読書日録16『カリスマ』・新堂冬樹

【評者感想:2001/09/19】
・加藤典洋の『敗戦後論』における最も核心の部分を端的に言ってしまえば、共同体や共同性についての新しい感性主体の構築、言い換るなら新たな公共的感覚(責任性)を体現した個の確立なのではないか、というのが私の受け取りである。国家、あるいはそこから派生するさまざまな課題(その戦後史、憲法、権力)に対して、いま、私たちはどのような感度と処し方を必要としているのか。この思想課題の切実さを著者と共にどこまで深く共有できるかが、『敗戦後論』における最初の入口であり、私たち読者の分岐点である。
・もう一つは、社会のねじれに対しての認識、という入口。原爆という武力によって押しつけられた、武力の放棄をうたう戦後 憲法とそこから出発して現在に至っている戦後社会の歪み、ねじれ。これは『アメリカの影』以来一貫した現状認識なのだが、著者によれば、それは意識されないばかりか、むしろ善きものとして感じられているほど病理が深いとされる。いま私たちの社会がおかしいという感受は多くの人に通じると思われるが、ここから加藤によって、戦後憲法を「選び直す」こと、義のない戦争によって生じた自国の死者への哀悼に重ねてアジア二千万の死者へ謝罪すること、そして昭和天皇の道義的な戦争責任を問い直すこと。それが出発点であると主張されるとき、やはり私たちは大きな岐路に立たされることになる。ここは多くの批判の対象となったところなのだが、加藤は「その戦争は私のなしたものではない」という戦後世代の個人的実感を否定しているのではない。それだけでは払拭できない公共的な責任は残るのであり、それに応え得る主体をどう作り、個の実感とどう接続させることができるかという問題のたて方をしているのである。これは困難を孕んでいるとしても、注意深く受け取る必要があるのではないか。
・こうした主張の一つ一つに、自らの賛否を吟味することは間違いなく肝要であるだ
ろう。しかし私は、衰退が言われる文学の力をどう立ち上げるかという『敗戦後論』の持つもう一つの主題に、強い感銘と共感を覚えたことを強調しておきたいのだ。加藤は文学とは何かと問い、文学は、たえず有効性(政治性)とそうでないものとの闘いだったのであり、正しさや誤りが「外からくる」ことに抵抗するものだという秀逸な見解を開示しながら(ここで示された政治と文学をめぐる同心円構造は見事である)、考えることそのものの実質のなかに降り立っていく。考えるという営みに本質としてまつわる、たえず誤る可能性を持つこと、そして時には敵対する思想を生まずにはおかないこと、というアポリアをどう超えられるか、という問い。さらにはそのためにどんな話法(語り口)を必要とするのかという方法の問題。これらをめぐる思考のうねりのなかで、新しい価値が模索される。そしてそれは生きることの実質に、深く届いている。この意味で、文学の論、いや「文学」そのものの力を示し得ていると私は受け取りたいのだ。
・いま私たちは戦後社会を作ってきた大きな枠組みの瓦解を日々目のあたりにしている。「戦後」を超えた思考、その終わりと始まりを示した思想とは、たぶんこのような
ものだという読後の印象を、この著作はもたらす。そうした一冊である。(sato)

【評者感想:2001/09/19】
・宮台真司は自らの批評的スタンスを、「 用済みになった過渡的近代の幻想』を駆逐すること」、なぜならそれは「制度から離脱した多くの人間を苦しめるから」と明解に述べる。彼にとって学校、家族、子どもなどが持っていた近代的枠組の解体は自明であり、「大人を顰蹙させる」幾多の現象は、社会の成熟と幻想の破綻によって強いられた不可避な生の有り様だとする。その分析を通して、肝要なのは、生きるためにどのようなスキルを身につけるかだ、というメッセージが届けられることになる。今回彼の著作に触れ、偽悪的挑発的ポーズとは裏腹に、別の幻想を生き始めている当の子どもたちにとっては、新しい「父性」としてその存在が感じられているのではないかというのが新たな発見であった。
・さて97年の8月以来、彼の著作が三冊連続して刊行された。その中でもっとも「緊急出版」的色彩の濃い本書を選んだのは、神戸少年Aの事件を扱ったものであることによる。きわめて衝撃的だったあの事件に対して、宮台がどのような切り口を見せているか。それは家族を抱え、そこでの関係に右往左往する私たちに何らかの示唆たり得ているか、そのことに私の関心は尽きる。
・宮台はまず、ホラー映画の影響とか学校の体罰、いじめなどに直接要因を求めるマスコミ言説の単眼性と、精神医学的な診断を退ける。そして中学生という時期、思春期前期の持つ特異性や重要性を指摘する。彼らを取り巻く地域や家庭の学校化現象は、どちらも同調圧力として強く働き、その分思春期にある子どもたちを羊化し、ストレスを恒常的に高めているとされる。そのガス抜きをどうするか。ダークサイトの消失(ニュータウン現象)がもたらした害の大きさと、それに変わるインターネット、パソコン通信、電話風俗のもつ重要性。少年法の改正が教育システムの新たな考案と切り離せないことなどを指摘し、そこからいくつかの処方箋を示していくが、異論を感じさせないばかりか、そのまっとうさ妥当さには拍子抜けするほどだ。
・人は悪(という場所)を必要とすること。子どもは大人の示す規範や価値に違背し、
葛藤し、そのことによって自分をかたち作
っていくしかないこと。その二つが、本書を支える基本的な認識だ。あとは著者が示す時代への感度をどこまで共有できるか。それほど差異のない提言をしながら、なぜ宮台は若い人にある「共感」をもたらし、私たちは所詮オヤジのゴタクだという受け取られ方しかしない(できない)のか。それを自分なりに探り当てること。そのことが宮台真司という当代きっての撹乱者を読むことの意義だろう。
・ところでその著作から私が感じあてた「新しい父性」とはどのようなものだろうか。詳しく述べるには書評の枠をこえるが、まずは子どもたちが見せる多様な現象を前に思考を肩こりさせないこと。そのためのコストを惜しまないこと。また深く受容(共感)することと規範として立つこととを離反したものではない、一つの「姿」として示し現わそうとすること。そのように生きてみせること。それらが、軽快で時に軽薄でありながらも、背後に父性を感じさせる語り口から感じ取ったものだ。それは、父性をめぐる長い闘いの始まりを示しているのかもしれないという、やや大仰なことも感じたのであった。(sato)

【評者感想:2001/09/19】
・某月某日 『敗戦後論』に触発されるかたちで、鼎談集『正義・戦争・国家論』を読み返す。雑駁で乱暴な印象を最初に書くならば、阪神大震災、オウム事件と続いた未曽有の時間が引き起こした現代思想の地殻変動が、ここに至って第二ラウンドに入ったという感がある。あるいは地殻変動がひとまず終息した後、共同の歩調を取ってきた現代思想の担い手たちが、それぞれの差異線を明らかにしながらセカンドステージのための地固めに入った、といってもよい。
・この鼎談集のテーマはサブタイトルの通り、正しさや社会の問題を考えるとき自分の実感と離反しない回路をどう作るかということであり、そのためのキーワードはやはり「公共性」と「市民」である。公共性を備えた市民とはルール(法律)決定やそれを守る、という当事者感覚を持った存在であること(竹田)。共同性を緩やかにし、市民社会性が成熟してゆくことが、対立や差別という社会課題を克服する道であること(橋爪)。しかし民主主義とマルクス主義 とを思考の支柱としてきた戦後の五十年は、社会の一員であるという感覚、日本という国家の成員であるという感覚を健全に育ててこなかった。反権力反国家というマルクス主義を基盤とした運動は、社会の矛盾や抑圧に対し、それに対抗するもう一つの共同性をつくることになり、そこでは課題が一部の人間に特権的に囲い込まれるほかなかった。またもう一つの支柱であった民主主義が、一方では人権や平等の絶対主義と化し、もう一方では人を殺すことがなぜ悪いのかといった声に象徴される、肥大化した個人主義という双頭のかたちで、混乱を呈してしまった。
・ここから個的存在としてあることと、社会的存在としてあることの感度をどう建て直していくか。それがこの鼎談集の眼目であるのだが、そのとき小林よしのりの在り方が、社会の問題に対する新しい声のあげ方として、竹田、橋爪両氏によって輪郭づけられることになる。あることに疑問を感じ、それを表現し、コミットしていく小林の感度や作法に、一つの可能性が見据えられている。いわば『ゴーマニズム宣言』を通して橋爪社会学と竹田思想の重要なエッセンスが語られており、両氏の思想への入門書、現代思想の入門書としてもこの本は読むことができるのだ。
・竹田はあらかじめ善きものを設定して、そこから社会の問題を考えるのではなく、自分の問題から考え始め、社会の問題に至るのがあるべき筋道だとする。そして原理として理路を純化させることによって、その根拠を提示することの重要性を説く。橋爪はそれを結論としては認めつつも、自分を超えた正しさを外側に設定することで近代社会は営まれてきたとし、日本という国が持つ課題の個別性、特異性に着目し、それをつきつめることで普遍性に至ろうとする。これは対比の際立った部分を抽出したのだが、竹田が原理を述べ、それに対して橋爪が押し返すこの部分が、書中もっともスリリングな展開になっている。ここに加藤典洋が『敗戦後論』において見せた、文学という場を包もうとするかたちでの照射の仕方を対置させてみれば、三様の在り方が際立つとともに、「戦後」後の重要な思想課題がより立体的に浮かんでくるはずだ。 同じ到達点を目指しながら、その力点の置き方やニュアンスの相違をめぐるこの差異線上の闘い。それが思想の力をより鍛え上げるための第二ラウンドであるという感触を、私は得た。(sato)

【評者感想:2001/09/19】
・某月某日 男が(しかも中年の)いま恋愛について語ろうとすることは、たいへんに厄介だという気がする。社会現象にまでなった『失楽園』を読み、あんな黴の生えた性愛観では困ると苛立っていたところ、北野武の『HANA―BI』を観て、我が意を得た。あれは中年男女の(夫婦の)、一つの純化された愛のかたちを描いたものとして秀逸である。『失楽園』のような世界ならば、六十年以上も「男」をやっていれば体験と妄想と情報ででっちあげることはできるだろうが、『HANA―BI』はそうはいかない。いかに男の開直りや弁解、建前とならないものとして仕上げてみせるか。北野の映画的工夫の多くは、そのことに傾けられたはずであり、私が感じている厄介さもそこにかかわっている。
・例えば寺田操と上野千鶴子という団塊世代の女性による恋愛(エロス)をめぐる著作を重ね合わすように読んでみる。上野は例によって明快に、性愛が文化装置としていかに意図的に、男中心につくられてきた
ものであるかを暴いていく。一方寺田は、幻想主義的な傾きを持つ詩人であり、その資質を存分に開くように、恋愛の至高性を文学作品のなかに求めていく。しかし私には、改めて、性愛という主題が、中年以降の世代にとっていかに切実なものとして競り上がってきているか、と感じる。無論二著とも、そのことを直接の話法とはしていない。ただ、両氏ともに自分が「女」という性をもつ存在であることに怜悧なほどに自覚的であり、その分、孤独な姿をさらしている。寺田は書いている。「恋愛は、単に相手をとりかえることではなく、人生そのものを変えること、転生の夢なのだとおもうからである」。また上野はこう書く。「恋愛はむしろ、個人の自立の代償のようなもの。自立と孤独を自覚したときに、恋愛への渇きは深まる」。この何事かを代償として得た孤独と自立の認識が、二つの著作にとっての生命線である。
・感じたことはもう一つある。それは現代社会の変容が、女たちに追い風となっていることだ。つまり性や愛を語ることは、女たちにとってはそのアイデンティティを輪郭づけるように働くが、もし男が、男であることにできるだけ居直らずに語ろうとするならば、自身のアイデンティティを切り
崩ようにしか言葉は出せないのではないか。そう対比してみたくなるほどに、上野はもとより、寺田の語り口も、揺るぎがない。これは前言と矛盾するだろうか。寺田は、いやそれは誤読だ、自分は存在不安をこそ語りたかったのだ、と言い、上野は、自分のアイデンティティなどはとうにズタズタになっている、と言うだろう。しかしその語り方それ自体は、やはり揺るぎないと感じるのだ。それを社会の追い風、と読み解くのは表層的かもしれないが、何に、誰に向かって言葉を出せばよいのか、その標的だけははっきりと見定められている。
・ところで、両者の見解が見事に一致している箇所がある。それは男根中心の性愛観からの脱却という観点が、松浦理英子を引きながら語られている部分だ。しかし、もしそれが果たされたとき、「男」という存在やその関係がどのようなものになっているのだろうか。たぶん「HANA―BI」がその重要なヒントとしてあるのかもしれないが、しかしあれは死という絶対的な完結を前提として成り立つ世界である。そのことを思えば、脱性器的な性愛観は男の性がタナトスに浸食されることを避け難くしないかと問うてみたくなるのだ。しかし、それこそ男が女に強いてきたことのツケ、と
一笑に付されるのだろうか。(sato)

【評者感想:2001/09/19】
・世に溜飲本なるものがあるという(色モノともいう)。両氏が「下町の悪ガキ」や「封建主義者」を仮構することで、確かに風よけにはなる。グタグタと言われたら「うるせーっ、俺は封建主義者だ、下町の悪ガキだー」と返すことで取り合えずは済むし、批判が更に弾みになる点では強みであった。しかし読後、溜飲本として敬して(?)遠ざけられてしまうことは逆に弱点でもあった。それなら両氏ともに挑発を専らとするだけの暴論家かと言えば、私はそうは思わない。民主主義や平等理念が隠し持つグロテスクさに対して、人一倍鋭敏な感度をもっていること。差別という問題の本質を直観的に見抜いていること。それが理由である。そしてこのことが、両氏に共通する最も重要な特質だと考える。
・呉智英は今回の『危険な思想家』において、真正面から人権イデオロギーと差別の問題に相渡っている。民主主義をイデオロギーとする国家では差別を隠蔽すること。差別/平等と対置されることは現代の知のパラダイムにであり、その意味で実は差別論は知識人論であること。そしてきわめ付けは「目指せ、差別もある明るい社会」という、そのスジを逆撫でする一章なのだが、旧著において、あの連合赤軍事件の衝撃から民主主義に対する疑問が始まったのだと書いてあるのを目に留めたとき、私は深く頷いた。一方のビートたけしは、ギャグのネタにしながら、自身の生活史とお笑い芸人としての下積みがいかに人間扱いされないものだったかという体験を(つまり被差別的扱いを受けたということだ)決して手放してはいない。分際を知れ、とは彼の得意とするフレーズなのだが、これは「差別もある明るい社会」に通じていく感性だろう。彼の手になる『あの夏、いちばん静かな海。』を観た者ならば、人権主義者からは生まれ得ない聾者たちの世界を描いて見せたことは知っているはずである。(ただし『私は世界で嫌われる』では、タイトルの「嫌われる」が持っていた微妙な揺れが機能しなくなっている。映画監督としてのステイタスが上昇し、毒舌が意に反して、いつの間にか認知されつつあることなどによるだろうか)
最後にどうしても触れておきたいことがある。ビートたけしの言説が、思想となる一歩手前の所で立ち止まっているように見えることだ。これはなぜなのだろうか。彼のエッセイは基本的に語り、喋りである。どれほど現代社会の困難な課題や知の先端の問題に触れようとも、それは語り〓漫談であり、面白さもパワーもそのことによる。彼自身、漫談で結構、思想として裃を着せられることは真っ平だと言うだろう。私も「書き言葉」の優位性などを言いたいのではない。ビートたけしが知的になればなるほど、語りが「思想」として立ち上がるためには何が必要かという問題を逆に照射してくると感じられるのだ。思想は書き言葉によってしか為されないのか。『危険な思想家』にはあって『私は世界で嫌われる』にはないもの、それは何か。
・同じ言葉の営みであっても、書き言葉と語りとはまったく性格の異なるものであり、そこにはたぶん想像以上の深い溝がある。それはまだうまく解かれてはいない。(sato)

【評者感想:2001/09/19】
・某月某日 夏木智は『教育の現在』『誰が学校を殺したか』などの著作を持つ批評の書き手であり、現役の高校教師である。本書は批評ではなく、『不思議の国のアリス』のパロディとしてお伽話仕立てに織り上げられており、そのことが、この本の意図をより明確にしている。意図とは、学校の現状がどんなものであり、そこでの問題がどのような性格や構造を持つものなのか。それを一般の読者にどこまでリアルに伝えることができるか、ということに尽きる。
・学校とはきわめて不思議な空間であり、時には迷路のようでさえある。誰もが通過した場所であり、誰もが自身の知見を持っているにも拘らず(そうであればこそ)、その特性はあまり意識されない。例えば教室という空間の密室性、教師という人種のある心理的傾向、学校を運営するためになされる会議や運営体制の特性。閉鎖性etc。良くも悪くも、それは近代百二十年によって積み上げられてきた独自のリアリティで支えられ、ある意味で私たちの文化システムの喩でもある。
・この学校的特性は、普段はあまり表立った姿を見せることはないが、一旦事が生じ、世間に向き合う事態になった際には迷路空間に変貌する。その時社会の側は教育〓良きもの、子ども〓善という学校幻想を前面に押し立て、マスコミを代弁者として学校の権力性や隠蔽性を断罪する。しかし様々な問題にまつわる学校的特性は、故意にか無知ゆえか無視され続けてきた。いや、夏木も言うように、迷路的な学校的特性はある意味で学校幻想が生み出したもの、いわばこの二つは一つの胴体が生み出した双頭のようなものなのだ。
・ここに夏木が本書で採用したお伽話仕立てという手法が光彩を放つ理由がある。お伽話、パロディという軽さとユーモア、そしてシニカルな皮肉を身上とする手法が、その迷路性をいたずらに深刻で意味ありげになるのを加減し、むしろ学校的特性にこそふさわしい表現方法だったと感じさせるほどの威力を発揮している。夏木の現場教師としての観察力と、批評家としての認識を踏まえて描かれる体罰、いじめ、校則などの問題の所在と迷路性が、腑に落ちるように、「身に覚えのあるもの」として提示さ
れているのを見るだろう。今、学校や子どもを語る言葉がどんどん痩せ衰えている、という印象を私は抜き難く持っているが、本書はその中にあってこれからの論議のための有力な素材として提供されている。
・ところで言葉が痩せている現状とは何か。養育や教育という営みの中で、具体的処方箋のみが求められ、語られるそのことである。確かに学校論子ども論は、本質論議の中にどこまで具体性実践性が包括されているか、たえず試されざるを得ない言説の場ではある。しかし教育や養育という生きられる関係の中に処方箋がもしあるとしたら、むしろ処方箋的な言葉を退け、現に自分が立ち合っている関係に、腰を据えて立ち向かうことだけなのではないか。処方箋的な言葉に依存した関係は、その言葉同様にただ痩せ衰えていくだけである。神戸A少年の事件やナイフ少年たちの殺傷事件の衝撃は私も共有している。そして学校が見せるとめどのない混乱への不安も。こうした事態にあって、それなら学校や子どもをこれからどう語ればよいのか。
・夏木のように物語の力を借りよ、と言っているのではない。学校幻想と学校的特性の二つを、同時に相対化しうる視点をどう作るか。処方的な言葉を退け、どう生きた
力を取り戻すか。学校論の未来もそこにしか可能性はないというのが、夏木の著作から得た私の確信である。(sato)

【評者感想:2001/09/19】
・某月某日 西研の魅力をひとことで言ってしまうなら、柔らかでいながら、強さと深さを失わないその文体にある。哲学の難解な世界をやさしい言葉で置き換えた、というだけではない。西研の著作は、考えるという営みが身体的な愉楽そのものであることを、そしてそれこそまさに哲学の哲学たる所以であることを、体感させてくれるものとなっている。その文体はどこからきているのか。そしてそれを手にしたことで、西研は哲学という分野において何をなし得たか。
・私は「哲学書」というやつに何度か挑戦し、挫折してきた体験を持っている。読み終えたとしても、何か、途方もない労力を強いられ、読書というものがこれほど体力と気力を要するものか、ということを思い知る体験としてのみ残った。それはこちらの頭の不出来のせいだと思いなし、以来、敬して遠ざけてきたのだが、西研の著作に出会うようになって、考えが変わった。哲学の翻訳の文章は、難解なものにならざるを得ないという事情以上に、難解であることによって「哲学」そのものを権威づけようとする。いわば小説やエッセイのようにシロウトが気軽に手をだし、感銘を受けたり得心できたりするものではないことが当然、と考えられてきたことの産物である。それはおかしい、と示してみせたのが西研の著作である(もう一人、竹田青嗣の仕事もそうであることを敬意とともに明記しておこう)。
・西研は次のように言う。哲学は、あることについて問い、考えを巡らしながら、どこかで考えることそのものを、あるいはえ方そのものを問うている。例えば「死とは何か。なぜ人に死は訪れるのか」という問いにつかまれた時、死とは何かと問うているだけでは必ずあるところで行き詰まる。しかし「なぜ死を問うのか。その問いにどんな意味や根拠があるのか」と問いの形を変えたとき、死についての考え方に新たな光を当てることができる。西研によれば、さらに深く、遠くまで進むことができる問い方があり、哲学はこのようにして、より適切な問い方を求めて歩んできたのだ、と
いうことになる。
・ここから次のように考えを進める。哲学には、哲学独特の問い方や考え方があるが、肝要なのは、それが自分の生にとって深い了解や肯定をもたらようなすものとして問われることである。問いには、それを生じさせる原因や根拠が必ずあり、そのことを吟味していったときに見えてくるのが、自分の中の不安や不満である。それがどんなものか、どのような経緯で生じたのかを見据え、了解を得たとき、問いに対する答えも自ずと開けてくる。これが西研の示す考えの筋道なのだが、もう一つ逃してはならないことがある。このようにしてもたらされる了解や自己肯定が、あくまでも社会や他者との関係のなかでどこまで実感できるか、それが大事なことだと繰り返し強調している点である。
・人は欲望やプライドをもち、それを満たそうとする一方で、社会の中で他者に囲まれ、ルールとともに生きているが、うまく折り合えないとき、不満をもち、不安を抱える。そのとき解答を外から与えられるのではなく、自分でそのルールを建て直すことができたとき、自分も他者も肯定できる理路が見えてくる。つまり自己への通路が、社会や他者への通路であることと織りあわされるようにして示されていることが、西研の哲学の一番のポイントであると思われる。
・西研は、ただ単に哲学の権威性や秘教性をうち壊しただけではない。考えることと生きることの不可分で相互的な在り方を、端的なかたちで示してみせた。それが文体の秘密であり、西哲学の新しさなのだと思う。(sato)

【評者感想:2001/09/19】
・村上龍の『寂しい国の殺人』は、この国が立ち至っている目標の喪失を「寂しさ」という言葉に託し、そこから神戸の事件を解示してみせたエッセイなのだが、冒頭に次のような下りが出てくる。少年が逮捕された夜、「インザ・ミソスープ」を連載中だった村上は憂欝になったという。それは「現実の事件に想像力を制限されるような気がしたから」だと、この自信に溢れた作家をしてさえ、あの事件によって自らの想像力が揺るがされたことを告白している。さらにそのあと「小説家は現実をなぞるわけではない。想像力を駆使して現実に立ち向か
うのだ」と続けているのを見て、想像力と
いう言葉をこのように堂々と使えるのは、村上龍が最後の作家なのではないかという感慨もまた禁じ得なかった。
・中上健次は生前五冊ほどのエッセイ集と『紀州』という優れたルポを出しているが、社会事件そのものを論評することはなかった。むろん政治についての発言も皆無だった。そんなことは小説家のすることではないと、どこかで誇らしげに書いていたと記憶する。しかし自分の生きる時代に無関心だったわけではない。中上のエッセイ集は、言葉そのものが時代を真っ芯で鷲掴みにしていることからくる躍動感に満ちているし、そのことによっていま読んでも刺激的である。いわば時代や言葉への鋭い感性と旺盛な想像力が、作家の周辺事をめぐる文章のなかで、きわめて至福な(時に暴力的な)調和を見せていた。村上龍のエッセイもここに列なるものであった。私は彼らのエッセイに論理の整合性や結論の妥当性などを求めてきたわけではなく、論理や現実原則には納まりきれない想像力の在り方を読み、圧倒されてきた。
・しかし新世代の中心的作家である柳美里の『仮面の国』を読むと、事情は一変している。柳はきわめて私的な世界を、いつ壊
れてもおかしくないと感じさせる感性で書き継いできた作家である。その柳が、行き掛かりの事情があるとはいえ、この国の偽善や欺瞞を言あげする社会時評を書かざるを得なかったこと。しかも、教育や政界の再編などという、中上や村上ならばおよそ唾棄するような事象にまで言及しており、これは一種の蛮勇というべきだろう。そこに私は加藤典洋ふうに言えばある「ねじれ」を見る。自らの資質を切り裂きながらも行なったこの蛮勇は、「ねじれ」ているゆえにきわめて現代的課題を示しており、そのことによってひとまずは評価されるべきではないかと言いたいのだ。
・ところで、ここでは想像力という言葉は影を秘めている。一ヶ所だけ、やはり神戸事件に触れた部分で、少なくとも〈十五分間〉の時間で小説を書いているか。荒ぶる時間、想像力によるテロルのときを持っているか、と自問し、物語の力〓想像力の無力を恥じている。(この〈十五分間〉とは、アンディ・ウォーホールを「現代ではだれもが十五分間だけは国籍がなく、本名がない透明な存在になれる」ともじったところからくる)。しかし『家族シネマ』に収められた「潮合い」という作品を読むとき、思春期の少女たちの倨傲と不安、そこで立ち竦む描写は、まさにあの「透明な存在」という時代の深部に届いているというのが私の判断である。その作家が、物語〓想像力の無力を恥じていると書く。
・小説家の想像力は、もともと孤立無援であることによってしか社会につながる通路ももつことはできないのだが、柳はもう「小説家は想像力を駆使して現実に立ち向かうのだ」とは言わないだろう。社会問題や政治を取り込むことで文学が復権できるなどと私は言いたいのではないし、柳もそんなことは信じていない。しかしまた柳の見せた「ねじれ」は、新しい文学がどんな闘いを必要としているかを、間違いなく示しているはずである。(sato)

【評者感想:2001/09/19】
・この夏、きわめて注目すべき二冊の著作が刊行された。宮崎哲弥『身捨つるほどの祖国はありや』と大澤真幸『戦後の思想空間』である。両著ともに、今後の思想展開にとってメルクマールになるのではないかという感触を得た。『身捨つるほどの祖国
はありや』は、何とも嫌なこの時代にあって、その肌寒さに耐え、垂れ流し的解釈に終わらず、事の本質を示し抜く時事的文章をものすることがいかに思想の膂力を要するか、という感想がまずは浮かぶ。また『戦後の思想空間』においては、思想的磁場の設定において群を抜いている。過去の思想や文学が大きなスケールと深度をもって再解釈され、戦後の状況に布置される。時折り大澤流の〈資本主義〉なるキーワードが楔のように打ち込まれ、戦後における思想の動態がきわめて重層的に描き出されている、というのが雑駁な感想である。
・偶然ではあろうが、加藤典洋の『敗戦後論』から一年を経過してこの二著が世に出たことは興味深い符合である。いや、興味深い符合として引き寄せてみたいというのが私の独断である。予め言えば、両氏ともに『敗戦後論』には相応の距離を有している。宮崎は全否定を言い、大澤は加藤の問題提起を引き受けつつも、「敗戦後論」の「肝心なところには異論をもっている」と書く。宮崎は加藤の言う公共性に不信を持ち、新しいナショナリズムの萌芽を見ている。宮崎の共同体と加藤の共同性の問題は、確かに位相を異にしてはいる。しかしその比較を試みることに意義はないか。また大澤においては、加藤同様、戦後以後の思想課題という主題がスケールを変えて変奏されているのだが、『敗戦後論』を対置させることによって大澤の著作を側面から照射できるのではないか、というのが私に訪れた企みであった。
・ここで『敗戦後論』をおさらいしてみる。湾岸戦争の際、反対の声を上げた「私」が、たちどころにナショナルな共同性をまとってしまったという事実から、多分加藤の問いは始まっている。戦後社会のねじれを克服し、共同性(ナショナルなもの)を否認しつつ、国家や共同性に対する新しい感性主体をどう作ることができるか。ノン・モラルの問題、自己の思想と他者の思想(政治と文学)、不可疑性と可誤性、語り口の問題などを通し、加藤が執拗に追求してきたのはこの問題だったのだと私は受け取っている。いわば戦後社会を作ってきた前提的枠組みをゼロの地点に戻し、そこから改めて社会(国家)と個人という課題を措定し直す試みだったと言える。
・宮崎は、社会契約説における民主政体の矛盾はすでに露呈しているとし、公共性の提唱など反動的であると切って捨てる。しかし注意したいのは、ねじれがねじれとして意識されない現在の病理の深さを加藤は
指摘したが、まさに六十年代生まれの宮崎においては、その問いが立ち上がってくる契機が内在されていないことである。また宮崎は、加藤の共同性、公共性という言葉の使い方は恣意的であると一蹴する。しかし加藤の世代が、連合赤軍の事件を思想的出発点としなければならなかったこと。従って、加藤が共同性を否認するというとき、個人を収奪して止まない国家の共同幻想(宗教的側面)が見据えられており、このような前提的モチーフも、宮崎においては共有されてはいない。宮崎のいう共同体は、八○年代のアメリカにおいて台頭したマッキンタイアを始めとするコミュニタリズムを出自としている。それは国民国家と個人の中間に位置するものであり、実質的な倫理の基盤をも担うものであるが、宮崎はかなりの危機意識をもってその修復を提唱している。また、国家の本質はあくまでもファンクショナルなものであるとするのだが、そこでは国家という枠の溶解それ自体が緊要の課題となっていること、従って個人にとって国家なるものを拠り所とはできない(しない)ことが前提的に含意されている。
・両者において何がすれ違っているのだろうか。宮崎は、加藤の言う公共性の立ち上げを、かつての社会契約説への単純な回帰、
と捉えているようなのだが、ここには突き詰める余地はないか。単純な回帰、と映るのは、ねじれというモチーフが内在されていないことによるのであり、加藤のきわめて錯綜した問題の掬い方が、むしろ宮崎において単純化されてはいないか。また宮崎の「個」に対する危機意識の先鋭さは認めつつも、それが加藤の言う新しい「われわれ」を退けるものなのかどうか。差当ってこのような問いが浮かぶが、これ以上の論求はこの論の任を越える。
・大澤はどうだろうか。重層的な理路を持つこの著作を要約して示すのは無謀に近いが、その1章において彼は、敗戦のもたらすもの、そこから回復することの意味とアメリカの役割という、加藤と同じ入り口から入る(むろん十分に大澤流に、である)。しかし、2章においては七○年代の思想の転換を見るために、「今が戦前である」という仮説を前面に押し出してゆく。さらに「近代の超克」論を基軸として、ファシズムに至りつく動因を思想と世界的経済状況のなかで描き出し、八○年代の思想的困難を、昭和初期のファシズム期の構造と同置させる(京都学派における隘路とポスト・モダン)。この迂回路を経て3章へつながる主題、八○年代末より再び日本及び日本人という
共同性が反転したかたちで意味を問われている、という基本主題へ向っていく。しかし3章で明らかにされるのは、むしろ自己―他者の問題である、と私は読む。ハイデガーの「精神」という語の意味的変遷から示されるアウシュビッツのガスと、オウムのサリンとの隠喩的な連動(気体としての自己―空中浮揚)。あるいはオウムの挫折が、自己(絶対的他者への帰依)―他者(真我としての麻原)の構造そのもののうちにあったこと。等々、きわめて大澤的な理路から抽出されるのが、自己同一性の困難である。いや、そこからの解放の試みが、同心円的にさらなる抑圧や背理を必然としてしまう困難であったこと。それが八○年代の思想の限界であったとするのは、的を外した要約だろうか。いずれにしても、自己―他者、個―社会という思想の基盤そのものを、世界史的規模のなかに置き換えようとする試みであり、いわば大澤は、公共性の立ち上げと個という、戦後を超えるべく加藤の主題に対してその直接の批判を試みたのではなく、『敗戦後論』に劣らぬ思想的スケールを提示することによって、彼の言う「向こう側に突き抜けた立場からの」反論として示したのである。
・しかし大澤は、最後に「自由の条件の探求」という項を設ける。そこでは意表を突くように、地球環境、エコロジーの問題を取り上げる。エコロジーの理念は自由主義と対立するが、その強化による産物でもあるという背理。生きることの自由(生存権)が生物や自然物まで、また未来の世代にまで拡張されており、それは現在の人間に地球の有限性を刻印づける。大澤は自由主義に内在する最終の困難、〈資本主義〉の最後の課題、というニュアンスをこめて書くが、しかしその確答は留保されている。そして最終の課題としての自由という主題は宮崎にあっても共有されている、と私は受け取る。本書中もっとも白眉である、臓器移植や精子バンク、死の自己決定など医療の先端における生命倫理を扱った章において、それを見ることができる。精子バンクなどによる生命の産出や死が、自己決定という個人原理の選択による限り、その問題も、自由に内在する最終の背理として現われざるを得ない。宮崎は揺るぎない立場を打ち出そうとしているのだが、語り得ぬものと格闘している呻きを随所に洩らしている。しかしそれは決して弱点ではない。
・私はここ至って、両著から導かれるように加藤の「語り口の問題」を思い起している。アレントにおいて、自らの出自であるユダヤ民族という共同性との闘いにおいてフリッパントな語り口を不可避としたものは何か。それは奪われたものからの回復ではなかったか。個人が国家や共同性を奪われ、そこにもう一度たち戻るための闘いであり、その人間的意義を加藤は語り口という闘い方から示してみせたのではないか。それもまた自由をめぐる問題の、極北の在り方であるというのが、ひと夏を越した「語り口の問題」への私の理解の仕方である。(sato)

【評者感想:2001/09/19】
・本三部作は「東北学」と名をうって、稲作一元論と単一民族国家、祖霊信仰などを方法的支柱として確立された柳田民俗学への(つまりは日本民俗学そのものへの)根底的な反措定をもくろむ序章である。赤坂が『異人論序説』で登場して後、王権論〓天皇制論から柳田民俗学の批判的検討に入り、『遠野物語』に導かれて東北へ至る道筋は私なりに理解している。しかし三巻を通読してなお、なぜ、今このような時代にあって東北なのかという疑問は、未だ私の中で氷解していない。
・むろん赤坂は幾度となくその問いを自らに課してはいる。稲作以前の東北を立ち上げることによって、縄文以来の文化の重層性を照射し直し、南からの「ひとつの日本」という一元史観ではなく「いくつもの日本へ」という可能性の場としての東北。それが開かれた国家という現在的な課題に答えることになる、というように。むろん赤坂は民俗伝承の場としての東北が、高度成長期以来、壊滅状態に向っていることは知悉しており、その上にたっての提唱ではある。しかし84年に樺山 紘一らによって出版された『対話「東北」論』では確かに受け取ることができた東北の思想的手応えは、赤坂の三部作においてはもはや希薄である。それはこの国の十数年の歩みの何であったかを告げており、だからこそ、なぜ今更において東北なのかと疑うのだ。
・樺山の著作を始めとして、これまで東北はいくつかの切り込み口によって語られてきた。縄文遺跡とその末裔?としてのアイヌと蝦夷。マタギという狩猟の民と、焼畑を営むもう一つの農の民。あるいは山人という列島山間部の闇の存在。また東北各地に点在する仏教以前のイタコやオシラサマなどの信仰習俗。そして菅江真澄、柳田国男、宮沢賢治。各領域でのこれらの集積を、
赤坂は一つの体系の下に組成し直そうとしている。その時、道の奥、蝦夷と蔑まれてきた怨念を反転すべくかつての東北へのロマン主義は、むしろ稲作一元史観を結果として補完するものだと、自らを区別する。ここに赤坂東北学のもう一つの要がある。しかし赤坂が、「古代の闇を払拭して、一万年の縄文の時間を包摂する東北の歴史が共有されるに到ったとき、東北に生きてある人々の歴史的アイデンティティは確実に、大きな変貌を遂げるはずだ」と書くとき、自らが退けるロマン主義史観とどう区別されるのか、という疑義を覚える。
・あるいは、辺境や日本の多数性を語ることでアイデンティティの問い直しになるという風潮は浅薄であり、近代史のナショナリズムの問題に無知すぎるという福田和也の批判に対して、赤坂は以下のように応ずる。福田のいう国民国家は古典的モデルであり、均質のアイデンティティに支えられる民族や国家が不可能になるまで、それを解体・無化する必要がある。なぜなら「この時代は、多数性に向けて開かれた場所に在りつづける、その方法やモラルを学ぶ必要」があるからだ、と。しかしこのとき私はやはり二つの疑問を抱く。一つは、福田の問いには半分しか答えていないという疑
義であり、もう一つは、それならば尚のこと現在的事象へのコミットを封印すべきではなかったのではないか、という疑問である(赤坂は『排除の現象学』の後書きで、その旨記している)。
・現在、東北とは、もはや思想課題としての共有のきわめて困難な、むしろ不可能性以外の場ではないと感じさせる。赤坂がもし願うように、民俗学が好事家の手慰み以上であろうとするならば、現在的な思想課題をも鋭く射程に入れ、縄文・古代と現在への複眼的、重層的な視点こそが赤坂と民俗学には求められているのではないか。それが、大いなる期待と疑義を半ばさせる、私の感想である。(sato)

【評者感想:2001/09/19】
・「障害者プロレス」を実際に目にした人は限られた数だろうが、そのような団体があるらしいという事実については、決して少なくない人がどこからともなく聞き知っているのではないだろうか。本書はそれがどんな発端で始まり、どのように展開したかについての仕掛人によるルポルタージュである。筆者は、当初ボランティアとして彼らに関わっていたのだが、その皮相なあり方、閉ざされた世界で自足するあり方に我慢ならず、どうしたら一般の人々の関心を呼び、衝撃を与えることができるかと考え、その結果、思いついたのがこの「障害者プロレス」であるという。
・本書の最大の功績は、「障害を持つ人間」とは何か、彼らとの関わりはどのように可能か、という主題を、エンターテイメントの場にあげたこと。また最後までエンターテイメントとして押し切ったこと、このことに尽きると思う。むろんこの著作から「人間存在の尊厳」とやらを読みとり、実存的な主題に向かってもいっこうに構わないし、バリアフリーやら共生やらの社会的福祉的な主題へ泳ぎ出ることもできるだろう。けれども私は、きわめて良質の「読み物」として本書を楽しむことができた。まずもってこのことを強調したいと思う。以下、理由を述べる。
・まずコントラストのはっきりとした人物像の設定と、次なる事件を予感させながらストーリーを展開させていく技法は、まさにエンターテインメントの正当的手法である。さらにここで取られている構成は、主人公がある敵にぶつかり、悩みながら乗り
越え、より大きく強い敵に向かっていくという、少年コミックにおいてこれまで取られてきた「成長の物語」という常套の構成を踏まえたものとなっている(例えばそのはしりである『男一匹ガキ大将』から始まり『ドラゴンボール』に至る作品群)。このようなエンターテイメントの正当的様式を踏まえていることを、まずは指摘できるだろう。
・次には、恋あり涙ありの波瀾万丈がエンターテイメントには不可欠なのだが、彼ら障害者たちが何よりも願うのが「普通の恋愛と普通の結婚生活」であることを示しながら、そこに過剰な理念などを持ち込まず、またあざとくもならずに、まさに人生一般の波瀾万丈として描き切ったこと。これは筆者の功績である。しかし特に私が指摘したいのは、その並々ならぬ力量は、プロレスという闘いの場においてひときわ冴え渡ることだ。リング上のシーンはビデオ等による映像から再現された描写だと推測されるが、それにしても凡百の「プロセス観戦記」など及ばぬものとなっている。ここが本書の白眉である。
・プロレスとは鍛えあげた肉体による究極のエンターテイメントである。始まりから予定調和的な終決を迎えるまでのプロセスにおいて、死や肉体の瓦解という予感を、どこまで強く観る者に喚起させることができるか。その演出にエンターテイメントとしての醍醐味があるのだが、してみると障害者によるプロレスというのは、語義の矛盾ではないか。鍛えあげられた肉体とは対極のものとして彼らの身体はあるのだし、私たちは疑いもせず、そのように見做してきたからだ。しかしそれは皮相的な見方であり、誤解である。もし私などがリングで彼らとまみえたとしても、三分も保たないほどの「無敵さ(強さ)」を彼らは身につけているらしいのだ。実際に観戦するとまた別の感想を持つかもしれないが、読み進めながら、このことを知らされたときに訪れる驚きと不思議な感動。これはなかなかのものである。良質のエンターテイメントであり、白眉だと書いた所以である。(sato)

【評者感想:2001/09/19】
・本書は小浜逸郎の思想の、たぶん本丸の部分である。そして今後書き継がれるべくその序章であり、ここにおいては、フロイトの批判を通して提示される著者独自の無
意識概念を読み取ることが正面の入口となる。例えばうねりのようなエネルギーを持ち、それゆえに心や身体をいかようにでも変形させかねないもの。人が見せる歪んだ行動や不安の根源にありながら、巧妙に隠されているもの。フロイトはそのように無意識を実体化し、人間の負の部分におけるある力と力の関係として描いてみせた。
・一方の小浜は、フロイトは現在の生やその現象を、ありのままにとらえようとする思想的姿勢において欠けているものがあり、無意識は「意識自身が自分を越えたものを意識させられる現象」であり、「日常的に生きられてはいるが、未だはっきりと言葉で明示されていない〈生〉のありよう」なのだと書く。そして、生のありのままの様態という着眼に、時間性、他者性、身体性という三つの契機を導入する。時間性、他者性、身体性は、「それとともに」「それを」生きており、「それによって」生かされている生存の条件であり、それらは葛藤や苦痛、不安、という「気づき」があって初めて存在が意識されるというよな自己否定的な在り方で、心と身体全体を染め上げているものだとされる。
・さらに言えば、時間性とは記憶や有限性(死)の自覚の謂いであり、他者性とは家
族を営み社会へ参入する必然やエロス性の根拠であり、身体性とは生誕から死までの発達過程や病や老いが表現される場である。これら中核となるべく理念が、家族論、学校論、子ども論、死の哲学という思想となって具体的に表現されてきたことは承知の通りである。つまり「無意識」とは、小浜思想全体をカバーし、各領域を貫いている重要な理念であることが、本書によって明らかとなる。
・ところで、小浜の近年における中心的な仕事が、その思想形成において、きわめて重要な役割を果たしてきたはずの思想家たちとの格闘、もしくは思想的訣別となっていることに気付く。『オウムと全共闘』における吉本隆明、『癒しとしての死の哲学』におけるハイデガー。そして本書におけるフロイト。小浜のこれらの著作を読みながら、私はその批判的言辞の奥に、愛憎の微妙に錯綜した書かれざるドラマを感じ取ってきた。ある思想家からの離脱は、その傾倒が深いほどに激しい葛藤をもたらすはずであるが、小浜が示しているのは「父親殺し」というかたちである。「父親殺し」とは愛惜をこめて自身の手で父を殺すことであるとともに、それによって自らを「父」として立たしめること、受苦、責任、孤独を引き受けることだと言える。むろん「父親殺し」だけが思想の継承なのだというつもりは毛頭ない。
・しかし、思想の継承の仕方において「父親殺し」を感じさせることは、小浜の批評的感度の何であるかをも語ってはいないだろうか。小浜の激烈な批判の対象とされてきた表現者たちは、あえて言えば自らの「父」を殺すことにおいて不徹底であり、また自身が「父」であることにおいて不徹底である、と見做された書き手たちだということになる。むろんすべての表現者が「父」である必然はない。しかし、そこに激しく批評意識が発動するのが、小浜の生理ではないだろうか。「父」であることとは言うまでもなく比喩ではあるが、批評とは何であり、誰に向けられ、どこをめざすべきなのかという小浜の批評理念の根幹をも、それはまた語っている。
……これらが今回の新たな発見であり、読後の感想である。(sato)

【評者感想:2001/09/19】
・本書はタイトルの通り、死をめぐる思想の書である。しかもきわめて現代的な課題に迫ろうとした思想の書である。そのアウトラインをタイトルに引き付けて言うならば、一つは死が現前したときに、どこで、どんなかたちで癒しが可能になるかという問いであり、もう一つは死を大きな物語や宗教のような超越性としてではなく、哲学の可能性としてどう示すことができるか、という問いである。むろんこの場合の哲学とは難解な形而上学ではなく、生活の実相のなかで死はどのように感知されているのか、という問いかけである。 こう書くと、このどこが現代的なのかと、そう訝るむきもあるだろう。ここで扱われているのが、脳死、癌告知、末期治療という未だ共通了解も倫理も確立されていない話題であり、随所にいかにも著者らしい大胆で明解な提言が見られるのだが、そのことをして、きわめて現代性に富んだ試みであるとまずはいえるだろう。しかしそれだけではない。何よりも著者の表出の方法や思想に対する根本的な姿勢に、「戦後的思想」を超えようとする現代性を感じるのだ。多分近年の阪神大震災からオウム真理教事件という未曽有の時間のなかで、著者は批評の役割が何であるか、ある決意とともに選択したのだと推測する。
・ところで、死者を悼み、死にさまざまな思いを重ねるのは、人間が幻想的存在であるというそのことによる。そして人間のもつ幻想性は、大きく二つのことを必然とせずにはおかない。一つは関係存在であることであり、もう一つは時間という意識をもつこと。つまり自己の有限性を自覚せずにはいられない存在であることだ。そしてこの二つが原理的に表現される場が、家族である、というのが著者の基本認識だと考えてよいだろう。家族は男―女のエロス的結合を横軸とし、生誕―死という世代の継承を縦軸として営まれる関係の場なのだが、それは「互いの生と死を時間をかけて看取りあうような形での結合状態を求めている」ものだとされる(『可能性としての家族』)。
・本書において家族の役割に直接言及されている部分は少ないが、人間的死と癒しを可能にするために、家族が重要な意味をもつことを浮かび上がらせること。それが、本書のもう一つの主題である。死が現前したときに家族は何を引き受けなければならないか。かつて死は誰もがただ受け容れるほかないものであったのだが、告知、延命治療、尊厳死という問題が示すものは、死が時に決断し選択すべきものとして家族に要請してくる、そういう新しい問題なのだとされる。医者や医療システムに一切を没主体的に預けるのではなく、家族が決断する主体になれるかどうか。死に行く者にとって癒しの場となるかどうかもひとえにそこにかかっている、というのが、私が受け取った鮮烈なメッセージである。
・著者が提示する強い(硬派の?)家族イメージに対しては色々な意見もあるだろうし、私もすべてに頷くわけではない。しかし死や医療を常態とする高齢社会の家族像として、間違いなく一石を投じている。(sato)

【評者感想:2001/09/19】
(1)家族を支えるもう一つの可能性
・対話者の米沢氏は戦後家族の内実を都市や住居の変遷史に視点を据えて描いた家族論を、一方の神山氏は人間の自己中心性に焦点をあて、実存的なほりさげをした家族論を持つ。そんな二人が高齢化社会という視点から家族を論じたのが本対談集である。
高齢化社会について、まず二人は自身の介護体験や年令構成の変遷を語りながらも、課題はそれだけにとどまらず、社会が根拠を喪失していること。そこからどう新たな家族像を作るかが大切であることを確認して始めている。高齢社会の家族を私なりに素描してみれば、祖父母―父母―子の三世代が世代固有の課題を抱えながら、それぞれ独立した家族を営んでいる、という姿がひとまずは浮かんでくる。かつて家族というものは誕生から死までのサイクルをいくつか交錯させながら、人生の全体を包括するものとして営まれていたのだが、ここでの家族はまったく異なっている。それぞれの世代の主題が分断されたかたちで、そしてその分社会の趨勢をまともに受けて生きなくてはならなくなっている。
・ところで本対談集もそうであるように、家族論の主題は社会の動向とともにある。70年から80年代の高度成長期は、女性の経済的精神的な自立やそれに伴う結婚の是非、育児や家事労働の分担などをめぐる、いわば若い家族の課題が主流だった。しかし癒し、支え合い、共生などの言葉が散見し始めているように、子育てを終えた後の夫と妻がどう生きるか、老いや病を家族はどう引き受けるかというところに家族論の主流が移行している。ここに構造的な経済不況、リストラという外的な補助線を引いてみれば、高齢社会における家族の二つ目のイメージが浮かんでくる。それは高度成長期から戻り道に入った社会の動向をまともに受けながら、家族を家族単独で支えることの困難さが明らかになった姿である。
・しかし本書では困難さそれ自体の解読ではなく、それを希望という肯定性のもとで捉え返そうとする試みがなされている。その希望を託した語がトライアングルである。子の世代においては、帰属する場所としての家族はさらに相対化されていくはずだ。家族ではなく別の場所を選ぶと子に宣言されたとき、それを押し返す力はもう家族にはないが、しかしそれを否定する必要はない。
・また老いや病を生活の実相とした世代にあっては、ケアする家族以外のネットワークがいよいよ重要になっていく。家族ともう一つの場所、そのネットワークがトライアングルであり、それは肯定すべき新たな家族の可能性だとされる。
・さて子育てを終え、結婚初期のようなエロスが枯渇しつつある夫と妻の世代にあっては何が希望になるのだろうか。もはやエロスではない。吉本ばななの『アムリタ』を論じた部分にその秘密が隠されているはずなのだが、私には、不倫などとは区別される、何かもう一つの関係がもたらす可能性といった響きをトライアングルという語から聞き取ることができたことが、何よりもの収穫であった。
(2)導きの家族論
・米沢慧と神山睦美の両氏による対話。この組合せにまずは意表を突かれた。しかもテーマが高齢社会における家族についてだという。ミスマッチだというのではない。二人がかつて『ばば』という共通の場において筆を競いあった仲であり、またすでに家族論のすぐれた著作を有していることも承知である。しかしこれほどにも批評の方法において異なる両氏の対話を企画したこと、プランナーのこの眼力にまずは敬意を評したい。独断で言うならば、神山氏はモノローグ型の思索者であり、一方の米沢氏は資料や統計を駆使する目配り型の表現者である。本書でもこの特色は随所に現われ、神山氏は、米沢氏が示した主題の一ヶ所に立ち止まり、思いがけない方向へと錨を下ろしていく。その思索の力はときに息を呑ませるほどだ。また米沢氏も、神山氏の語りを受け、論点を整理しながらそれまでの文脈のなかに導き入れていくのだが、このとき氏は、思想的なふところの深さを見事に示している。
・もう一点、家族論に高齢社会という未来への視点を導入したこと。つまりは家族論という視点から高齢社会を思想的に確定しようとしたこと。これまた企画者の正確な感知である。その結果、癒し、ささえ合い、贈与、肯定という、これからの社会や生き方のキーワードと目されているものが、本書でも主要な論点となっている。しかしおためごかしの福祉が論じられているのではない。そこでの関係を根拠付けているのは、家族のエロスでも世代の継承でもなく、むしろ家族個々が、受容的であるほどに贈与や癒しをもたらす関係となる、という認識である。それならばトライアングルとは何か。受動性そのものとなった家族を社会の方へ開き、さらなるささえ合いへと促すもう一つのまなざし。そんな関係のネットワークであり、そこに新たな家族の原型が思い描かれている。
・私はこの書が、これからの家族論の導きとなることを疑わない。(sato)

【評者感想:2001/09/19】
・本書は一見入門書の体裁に仕立てられてはいるが、その平明な語り口の向こうで、著者小浜逸郎が懸命に投げかけている問いがある。それは、思想といわれる知の営みをどうしてひとは必要とするのか。そもそも思想の使命とは何かという、著者自身さえ「愚直な」と冠してしまうような問いである。
・著者の主張をかいつまんでいえば、思想とは人生をできるだけ味わい深く豊かに生きるための知恵であり、技術だ、ということになる。どんな理路をたどれば、本質をあやまたず、いたずらに敵対することもなく、よりよく共に生きることが可能か。それぞれの章において、こうした思考の筋道を読み取ることが本書にむき合う最初のポイントとなる。
・ここでの内容は「新しい市民社会像」「男と女」「家族」「学校」「差別」「老いと死」など、著者の本に親しんできたものには大半がなじみのものである。しかし注意したいのは、このどれもが実践的で、しかもこれまでのモラルやルールのほころびが明らかになった領域であることだ。著者はここで、知をひけらかしたり大見得を切ってみせたりすることを自らにかたく戒め、どう考えることが新しい価値や倫理の創出につながるための理路になるかを示していく。無論わたしはそのすべてに賛同するわけではなく、「夫婦中心主義者」だと宣言されると待ったをかけたくなるし、男女論においても、中年以降の恋愛論、不倫などというワイドショー的な興味に収斂させるのではない、もう一つの男女論も可能なのではないかと思ったりもする。ただ、いたずらな対立や排除ではない、開かれたかたちで論理を打ち建てようとしている著者の思想の姿勢に強い共感を覚えるのだ。それはまた、思想の使命とは何かということに対する著者なりの解答でもあるはずである。
・ところで、こうした著者の論理が現状肯定、現実追認の論理であり、思想ではないという批判をときおり目にすることがある。かつて思想とは反国家、反権力のモチーフを色濃くさせた変革の思想であった。否定性は大衆の肯定や解放を理路づけることで根拠づけられ、そのラジカリズムを示すことよって思想は煌いていた。しかし米ソ二極構造の崩壊と日本における消費社会の進行が市民社会に決定的な変容をもたらした。そのとき輝ける思想の根拠だった大衆像も変容を被らないはずはなく、単純な反国家思想、反権力思想の古典性は明らかとなった。
・それならば思想はこれから何を、どう語ればよいのか。その見本として、つまり新しい市民社会像と大衆像をどう感受し理念づけるか読み手自らのセンスを測る羅針盤として本書を読むことも可能である。
・もう一つ、しかしそれは「われわれ」による「われわれ」のための思想であり、それがどのように開かれた理路を示したとしても届き得ない少数者、畢境一人の「私」は残るのではないか。その一人の「私」にとって思想とは何か、著者はどう答えるのかという問い。こちらの方がはるかに手強いのだが、そこへの架橋が可能になったとき、現代思想はまた一つ新たなシーン切り拓いているはずである。(sato)

【評者感想:2001/09/19】
・現在のエンターテイナーたちの起爆剤は、多分、壮大な野心である。現代人の愛憎や欲望、絶望や孤独などを余すところなく描くことのみならず、情報化社会、消費社会という現代そのものを活写し尽くすこと。その野心がパワーの源であり、千枚二千枚を越える大作が書かれる所以である。
・本書『カリスマ』の著者、新堂冬樹もまた大いなる野心家の一人である。その特質は、さしずめ、巨大な男性シンボルを作品に不可欠とするさだやす圭のアクの強さと、強烈な上昇志向と挫折を描く本宮ひろ志の気骨とを重ね合わせた世界だと言えば、少しは紹介となるだろうか。良くも悪くもパワフルな劇画調の描写が、この著者の特質である。
・本書の材はある宗教教団に取られている。そして信者たちに自身を尊師(グル)とか最終解脱者と呼ばせたあの愚劣な詐欺師がここでのモデルとなっている。しかしテーマは宗教(信仰)ではない。むしろ反宗教、宗教の形を借りた人間の欲望が正面の主題である。
・物語のあらましは、信者獲得のための集団詐欺から洗脳へ至る過程を横軸とし、信者たちの脱会を目論むもう一つの組織との暗闘が縦軸となる。著者はあの愚劣な男を徹底して戯画化しながら、この世に神などいない、救いなどないと断じさせている。
・しかし終結部の大どんでん返しとともに示されるある逆説。カリスマとは何であるか。欲望に骨がらみになった人間ほどカリスマに対してなんと無防備であることか。多分ここで読者は息を呑むだろう。
・最後に著者がいかに取材を重ね、自家の薬籠としているかと感じさせたところを二つ。一つは集団セミナーによって洗脳を図る第三章の迫力。もう一つは、男が「ゴッドスマイル」とともに口にする説法。麻原某の説法集などから材を得たと思われるが、某の著作を優に凌駕する奇妙なリアリティがあった。(sato)

最終更新日:2001年9月21日