おわりに
・はじめに
『樹が陣営』HPオープンを祝し、冊子『樹が陣営』の強力な執筆者である「竹田青嗣と西研」を比較した笑論(これは誤植ではない。むしろ題名の小論の方が誤植であろう。)を書くことにした。ところで、このお二人は兄と弟という感じで、哲学的な考え方も良く似ており極めつきの仲よしであることは、周知の通りである。従って、比較するといっても限界があるので、哲学上の姿勢に対して「直感的な比較」をするだけである事を最初にお断わりしておく。
・実感の現象学と共感の現象学
誤解され勝ちなフッサール現象学の真意を正当に評価し、更に独自の解釈を加えて継承・発展させつつあるのが「竹田青嗣と西研」である。
竹田青嗣はフッサール現象学の「認識論」を基礎に、エロス論/欲望論と呼ばれる所まで発展させ、社会生活の基本であるルールも「エロス」に基づいて決めるしかないと言う。「エロス」とは、つまり「いいなあー!」という実感である。その意味で、竹田現象学は「実感の現象学」と呼べると思う。
一方、西研も竹田同様に、フッサール現象学の「認識論」を基礎にするが、そこから発展して、話し合いによって「共通了解しあう」ことに学問そのものの価値の一つをおく。従って、社会生活の基本であるルールも「話せば分かる」という共感におく。その意味で、西現象学は「共感の現象学」と呼べると思う。
・親鸞と蓮如
社会生活、特に会社生活をしていると、近代を越えたこの現代においても、我々日本人には抜きがたい「農民性」があることを、しばしば痛感させられる。そんな、迷える農民的思考をもつ我々の先頭に立って、グイグイすすむのが竹田であり、我々は、なんとか遅れないように付いて行こうとしている感じである。
一方、西も我々の先頭に立っているのだが、集団の後ろの方で「西さーん」と誰かが呼びかけると、いつも後ろの農民を振り返り、歩みを止めてしまう感じである。竹田のマイペースに対しては、西の歩みは、今のところ、農民次第という感じである。いずれにしても、このように二人とも、悩める現代人に相応しい「考え方の導き手」であることは間違い無いところである。
さて、西研は「自分は親鸞が好きである」らしい。しかし、エロス論/欲望論が「親鸞の煩悩論」と対比させられる事から考えても分かるが、むしろ、親鸞に似ているのは竹田である。親鸞につながる蓮如という男がいた。蓮如は無口な農民に話をさせることにより、新しい自分を発見させた所が、一番偉い点である。その点からも、西は、親鸞よりも蓮如に似ているようである。
・だれがバカなのか
あるシンポジウムで学生から受けた質問「大学の先生方が書く文章は、何故、これほど分かり難いのですか」に対して、元東大学長の蓮見重彦が「あなたがバカだからです。」と答えたと言う。信じられない言葉であるが本当らしい。
竹田と西が、これと同様な質問を受けたと考えてみる。竹田なら「私が書いた文章に対して、そのように質問されたとすると、そこは私が良く分かっていなかったからでしょうね。特に若書きの文章などでは、その可能性はあります。」と答えたと思う。
一方、西なら「お互いが分かり合える条件・原理が欠けていたのです。一緒に、その原理を探しましょう。」と答えたのではないかと思う。
しかし、竹田も西も「自分が分かっていることだけを、人が分かるようにしか書かない」ので、蓮見と違い、この様な質問を受けることは無いであろう。
・三国志・桃園の誓い
先日(9/2)お会いする機会を得た小浜逸郎さんと、竹田/西との関係は、私には良く分からない所であるが、「近代哲学やポストモダン思想」等に対する小浜の考え方を伺った所、竹田/西と非常に良く似た考え方をしていることに驚かされた。そこで、小浜を入れた3人を見て、三国志・桃園の誓い(義兄弟の契り)を思い出した。この3人の結束を前提に、ポストモダン派の思想家グループと戦っているというイメージが浮かんできたのである。誰が、劉備で、誰が関羽で、誰が張飛に似ているかは、ここでは問題としたくないが、一応、関羽が竹田、劉備は西、張飛は小浜、としておこう。
・天下を取る
ポストモダン思想との戦いは竹田側、つまり関羽側の勝利となるのであろうか?諸葛孔明がいないので、一概には断言できないが、恐らくそうなるであろう。この辺りは、現代数学と近代数学との対立に類似しており、現代数学が克服してきたと同様の変化をたどるのであろう。つまり、抽象的/ロジック主義の数学よりも、具体性/有効性を重視した数学に戻るというやり方である。それにしても、竹田はよく戦ってきたものだ、と小浜逸郎から聞いたし、インターネット情報でも知った。恐らく、竹田は「日本の現代思想の歴史」にその名前を残す、とさえ言われているということを最近知った。竹田が、これほど偉い人だとは知らなかった。一方、西は、そのように名前を残すこと等、考えていないという素朴さがある。あくまで、「多摩丘陵の哲人」という呼び方で満足のようであるが、是非「近代哲学の再考」というテーマをライフワークとし、それをアカデミズムの中の住人と「理解し合える」ことを目指して貰いたいと思っている。それは、あの劉備の自覚と共通のものだからである。
・プラトンとヘーゲル
「プラトンとヘーゲル」と書いただけで、竹田がプラトン的で、西がヘーゲル的な体質を持つ思想家/哲学者であることが分かると思う。その思想家/哲学者として大事な「業績」ということでは、明らかに竹田の方に大きなアドバンテージがある。特にこの15年位のポストモダン思想との戦いとフッサール現象学の継承・発展作業及び、エロス論の展開等の実績は顕著かつ驚異的である。
更にポストモダン思想との戦いにも拘わらず、意外と敵が少ないのも立派である。ケンカ上手とでも言えるのかもしれない。但し、丹羽一彦の『現代思想のフロンティア』の中に「竹田青嗣論:現象学とエロス論」として書かれているのが典型的であるが、竹田のフッサール解釈を誤解し、その結果として、竹田そのものを誤解している専門家がいるのは仕方が無いことかも知れないが、一寸残念である。インターネットを通してアマチュア(普通の人で思想や哲学に興味を持つ人)の持っている「竹田評」を聞くと、他の思想家に比べて、圧倒的に竹田の評判が良いのは不思議な位である。きちんと竹田の思想や業績の実態を理解している人が多いのである。まあ余計な利害や色眼鏡がないので率直に竹田を理解していることになるのであろうが、これは頼もしいことである。竹田もそれだけのことを、大学や朝日カルチャーセンター等で実践してきたからである。逆に、専門家としてもその実践/実績を批判する訳にも行かず、竹田そのものをアンタチャブル(不可触)と位置付けているように思われる。ケンカ上手と言うより、本当にケンカが強いのかもしれない。
一方、西には未だ竹田に比べられる「実績とか評判」は少ないように思われる。強いて言えば「これほど人に優しい哲学者はいなかった」という評判の良さが特徴である。インターネットを通してアマチュアの声を調べても、予想以上に取り上げられていない現状である。ヘーゲル的体質を持つとは言え「実績」に関しては、竹田と比較する訳には行かないと思い、こういう文章になってしまった。西に付いては今後を期待したいという所である。繰り返しになるが「近代哲学の再考」というテーマをライフワークとし、それをアカデミズムの中の住人と「理解し合える」ことを目指し、「多摩丘陵の哲人」から「日本の哲人」へ進んでもらいたいということである。(西からは「大きなお世話だ」と言われそうであるが・・・)しかし、世間に出て行かないヘーゲルというのは矛盾ではないか、という気持ちである。(でもそれが西の一番の長所かもしれないないので「言わずもがなの、的外れな言い方」だったかもしれない・・・)
・おわりに
朝日カルチャーで哲学を教えていただいている私から見れば「師」である竹田青嗣と西研の比較をしてみて気づいたことは、当初、現象学を学ぶためにお二人の話を聞いていたのであるが、現在では、話を聞いていること自体が充実した時間となっていることの驚きである。今では、生徒と言うよりファンと言ったほうが良いかもしれない。何故であるか、その理由は分からない。それに付いては、竹田の持つ「カリスマ性」という側面から考える必要があるのかもしれないが、それは次回以降の宿題としておきたい。
さて、次回は、小浜と誰かを比較したいと考えている。考えた挙句に思いついたのが、橋爪大三郎である。「社会評論のアーキテクト:小浜逸郎」と「社会評論のプロフェッサー:橋爪大三郎」として対比すれば、面白いかも知れないと思っている。唯、私は橋爪さんにお会いしたことがないので、一度でもお会いできることが、この対比を可能ならしめる条件である。そのためにも是非、麻布・人間学アカデミーに参加したいものであるが「貧乏ヒマ無し」で、今の所アカデミーへの参加は無理の様である。(管理人敬白)以上

・学校で問題が起こると、「詰め込み教育」「知識教育」「押し付け教育」ということが批判された。これらは一種の群をなしており、その特徴は「人間的ではない」ということなのだ。
・そして、その「人間的ではない」教育に対して「人間的な教育」というものが対置される。これも、一種の群をなしており、「本物の教育」「本当の教育」「血の通った教育」と言われるものが、上に書いた「人間的な教育」と同列のものとして語られる。というよりも、これらの言葉は、ほとんど同じ意味として使われる。人によって、言い方が違うだけで、基本的な意味は同一のものだ。だから、この先わたしが、「本物の教育」という言葉を使うとしても「本当の教育」という言葉を使うにしろ、そこには、意味的な差がない。
・しかし、代表して「本物の教育」といっているにもかかわらず、それが代表していない「本物の教育」を意味している場合もあるということになると不便だから、とりあえず、「本当の教育」「本物の教育」「ひとの教育」「人の教育」「感動の教育」「自由教育」「血の通った教育」「血の通った本物の教育」「のびのび教育」に属するものを第一系列と呼ぶことにしよう。同じ理由で、「詰め込み教育」「押し付け教育」「偏差値教育」「管理教育」に属するものを第二系列と呼ぶことにしよう。
第一系列
「本当の教育」「本物の教育」「ひとの教育」「人の教育」「感動の教育」「自由教育」「血の通った教育」「血の通った本物の教育」「のびのび教育」
第二系列
「詰め込み教育」「押し付け教育」「管理教育」
(1)肯定的に語られる第一系列は、常に、第二系列の反語であるということに注目しよう。
(2)そして、第一系列は、常に現実を構成しないということに注目しよう。
(3)第一系列が、身近な場面に適応されやすい言葉であることに対して、第二系列が制度全体に適応されやすい言葉であることに注目しよう。
・ここで、「典型的な人」のイメージに登場してもらおう。
ここで、さらに、ある種の事件を考えよう。何でもよいのだけど、授業中にある生徒Aが、ある生徒Bをナイフで刺したという事件を考えたとしよう。授業中というのは、学校の授業中ということだ。
このような事件の報告を聞いたときに「典型的な人」は何を考えるだろう。
(1)授業中生徒が生徒を刺すなんて、なんて今の学校は腐敗しているのだろう・・本当の心の教育がなされていないからこういう事が起こるのだ・・本当の教育が必要だ。
(2)授業中生徒が生徒を刺すなんて、なんて今の学校は腐敗しているのだろう・・押し付け教育で生徒の心が病んでいるのだ・・押し付け教育ではない本当ののびのびした教育が必要だ。
(3)授業中生徒が生徒を刺すなんて、なんて今の学校は腐敗しているのだろう・・知識詰め込み教育で生徒が疲れ果てているのだ・・知識詰め込み教育ではない本当の教育が必要だ
(4)授業中生徒が生徒を刺すなんて、なんて今の学校は腐敗しているのだろう・・生徒が切れやすくなっているのはカルシウムが足りないからだ・・もっと生徒にカルシウムを摂取させなければ
・これらの思考は、基本的には、個体的な場面から始まって、制度全体の学校に対して言及するということになっている。本当の教育が求められるのは、現実の学校場面においてなのだ。現実の学校場面というのは、実は集合的な「学校」場面なのだ。一つの学校の学校場面ではないし、一人の先生の(教室における)学校場面ではない。扱っている範囲が、違うのだ。思考としては、ある程度直結しているにもかかわらず、実際の思考の範囲が違ってしまっている。
・「本物の教育」が必要だといって、誰かが、「本物の教育」を実行したとしよう。この本物の教育というのは、その人の考える「本物の教育」であって、ほかの人にとっては必ずしも「本物の教育」ではない。しかし、その人が自分の教育こそが本物の教育だと思い込んで、本物の教育を実践したとする。「本物の教育」が実践されました。めでたしめでたし。しかし、学校制度内のほかの学校の教育はまるでかわりませんでした。おしまい。・・なのだ。
・基本的には学校制度内の学校の教育について語っているにもかかわらず、学校制度内の学校の教育には関係がないことなのだ。これが、一人で実践した場合の話だ。
もしかりに、その人の「本物の教育」が学校制度内の学校のすべての学校で実践されたとしよう。これは、これで、恐ろしいことなのだけど、そういう恐ろしいことも、思考実験の中では考えることができるのだ。
・その人の「本物の教育」が学校制度内の学校のすべての学校で実践されたとしよう。その場合どうか? なんかの事件が起こるまでは「本物の教育」が実行実践されていることになり、なんかの事件が起こればそれは「本物の教育」ではなかったことになる。
もっとも、その人の「本物の教育」が学校制度内のすべての学校で実践されるということはないから、そういう心配をする必要もない。
わたしがここで問題にしたいのは、思考パターンと対処の結果なのだ。いいかげん、学習してくれ。範囲が違うのだ範囲が。対処になっていない。最初に問題を感じた場面と、その思考の結果として導き出される行動の方針が食い違っているのだ。
・「本物の教育」について否定的なことを書いてきたが、「本物の教育」を目指す個人的活動を否定しているわけではない。範囲が違うだけだ。 以上(fuku)

・本論考は、「私の生涯の課題:個人と社会の関係」というテーマで、これまで月2回のペースで「ぼろ酔い日記」に紹介していたものだが、今回「読み易さ」を考慮し、ここに「新規論考」として採録し直すことにしたものである。
−−−−目次−−−−
(*)私の生涯の課題とは
(1)近代哲学の難問と基本原理について
(2)「内在的知覚直感」:諸原理の原理
(3)間主観性について
(4)真理という確信
(5)情動性(気分)が根源
(6)意味と価値
(7)”自由”について
(8)”他者の承認”について
(9)「個人の原理」から「社会の原理」へ
(10)おまけ:”良心”というゴール
(*)私の生涯の課題とは
・この30数年間、常に持ちつづけてきた「私の生涯の課題」である”個人と社会”に関する「知見のまとめ」をしたいと思いつづけてきた。簡単に説明できそうにないが、なんとか試みる時期である。
となると「個人と社会」について本格的に哲学的考察を始めた「近代哲学」の概要から始めることになる。そのポイントをできるだけ簡単に、紹介したい。できれば自分の子供(高校生と大学生)だけにでも理解してもらいたい。
・今回は、その紹介の為に必要となる「キーワード」だけの紹介にとどめ、今後少しずつ、分かりやすく説明できたら良いと考えている。
・なお、私のノートから抜粋しているので、悪意はないが、私の師である「竹田青嗣、西研」及び先達「神名龍子」の各先生の文章等を無断借用している所があるかもしれない。
・特に哲学者の写真は、神名龍子HP 「りゅこ倫:どう解くの系譜(クリック)」から借用させて頂いた。
■■■個人と社会の関係を理解するためのプロセス及び主要キーワード■■■
(1)「主観と客観の一致」:近代哲学の難問
(2)「内在的知覚直感」:諸原理の原理
(3)「間主観性」:客観世界をどう確信するのか?「その認識論」
●以上はフッサール哲学
(4)真理という確信:生存に意味を与えるから信じる。
●以上はニーチェ哲学
(5)知覚より「情動性(気分)」が根源的:欲望相関性
(6)意味と価値という「存在論」
●以上はハイデガー哲学
(7)「人間の精神の本質は”自由”にある」というのが基本原理:自己中心性
(8)生の価値は「他者の承認」が必要という逆説:社会という承認ゲーム
(9)「個人の原理」から「社会の原理」へと至るプロセス:正しさの概念が変った。
●以上はヘーゲル哲学
■■■個人と社会の関係を理解するためのプロセス及び主要キーワード(おわり)■■■
なお、このキーワードについて、早く知りたい人は、「現象学入門(竹田青嗣著 NHKブックス)」或いは神名龍子HP「りゅこ倫:どう解くの系譜」をご覧下さい。
以上(mori)
(1)「主観と客観の一致」:近代哲学の難問
・近代哲学の根本問題は「客観―主観の一致の問題」である。
たとえば、ここに一個のリンゴがあるとする。それを私が見ている。@私が見ているそのリンゴは、果たして実在のリンゴそのものと一致しているのか。それとも一致していないのか。Aまた、私が見ているそのリンゴは、果たして他の人が見ているリンゴの像と一致しているのか。それとも一致していないのか。
一致していれば認識は真理であるし一致していなければ認識は真理ではない。つまりこの問題には真理の存否がかかっていると、近代の哲学者は考えた。
・この認識上の根本的問題である「客観―主観の一致問題」が原理的に解けないことを現象学哲学者フッサールが示したのだが、以下において、その辺りをできるだけ分かりやすく説明したいと思う。

(2)「内在的知覚直感」:諸原理の原理
リンゴを見て「赤くて丸い」ものと感じたり、手で触れてみて「ツヤツヤした感じ」を持ったり、かじってみると「まさしくリンゴの甘酸っぱい味」がした、としよう。
この五官(目、耳、口、鼻、触覚)で感じる感覚を疑うことは出来ないと考え、フッサール現象学では、ここを認識の出発点とした。そこで、この感覚を<内在(「内在的知覚直感」)>と呼んだ。
このように、内在的知覚直感から、リンゴという存在の根拠を掴み、”確信”するというのが、認識の基本原理である。これを「諸原理の原理」という言い方をする。つまり、「内在的知覚直感」を前提に認識がなされる、と言う認識の基本構造である。
・これに対して、(1)の図で、人の頭の中(意識)にできている「リンゴのイメージ(像)」を、現象学用語で、「超越」という。「超越」は「内在」に対応する言葉であるが、内在的知覚直感を、一段乗り越えて(超越して)意識の中に構成されたイメージには、「もしかすると、これはリンゴに良く似たニセモノかもしれない」という”疑い”が常に残ることになる。
【この辺りは、これ以上詳細に説明をすることは止めるので、興味の有る人は「現象学入門(竹田青嗣 NHKブックス)」の216〜217ページをご覧下さい。】
・但し、ものごとを認識する場合の底板(根拠)は「内在的知覚直感」にあることをご理解頂ければ、ここでは十分である。 以上
(3)間主観性について
・間主観性、この言葉はフッサール現象学の中でも、一番難解で、それだけに誤解の多い言葉のようである。
実は、以下の私の説明も自信はない。私は、このように理解している、というだけである。
・まず、「主観/客観の一致の難問」を解く場合に、はたして、「主観の中のリンゴ」が「客観的にあるのか、ないのか」という議論をすると不毛になる、というのが、前回までのお話のポイント。
フッサール現象学の教える所では、「”リンゴがあるという確信が成立しているだけである”と考えなくてはならな」という。そこで「リンゴが存在するという確信だけが、確かにある」ということは分かったとしよう。

・では次に、どのようにして「(そんなリンゴやそのリンゴの存在を確信する自分が存在しているような)この世界そのもの」の存在を確信できるようになるのであろうか?
それを説明するためにフッサールは「間主観性」という言い方(概念)を用いる。
・赤ん坊が成長する過程に例えながら、簡単に言うと次のようになる。
(1)自分(自分の身体は五官で知覚できる)と「自分の外部」との区別をする段階があって、その次に、
(2)「自分の外部」に自分とよく似た存在(他の人間)、たとえば、お母さんを認める。
(3)お母さんが「リンゴ」を見ているとしよう。お母さんががどのように知覚しているか、その感じは、自分(赤ん坊)の場合と同様に分かる(内在的知覚直感)。
・つまり、自分の外部の他の人間(ここでは、お母さん)も自分と同じような感じ方で「リンゴ」を見ているのだと主観する(認識する)。この「他者のことを主観する(イメージする)意識の働き」を「間主観性」と言う。これにより、自分と他人を含む「共有の世界」が存在することを確信するに至るのである。
以上(mori)
(4)真理という確信
・これまでの説明で分かる通り、人間の認識は客観と一致するという保証もなく、他者の認識と共通するという保証もない。従って、「リンゴという具体的事象の認識」や、定量化できる「自然科学的認識」を除いた普通の生活上の事象に関しては、各人それぞれの認識が違っていても不思議は無い。
・各人が”自由に認識できる”が故の不一致が、当り前の状況であり、その不一致こそが争い(戦争)や憎しみの原因となっていると考えるべきである。ましてや、「皆に共通の真理などあろうはずがない」とニーチェが言うのである。
・神でも、民主主義でも、それらは決して真理ではなく、フィクション(物語)であり、それを信じるのは、信じることにより「生存に意味が与えられる」からである。
・つまり「ある」のは、真理ではなく、真理という確信(ここでは、思い込みに近い)であるとニーチェは言う。

・ここで重要なのは、真理という確信が「生存に意味を与える」、つまり「生きる上での力と安定の感情を与える」のは、それなりに意義がある。しかし、それが当時の権力者達に都合のよい解釈に基づくフィクションに過ぎないことを、ニーチェが鋭く暴露したのである。
・具体的に一例を上げると、教会と僧侶が権力を得るための道具としての「キリスト教会」を、二ーチェは「ルサンチマンに基づく僧侶という牧童が、人々の畜群本能を利用して、羊の群れを導く仕方で支配した所」と批判した訳である。
(5)情動性(気分)が根源
・「諸原理の原理」で説明した様に、フッサール現象学では、五官に基づく「知覚直感」から、たとえば「リンゴ」という存在の根拠を掴み、”確信”するというのが、認識の基本原理であると考える。
これに対して、フッサールの弟子である「ハイデガー」や、フッサールの生れ変りかもしれない「竹田青嗣」は、「知覚」以前に「情動性」が認識の底板(根源)としてある、と考える。その理由は、あるイメージに「快や苦痛」という感情性(情動)が付きまとうのは<意識>にとっては原理的に不可知だからである。そのように、向こうから告げ知らされるものを欲望(竹田流の言い方では「エロス」)という。

欲望という言葉を一寸、補足しておきたい。
動物にとって<食べると美味しいという気分を持てるもの>としての「餌」を考えてみる。この「餌」がエロス的対象であり、その「餌」を摂取しようとする意欲を「欲望」という。
さて、何故、「ハイデガーや竹田青嗣」の考え方が優れている(射程の深い考え方)かというと、「リンゴ」のような具体的な事物の場合は、フッサールの「知覚説」でOKであるが、「不安とか死」というような実存的なもの(価値を含むもの)を考えてみると、よく分かる。
・これらの実存的なものは「形式性」だけでは、その意味のほんとうの所は捉えきれず、ある「解釈」を含まざるを得ないことが分かるであろう。つまり、知覚と違い、情動の与えられ方は捉えきれない所があるが、そこから存在の意味を組立てないと、「意味や価値」にまで届かないのである。
つまり、知覚として受け止められるためには、情動(気分)、欲望(エロス)が根源(不可欠)という訳である。
(6)意味と価値
・フッサールが持ち続けていた問いとは、結局、「学問が人間にとっての究極の問題を排除してきた、それは、人間の生命全体に意味があるのか無いのか」である。
これに対して、ハイデガー/竹田青嗣が一つの回答を与えた。つまり、情動的(心的)なものは、根本的には世界を感じるものであり、この感じ取りの共同化が意味を形成し、もの自体の世界という理念を形成する。
分かりやすく言うと、人間の生が単なる動物的な生と異なるのは<意識>の自己対象化の本性を持ち、自分の生の意味や価値が絶えず現れ、そこで喜びや悲しみそれ自身が味わえるからである。人間の生が生き生きした経験であるのは、<意識>が常に、自分と自分の対象についての意識(リンゴとリンゴを味わっている自分の両方の意識)を合わせ持っているからである。
「知覚に情動が伴われなければ、人間は行為をしないであろう(竹田青嗣)。」というのは正解のように思われる。

・世界の事物は「なぜ、このように存在しているのか」という質問に対して「因果論的」に答えるとすると「神」あるいは「不可知」という回答しかでない。
しかし、何故、このような問いが発せられるのかと問い、そのモチーフに対して答えることはできる。それが「存在論的(意味論的)」に問うということである。そこから(意味論的な所から)、人間にとっての「生の意味」はどのようにあるかを問うことが重要である。(決して、人間の生の意味を「どうあるべきか」と問うてはならない。)
つまり、質問が、意味のレベルで「この世界は自分にとって、どういう意味をもっているのか」という形に変換された時だけ、有意味なものとなるのである。それを主張したのが、ハイデガーの凄さ/偉さである。
(7)”自由”について
・「人間の自己意識は、精神の”自由”を求める。」というのがヘーゲルの基本的考え方である。
・人類の歴史は、この「自由」の拡大の歴史と言って良く、一度「自由」を手にした社会(共同体)は、決して後戻りすることがないことが、自由獲得の意義・重要性を示している。但し、この「個人的な自由」は、「自己中心性」につながるものである。

・そこで、個人の集まった「社会」においては、各人の「自己中心性」を調整するための「ルール」が不可欠となる。
個人の自由(自己中心性)を前提とする「エロス」が社会との間で、うまく関係していける「社会とのエロス協調関係」こそが、「ルール」の基本(ルール変更の基本)である、というのが現象学的発想である。
・しかし、人間の「自己中心性」は、ある条件の下で「社会性」とつながることで、もっと「エロス」が大きくなる可能性(原理)を持っている。
それが他者による「承認の原理(共存の原理)」である。
(8)”他者の承認”について
・ヘーゲルは、実は「自己意識は”自由と共同性”をめざす」とも言っている。ここで、「共同性をめざす」という言葉は、自分が「自由」に基づいて行動したことが、やはり、他者に承認されないと、より深いレベルでの満足は得られない、という人間のもつ不可思議さを暗示しているようである。
下の写真は、フランスの有名な港「オンフルール港」です。

従って、人間が”生き生きする”ために、社会性(共同性)が不可欠であるということを知る必要が出てくるのである。
・この、一人では生きられないが故に「共同性を目指さざるを得ない人間」、それは「愛されたい」という気持ちの延長・変形であると言う哲学者・西研の見方が分かりやすい。
・なお、ここで言う「共同体」とは、意味と価値を共有する人々が、「ルール」を基本として集まった集団のことであるが、「ほんとう」とか「正義」というものの実体的根拠などは無いので、「共同体」を支えるための物語(共同幻想)を作り、結束を固めるようになるのが一般的である。
(9)「個人の原理」から「社会の原理」へ
・個人の自由から出てくる「自己中心性」を調整するための「ルール」が、共同体においては必要となることは、比較的容易に理解できる。
しかし、必要条件としての「ルール」だけでは「共同体」はうまく機能しない。モラル、倫理、個人の良心とも呼ぶべきものが必要と考えられる。
・では、「それらが可能となる条件は何か?」
それらについて、近代以降の哲学者、社会学者等が考えてきたのである。
・その一つの回答を、一言でいうと「ヘーゲルの言う”良心”が、個人と社会をつなぐキーワードである。」ということになる。これは、朝日カルチャー哲学講座で竹田青嗣先生から教えられたことである。
・その「良心」とは、★個人同士がお互いに「共同的存在であろうとする意志」が前提となって、★その場その場で「インスピレーション」的に自己決定していく判断のことである。
具体的場面で考えていくしかないが、具体的場面で考えたとしても、果たしてその考えが正しいかどうかも、その時点では分からない(自己決定した本人は、正しいと思っても、多数の他者からの承認がないと「真」であるとは決められないからである。(注)) 「言うは易く、行なうは難し」という表現(概念)である。
(注)正しさは、共通了解から作り上げる、というのが現象学的発想である。
(10)おまけ:”良心”というゴール
・このような人間の本質を知ることにより、人間の認識は成長し、良心は「絶対知」に近づく(社会的な善が分かるようになる)と、ヘーゲルは言う。「絶対知」という言葉は、誤解を招きやすい危険な表現である。共同体への意志(或いは、共生への意志)を持ち、他者との共通了解(相互理解)を目指す生き方が「人間の本来性」であり、これが「良心」の段階であると言うわけである。
・以上、「私の生涯の課題(個人と社会)」に関して、簡単に説明してきたが、この「個人と社会」に関して、初めて哲学的検討を開始したのが「近代」である。
しかし、近代が発見した諸原理「自由、言葉、平等、欲望、等々」の実現が遠のいている現状を目の当りにして、一寸迷いが出ているようにも見受けられる。その意味で、もう一度、近代哲学の意義を再考したいとするのが、哲学者・竹田青嗣、西研等の活動の意義である。
笹倉鉄平氏の作品「オンフルール港」

・僭越ながら、その近代の発見した原理を、先立ってご紹介し、この駄文を締めくくりたいと思う。
1)近代になって初めて、「その社会のルール」が絶対的なものではなかったことが分かった。
つまり、社会のルールが絶対的なものか否かが、近代以前と近代を区別する基準である。
2)社会に対して良い関係を持てること、具体的に言うと「ルールの変更に関与できること」が重要な要件となった。
それが社会の良さ/明るさにつながるものである。そのためには、ヘーゲルは「富(財産)と能力(仕事)」の二つが特に重要である、と言っている。
3)近代哲学は、「正しさが、どこかにあり、それを見つける(言葉で表現する)」という哲学ではなくなった。
近代における「正しさ」は「個人の自己中心性を調整できる」と言う条件で、その正しさを判定する。
つまり、近代以降は「正しさ」の考え方が変わったのである。
以上で本論考は終了(mori)

◆本論考は、次回論考「生涯の課題:完結編」で全面的に置換わりますので、無効とします。(2004/01/31)◆
「良心の原理・その後」
(1)はじめに
前回の「生涯の課題:個人と社会の関係について」では、個人と社会をつなぐものとしての「良心(注)」というキーワードに、理論的に「自分なりの納得がいった」ということで、一応の解答として決着をつけておいた。
しかし、理論的には納得できたが、翻って、個人の自由が最大限に実現されたと見える「現在の日本」を見ると、「果たしてこれ(この解答)で良いのか?」という疑問が湧く。
ニーチェは「自由の野放図の拡大は、ある種の価値が失われ、ある種の悪徳がはびこる。」と言った。たとえば、高貴さや気概が失われ、無恥や公私混同がはびこる、という訳である。その状態を「奴隷道徳の国」とニーチェは呼んだ。今の日本は、その通りの国になっている気がしてならない。
個人と社会の原理である「自由とその相互承認」(原理1と呼ぶ)は正しいが、それだけでは何か足りない気がするのである。それだけだと「個人的なもの(自由への欲求)から社会的なもの(道徳/倫理)へつながる道」が見えない気がする。勿論、そのことには、竹田青嗣先生や西研先生だけでなく、多くの人が気づいており、その”つながり”を模索中である。
その足りない「何か」とは、「自由とその相互承認」以外の別の原理(原理2と呼ぶ)、或いは「自由とその相互承認」を実現するための条件であるかもしれない。
(注)良心:
ヘーゲルの使う「良心」という言葉は、共同体への意志(或いは、共生への意志)を持ち、他者との共通了解(相互理解)を目指す生き方が「人間の本来性」であり、これが「良心」の段階である。
(2)実現のための条件:自己啓発する大衆
「自由とその相互承認」(原理1)を実現するための条件ということで考えると、へーゲルが”教養”と言っているものが相当するであろう。教養を現代風に言い直すと、「自己啓発」と言えば良いであろう。つまり、原理1が有効であることを知り、それを実践(体得)するという「自己啓発」を試みる大勢の人々が出現することが、その条件のような気がする。
但し、これまでの歴史(日本の経緯)を見れば分かる通り、この自由を謳歌する今の日本では、大勢の人々に<知の獲得>を期待するのは、かなり難しいと言わざるを得ない。
つまり、<私的欲求>から<公的倫理>へとつなげるための<知の獲得>という条件が必要としても、一般的には、とても難しいと思われる。
(3)原理2:親和の意識
私(管理人mori)は、3年程前から、「個人的なもの(自由への欲求)から社会的なもの(道徳/倫理)へつなげる第2の原理があると思っていた。その原理2については「考察し、文書化し、3年ほど前に、竹田先生や西先生その他の人に配布し、見て頂いた」ことがあったが、反応はゼロであった。正解とは言えない考察結果であったようだ。当然、採り上げるに足りない「考察」であったと思われたのだろうが、それは致し方ない所であったと自分なりに納得した。
しかし、私個人としては、どう考えても、原理2がないと原理1が実現できないと確信し続けてきた。
その第2の原理は、個人ではなく、むしろ共同体の方から出てくるものである、という直感に基づいてものである。しかし、竹田先生も西先生も、「個人のエロス性に、個人の自己中心性を乗り越える原理が内在するはずである」そして「正しい認識(自由の相互承認)が、どういう条件で、強い感情(道徳/倫理)につながるかを模索すべきである。」という考え方は変らない。私も、その通りと思っているが、その解答が一般的には見つからない(特定の小さな共同体は別とすると)と思っている。
フッサール現象学を勉強した人には分かると思われるが、この種の確信は実は困った確信なのである。その確信の強さのため、以前の考察結果を、再度ここに紹介する次第である。(なにしろ、3年前には、このHPがなかったのである。)
その原理2とは【「人間は(不安回避の意識の裏返しとしての)親和の意識を持つ」従って、「親和の意識の相互被承認」が重要となってくる。】というものである。簡単にすると、原理2は「親和とその相互被承認」となる。
原理1の「自由とその相互承認」が”自我の拡大のための原理”とすると、原理2は”自我の安定のための原理(自我の不安の減少を図ると言う意味での安定化である。何故なら、他者は自我の承認でもあり、自我の怯えでもあるという両義性を持つからである)”と言えると思う。
(4)類比的同型性
そこで、以下に、原理2に関して、若干の説明をしておきたい。
まず、個人と共同体(社会)を考える際、共同体の成立根拠は”怯え(怖れ)”にあると考えた。(これは他の人からリレーされた考え方である。)2〜3年前に考察したところでは、この怯え(恐れ)を中心にして道徳や倫理につなげたのであるが、今回はその間に、もう1クッション(親和性)を挟むことにしたのである。
そこでたとえ話を一つする。共同体の中では、人を好きになる自由があるが、その好きになった相手から、自分が好かれるかどうかは分からない。それを哲学的に言うと、「自分が好きになる自由は所有しているが、相手から好かれる自由は所有していない」ということになる。これは、入社試験の面接でも同じである。当り前の話である。
その際、どうしたら「相手から自分が好かれるか」、或いは「どうしたら面接官に選ばれるか」を考える時には、どうするであろうか。普通は、「自分を相手(他者)の立場に置き、どういう自分であるか、どういう自分であるべきか」と考えてみると思われる。これをフッサールの使う言葉で「類比」という表現で呼んでみよう。
そうすると、人間は他者の表情や気持ちを読取り(これを浜田寿美男さんは同型性と呼ぶ)、相手の思いに添える能力(相補性)を持っていれば、この「類比」作戦は有効となるはずである。相手の表情や気持ちを読取る能力を人間は、生得的に持っていると、浜田寿美男さんの著作「「私」とは何か」で教えられた。従って、その生得性を「人間は親和の意識を持つ」と表現し、その親和の意識が他の人から相互に承認をされる(被承認)という言い方で表現した。 まとめると、類比的同型性から類比的相補性を採るという作戦である。この様な形で その原理2を追加してみたいと思い続けていたのは、追加してみると色々なことが説明できると思ったからである。
(5)その他の考察
しかし、慧眼な人はここで、「原理2は、ヘーゲルの言う「自由とその相互承認(原理1)」の根拠である「人間の欲望の本質は他者への欲望である」の言い換えに過ぎない」と言われるかもしれない。
原理2は、若干ニュアンスは違うが、基本的にはその指摘の通りである、と認めざるを得ない。あえて、これを原理2として設定するのは、その微妙なニュアンスを入れておくほうが、後々の考察がやり易いと考えたためである。更に、原理1の発展形としての系1(自我の拡大原理)、原理2の発展形としての系2(自我の安定原理)としてつなげたものを表ー1に示しておいた。
(6)さいごに
表ー1に示した「条件1,2」は、原理1,2を実現する場合に必要となるもおであるが、「(2)実現のための条件:自己啓発する大衆」で説明したように、その実現は難しい。
その場合、竹田先生が「吉本隆明の現在(「現代思想・入門2」所収)で解説している「多くの人々は決して<知>には近づかないままでいる。・・・そしてここで吉本が提出しているのが<無意識>という概念に他ならない。」と言う箇所(「マス・イメージ論」の中で、吉本隆明の言う「無意識の必然化」として説明されている箇所)が参考になる。
つまり、<知>というような意識的通路でなく、無意識的通路によって対処しようとする作戦に希望をみつけることである。(注1参照)たとえば、レヴィナスの言う「他者の顔」や、ジンメルの言う「親密性の成立」という考え方が該当するかもしれない。
(注1)
「無意識の必然化」に関し、吉本隆明は次のように言っている。「知的に世界を把握するのではなく、”無意識の通路”に着目すること。人々が社会や歴史の総体を捉えるには必ず<知>を必要とするが、多くの人々(大衆)は決して<知>に近づくことは無い。となると、結局、大衆は自らの歴史や社会に近づく道筋を持たないことになる。(ここで吉本隆明は「高度消費社会の進展」を考える。)その高度消費社会の進展の中で、マルクス主義を含むかつての古典的世界像が解体しつくすような道筋をたどっている。今まで、この古典的世界像は、いつも<知>の通路を通って人々が世界に近づくような見方をしていたが、それが取り払われたとき初めて、「無意識の通路」を通って、人々が世界に近づくような道筋が開かれるであろう。」と。
吉本隆明は、その「無意識の通路」として、テレビコマーシャル、サブカルチャー、エンターテインメント等を挙げて紹介しているのである。
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なお、ここではこれ以上の考察結果の説明は省略するが、原理1、原理2及び系1.系2を前提とした上での更なる考察結果(特に「現状の問題点の解決に役立つと思われる「条件」は、これらの原理を実現する場合の条件という意味である。)を表ー2には追記しておいたので、ご覧頂ければ幸いである。以上(mori)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■表ー1「個と共同体の原理」

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■表ー2「表ー1のつづき」


◆本論考は前回論考「生涯の課題:良心・その後」の改定版です。(3)以降を全面的に書き換えました。◆
(1)はじめに
前々回(2003/09/13)の「生涯の課題:個人と社会の関係について」では、個人と社会をつなぐものとして「(ヘーゲル的)良心(注)」というキーワードに対し、「自分なりの納得がいった」ということで、一応の解答としておいた。
しかし、理論的には納得できたが、翻って、個人の自由が最大限に実現されたと見える「現在の日本」を見ると、「果たして、この解答だけで良いのか?」という疑問が湧く。
ニーチェは「自由の野放図の拡大は、ある種の価値が失われ、ある種の悪徳がはびこる。」と言った。たとえば、高貴さや気概が失われ、無恥や公私混同がはびこる、という訳である。その状態を「奴隷道徳の国」とニーチェは呼んだ。今の日本は、その通りの国になっている気がしてならない。
個人と社会の原理である「自由とその相互承認」(原理1と呼ぶ)は妥当と考えるが、それだけでは何か足りない気がする。それだけだと「個人的なもの(自由への欲求)から社会的なもの(道徳/倫理)へつながる道」が見えない気がする。勿論、そのことには、竹田青嗣先生や西研先生だけでなく、多くの人が気づいており、その”つながり”を模索中である。
その足りない「何か」とは、「自由とその相互承認」以外の、もう一つ別の原理(原理2と呼ぶ)、或いは「自由とその相互承認」を実現するための条件であるかもしれない。
(注)良心:ヘーゲルの使う「良心」という言葉は、共同体への意志(或いは、共生への意志)を持ち、他者との共通了解(相互理解)を目指す生き方という意味であり、これが「人間の本来性」である。
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(2)実現のための条件:自己啓発する大衆
「自由とその相互承認」(原理1)を実現するための条件ということで考えると、へーゲルが”教養”と言っているものが相当するであろう。教養を現代風に言い直すと、「自己啓発」と言えば良いであろう。つまり、原理1が有効であることを知り、それを実践(体得)するという「自己啓発」を試みる大勢の人々が出現することが、その条件のような気がする。
但し、これまでの歴史(日本の経緯)を見れば分かる通り、この自由を謳歌する今の日本では、大勢の人々に<知の獲得>のための「自己啓発」を期待するのは、かなり難しいと言わざるを得ない。
つまり、<私的欲求>から<公的倫理>へとつなげるための<知の獲得>(そのための「自己啓発」)という条件が必要としても、一般的には、とても難しいと思われる。
(3)原理2:自己顕示性の意識(或いは裏返しとしての「嫉妬の意識」)
私(管理人mori)は、3年程前から、「個人的なもの(自由への欲求)から社会的なもの(道徳/倫理)へつなげる第2の原理があると思っていた。その第2の原理は、個人ではなく、むしろ共同体の方から出てくるもの、という直感に基づいていた。これに対し竹田先生も西先生も、「個人の自己意識の中に、自己中心性を乗り越える原理が内在するはずである」そして「正しい認識(自由の相互承認)が、どういう条件で、強い感情(道徳/倫理)につながるかを模索すべきである。」という考え方をお持ちであった。私も考え方はその通りと思っているが、その具体的解答が特定の小さな共同体を除くと「今の所見つかっていない」と思っている。
そこで原理2を模索しつづけてきたのである。その結果、原理2とは【共同体内で、人間は自己顕示性の意識(或いは裏返しとしての「嫉妬の意識」)を持つ、それは共同体から離れることの<不安>から来る意識である。】と考えることにした。簡単にすると、原理2は「自己顕示性の意識(或いは裏返しとしての「嫉妬の意識」)」である。
この原理2の考え方は「制度派経済学」の創始者であるソースティン・ヴェブレンの主著「有閑階級の理論」で提示されている思想である。
(4)ヴェブレンについての補足
ヴェブレンの基本的な発想はヘーゲル同様「@自己欲望(自分に特別な価値があると認めてもらいたい)が他者欲望(他者の承認を得たい)に向かう」というものであり、その前提として「A人間は共同体に属さなければ生きられない」の2点である。なお、Aに関しては、人間は一人では生きられないために、〈制度〉としての<共同体>に所属し続けた結果、共同体から離れることが<不安>になるという心理を持つように至った、とヴェブレンは言う。
さて、「共同体に関連する<不安>を前提とした顕示的欲望(自分を誇示するための「見せびらかし」をしたい)」をキーワードにして、経済的発展史をヘーゲル「精神現象学」的に展開するヴェブレン思想のスケールの大きさは”目を見張る”ものがある。その射程は大変に広いと思う。その自由主義者ヴェブレンは無制限の自由を否定し、安定した国家、社会、経済システムの構築のためにこそ〈制度〉を作る必要があり、それが経済学の仕事であると考えた。
(4)さいごに
今回の「個人と社会の関係について」完結編でも、個人と共同体(社会)を考える際、<不安>の根拠は共同体にあると考えた。2〜3年前に考察したところでは、この<不安>を中心にして道徳や倫理につなげたのであるが、今回はその間に、もう1クッション(自己顕示性)を挟むことにしたのである。
今回は、この自己顕示性、即ち「ムダやヒマの見せびらかし等々」に関しては、その説明を省略した。機会をみて、これらの考え方が説明されている著書「有閑階級の理論」の紹介を兼ねて補足説明するつもりである。以上

最終更新日:2004年1月31日