エッセイ・その他

『樹が陣営』とはどんな思想・批評誌なのかについて、皆さんに、具体的に知って頂くため、以下に各号の記事(エッセイ、論考、インタビュー等)の中から、一部分を抜粋し、紹介致します。
この抜粋だけでも一応の意味が分かるようにしましたが、より詳細に見たい場合には、バックナンバーを取り寄せてご覧下さい。

  • 【記事の題名】「わからなくなる」のは、どういうこころの不自由さなのか ・【著者】村瀬学【掲載誌のNO】22
  • 【記事の題名】「こころ」とは何か(1)・【著者】小浜逸郎【掲載誌のNO】21
  • 【記事の題名】読みやしないだろうけど、小谷野敦へ・【著者】佐藤幹夫【掲載誌のNO】21
  • 【記事の題名】赦す思想、赦される思想・【インタビュー】神山睦美【聞き手】佐藤幹夫【掲載誌のNO】17 
  • 【記事の題名】<橋>を架ける思想の力・【著者】 佐藤幹夫 【掲載誌のNO】17
  • 【記事の題名】「路上」発行のころの吉本隆明―自立誌ということ・【著者】佐藤通雅【掲載誌のNO】25


    【記事の題名】「わからなくなる」のは、どういうこころの不自由さなのか  ・【著者】村瀬学【掲載誌のNO】22(2001/9/19)

    『「こころ」はどこで壊れるか』を読む
     「わからなくなる」のは、どういうこころの不自由さなのか

     「こころ」は病むものなのでしょうか。一般にそう言われている状態とは「病んでいる」というよりも、みずからの不自由なこころと「折り合えなくなった」状態ととらえたらどうでしょう。(『「こころ」はどこで壊れるか』)

    ・ ここで言われる「不自由なこころ」というのを、少し場面を限定して問うてみたい。それはどういう場面かというと、例えば中学一年になって、新しい教科書を勉強しながら、急に先生の説明している話の内容がわからなるような場面のことである。そういう状態を「こころが病んでいる」といったらおかしいわけで、「勉強がわからなくなった」と表現するのがふつうであろう。けれども、この「わからなくなった」というのは、教師側からしたら、「頭のわるいやつのこころの状態」というようなことになり、もうちょっと本気で勉強したら「わかる」ようになるんだよ、というような状態のようにイメージされている。事実、そういうことなんだろうと私も思う。ちょっとがんばって勉強したら「ああ、わかった」ということになって、ぱっと気持ちが晴れるときが来る。けれども、そういうふうに「わかる」ようにならなかったらどうなるのだろうか。みんなは「わかってゆく」のに自分だけがいつまでも「わからない」。それをこころの「病み」というのは、そぐわないが、でも滝川さんがいうような、「不自由なこころ」の状態にいる、というふうになることは言えるように思う。勉強がわからなくなると確かにこころが不自由に感じられる。ではその「不自由さ」とは、どういうふうに考えればいいのだろうか。
    ・たとえば、「9+5=?」という計算や「9―5=?」という計算は、小学校の算数で解くことができる。ところが、中学一年の数学の初めの方に「9―(―5)=?」という問題が出てくる。私は何げなく教科書を見ていたのだが、これってどういうふうな答えになるんだろうと、考えはじめると、しだいにわからなくなってきて、急にこれは困ったぞと感じだした。そのときからだんだん「こころが不自由」になりだした。大袈裟に言えば、そのことが気になって、他のことが少し手に付かなくなってきた。もちろん、いわゆる「答え」というのは出せるには出せるのだ。数式で、マイナス、マイナス、と続いたら、それはプラスになる、だから、答えは「14」になる、と教えられていたことを思い出したからである。
    ・そんなふうに、答えは「14」になるとしても、なぜ「9」という数字からある数を「引く」という計算が、「9」よりも大きな「14」という数字になるのかわからずに、考え込んでしまった。それで、大学の頭の切れる若き物理学者に、恥を忍んでこの問題の解き方を尋ねてみた。そうすると、彼は紙いっぱいに数直線やベクトルの図を書いて、ていねいに「説明」してくれることになった。でも、そんな「ベクトル」なんて概念は、中学一年のはじめには習っていないから、そういう言い方じゃないもので、私にもわかるように「説明」してくれ、と頼んだのが、結局は、「むずかしい話」で終わってしまった。彼は、むずかしいけれど、そういうふうに考えないと、この式は解けないんだよ、と言った。それで私は、あなたの4回生のゼミ生で、この問題を中学生に分かるように説明できる者は何名ぐらいいるんだろう、と聞くと、「一人もおらんやろ」という答えが即座に返ってきた。そして、彼は最後に私に笑いながらこういった「こんなことは、考えたらあかんのや。考えたら前へ進めんようになる。ここはマイナス、マイナスでプラスと覚えといたらええんや。それで、いつか大きくなったらまたわかるときがくるんやから」と。
    ・私も教師の端くれだから、彼の言わんとすることはわかったし、同意もするところもあったけれど、でもその「いつか大きくなったら」というのは「くせもんやな」と言った。現に、大学4回生になっても、これが解けんのやったら、いったいいつ解けるというのだろうとふと思ったからだ。
    ・私はこのあと様々な人に、この問題の解き方を聞いてみた。けれども中学生にわかるように、目から鱗が落ちるようにわかりやすく説き明かしてくれる人にはとうとう出会わなかった。もちろん、数学の参考書もたくさん読んだ。「よく分かる数学」といったたぐいの本もかなり調べてみた。頭の悪い私にわかるように書いてくれている説明書にはまだお目にかかれていない。

    ・ここに「こころの不自由」がある。ある先生は、そんなことに「こだわるな」という。でも、そんな「しょうもないこと」に「こだわる」人も現実にいるわけだ。私のように。そして、おそらく中学生の中にも、私のようにこういうところにこだわって、だんだん数学が「分からなくなってゆく」生徒がいるんではないかと、私は想像する。そうして「ある分野でのこころ」が「不自由」になる。自業自得と言うべきか。
    ・ところで話を飛ばしてしまうことになるが、私が「9―(―5)=?」にこだわったのには、いくつかの理由がある。もちろん、この式の解き方が「わからない」という素朴は疑問もあったが、いろんな解説書を読んで、その解き方のいくつものやり方がわかっても、なおかつ私の中で「わからない」ものが残ることについてのわからなさが気になったからだ。
    ・ ひとつはっきりわかったことがある。それは「9+5=?」や「9―5=?」という計算を解く「数」の概念と、「9―(―5)=?」の「数」の概念がまるっきり違っている、ということについてでである。その違いは「5」と「+5」の理解の決定的な違いにある。つまり、中学に入ると、それまでは「5」と呼んでいたものを「+5(プラス5)」と呼び変え、考え直すことがはじまる。そして、みなさんは、お笑いになるかもしれないが、じつはこの「5」を「+5」と理解するには、とても大きな心の操作の変化が必要だったんだということに、私はうんと年を取ってからやっと気がついたのである。つまり「5」を理解する心の操作と、「+5(プラス5)」を理解する心の操作は、全く違っているんだ、ということにやっとこさ気が付いたのである。それなのに数学の先生は、そんなことは、数直線の導入で、線の真ん中に「0」を書けば簡単な説明で「+(プラス)」「−(マイナス)」がわかるかのように錯覚して、どんどんと進もうとしてきた。そこから、デリケートな「生徒」との「溝」ができはじめることがありえた。
    ・小学生の段階では、「−」は「引く」という言葉で教えられている。けれども中学に入って習う「−」は「引く」ではなくて「マイナス」という概念なんだというふうに教えられはじめる。この「引く」ことの理解と、「マイナス」の理解との間には、それこそ天と地ほどの隔たりがある、と私は今になって感じる。それはたとえて言えば、そこには「二つの外国語」の違いほどの差がある、ということを感じる。そういう「感覚」が教師側にわからないと、「5」から「+5」への世界は、アッという間に「地続き」に、あるいは「ちょっとした操作の変更」のもとに説明されてゆくことになる。
    ・ もう少しはっきりいえば、「5」を理解する数の世界と、「+5」あるいは「―5」を理解する数の世界とは、数を理解する「ルール」がまったく違っている、ということなのである。このことを理解するのは、決して簡単なことではない。というのも、そこのところを説明するためには、教師自身の中に「ルールが違うとはどういうことになることなのか」という問いかけが切実にあることが必要である。というのも、その後の中高の数学の世界は、さまざまなルールの元に作られた、さまざまな異なる数の世界の渡り歩きを体験することになってゆくからである。

    ・そして、こういうことに私がこだわるのは、滝川さんのいう「こころが不自由」になるときというのは、「異質なルール」に直面したときのこころの戸惑いからはじまっているように私には思われてならなかったからだ。自由な振る舞いのできる人は、「異質なルール」の間で、うまいこと折り合いをつけるルールを見出せる人のことのように思われる。このときに、世間の中の「異質なルール」の境目で、ためらい、躊躇し、立ち止まり、それが長く続き、そのうち身動きがとれなくような状態になる人がでてくる。そうなると、そういう人は「外」から見て「こころが病んでいる」というように見られることの可能性がでてくるのではないか、と。(了)


    「こころ」とは何か(1) ・【著者】小浜逸郎【掲載誌のNO】21(2001/9/21)

    ■関係存在としてあることと心身の相関
    ・これまで西洋哲学や科学の問題はこの辺にあるのではないか、ということを乱暴に見て きました。ぼくの問題意識は明らかになったのではないかと思います。関係存在としての人間という観点から、心身の問題を考えていく。現代思想の課題の一つはそこにあるのではないかというこどですね。
    ・七十年代に出た、市川浩さんの『精神としての身体』(勁草書房)という、当時たいへ ん評判になった本があります。この市川さんの身体論は、精緻ではあるのですが観点がトータルではないところがあって、ぼくには批判点がいくつかありますが、それは置いて、ちょっと抜き出してきたところがあります。
    《もし自己と他者がさいしょから孤立した主観性であるなら、われわれは孤独を感ずることさえないだろう。》 このことはハイデガーも言っていて、ぼくもまったくその通りだと思います。
    《われわれは根源的に他者とむすばれた存在であり、他者を介してはじめて自己として存在しはじめたからこそ、自己を独立の主観性として意識すればするほど、ますます孤独を感ずるのである。》
    ・つまり孤独という問題が我々のなかに存在すること自体が、我々が共同存在であること の一つの証拠ですね。なぜ孤独ということをわれわれが問題にするのか。類人猿は、少し孤独を感じているような気もしますが、もっと下等な動物になると、群れから切り離されていても、あまり孤独を感じているとは思えない。
    《こうして他者は、私が自分を私として認識するための条件であるとともに、私としての私が存在するための条件でもある。私は他者を自己の存在条件として発見するのである。》
    ・要するに人間は関係存在であるということで、これもその通りだと思いますね。私たち がはっきりとした自己意識を持つようになるのは思春期以降だと思うのですが、はじめは母子関係の中で、漠然としか自分を意識していないと思います。少しずつ自我の壁のようなものができて行き、気がついた時には自意識や自己意識ができあがっていて、他者と隔てられていると感じる。隔てられているという意識そのものが、共同存在であることの一つの証拠です。
    ・浜田寿美男さんというたいへん優秀な発達心理学者がいます。浜田さんは、赤ちゃんと 母親の間のいろいろな共鳴動作について触れています。母親がにっこり微笑みかけると、生まれたての赤ちゃんも微笑み返すとか、ベロベロバーのように舌を出したり入れたりすると、赤ちゃんもその真似をし始めるとかですね。これはとても不思議なことで、生得的に備わっている共感の構造です。なぜ母親が笑ったという事実の背後に、この母親が自分を見て愛の感情をもち、喜びの感情を持っていると察知できるのか。赤ちゃんは少なくとも複雑な思考をしているはずはないですね。この事実は、我々が共同存在であることを生得的に備えている証しではないか。浜田さんはこのように言っています。
    《人はおのおの身体をもち、その身体のゆえに他者と隔てられた「個体」であるという側面をもつと同時に、逆にその身体そのものにおいて他者と通じ合うという側面をも合わせもっていると言わねばなりません。人間の身体には、人をそれぞれに分け隔てる「個体性」と、人どうしをたがいに結び合わせる「共同性」とが二重にからまりあっているのです。そして、前者を「本源的自己中心性」という言葉で表わすとすれば、後者は「本源的共同性」として言い表わされることになります。》(『発達心理学再考のための序説』ミネルヴァ書房)
    ・浜田さんは身体が単に個別のものではなく、共同的な要素を持っているものだと、そう 捉えているわけです。これはたいへん大事な考え方です。「こころ」の問題を考えるとき、「こころ」と身体の関係がいちばん問題です。どちらの方向から考えるかはいろいろあるでしょう。「こころ」の問題を考えるために、まず身体をどう捉えるかというのも一つの道で、身体そのものが個体性と共同性とを合わせもつという考え方は大変いい考え方だと思います。そこを出発点とするということですね。
    ・そこで「こころ」とは何かということを定義しておかなくてはならないのですが、とりあえずこんなふうに言ってみます。「身体にたえず付きまとい、かつ身体にかかわる全問題を表現しようとする構え、またははたらきである」。 つまり「こころ」を実体とか実在というようには考えない方がいいということです。「こころ」をどこかで実体とイメージするのは仕方がないのですが、なるべくそれを避けるということですね。我々は、自分が持っている観念や概念に名前を与えます。それをいろいろな脈絡のなかで動かして行くことによって、生きた言葉が生まれ、思考が生まれるわけですから、「こころ」を実体と考えるのはやむを得ないことではあります。名づけられたものが、物的な実体とはまったく違うものであるはずなのに、いつのまにかそう考えてしまうというのは、言葉の持つ一つの落とし穴ですね。なるべくそのことに意識的になり、「こころ」というものを実体とはイメージしない。その歯止めの意味でも、身体にたえずつきまとう一種の構え、あるいははたらきであると考えたいと思います。例えば、宇宙のことを考えたり、物を作り上げる技術について心を砕いていたとしても、究極的にはそれは身体にかかわることです。
    ・身体はつねに個体的でありながら共同的なものだと考えること。「こころ」というのは 、身体にかかわる全問題を表現しようとするはたらきであると考えること。この二つの前提を置くことによって、「こころ」は個体的であるけれども、同時に共同的でもあるという結論がここから出てくると思います。
    ・もう一つ、身体と「こころ」に、一方から他方への因果関係があると考えてしまうこと のまずさについて押さえておきたいと思います。ある身体の疾患は、こころが原因でこうなるんだという見方を、お医者さんはしようがないからしますね。心因性でできものができたとか、ストレスで潰瘍になったとかですね。けれども臓器の疾患が原因で、「こころ」に悪影響が出てきたというような、反対の場合もあるわけです。これもある意味ではやむをえないことですが、なるべくそれを避け、照応関係、あるいは対応関係があると考える。つまり一つの実存に起きている二つの現われであると考える。
    ・これはフロイトに対する批判にもなります。例えばフロイトが分析しているのですが、 女性のヒステリー患者がいるとします。その女性はヒステリー症状として嘔吐をする。原因が分からない。本人は気がつかないのですが、しきりにおなかを撫でる仕草をしていると言うんですね。フロイトは精神分析の修練を積んだ、たいへん直観力の優れた人ですから、それを見て、これは過去の愛情の物語に原因があると見破るわけです。撫でているのは妊娠に関係があり、嘔吐というのはつわりですね。何か恋愛にかかわる挫折体験をし、本人はそれを忘れている。フロイトの結論は、過去にあった恋愛体験の失敗を記憶から排除しているにもかかわらず、嘔吐という身体症状として現れるということは、無意識がいかに力を持っているか、その証拠であると言っているわけです。
    ・これは半分正しいと思えるのですが、ぼくは少し異を唱えたいところがあります。確か に現在患者が示している嘔吐は、患者自身にとってはどうしてなのかその因果関係をつかめないわけですから、そのプロセスに対しては無意識であるとは言える。言えるんですが、まずフロイトは、恋愛体験は心的な経験であると押さえている。それが原因であり、それに対して抑圧が働いて無意識のところに排除したために身体の症状として現われた、というのがフロイトの考えですね。しかしぼくの考えは、恋愛の挫折体験というその時点ですでに身体としても受け止めているということで、単なる心的な体験ではないということですね。
    ・ですから、心的な挫折の体験が原因であり、その結果として身体症状になっているとい うのではない。因果関係として身体と「こころ」があるのではなく、いつも人は「こころ」として世界を受けとめつつ同時に身体としても受けとめている。それが人間の実存というものであり、そういうかたちで世界と関わっている。そうした視点を貫くべきだろうと思います。(了)


    【記事の題名】読みやしないだろうけど、小谷野敦へ・【著者】佐藤幹夫【掲載誌のNO】21(2001/09/22)

    ・『正論』7月号に、『中年男に恋はできるか』の書評が掲載された。書き手は「一流の言論人(と称してもらいたいらしい)」小谷野敦。「対話者の覚悟の決まらぬ中途半端な一冊」と決めつけたこの文は、最初から最後まで小谷野の独断と私憤をぶちまけたシロモノ、というのがワタクシの印象であった。小谷野さんさ、素直に聞くけど、嘘偽りなく「単に中年男二人が、性愛周辺の話しを脈絡なくしているだけという印象」しか受けなかったのかナ。その程度の読解力しかないことを誇示して恥じないのであれば、「文芸評論家」というごたいそうな肩書きが泣くんじゃねえのか。
    ・あるいは、本当に「HANA―BI」が「全共闘世代の感傷に訴えるだけ」の映画だったか? 小谷野敦のフィルム感度はそんなものなのか。また村上春樹の「モテル、モテナイ」の話に、なぜ福田和也が突然出てこなけりゃならないんだ? 関係ねえだろ。「福田和也はもてるんだろうか、なぜあの容姿で」などという話が、村上春樹の話しより「楽しい」のは、福田にコケにされ、意趣返しをしたい小谷野だけだろう。福田に面と向かって言えばいいじゃねえか。何を怖がっているんだヨ(笑)。
    ・「そういう光景(佐藤註:対話者たちが始めたモテなさ自慢)は二年前には見られなかったものだ。どうしてかなあ(笑))」は、皮肉を利かせたつもりの自著の自慢か。まあいいけどナ。
    ・さらに「佐藤よ、小谷野敦は三十過ぎまで『時々デートしてくれる女の子』などいなかったのだよ」だってか(笑)。シャレで言っていることを心より願うが、もしそうでないならば、「モテない」ということを対話者二人がどう考え、なぜそのポジションに置いたのか、もう一度頭を冷やして読み返してみたら?。「文芸評論家」なんだろ。
    ・小谷野さんさぁ、モテようがモテまいが、そんなことはどうでもいいことなのだよ。大事なのは、ホレた女の心がどこまでつかめるか、それだけなのだよ。その、たった一人の女の心がつかめない時、百人の女にモテたところで、それがなんだというのだ。あるいは今日は鼻高々でも、明日は地獄やも知れぬ。そうした恋愛心理の狂おしさの前にあって、モテる、モテないを自慢し合うなど、カスのようなことなのだよ。…と、そちらが『モテない教』の教祖ぶりをことさら振りかざすから、ついこちらも『レンアイ教』の信者のようなセリフを、恥ずかしげもなく言いたくなるじゃないか(笑)。
    ・でも、あの「一流の」小谷野敦センセイが怒っているとは聞いていたけど、ほんと、マジに怒っていたんだ? 対話者たちの小谷野批判が、そんなに効いたのかナ? こっちは本の宣伝をしてもらったばかりか、いいネタをもらって、やった! なんだけどネ。何しろ「一流の言論人」小谷野敦センセイの逆鱗に触れた一著となったのだからネ(笑)。
    ・伝え聞くところによると、晴れて所帯持ちとなったらしいが、小谷野敦の「夫婦関係を破綻に追い込む」覚悟ある言論をこれから期待してみるのも一興なんだろうね。夫婦関係というもののズブズブの糞リアリズムに、小谷野の「一流」の言論とやらが破綻させられるだろうことを期待するほど、「凡庸」なワタクシは人が悪くないからね。(あ、ワタクシを「凡庸」というのは当たっているよ、でも「凡庸」には「凡庸」なりの心得と意地があって、誰かさんのように「一流コンプレックス」を丸出しにはしないのだよ)。

    ■[付記]小谷野さんよ、一度「敵地」に乗り込んでみないか。発行部数五百の小さなメディアではあるが、誌面はいつでも提供する。すべての寄稿がそうであるようにギャラは出せないが、どんな罵倒・悪罵もノーチェックで掲載する。そして晒し者にするような編集は決してしないことを、約束するよ。無論、小谷野さんの「覚悟」とやらがつい言ってみただけのものだったとしても、まあそれもありかな(笑)、ではあるけれどネ。

    ■[再付記] この号、小谷野敦に送付するも、一切の音沙汰なし。佐藤相手じゃやる気が出ないのは、まあ、当然では、あるわな。


    【記事の題名】 赦す思想、赦される思想・【インタビュー】神山睦美【聞き手】佐藤幹夫【掲載誌のNO】17(2002/04/20)

     1997年発行の『樹が陣営』17号に掲載された「神山睦美ロングインタビュー」は、かなりの長文である上テーマも広く、ポイントが絞りきれないインタビューである、と感じている。そこで、本インタビューのダイジェスト版作成は断念し、私(mori)に理解できた範囲での「神山思想」の一端を、ごく簡単に紹介したいと思っている。
    より詳しく知りたい方は、是非、バックナンバー17号を取り寄せてご覧下さい。

    ・神山さんは、最初の著作である『夏目漱石論序説』以来、関係の了解性の問題を一貫して追及されてきた。現代思想で問題となっている了解性、つまり、個人と個人との間における了解性及び、個人と共同体との間における了解性について考えてこられた。
    ・ところで、今回のインタビューまでの間に、母親が病気で倒れるという経験や神山さんご自身も重大な疾患を経験され、「<死>をモチーフとして議論をしたい」という”思想上の転機”があったようである。具体的に言うと、母親の死という問題が起こり、家庭内でうまく通じ合えない状況において、もしどこかで通じ合えるとしたら、そこに<死>が現れてくる時ではないか、という予感がしたのである。
    ・その<死>について、神山さんは「人間は死に直面した時、何か目に見えない暗愚な力で見下され、軽んぜられ、ものすごい屈辱を感じるのだろう。その暗愚な力を家族や誰かが癒してくれるとすれば、それは<信憑>だろう。」と言う。その<信憑>とは「あなたはそのままで、そこにいていいんですよ」と、信じられる事である。
     この部分をもう少し補足するため村上春樹「レキシントンの幽霊」中の「七番目の男」という短編を紹介している。

     それによると、その人は小さいとき海の近くに住んでいた。弟のように可愛がっていた近所の子供がいて何時も一緒に遊んでいた。台風か何かで波の高い日だったけれど、いつものように海の近くで、その子と遊んでいたらものすごい大波がやってきて、あっという間にその子は呑み込まれてしまう。助けようとしても足がすくんでどうにも出来なかった。その子だけ波に呑み込まれて自分は生き残るという辛い話です。
     このことがトラウマのように残ってしまい、それ以来、絶望的な生き方をしてきた。ところが、ある時何かのきっかけで、あの場所に言ってみようと、その人は思い立つ。大波に呑み込まれる時、ちらっとその子の顔が見え、口を歪めて、恨んでやるという表情でこちらをじっと見ていた。その悔しそうな、苦しそうな表情から、とてもじゃないけれど、自分は逃れられない。そんな風に思って絶えず自分は逃げてきた。でも、もしかしたら、と思って何十年ぶりかにこの海辺にやってきて、海を見て考えている内に、それは違うんじゃないかと思いはじめた。もしかしたらあの子の表情は、こちらを恨んで、なんでお前だけ生き残るんだということでは無かったかもしれない。自分はこうして波に呑み込まれていくんだけれど、あなたは元気で生きてくれ、そのメッセージを伝えようとする表情ではなかったか、とその人が思うんです。もしそうだとしたら自分は救われるし、彼も救われるかもしれない。そういう短編です。

    ・死の暗愚な力に負けていく人が、負けていく悔しさを表しているのではなく、自分は死んでいくかもしれないが、実はそのことであなたを恨むのではないんだ、と言うこと。「この村上春樹の作品は”そういう了解の仕方”を表現しているんだ」というのが神山さんの「@村上春樹作品論」ということになる。

    本インタビューでは、このような<死>と<了解性>を前提として、@村上春樹作品論Aオウム事件B親鸞「悪人正機説」C脳死問題D酒鬼薔薇事件等々について語り尽くしている。但し、内容が豊富なため、ここでは、A以下について、そのポイントを紹介するに留める。

    Aオウム事件:このように暗愚な力で人間を圧倒してくる<死>を、あの麻原は、全く恐れていない、というのがポイントであり、これを外しては、オウム事件も麻原も理解できないであろう。どういう修練によって麻原みたいな野郎が<死>を恐れなくなったのかは分からないのですが、あそこまでひどい奴に、何で世界が震撼させられたのかというのが率直な感じです。

    B親鸞「悪人正機説」:麻原のような極悪人でさえ往生する、というのが「悪人正機説」ですが、親鸞でさえ、暗愚な死の力に抵抗できず、死が怖くて仕方なかったのです。だけど、そういう自分が往生しないなら、往生なんてありうるはずがない。問題は「この自分」が往生するかどうかであって、極悪人がどうのとかいうのは実は大した問題ではない、というのが親鸞の考えだと思います。

    C脳死問題:福島さんというお坊さんの話しですが、福島さんが脳死の人の所に行ってお経をあげるんです。脳死状態の人が、お経を上げると、涙を流す、と言うんです。自分は死んでいないのに、なぜ臓器をとられてしまうのかという悔し涙かもしれませんし。違うメッセージかもしれない。その涙を流すということを、こちらがどう捉えたらよいのかということは大きな問題であり、解決できていないですね。

    D酒鬼薔薇事件:この事件に関しては、精神科医の町沢静夫さんが「この少年は脳に障害がある」と診断しているのですが、僕(神山)は納得しているんです。それほどに、尋常ではないという感じが強くあり、一寸怖気を感じているところがあります。加害者も被害者も、子供たちすべてが「死に近い場所」にいるんだという感じですね。子供たちだけでなく、大人たちも追い詰められているのかもしれません。そのとき、僕らは何を考えなければならないのか。教育の問題、社会システムの問題等、色々ありますが、最終的には<死>の問題だろうと思ってます。

    最後に:90年代になって、人間の「傲慢さ」があらわになってきていると思います。弱さの裏返しとしての「傲慢さ」なんですが、この際「その弱さを率直に表すしかない」と僕(神山)は考えています。その弱さのことを僕は「女々しさ」というんです。人間は女々しいものであり、それを隠さないことが重要であるような気がしています。
    これは、関係の中で、どうやって「エゴや我執や恨み」のようなものを消せるか、ということであって、これまでの「関係の了解性」の延長上にあるものだと言えます。酒鬼薔薇事件等で見られる残酷さ、鷲田清一さんの言い方を借りれば、「行き場を失った残酷さ」は「恨みの処理」に失敗してるからだと思います。そういう「恨みの処理」する場所を隠さないことが重要であると思ってます。以上


    神山睦美さんの新著「実践国語文章講座」を紹介しています。詳細はこちらで見れます。(クリック)

    神山睦美の略歴
    1947年1月 岩手県水沢市に生まれる
    1971年3月 東京大学教養学部教養学科卒
     大学卒業後、個人塾を開き、後、東進ハイスクール、河合塾など予備校の教壇に立つ。文芸評論家
    主要著書
    『夏目漱石論序説』(砂子屋書房)、『「それから」から「明暗」へ』(砂子屋書房)『陰画としての基層』(砂子屋書房)、
    『クリティカル・メモリ』(砂子屋書房)『吉本隆明論考』(思潮社)、『家族という経験』(思潮社)、『服従という思想』(思潮社)
    『家族論の現在(共著)』(岩波書店)、『ファミリィ・トライアングル(共著)』(春秋社)、『IRUMA(電子ブック版)』(国立ゲニウス協会)



    【記事の題名】<橋>を架ける思想の力・【著者】 佐藤幹夫【掲載誌のNO】17(2004/01/15)

    ・ 櫻田淳という批評家が『福祉の呪縛』という著作と共に登場した。著作を論じる際、必要以上に書き手の紹介に筆を走らせるのは、当の思想や著作に対して失礼ではないかという思いがあるが、やはり著者櫻田淳の紹介を欠かすことはできない。著者は出生時の脳性小児マヒにより身体に障害を持ち、進学を拒否され続けながらも養護学校の中学部から普通高校へ、そして北海道大、東大の大学院へと進み、現在、ある代議士の政策スタッフの一人となっている。
      著作には櫻田氏の歩みが簡単に記されており、それを一読するかぎり、彼がそこで望んだことはきわめてまっとうである。身体が不自由である分、頭脳で勝負していくしかないと思い決め、そのために十分な教育を受けたいと彼は望んだ。むろんその願いを実現するためには、私などには測り知ることのできない努力を強いられなくてはならなかっただろう。そして彼が社会に出て何事かをなそうと思ったときにかならずぶち当たるバリアーが「前例がない」という一言だったという。
      それにしても、何が「前例がない」のだろうか。ひとことで言うならば、ハンディを持つ者が社会において「障害者」としてではなく、「障害者/健常者」という言葉を必要としない存在として生きていくこと、それを当然のこととして認めることが、これまで前例がなかったのである。心身の諸器官に何らかの損傷を負うことと、「障害者」であると社会から刻印づけられることの間には、ある隔たりがある。
      身体に何らかの能力を欠いていることで、そのまま「障害者」となるわけではない。「障害者」とは単に機能的能力的にハンディをもつだけの存在なのではなく、その存在一般が社会的に不利益を被っていると見なされ、絶対的弱者として庇護されなければならないという社会的視線が貫かれた存在、そのような視線のもとで、社会との関係が絶対化された存在のことである。その絶対化された関係に異義申し立てをしたとたん、「前例がない」という言葉が、分厚い壁として立ちふさがるのである。
      櫻田氏は自身のハンディ引き受けつつ、障害者とか健常者などという区分けが意味をなさない場所で生きようと望んだ。しかし社会の制度や私たちの通念はそれを認めなかった。そして結局は体のよい厄介払いを食わせてきた。それがこれまでの実情であったろう。それでも粘り強く自身の主張を認めさせようとしてきたし、現在もその闘いを続けている。これが、櫻田淳という存在の足跡である。
      ハンディをことさら優位に立たせようとする主張はこれまでも見られた。いや、人権や平等という誰にも反対できない理念の元で、いまやある趨勢をかたち作っている。そこでは障害を否定しないという出発点が、それ自体は正当な認識であるにもかかわらず、障害の肯定から一気に賛美へと飛躍してしまう。「障害を持つからこそ素晴らしい…」。しかしこの理念では、優位者と劣位者という対立構造そのものは変わらないし、本当に障害を持つことが素晴らしいのか、それはどこか転倒しているのではないか、という素朴でまっとうな疑念をもつ者に対して、そうした疑念を抱くこと自体が差別であるという抑圧になる。
      むろん櫻田氏が示している理念は、こうしたものとは無縁である。氏は書く。 《しかし、率直にいえば、障害を持つ人々は、自らの障害に折り合いを付けながら、生きている。年老いた人々もまた、自らの老いを適切に受け容れながら、生きているということであろう。そうであるならば、障害を持とうと齢を重ねようと、それに関わらず社会の中で活動していけるための仕組みこそが大事になるはずである。この仕組みを作る努力は、「福祉」の呪縛の下、真面目に行なわれてこなかった。》(『産経新聞』平成9年2月18日)
      櫻田氏によれば、弱者として庇護されるという名目で、社会一般から切り離されること。その中でのみ生きざるを得ないこと。それが、これまで「福祉」という名のもとで行なわれてきた。そしてその結果、競争の機会均等と選択の自由という、市民社会のもとで最低限与えられて然るべきものさえ与えられてこなかったのであり、福祉(善意)=革新、自助努力(効率)=保守という分厚いバリアの中でのみ語られてきた、というのが、『福祉の呪縛』における著者の意義申し立てである。
      福祉は本当に佳きものか。櫻田はそう問う。そして「自助努力支援型政策の構想」というサブタイトルの通り、障害をもつ人たちの自助努力のために社会がどのような支援をなすべきかについて具体的施策を提示していく。自助努力のための支援、そしてバリアフリー、これは従来の福祉政策とは区別される、と繰り返す。つまり櫻田氏は、介護され、保護されるための支援ではなく、自助努力のために社会にある物理的、制度的、そして心理的バリアをなくすよう支援してほしいと願う。選択することの自由と、競争するための機会の平等を求めることは、人として当然の要求のはずである、とする彼の主張は、多分まだまだ少数意見に違いない。
      むろん私は、櫻田氏のようには生きられない多くの人々を知っている。就労の場はおろか、生活の場さえ不安を伴う彼らにとって、福祉のいっそうの充実こそ望まれることではないか、という反論があることも承知している。あるいはまた櫻田氏の示す施策は、平成七年度の『障害者白書』において示されたバリアフリーの提案を越えるものではない、という意見があることも知っている。
      しかし、福祉=善という思考パターンの呪縛から解き放つ試みが、従来の福祉や人権問題や反差別という固定化された文脈を克服し、私たち多数の側の生に直接訴えてくる課題として語ろうとしていることの意義を、まずは認めたいと思うのだ。そのことを理解することによって、私たちはハンディを持つ人々の問題が「障害者問題」ではなく、人間という存在が抱えもつ或る普遍的な課題である、という地平に導かれていく。   これもまた橋を架ける思想である。しかもこの橋は少数の、これまで隔てられ続けてきた側から架けられた橋であり、それは画期的なことではないか、というのが『福祉の呪縛』を一読しての私の判断である。

      ここまで村瀬学と櫻田淳という、二人の批評家の著作を見てきたのだが、ある対照が際立っていることにすでに気付かれたことと思う(村瀬氏への言及部分は割愛しています――佐藤註)。村瀬がきわめて平易に、ゆっくりと語りかけるような文体であることに比べ、櫻田氏は断定的で、訴えることにやや性急であるように見える。眼差しの高さも、村瀬氏は切り込みの糸口をできるだけ低いところにおこうとしているが、この点でも櫻田氏は対照をなしている。むろんこんな比較をすることで、彼を批判しようとしているのではない。
      村瀬氏は多数者の側であり、櫻田氏は少数者の側である、このことがもたらす相違であるとひとまずは言える。つまり村瀬氏の思想は、多数者が少数の側に橋を架けようとする思想の一つ達成を示している。櫻田氏のほうは少数の側であることによって、意義申し立てという文体を余儀なくされながらも、その内実が、多数の側に対する告発的思考を乗り超えたものとして、やはりまた一つの到達点を示している。少数の側からの声が、このように開かれた理路を示すことは、率直に言って、希有なことだと言わなければならないのだ。
      繰り返すが、多数者は少数者を賛美し、うたいあげる(灰谷健次郎!)、あるいは自主規制というかたちで見ぬふりをする。そして少数者は多数者を弾劾し、告発する。障害を持つ存在については、これまでそうした図式のなかで語られることが過半だったのである。それでは橋は架からない。ますます少数者(の問題)は切り離され、囲いこまれていくばかりだ。逆に言うならば、この図式を超え、両者の生にとって直接響くように(あるいはその契機となるように)語ることは思いのほか困難な営為だといえるのである。
      ところで、私たちはすでに、「在日韓国人二世」という出自から思想的な出発をとげ、「差別」という課題に対して新しい曲面を開いてくれた竹田青嗣という批評家を持っている。竹田氏の差別論は、その欲望論と両輪のようにある。竹田氏の言うところをきわめて雑駁にまとめてみるならば、次のようになるだろうか。人間は「私とは何者であるか、何者であり得るか」ということを了解せずにはおかない欲望を持ち、その欲望が生を根拠づける。つまり自己中心的な存在であり、人生とは欲望のゲームである。
      よって一方の側が他者に対して、善であれ、正しくあれ(差別はよくない、平等であるべきだ)と要請するだけでは、他者の欲望を否定し、ルサンチマンを生み出していくほかはない。ここにすでに差別が発生する根拠がある。従って他者(の欲望)の了解と、善きこと正しいこととが相互に了解されるための可能性は、どう条件づけられるか、そう問うべきだとされる。つまり差別はよくないと主張するだけはなく、差別について、あるいは差別の克服という課題について、両者の間でどのような了解が可能となるか、そう問うべきだというのが竹田差別論である。それが私の受け取りである。この基本原理にそって、差別や在日についての具体的な発言を竹田氏は続けてきた。
      繰り返しになるが、櫻田氏の主張も、差別しないでくれという告発ではなく、自身がよりよく生きるために、このような条件を必要としているという理路の提示である。つまり私たちがその主張するところをよく聞くならば、それが人として、よりよい生を望むこと、プライドを持って生きることという、きわめてまっとうなものであることを了解するのである。たぶん多くの人が、そう願うことなどきわめて当然のことだと感じるに違いない。しかしその当然のことを妨げてきたのが「福祉という呪縛」である。それを知る限りにおいて視線の変更を私たちは受け取り、新しい了解の通路が切り開かれたと感じるのである。
      竹田氏は、思想とは人間の生の意識が持つ相互了解の欲望に訴えて、「違った信念の間に、新しい了解の通路をつけるような新しい言葉をつなぐことだ。/思想の本性とはそういうものだ。」と書く(『自分を知るための哲学入門』)。これは思想というものについての素朴ではあるが、きわめて力強い定義である。
    『福祉の呪縛』は、思想が知的なこけおどしやレトリックの応酬などによって測られるのではなく、まさに生きることそのものの実質なかでこそ力を発揮するのだという、その本性の姿をよく示し得ており、そのことによって私たちは「相互了解の可能性」(竹田氏同著)を受け取っているのである。 (了)
    (「樹が陣営」17−97・10−より抜粋のうえ改稿)


    【記事の題名】「路上」発行のころの吉本隆明―自立誌ということ・【著者】佐藤通雅【掲載誌のNO】25(2004/02/15)

    「路上」発行のころの吉本隆明――自立誌ということ
    佐藤通雅(雑誌「路上」主宰・歌人)

     かつて、自立誌といわれる発行形態が、商業ジャーナリズムよりもはるかに信頼をあつめていた時代がある。かつてとは、主として1960年代(70年代半ばまで入れる場合もある)。その代表格はいわずとしれた「試行」である。創刊号は1961年9月、発行者は試行同人会で、メンバーは吉本隆明・村上一郎。谷川雁の3人。第11号(1963年6月)からは、吉本隆明単独発行となり、第74号(1977年12月)で終刊となった。16年の長きにわたる刊行だった。実質は後半にいくにしたがって、失速状態になる。こころみに、はじめのころと、終刊のころの発行時期の開きを比べてみる。

     第1号 1961年9月
     第2号 1961年12月
     第3号 1962年1月
     第4号 1962年4月

     最初は、隔月間をめざしたが、かならずしもそうはいかなかった。しかし、3ヶ月ぐらいの間隔で奮闘している。後半になると、どうだろうか。

     第71号 1992年5月
     第72号 1993年12月
     第73号 1995年5月
     第74号(終刊号)1997年12月

     間隔は半年をこえ、ついには2年半にまでなって、終刊をむかえる。失速ぶりは明白である。自立誌の観点からすれば、すでに役割は終わっていたとみるべきだろう。
     ここでは前半に焦点をあてていくが、「試行」の時代を共有するかたちで、いくつもの自立誌の発行されたことを、さきに指摘しておきたい。60年代は、まさに自立誌の時代であった。私の手元にあるなかから紹介してみると、まず北川透の「あんかるわ」。1962年に創刊し、1990年に第84号をもって終刊した。つぎに「無名鬼」。「試行」同人からはなれた村上一郎が1964年に創刊し、途中桶谷秀昭との共同発行をはさみながら、第20号をもって中絶した。村上の急逝による。その他、70年代にもおよぶものもふくめてどんどんあげていく。斎藤慎爾の「深夜批評」、ゆり・はじめの「疎開派」、小浜逸郎の「ておりあ」、集団「風狂」の「風狂」、坂井信夫・中村文昭の「あぽりあ」、岡田哲也・田村雅之・樋口覚の「方法的制覇」、菅谷規矩雄の「解体新書」、艸同人の「艸」、比嘉加津夫の「脈」、上野芳久の「位置」、西川徹郎の「銀河系つうしん」。まだまだある。もちろん佐藤幹夫の「飢餓陣営」(のち「樹が陣営」)も、不肖私の「路上」も入る。

     「路上」創刊号は、1966年1月だが、これら自立誌、とりわけ「試行」の存在を大いなる支えとして出発した。それを説明するには、60年代初頭の自分の状況と、吉本隆明との出会い方から語りはじめなければなるまい。私は六十年安保のとき、岩手県水沢の高校生だった。闘争の熱気は地方高校にも伝わり、学校内では学習会が何度ももたれた。しかし、直接行動にまで出ることはなく、伝えられる情熱に焦慮し、無力感にさいなまれるだけの日々だった。こういう外部状況と同時に、自己存在への不安感を深刻なまでにいだき、ほとんど分裂状態にあるのが、当時の自分だった。かろうじて支えてくれたのは、皮肉にも受験勉強である。とにかく、受験に取り組まなければならないとする抑止力が、あやうくも倒壊だけは防いでくれた。ところが、大学に合格したとたん、抑止力は消えた。実存的不安感の噴出する一方、安保後を四分五裂する学生運動の渦中に投げ込まれて、主体性の確立を迫られることになる。このふたつは、まったく相反する方向だったから、ほとんど収拾のつかない状態におちいった。
     そんなある日、仙台の古本屋で一冊の本に目が吸い寄せられた。『抒情の論理』。当時の私は、自己表現の手段として短歌をやっており、短歌的抒情性が論議されていたから、本の題に引かれたのである。しかし、それは主として詩論あるいは詩人論だった。短歌にかかわる論もあったが、「定型と非定型」でも、「番犬の尻尾」でも、岡井隆がこてんぱんにやっつけられていた。私にとって岡井は、もっともたのむにたる前衛歌人だったから、思いは複雑だった。この吉本・岡井論争はのちに『岡井隆ノート』(路上発行所)のなかで詳論した。さすがに時間がたったから、吉本の欠落部分も指摘することができたが、当時はどうみても吉本のほうが大きく映った。が、『抒情の論理』で胸に刺さってきたのは、論争ではなく、「エリアンの手記と詩」だった。登場人物はエリアンとミリカ、そしてイザベル・オト先生。この三角関係に敗れたと思い込んで自殺をはかるエリアンを主人公とする、散文詩風手記だ。吉本隆明の著作のなかでは若書きに属するが、実存的不安感の渦中にいた自分にはストレートにひびくところがあった。

     ――〈エリアンおまえは此の世に生きられない おまえはあんまり暗い〉――
     ――〈エリアンおまえは此の世に生きられない おまえは他人を喜ばすことが出来ない〉――
     ――〈エリアンおまえは此の世に生きられない おまえの言葉は熊の毛のように傷つける〉――

     こういうオト先生の〈呪文〉は、ほかならぬ自分に向けられている気にさえなった。
     ところで、夏期休暇になると学生たちは田舎へと帰省する。高校の同級生たちは自然とあつまり、いろいろな情報をかわすことになっている。そんな折、東京の大学に進み、学生運動にかかわっている友人たちは、なんども『ヨシモト、ヨシモト』と口にした。ついには、これをよんでみろと、『民主主義の神話』という本を貸してくれた。それは6人による共著で、メンバーは、谷川雁・吉本隆明・埴谷雄高・森本和夫・梅本克己・黒田寛一。どれも難解だったが、吉本隆明だけはふしぎと共鳴できるところがあった。しかし、「エリアンの手記と詩」の作者とすぐ結びつくことはなかった。同姓同名のひともいるものだぐらいに思っていたが、やがて同一人物であるとわかる。そのとき私の内には、「存在のきわどい淵を体験したひとでも、苛烈な状況を主体的に生きうるのだな」という、打ち震えんばかりの思いが走った。
     やがて刊行された思潮社出版『吉本隆明詩集』も手に入れ、熟読に熟読を重ねる。

     よるべない緑の氾濫の底に
     身をよこたへて臥つてゐるわたし!
     窓辺からいろいろな形をした
     わたしの陰翳がたち去ってゆく
                     (「緑の聖餐」)

     「エリアンの手記と詩」とおなじ系列にある詩句にまず共振し、「転位のための十篇」のなかの、

     ぼくはでてゆく
     冬の圧力の真むこうへ
     ひとりつきりで耐えられないから
     たくさんのひとと手をつなぐというのは嘘だから
     ひとりつきりで抗争できないから
     たくさんのひとと手をつなぐというのは卑怯だから
                 (「ちいさな群への挨拶」)

    などを、くりかえしくりかえしよんだ。私には、実存に深くかかわらせてよんだ、青年の日の詩歌集がふたつある。ひとつは岡井隆の『朝狩』、そしてもうひとつはこの一冊。
     このような経緯ののち、「試行」を刊行していることを知り、第7号から予約購読者になった。第1号から第6号までのブランクは、のちに出た「試行」復刻版(試行出版部)で埋めることになる。地方の一学生は、自立誌ということばを「試行」によって、はじめて手にいれた。
     さきの『民主主義の神話』所収の「擬制の終焉」には、(一九六〇・九・二〇)と日付がある。新安保条約の自然承認は、6月18日のことだから、そのほとぼりもさめぬ3ヶ月後の執筆ということになる。一節に、こうある。
     なんべんも強調しなければならないが、いかなる前期段階でも、一定の政治理論と行動方針を大衆のなかに与える指導者よりも、ひとりの肉体としてたたかう無名の大衆のほうが重要なのであり、また重たいのである。
     この「ひとりの肉体としてたたかう無名の大衆」たらんとする方向において、また「ちいさな群への挨拶」の「冬の圧力の真むこう」へ踏み込む方向において、「試行」は構想されていったと、私には感じられた。しかしひとつの雑誌を出すというのは、複数の読者を想定することだ。読者が多ければ多いほど、経済的にも楽になる。であるなら、しっかりした資本のジャーナリズムに依拠して、刊行するのが得策というものである。が、ジャーナリズムはすでに商業主義におかされているから、売れゆきをのばそうとするための、さまざまな妥協が生じる。ここをどうするかという問いを、「ひとりつきりで耐えられないから/たくさんのひとと手をつなぐというのは嘘だから」、また「ひとりつきりで抗争できないから/たくさんのひとと手をつなぐというのは卑怯だから」の反語的自問にうかがい知ることができる。ひとりでは耐えられないし、抗争もできない、だからといってたくさんのひとと手をつなぐのは嘘であり卑怯なことだ、それならばどう超克するかの問いを、吉本は「試行」刊行の場でひきうけていった。
     「試行」は最初から、商業ジャーナリズムに一切たよらず、また利用もせず、直接寄稿者と直接予約購読者を基軸とする方法をとった(もっとも店頭における購読も無視できない量だったようだ)。内容水準は、各自最高のものにするというのも「試行」の基本線だった。私がはじめて手にしたのは、第7号だったが、「後記」をよんだだけで琴線の強い張りが感じられ、思わず戦慄を覚えるほどだった。

    ▽「試行」は第二年目にはいった。内容的にみれば、同人と執筆者とは(誌上ではその間に何の区別ももうけていないが)、それぞれの問題意識の焦点をしだいにしぼりはじめて、典型的に展開期の様相をみせてきている。多様な文学・思想上のイメージが本年度において、この雑誌から、そしてこの雑誌のみから噴出しはじめるとおもう。しかし、この雑誌が、現在の状況のなかで、枯渇することのない思想、文学、政治、科学の源流として開花するまでには、たくさんのたくさんの研さんと強じんな意志と、内在的な深化とが必要である。わたしたちは、それをやり遂げるにちがいない。心ある人士は、独立して、あるいは遠隔で、あるいは近傍でここを基盤として出発し、ここを源流としてかえりみるにちがいない。
     「後記」の第1節である。ちなみにこの号掲載の題と執筆者をあげてみる。

     「状況への発言“対偶”的原理について」吉本隆明
     「保田与重論(完)」桶谷秀昭
     「連帯と孤死(一)―葉山嘉樹論の前提―」毛利ユリ
     「初期万葉における抒情詩の成立(三)」梶木剛
     「菅論文を駁して新劇の原理に及ぶ試論」村上一郎
     「前衛と大衆―僕をめぐる状況―」中井安夫
      創作「放逐」矢島輝夫
      創作「わが海のうた」村上一郎
     「言葉にとって美とはなにか」吉本隆明

     このようにジャンルとしては、政治論あり、文学論あり、古典論あり、創作ありというぐあいで、多彩そのものだった。そのため、統一性が欠けるという批判が出た。吉本の答はこうだった。「この批判はある程度普遍的なものではないかとおもう。しかし、各人それぞれ固有な問題を追求しながら、内在的なある共通の問題意識が、この雑誌にあると信じている。」つまりジャンルとしての区別よりも、内在性を重んじた。各人それぞれの固有の問題追求によってこそ、共通項へ達しうると想定した。それは、〈たくさんのひとと手をつなぐ嘘や卑怯〉を超克する方法でもあった。
     私は復刻版が出たのをきっかけに、創刊号を手にしたが、その「後記」にこそ「試行」の精神も、自立誌としての意義も凝縮されていると実感した。かつて、藤村が詩歌のあけぼのを告げたに匹敵するほどの〈宣言〉でもあった。主な部分を摘記してみる。
     「試行」はここに、いかなる既成の思想・文化運動からも自立したところで創刊される。
     げんみつにいえば、わたしたちはおおくの思想・文化運動のように量をもって場所を占めることを第一義としない。しかし、わたしたち同人のただ一人をも、またおそらくは寄稿者のどの一人をも、どんな量をもってもうち倒すことができないことに自負をもつ。
     この雑誌は、まずはじめに現在の思想、文化の情況がはらんでいる多様性と混沌とを内容によって反映させるだろう。安易な統一や徒党性をもっとも低い位置におかなければならないとかんがえるからである。しかしまたたえず雑誌自体が停滞し、物神化されることをも警戒しなければならないとかんがえている。
     この〈宣言〉でまず注目すべきは、既成の思想・文化運動から自立してはじめられるということだった。既成のそれらは、量や徒党によって成り立ち、安住さえしている。それらを破棄し、各人固有の問題意識を深化させることによってのみ、共通項に達しようとした。
     このような「冬の圧力」への対峙の姿勢が、当時の青年たちを熱く共振させたといってよい。ほかならぬ私自身もそうだった。いつか自分でもやりたいと思いつつも、なかなか踏ん切りがつかなかったが、1966年1月についに「路上」をスタートさせた。さらに、刊行を重ねる過程で、結社からも他の組織からもはなれ、あえて孤立無援の位置に自分をおいた。それは、自立誌の精神を生きようとしたからにほかならない。ただし、これは反面において危険な賭けでもあった。商業主義を排する潔さが、自閉・自己満足をまねく恐れがあったし、時代感覚を鈍磨させる恐れもあった。どんなに号数だけ重ねても、時代への新しさを失ったなら、それは自立誌の終わりである。引き際の自覚も、自立誌の潔さであると、いまは肝に銘じている。


    最終更新日:2004年2月15日