎのように書かれている。
☆やがて私は声もなく
石女たちの庭へむかえられ
おなじく 声もなく
一本の植物と化して
領土の壊滅のうえへ
たしかな影をおくであろう
・ドン・キホーテは帰らぬままに、かつてあった一切の関係性は失われ、これからの関係
性も一切未成の、ただかつてこの国に生を享け、青春をおくり、この国から出征したという素朴な「関係」だけに支配された「石女たちの庭」へ帰郷したのは、従卒のサンチョ・パンサだけである。
・季節はずれのひとりの帰還者は、「声もなく」迎えられ、彼もまた「声もなく」「一本
の植物と化」すほかにすべがなかった。「領土の壊滅のうえへ」おかれるものは、たとえそれがどんなに「たしかな」ものであったとしても、結局はその「影」にすぎない。なるほどそれは喪われたものの「影」にはちがいない。けれども、それはまた「たしかな」影でもあるのだ。
小柳玲子・大西和男作成の年譜につぎのような記述が見出される。
一九七二年(昭和四十七年)五十七歳
・八月 数年前より続いた抑留体験に関するエッセイは詩人の散文による仕事の中心になるものであるが、同時にこの仕事は極度な緊張を強いるものであった。執筆中幾度も精神的不安に襲われ、飲酒量の増す原因にもなった。
一九七三年(昭和四十八年)五十八歳
・この夏、夫人の健康状態の思わしくない日が続き、看護疲れから飲酒量が多くなる。
精神的にも不安定な日が続く。
一九七六年(昭和五十一年)六十一歳
十月 夫人入院。この頃から寂寥感が烈しく飲酒量は増える一方になる。
一九七七年(昭和五十二年)六十二歳
八月 疲労さらにはげしくなる。飲酒量も多。
十月 この頃、飲酒のあげくに泥酔、また切腹の真似、深夜の電話など奇行が多くなる。
・引用した最初の項の一九七二年といえば帰国した年からほぼ二十年を経ている。逆からいえば、石原が急死するわずか五年前のことである(石原の死は一九七七年・昭和五二年一一月一四日)。すでに一廉の詩人としては名を成していた。しかしそんなことがなんの意味もないと思えるほどの荒廃ぶりである。年を経るにしたがってますます深刻の度を加えていくかのような、この「精神的不安」「寂寥感」「飲酒のあげくに泥酔、また切腹の真似」とはいったいなにごとか。
・帰国時に抱いていた「戦争責任」の肩代わりの問題などはとっくの昔に消滅した。郷里
の仕打ちや世間の対応などいまさら悩む値打ちもありはしない。戦後日本と和解したかどうかはしらないが、少なくとも社会生活的には十分に拮抗しきったはずだった。ようするに「石原吉郎」という存在性は十分に承認もされ理解もされたはずだった。にもかかわらず、石原の存在不安感がいっこうに癒されていないばかりか、より一層深刻な、ほとんど収拾のつかない存在不安として現出していることに、いまさらのように驚かざるをえない。帰国後二十年を経過してなおうちつづくこの荒廃とはいったいなんだったのか。
・石原は抑留体験に関する散文を帰国後十五年ほどたってから書きはじめたが、年譜作成
者も示唆しているように、その過程において石原は「シベリヤ」を追体験するどころか、自分じしんが逆に「シベリヤ」から体験されてしまったのである。葬送すべき「シベリヤ」がふたたび石原に襲いかかったといってもよい。もちろん夫人の入院(喪失への不安感)という事実がその追体験のわずかな息つぎの隙間を敷きつめたかもしれないし、ほかにも窺い知ることのできない様々な要因が存在したのかもしれない。しかしいずれにしても、この「疲労」と「酒」の日々に石原の存在性の底を堀り崩しているある根源的な喪失感を視ないならば、それはなにも視ていないに等しい、とわたしには思われる。なぜならこの喪失感は、かれの戦後の生の底を、その最後の一息が吐かれるまで途絶えることなく流れつづけたものだからである。
☆『水準原点』以後(この詩集は一九七二年に発行されている……
注)、彼を襲った、おそろしい虚無のあらしの日々、私は、もう酔っ
払って、何かをやりすごしている、彼の殆んど泣き顔と呼んでよい
ものしか見ていない。(粕谷栄市「石原吉郎全集・・手帖」)
・石原の晩年はまさに「酒と希望が残りをやっつける」(「卑怯者のマーチ」)日々であ
ったという。いったい石原にどんな「希望」が残されていたというのだろう。またやっつけるべきどんな「残り」が残されていたというのだろう。そのような石原の姿は周囲の人間にぐじゃぐじゃな姿として映った。前出の粕谷はさらに、「晩年の彼は、全てにかたく
身を閉じて、頑ななまでに、他人を拒み、およそいい加減なことばなど、うけつけるところはなかった」と書き、「とにかく、酒を止めて、生きなくちゃしょうがありませんよ」という粕谷に、「生きて、どうすればいいの」といった石原の姿を書きとどめている。
☆各人は各人に固有な終末、死をもつはずである。それを私は、人
間がかろうじてもちうる最後の希望だと考える。一人をして一人の死を死なしめよ。
(「三つの集約」)
・はたして「酒と希望」の「希望」が、ここでいわれている「最後の希望」だったのかど
うかはわからない。だがいずれにせよ、その「希望」さえも潰え、そして「疲労」がそれにとってかわったとき、石原に最後に残されたものは、いかようにも癒されることのない喪失の「たしかな影」だった。そしてその「たしかな影」こそが、ついに自己承認を獲得しえなかった「石原吉郎」というひとつの存在性であった。 (以下次号)

第二章 望郷 あるいは海
・「海」の喪失・
☆日 本 海は、不安の海でした。 (「二つの海」傍点原文)
・帰国後の石原吉郎の憤懣、懐疑、絶望。石原はシベリアで躓き、帰国後にもう一度躓い
た。その躓きは、シベリアで石原吉郎という「存在」が忘れられ、帰国後はその「存在性
」を忘れらるというかたちで生じた。「忘れ去られ」るということが、いったいなぜこん
なに執拗な問題として石原に感受されたのか。それをわたしは、石原みずからが、「石原
吉郎」という「存在性」へのたしかな納得と承認を、あたかも生それじたいの目的のよう
に希求していたからだ、と仮定した。ほとんど明言さえした。
・石原は、生の根源にかかわる喪失を経験した自分というひとつの「存在性」に、一生懸
命「石原吉郎」という名をあたえつづけようとしたように見える。かれはつねに剥がれか
かる不安に抗しながら、懸命に「石原吉郎」という名を押さえつづけた。しかし押さえて
も押さえても貼りつかない。他者による承認、しかも、ある絶対的な他者による承認が獲
得できなかったからだ。数冊の詩集もエッセイ集も名声すらもが結局はなんの力にもなり
えなかった。「石原吉郎」という関係性の底が、ある根源的な喪失によって掘り崩されて
いたからだ。そう考えるほかはない。
・石原は「生きていてよかったというような言葉は、私には嘲弄以外のなにものでもない」と当然のように書いたのである。
・石原は抑留四年後(一九四九年十月)にバム鉄道沿線の密林地帯の収容所に送りこまれ、
そこでほぼ一年間にわたって森林伐採、流木、土木、鉄道工事、採石等の強制労働に従
事した。石原は、帰国する一九五三年の六月、ナホトカに護送され、そこで「移動の目的など一切知らされぬまま六カ月待機」した。
・そのナホトカの丘でひたすらに帰国を待ちわびていた時期が、「生涯で最も期待に満ち
た時期であった」と石原は書いている。
・現に石原はナホトカ港に興案丸を見たとき、「戦慄に似た歓喜が、私のすじを走った」と、たしかに書いている。
☆…… タラップをのぼり切ったところで、私たちは看護婦たちの花のような一団に迎えられた。ご苦労さまでしたという予想もしない言葉をかきわけて、私たちは船内をひたすらにかけおりた。もっと奥へ、もっと下へ。いく重にもおれまがった階段をかけおりながら、私は涙をながしつづけた。 (「望郷と海」)
・ただし、である。感情の一般法則において、このような感情の興奮がついに定着したた
めしはない。どのような興奮や歓喜といった陽性の感情も、空虚、懐疑、絶望といった陰
性の感情にはけっしてかなわないのだ。喜と楽という獲得の感情は多く空間にかかわる感
情であり、怒と哀という喪失の感情は多く時間にかかわる感情だからである。
・獲得にとっては、なにものかを獲得することが重要なのではない。獲得が実現される直
前の「最も期待に満ちた時期」こそが獲得ということの本質(絶頂)なのであって、獲得
が実現されたその瞬間に獲得はまさしく喪失に転化してしまう。
・事実、帰国=シベリアからの解放という至福の時間をあっさりと帳消してしまうかのよ
うに、実際に「船が外洋へでた瞬間の喪失感と虚脱感は私には意外であり、また予想でき
たことでもあった」(「海への思想」)と石原は書いている。石原が日本へ帰ってきたの
はつぎのような錯綜する時間と空間を通過してだった。
☆興安丸がソ連の領海をはなれたとき、私たちは甲板に出て、安堵して空と海を見た。
☆そのとき私たちをはこんでいたものは、おそらく〈時間〉というものではなかった。い
わば二つの時間のあいだの、大きな落差のようなもののなかに私たちはいたのである。
☆私たちは未来という時間感覚を、すでにうしなっていた。船が南下するにつれて、私
たちはいたずらに過去へ引きもどされて行くような錯覚に何度もとらわれた。風景の展
開をまったくともなわない、一種の真空状態のなかでのこの退行感覚は、海をこえてか
ろうじて帰国したものだけが知っている特殊な錯誤なのかもしれない。私たちは一様に
興奮し、一様に虚脱していた。 (「強制された日常から」)
・さながら、黄泉の国から常世の国への帰還とでもいったイメージが湧きあがってくる。
・ラーゲリでの強いられた生がたとえどんなに「過酷」で「悲惨」なものであったにせよ
、囚人たちにとってそれはまがりなりにもある実質を備えた生の秩序にほかならない。
☆このような(強制労働の一日一日……注)日常性の全体をささえていたものは、ある確固とした秩序である。(略)それはすさまじく異常でありながら、その全体が救いようもなく退屈だということである。一日が異常な出来事の連続でありながら、全体としては「なにごとも起こっていない」のである。 (「沈黙と失語」傍点原文)
☆囚人にあって日常が耐えがたいのは、きのうと寸分たがわぬ一日が、今日も明日もさいげんもなくくりかえされるためではない。この日常がある日前ぶれもなしに崩壊するのではないか、すなわち〈猶予された執行〉が突如として起こるのではないかという不安のなかで、たえまなく小刻みな緊張を強いられるためである。(「終りの未知・強制収容所の日常」)
・けれども、帰国数年前から身体を削るような強制労働の日々は終わっていたはずだった
。だが一日が「なにごとも起こっていない」日常でありながら、依然として全体としては
異常でありつづけた日々が終わっていたわけではなかった。
・エッセイ集『望郷と海』は、わたしが石原吉郎の著作にふれた最初の、そして決定的な
一冊であったが、つぎの文章を読んだとき、不埒にもわたしは、石原はシベリアから帰っ
てくるべきではなかったのではないか、という考えにとらわれた。
☆海。この虚脱。船が外洋へ出るや、私は海を喪失していた。まして陸も。これがあの海だろうかという失望とともに、ロシヤの大地へ置き去るしかなかったものの、とりもどすすべのない重さを、そのときふたたび私は実感した。その重さを名づけるすべを私は知らないが、しいて名づけるなら、それは深い疲労であった。喪失に先立って、いや
おうなしに私をおそう肉体の感覚を、このときふたたび経験した。海は私のまえに、無限の水のあつまりとしてあった。私は失望した。このとき、私は海さえも失ったのである。 (「望郷と海」傍点原文)
・石原は抑留四年後、カラガンダの臨時法廷で、ロシヤ共和国刑法五十八条(反ソ行為)
六項(諜報)というでたらめな罪状によって重労働二十五年の刑を言い渡されている。先
に引用した「喪失に先立って、いやおうなしに私をおそう肉体の感覚を、このときふたた
び経験した」(傍点引用者)という文章は、その判決を言い渡されたときに震撼した石原
の最初の経験に呼応している。このようにである。
☆故国へ手操られつつあると信じた一条のものが、この瞬間(重労働二十五年の判決……注)にはっきり断ち切られたと私は感じた。それは、あきらかに肉体的な感覚であった。このときから私は、およそいかなる精神的危機も、まず肉体的な苦痛によって始まることを信ずるようになった。「それは実感だ」というとき、そのもっとも重要な部分
は、この肉体的な感覚に根ざしている。「手操られている」ことを、なんとしてでも信
じようとしたとき、その一条のものは観念であった。断ち切られた瞬間にそれは、あり
ありと感覚できる物質に変貌し、たちまち消えた。観念が喪失するときに限って起るこ
の感覚への変貌を、そののちもう一度私は経験した。 (「望郷と海」傍点原文)
「そののちもう一度私は経験した」という記述が、帰還船上の「海」の喪失に対応して
いることはいうまでもないだろう。
だが、「海」とはいったいなにか。「手操られている」という想いを繋ぐ観念である。
・なにかに「手操られている」という想念は石原にとって最も大切な想念であった。つね
に自分はだれかに「手操られている」ということが自分に信じられること、すなわち自分
という存在を「忘れず」に、いつも憶いだしてくれる存在が自分にはあるということが確
信できること、それこそが「石原吉郎」という存在性の明確な承認にほかならなかった。
・不可能な意志としての自己証明・
・「海」の出現と変貌の過程を最もよく伝える文章がある。石原吉郎の、言葉に対するセ
ンチメントとヒロイズムの美意識が最高度に張りつめた、最も石原的な散文の典型である
といってよい。長い引用となるが、途中を省略することができない。
☆海が見たい、と私は切実に思った。私には、わたるべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、三千キロにわたる草原と凍土がへだてていた。望郷の思いをその渚へ、私は限らざるをえなかったが。空ともいえ、風ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際までであった。海をわたるには、
なによりも海を見なければならなかったのである。
☆すべての距離は、それをこえる時間に換算される。しかし海と私をへだてる距離は、
換算を禁じられた距離であった。それが禁じられたとき、海は水滴の集合から、石の
ような物質へと変貌した。石への変貌には、いうまでもなく私自身の変貌が対応してい
る。
☆
私が海を恋うたのは、それが始めてではない。だが一九四九年夏(ロシア刑法によっ
て重労働二十五年の判決が言い渡された数カ月後……注)カラガンダの刑務所で、号泣
に近い思慕を海にかけたとき、海は私にとって、実在する最後の空間であり、その空間
が石に変貌せざるをえなかったのである。
☆
だがそれはなによりも海であり、海であることでひたすらに招きよせる陥没であった
。その向こうの最初の岬よりも、その陥没の底を私は想った。海が始まり、そして終わ
るところで陸が始まるだろう。始まった陸は、ついに終わりを見ないであろう。陸が一
度かぎりの陸でなければならなかったように、海は私にとって、一回かぎりの海であっ
た。渡りおえてのち、さらに渡るはずのないものである。ただ一人も。それが日本海と
名づけられた海である。ヤポンスコエ・モーレ(日本の海)。ロシヤの地図にさえ、そ
う記された海である。
☆
望郷のあてどをうしなったとき、陸は一挙に遠のき、海のみがその行手に残った。海
であることにおいて、それはほとんどひとつの倫理となったのである。
(「望郷と海」)
・すでにふれたように、石原吉郎は一九四九年(昭和二十四年)四月に、死刑が廃止され
たロシア刑法のなかでは最高刑である重労働二十五年の判決を言い渡された。判決翌日の
自分の精神状態を石原はこのように書き記している。
☆正午すぎ、私たちは刑務所に収容された。この日から、故国へかける私の思慕は、あきらかに様相をかえた。それはまず、はっきりした恐怖ではじまった。私がそのときもっとも恐れたのは、「忘れられる」ことであった。故国とその新しい体制とそして国民が、もはや私たちを見ることを欲しなくなることであり、ついに私たちを忘れるであろ
うということであった。そのことに思い到るたびに私は、背すじが凍るような恐怖にオ
そわれた。(……)それは独房でのとらえどころのない不安とはちがい、はっきりとし
た、具体的な恐怖であった。帰るか、帰らないかはもはや問題ではなかった。ここにお
れがいる。ここにおれがいることを、日に一度、かならず思い出してくれ。おれがここ
で死んだら、おれが死んだ地点を、はっきりと地図に書きしるしてくれ。地をかきむし
るほどの希求に、私はうなされつづけた(七万の日本人が、その地点を確認されぬまま
に死亡した)。もし忘れ去るなら、かならず思い出させてやる。望郷に代る怨郷の想い
は、いわばこのようにして起こった。 (「望郷と海」傍点原文)
この判決を境に、故国から「恋われている」とみずからに信じこませようとした石原の
思念は、逆に、故国から「忘れられる」ことへの「背すじが凍るような」「具体的な恐怖
」へと一変した。
・そして「故国へ手繰られつつあると信じた一条のものが」その「瞬間にはっきり断ち切られた」と実感されたとき、かれの想いは「最初の渚」へとかぎられざるをえなかったのである。そのとき石原の「海」は「石のような物質へと変貌した」。
・遙か異郷の地にありながら、「もし忘れ去るのなら、かならず思い出させてやる」とい
う非現実的な想念は、その自己証明への凄惨な意志とでもいうほかないものであった。
・ただこの存在証明は本来的に証明不能なものだ。だとするならその納得は、ある確信からやってくるほかはない。自分の存在性は他者との関係性によって証明され承認されているという自己確信あるいは自己信憑によるほかはないのである。
・石原吉郎が依拠しようとする他者なる証明者が特異なのは、それが現実的な他者である
というよりも、つねに彼岸的他者(非在の他者)であるということだ。シベリアの地で石
原が求めたのは、海を越えた彼岸(故国)である。その彼岸から断念を強いられたとき、
石原が求めたのは観念の彼岸であった(これがのちにみる「幻想の海」である)。
(以下次号)
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最終更新日:2003年10月20日