
「ぼろ酔い日記」(2003年11月〜)RETURN
会員のみなさまへ 無事に到着できて、なによりです。(mori)
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・2005年に入っても相変わらずの体調不良のため、読書も控えめな毎日でしたが、先月ふとした折に、「おすすめ本を紹介する書評サイトとして有名な【Excite Books】を見ていて、次のような不思議な文章が目に入った。
『カターい「思想」を噛み砕いて伝えることに関して、この人の右に出る者はなし。日本のおじさんの星、内田樹さんに、新著『映画の構造分析』を中心に話を聞いた(つもりがいつのまにやら話が転々)。エキサイト版「おじさん的思考」をどうぞ!』
・全くなんのことやら分からず読みつづけて、ついにブログ「内田樹(たつる)の研究室」に到達した。一寸だけ覗く積りだったのに、どの記事も面白く且つ、ためになるし、次第に「日本のおじさんの星 内田樹」なる謎の人物のベールを剥いでいく快感におぼれ、数日かけて、2004/2005年分のすべての「ブログ日記」を読んでしまった。目からウロコが落ちた等という生易しい表現では無理だ。ほんとうに”すごい人だ”と思った。洞察の視点が”鮮度抜群”しかも納得させられる!
・ついでなので、著書をかじってみようと最初に読んだのが『ためらいの倫理学』。ぐーっと、迫ってくるものがある。勿論「良書年報」に○印登録、次に『「おじさん」的思考』、『街場の現代思想』を読破。この辺りで完全に「内田樹ワールド」に呪縛される。特に『街場の現代思想』は2重丸(◎印超良書)。ここまで来ると「毒を食らわば皿まで」というか、暴走気味に『他者と死者』に着手。本書は「ラカンとレヴィナス、という超絶に難しい二人の思想家」を重奏するという評判の高い「難解な本」であったが、どうにか理解できた。内田先生(ここから、呼び方が”先生”になる。但し、内田先生の本を良く読んだ人は分かるが、心境がもう一つ上の段階に至ると”師”と呼ぶようになるそうである。)は超絶技巧を持った書き手であった。本書『他者と死者』は、たしかに難しいし、現象学を勉強している管理人(mori)にとっては「レヴィナスは哲学者というより宗教家ではないの?」という読後感がしないでもなかったが、公平にみて「良書と認定」せざるを得ず、またまた「良書年報」に○印登録。そして、今『先生はえらい』を読み終えた所である。この『先生はえらい』は高校生向きに書かれたらしいが、この本を高校生に読ませるのは一寸可哀想な程の「濃い内容の本」であった。しかし『ためらいの倫理学』から『他者と死者』まで読破してきた管理人にとっては「全体の復習」をしている感じで、楽勝でした。うーん、久しぶりに読書に耽溺してしまった。
・先ほどは「内田樹なる謎の人物」と言ってしまったが、博覧強記とはこういう人をさす言葉だったのかと改めて感心させられた。本当に「内田樹先生はえらい」!! この文章を読んで信じられる人も(反対の意味で)信じられない人も、まず【内田樹の研究室(http://blog.tatsuru.com/)(クリック)】を覗いてみてください。以上(mori)
・竹田哲学の柱は二本あると思う。一本は「認識論/欲望論(エロス論)」、もう一本は「個人の自由とその相互承認論」である。
・一本目の柱に関するこれまでの最大の成果(著作)は
『言語的思考へ 脱構築と現象学』(径書房)(詳細はこちら)であったと思う。
私(管理人mori)はこの著作を読んで「竹田哲学のひとつの到達点」を実感し、感動した。
・そこでは、「言語の謎」という現代哲学の難問に対して、現象学的アプローチで迫り、見事に解明している。つまり、「言語の意味は、発語者と受語者との間の信憑構造にある」という洞察である。これは、現象学的思考方法を知っている者にとっては「コロンブスの卵的な解き方」である、と分かるはずである。竹田さんにそう言われてみて初めて「なるほど!」と深く納得させられた。
なお、一本目の柱に関しては、最終的に「エロス論を中心にした著作」を構想中とのことであり、期して待ちたい。
・さて、二本目の柱に関する最大の成果は、昨年末(2004年)に刊行された『人間的自由の条件』(講談社)である。(詳細はこちらでご覧下さい。) 但し、この著作は以前に、群像2002年9月号に「資本主義・国家・倫理」、群像2003年8月号に「絶対知と欲望」、群像2004年8月号に「人間的自由の条件」として発表された3本の原稿を、夫々第1章から第3章として一冊にまとめたものである。
・ということで「群像」掲載時に読んでいた私としては「改めて読む必要は無い」と考えていたのであるが、最近になって「どうも最終部分は大幅に加筆修正されたようだ」という感想を聞き、遅ればせながら、今回再読してみた次第である。 といっても各章150ページ平均、全体で450ページを超える大部な著作なので、最終の第3章「人間的自由の条件」だけを再読してみた。そこで分かったことは、確かに最終部分の内容は、かなり変っているということだった。そのため、「群像」掲載時に読んだときとは全く違う印象/感動を受けたのである。正直に言うと、「群像」掲載時には、結論に具体性が見えないということで(その時は、哲学だから当然か、と思っていたが・・・)感動は少なかったように覚えている。しかし今回は、近代から現代世界の「表象」を哲学的に「概念」化するだけではなく、その「概念」を具体化するための「社会学への転移作業」に踏み込む姿勢がはっきりと確認できた。ここでは竹田哲学のもう一つ(二本目の柱)の到達点を示していることが分かり、感動した。
・近代社会は、人間の自由を確保するべく出発したはずだが、「自由主義経済と国民国家主義」の現代になって、「大きな矛盾(大きな格差等)」を生じさせることとなってしまったこと。だからといって「自由競争や国民国家の原理そのものが駄目」だとは考えないで、「近代社会の原理はそれ自体としては間違っていないのに、なぜそれが正しく機能しなかったのか、を考えつめること」という点に、竹田さんは重点を置かれたのであった。
・それは、ある意味で「当たり前」の言い方かもしれないが、それを「多くの人に納得させるしっかりした論理の運び方」が見事になされていた。その重心を前提に「社会学への転移作業」へと進める第1歩として、 【政治面では「一般意志(一般福祉=国民の利益)」、経済面では「配分の公正」を、いかに実現するか】を課題として設定し、【難しいことではあるが、より多くの人々の「社会的同意」へ向かう他に方法はない】という方向を示している。ここが2004年度末に「竹田青嗣の到達した地点」である。この地点を示してもらったことで、私にとっては、「生きる上での確かな支え」を得たことは間違いない。そんな確信が湧いてくる良著である。そんな良著を書いてくれた「竹田先生は、えらい!」 以上(mori)
・4/05で「内田樹先生はえらい」と言い、4/25で「竹田青嗣先生もえらい」と言った。では「どっちの先生が、えらい?」のかと考えて、「内田樹 竹田青嗣」をキーワードにしてWEB検索をしてみたが、両先生を比較している記事は少なかった。
そこで、自分で比較してみた。比較というと「知慧(違いを認識する〈知〉と同じを認識する〈慧〉」の「知=相違点」を探すのが基本と考えて、両先生の相違点を探した。
・その結果、一番の相違点は、内田先生が「倫理の根拠」を「超越的なる【他者】」に置き、竹田先生は、それを「超越を目指す【欲望】」に置くと言う点にある。 その相違点は、レヴィナスを師とする「内田・他者/語りかけ論」とフッサール+ハイデガーを師とする「竹田・欲望論」に由来する、と考えられる。
・そこで、まずこの結論を構成する哲学的キーワード【超越・倫理・他者・欲望】について説明しなければならない。
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【超越】とは「自分の主観の外部」ということで、そこに「神や仏や死者や革命や恋愛やその他の何か」が存在している。従って「超越的なる【他者】」とは「他者は超越的な存在である」ということ。ちなみに「自分(自我)の主観の内部に存在する他の人(他の我)」、例えば「自分の友人や親兄弟などの、具体的な他の人(他の我)のことは「他我」と言って、他者とは区別している。(【他者】には他我を超え出る何かがある。つまり自我の理解の可能性を超え出るものを【他者】は持っている、と言う訳である。)
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・内田先生の言う「超越的なる【他者】」とは「(他者に対して重い責任が有るという自分の)有責性を語りかける超越的存在としての【他者】」である。すなわち、この場合の【他者】とは「人間の倫理的根拠として、あらかじめ基礎付けられた超越的存在」ということになる。(これがレヴィナス師の考える「倫理的根拠としての他者」である。)
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【欲望】とは、具体的には、喉が渇いた時に「水が飲みたい」と欲求したり、抽象的には、何かにあこがれたりする場合のことであり、生活体験に根ざした言い方なので、理解しやすいと思う。但し、自我の主観の内部で感じられる【欲望】は、しかし【彼岸性(主観の外部、つまり【超越】から到来し、告げ知らされる)】という性格を持つと共に、自己中心的(必ずしも道徳的なものではなく、むしろエロス的)な性格を合わせ持つものである。この【欲望】は「【他者】への欲望」と言われるように、【他者】の承認を求め、承認を得ることでより大きな満足を得る。しかし【他者】に出会うことで挫折する場合を避けられない。挫折するとともに「真や善や美・・・」という超越的幻想を求めることになる。
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・この超越的幻想につながる「【超越】を目指す【欲望】」が【倫理】の根拠となると竹田先生は言う。具体的に言うと、【他者】を一番深く認識するのは「自分の親友や恋人との関係」においてであるが、その関係においては、自我は【欲望】を押さえ、相手の新しい一面を発見したりするからである。そこに【倫理】の根拠を求めている訳である。
・以上をまとめると、【超越・倫理・他者・欲望】の理解そのものに関して、両先生には余り相違がないのであるが、【倫理】の根拠として、直接的に【他者】を置く内田先生と、それは独断論であるとして斥け、(【倫理】の間接的根拠としては【他者】を置けるとしても)【倫理】の直接的根拠は【欲望】に置く竹田先生の相違点が見えてくる。
そこで、どっちの先生がえらいか?ということであるが、論理的に納得できた「竹田・欲望論」に軍配を上げた積りであった。ところが、この記事を書き上げた後、偶々、【内田先生のHP(2005年05月07日 サラリーマンの研究)】を読んでしまった。その感動的に素晴らしい「語りかけ」を実感し不覚にも、情緒的(説明を聞いて感動すると言う意味で)には、内田先生を「是非とも支持したいという衝動」が、フツフツと湧き上がるのを抑制できなかった。(この辺りは、内田先生の表現を真似してる。)その結果、はじめから見え見えの結論で申し訳無いが、「この両先生、どっちもえらい!」ということになった次第である。 以上(mori)
・私(本HPの管理人mori)は、2000年から、竹田青嗣さんの「現象学講座(朝日カルチャー)」を皮切りに、以後、2004年に体調不良で中断するまで、竹田/西さんに関する哲学講座は、ほぼ受講してきた。そのお陰で、年来の疑問も解け、自分なりに納得できる「世界観」を確信できている。
・その竹田さん西さんが中心となって運営している「現象学研究会」は30年近くも前にできたものらしい。実は、私も一年ほど前に、竹田先生からメールを頂き「現象学研究会」への参加を薦められたが、「現在は体調不良のため参加できませんが、体調回復したら必ず参加しますので、それまで待って下さい。」とのお断りメールを、泣く泣く(本当に!)返信したことを覚えている。それに対して「研究会はこれからもずっと続けるつもりなので、体調回復に専念して下さい。」との竹田さんのお返事を頂き、それを希望の糧にして、病気と闘っている所です。

・その「現象学研究会のHPができる」という”うわさ”が数年前から有り、期待していたが、すっかり忘れていた。
それほど待たされた訳である。その意味では、本当に待望久しき「現象学研究会」のHP(詳細はこちらで)が、2005年5月にやっとオープンした。
まことにご同慶の至りである。
・HPは「現象学研究会」の活動を伝えるページであり、主に「研究会の報告と、メンバーの著作や活動を紹介して行くようだ。 内容そのものは、これから充実させていくというレベルであるが、現在は「現象学研究会ホームページ開設記念対談(竹田青嗣×西研)として」@現象学研究会ができるまで A「現象学の刷新」をめざして がアップされていて、参考になる。 とくに【A「現象学の刷新」をめざして】は、竹田青嗣&西研の「現象学の現実世界への展開」に関して十分な意気込みを伺わせるもので、大変に分かりやすく参考になる対談である。
★一寸補足
・竹田「現象学講座(デカルト的省察を読む)」の、私にとっての第一回合宿(2001年3月)で、現象学の真髄に触れて感動するとともに、懇親会で、その感動を報告し、最後に「フッサール現象学と竹田エロス論のつながりが良く分からないので、今後、この点に注目して勉強を続けたい」と意欲を示した所、竹田先生が「そこは、大変興味深いところなので、是非勉強してください。」と仰られたことを今でも鮮明に記憶している。 その合宿で使ったテキストの中に挟んである「懇親会での竹田先生と私のツーショット」を見ていると、『先生はえらい(ちくま書房)』の中で「尊敬できる先生は恋人に似ている」と言われた内田樹先生の、その言葉の真意が分かる様だ。
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・その「現象学とエロス論」のつながりについての竹田さんの到達地点が、上記【A「現象学の刷新」をめざして】に簡潔に表現されており、必見の内容である。 以上
・2005/05/05:「どっちの先生が、えらい?」で比較紹介した「内田樹先生と竹田青嗣先生」がそれぞれ、宗教書「いきなりはじめる浄土真宗」と哲学書「愚か者の哲学」を上梓されたので、体調不良の合間をぬって読み比べてみた。どちらも”大変に分かりやすい新著”であった。
・両著作のポイントを構成するキーワードは「人間(自我)、社会、ゲーム、ルール、物語」であるが、両先生の使い方は、ルールという用語を除くとよく似ている。要するにこのキーワードを宗教的に捉えれば「内田理論」となり、哲学的に捉えれば「竹田理論」になるという感じである。
今回は、簡単に結論部分だけをまとめておく。
◆内田理論:”【自分という人間】の起源に先んじて、何であったかを知らず、又死後に何であるかを知らない”という覚知が【自我(感受性や意識作用の集合)】にある。自分には分からないけれど、(人類創造の)【ゲーム】を始めた者があり、そうである以上【(そのゲームの)ルール(原理或いは超越的ルール)】があるはず、という推論をする【人間】の思考のあり方を、宗教性と呼びたい。
・一般的には、人生の目的としての【物語】の意味は「100%文脈依存的」であるため、物語が完結しないとつかめないが、宗教的には、自分の思い通りに行かないという「苦しみ」を自分に受け止めていく体系的な宗教という物語があるので、ここから事後的に選びなおし、物語を作り直していくことができる。
◆竹田理論:【人間】とは【(外的な)ルール】社会という舞台の上で、”自分の価値”を発揮するという「承認/了解の【ゲーム】」に参加している存在である。その社会が、その都度の人間の欲望や可能性によって、網の目のつながりを保っていたことを人間に教えてくれるはずである。
・つまり人間の生きる意味は、【自我(真善美に関する内的なルールの束)】の作り出した【物語】だったのだ。 そこで、その【物語】の主人公でいられなくなった時、【自我と物語】に哲学のメスを入れて、【物語】はいつでも書きかえられることが大事である。人生の目的としての【物語】の結末(意味)の書き換え方を、哲学を通して知って欲しい。
2003/10/10に紹介した「しょうが紅茶」は、体の冷える冬には良いのですが、夏は体が熱くなりすぎるので、飲むのを止めてました。その代わりに、最近は、天然活性水素を多く含む「名水」を飲用しています。
@中でも有名なのは、愛飲者が口コミで全国に広がる「日田天領水」でしょうか。大分県日田(ひた)市の深い深い地層から汲み上げられる日田天領水は、ミネラルだけでなく豊富な[活性水素]が含まれていることが判明した、体にやさしい弱アルカリ性の天然水です。
特に、本当かどうか分かりませんが、ボトルに書かれた”「ドイツ・ノルデナウ」「メキシコ・トラコテ」そして「大分県・日田の天領水」三大名水の秘密は天然活性水素を大量に含む”というメッセージが凄いです。
A他にも福井県・氣比神宮「長命水」が有名です。この「長命水」は、西暦702(大宝2)年のこと。氣比神宮の造営中に突然、一つの水場が涌きだした――神宮の大岩から流れ落ちる『長命水』は、そのようにして始まったと伝えられています。由来は定かではありませんが、御祭神が無病息災や延命長寿の神であることから、その名前がつけられたのは間違いないでしょう。
B今、私が飲んでいるのは、知人から紹介され送られてきたもの(F県・K観音の「観音霊水」)ですが、こちらの由来も相当に凄いものです。最後の部分だけを簡単に言うと”夢枕に立った観音様が「近くの梅の木の根本を掘れば水がでるので、それを人々(病気の者にも健康者にも)に分けてあげなさい。」”というものです。
以上紹介した三つの名水に関して、一番の違いは、「日田天領水」や「氣比長命水」はインターネットから購入(20L缶で3000円程度)できますが、「観音霊水」は実際に観音霊場へ出かけて行って汲み上げる必要がある点です。そこで知人が自家用車を使って汲みに出かけて行って入手したものを分けて頂いたのです。信じて飲んだ結果「ガンが治った」人もいるようなので、私も観音力を信じて飲んでいる所です。飲み始めて三日目ですが、なんか、体調が良い感じです。本当に体調が良くなったら、F県・K観音霊場に、お礼参りに出かける積りです。以上
・前回ご紹介した「観音霊水」は、末期ガンで闘病中の知人から送られてきたものですが、私も一か月間飲んでみて、たしかに体調が良くなっているようです。
その知人から最近、『幸せの宇宙構造(小林正観著、弘園社刊)』という不思議な本が送られてきました。その内容は、とにかく「ありがとう」を沢山(第1段階は2〜3万回、第2段階は年齢X1万回、・・・)と唱えると奇跡が起きる、というものです。
・「ありがとう」を数万回いうと、「ありがとう」の言葉の波動が、水を媒介にして体全体の細胞に伝わり、自分の内部に変化が訪れるということのようです。
但し、これだけなら「トンデモ本」に過ぎないかもしれませんが、インターネットで調べると、実際に実践し、奇跡的な現象が起きている実例が沢山あるのです。この本自体は書店では売られていないので、興味のある人は、小林正観さんの関連サイト
(http://www.utashi.com/)
(http://www.utashi.com/)から入手できますので、ご覧下さい。
・さて、「「ありがとう」の言葉の波動が、水を媒介にして体全体の細胞に伝わり、自分の内部に変化が訪れる。」ということですが、これに関しては以前、江本勝さんの著書『水は答えを知っている(サンマーク社)』や『水からの伝言(波動教育社)』を読んで知っていたので、「もしかするとあり得ることではないか」とも思っています。私も遅ればせながら、検証を開始したところです。
・江本さんは、これらの本の中で、「ありがとう」という言葉を水に見せた時の結晶写真を紹介されているのですが、バランスのとれた美しさで輝いています。(右上の写真) 人間の体は70%が水なのだそうです。そこで、健康で幸せな人生を送るには、この体の水をきれいにすれば良いのではないか、と江本さんは仰っています。これは、前回紹介した「観音霊水」のような「きれいな水」を飲むことにもつながります。興味のある方は、江本さんのサイト(http://www.hado.com/emoto/emoto-top.htm)をご覧下さい。以上
■「人生の目的は、よりよい生活(生き方)?」
・これまでの現象学哲学の勉強の中では、結局「誰にもあてはまる、普遍的な人生の目的はない」ということだったが、何人かの人たちと話すうちに、私自身は「よりよい生き方(生活)」を、最大公約数的な「人生の目的」と考えるようになった。他の人たちも同意してくれる方が多かったようだ。それについて考えつづけてきた所をご紹介する。
■「真理はない」=「人生の意味や目的は無い」?
・近代までの哲学的「真理」とは、「主観と客観の一致」を意味していた。「主観と客観の一致」とは、あるがままの現実世界〈客観〉を、〈主観〉が正しく認識すること。この現実と認識の一致を「真理」と呼んでいた。しかし、フッサール現象学哲学 が、この「真理」は 不可能であることを示したのである。それ以降、「真理はない」という考え方が主流となった。
・真理がない以上、誰にも当てはまる(普遍的な)人生の意味や目的は無い。「それでも生きていく意味は何か?」と問うたのがハイデガーである。その問いの内に生への充足という動機がある。あるのはどちらを選ぶと「よりよい生活」をもたらすかの「選択」だけだ、とニーチェが言った。
■「生命の原理」と「人間の原理」
・しかし「生命の原理」は確かにある、と思う。「生命の原理」とは、生命は「快なるもの」を手に入れたいと感じ、「不快なるもの」は遠ざけたいと感じることを行動基準にするということである。「欲望の原理」と言っても良いであろう。だから人生は「苦」と考えたのが宗教者釈迦であり、人生に「神」が必要と考えたのが哲学者スピノザである。
・また、この「生命の原理」から出てくるのが、”人間は「自由と共同性」を求める”という、ヘーゲルの「人間の原理」である。ここで、自由とは、「自己決定/自分の思い通りにすること」であるから、「自由(自分に由る)なる人間は”苦(苦とは自分の思い通りにならないこと)”である」という釈迦の「自由」とは反対する考え方である。 ■「自由と共同性」
・釈迦の「自由」の直観を前提とすると、人間は「自由と共同性」を求める、という在り方は、事実であるかもしれないが「ほんとうではない」と私は痛感する。何故なら、人間は一般的に「よりよい生活(「幸せ」あるいは「福」と言っても良い)」を求める存在であるが、「生命の原理」あるいは「欲望の原理」だけを前提として「自由と共同性」を求めるのは、自分の思い通りにならない場合の多いこと(苦の多い人生)を覚悟しておく必要があるからである。その覚悟がない場合には「無知」あるいは「間違い」と言われても仕方がない。
■「福徳一致」=「善行が幸福につながるか?」
・さて、「福徳一致」という言葉がある。「福」を求める存在である人間の「福」が、「よりよい生活」なら、「徳」とは「より正しい生活=倫理/道徳」の意味と考えられる。勿論、「福徳一致」は典型的な哲学的アポリア(難問)の一つである。「福徳が一致するとは限らない」場合が多いかもしれない位である。だから「自由(福)と共同性(徳)」を求めてきた人間に、必ずしも「救い」がなかったのである。「自由(自分に由る)」であろうとする限り人間は不幸(苦を覚悟する必要がある)であるという釈迦の直観は現実的である。釈迦の考える「(より高い次元の)自由」とは「自ずからに由る=自然のありかたに由る=神仏のはからいに由る」という「信仰の世界」のことである。
■「選択」という現時点の結論
・また、実存哲学の考え方に従うと、この現実世界に普遍的な真理などがなく(従って、普遍的な意味での「人生の目的」がなく)、あるのはどちらを選ぶと「よりよい生活」をもたらすかの「選択」だけであるということになり、私としては「人生の目的は福徳一致(の実存的回答を見出すこと)にある」という”功利主義的”選択をしたいと思うようになった。
・この「人生の目的」を、「自由と共同性」に構造的(自由=私=よりよい生活 VS 共同性=公=より正しい生活=倫理)に類似した「福徳一致」に置くことは、比較的普遍性のあること(納得できる人が多く居りそう)だと思うからである。これが、現時点の結論である。
■「共同性を支える”調和の原理”」
・今後、私なりに、この「福徳一致(善行を幸せにつなぐ)」という問題に対して、実人生を通して、自分なりの”実存的回答”を見出したいと考えている。その回答を、前もって哲学的表現で言うならば「共同性を支える”調和の原理”」を実践することである。
・今、人間は”調和の原理(社会的表現では、例えば「一般意志」と言いかえられる)”を共有することが不可欠な時代を生きているという確信が、日々の悲惨なニュースを見ながら、一層深まるのである。私にとって”実存的回答”を見出すために必要なことは「生活の中での実践」である。以上
■「自由と共同体」
・自由が人間の基本原理である、というのは「一度自由を手にした人間や共同体は、決して自由を手放すことはないからである。」ということで納得してきたが、最近は、この見方にも疑問が無いわけではない。「人間の自由こそが共同体の存在理由である」ということは変らない。何故なら、一人では生きられない私利私欲(自由)を図る人間が、理性的洞察により、自由を相互承認する「ルール社会」を作ることが得策と考えて、共同体を作ったのだから。
但し、この"自由"は「自己中心性」につながるので、その調整のために「共同体」にルールは不可欠であるが、その自由から「倫理/道徳」は出てこない所が問題である。
■近代は不安定化する
・近代以降の「資本主義の欠陥」は、システムとしての長期的フィードバックが無いことである。
・自然界の食物連鎖を見れば分かるように、自然界においては「ある一種類の生物」だけが突出して数が増えることは無い。何故なら、その生物の数が増えると、その生物の餌が減り、今度はその生物の数が減少に向かうからである。これは電気回路設計などにおけるNFB(Negative Feed Back 負帰還:つまり入力Xに対して出力Yをマイナスにして、その一部を入力に戻す)設計と呼ばれるものである。(右上図)NFBを施さない電気回路はポジチブフィードバック(PFB)が掛かり「発振」の危機に陥る場合がある。 ・同様に、長期的フィードバックが無い「資本主義システム」は、極端なアンバランスな状況(「お金」の極端な偏在は発振現象の一種)を引き起こしている。
・一応、近代の政治システムである「民主主義」なら、国民の選挙というFB(FeedBack)が存在する、と考えて良いが、官僚主義という「行政システム」においてもNFBは不在である。まずもって、経済面と行政面でのNFBを探す必要がある。
■「近代と自由」という危険
・この辺りの危険性を、ヘーゲル(貧民/経済格差)やマックスウェーバー(末人/倫理の欠如)やE.Hフロム(『自由からの逃走』)、シモーヌ・ヴェイユ(『自由という抑圧』)、N.チョムスキー(米国は「自由と民主主義」を、子分国家つくりの口実にしている)、数土 直紀(大衆の欲望こそ人間が社会システムにすすんで従属する最大の契機である。『自由という服従』)等々、沢山の人が語ってくれている。
■現代の高度消費社会は「お金社会」
・Takahide Uegakiさんのサイト「巨人の肩の上より」の記事「「新しい消費社会像の展望にむけて―大衆社会、アイデンティティ、リアリティ、公共性をめぐる問題から(2005年4月25日)―」を参考にすると、現代は高度消費社会である。高度消費社会とは「モノの購入で得られる幸福感」が最大の基準となった過剰消費社会のことであり、この過剰消費が「大衆社会を深刻化」させたという。具体的には、「共同体の喪失による無力感、孤独感に陥った大衆、人間の思想や願望まで外部から受け入れてしまう”権威主義と自動化”が発生した社会」という訳である。
・つまり高度消費社会は「お金社会」ということであろう。その結果として「不安増大社会(権威主義やニヒリズムの発生する社会/生きる力の喪失する社会/アノミー(無連帯)化する社会)」が現代に出現した訳である。
・「神の手による、個人と社会の調和的市場の出現」という”功利主義”的思考が、結局、無限大の増殖を目指す「万能の価値」を持つものとしての「お金」崇拝に至る、「私欲のみに走る人間」を作り上げたのである。すべての元凶は「お金」にあると言っているに等しい。
・過剰消費にのめり込む人間の行動が生んだ高度消費社会は『無連帯社会』である。みんなバラバラになった「その先行き不安な時代をどう生きるか?」 誰も教えてくれない。 以上
・9月3日の「米山サロン(2001/12/27:「米山サロン」の忘年会)」での発表準備を兼ねて、前々回以降の項目【人生の目的は、よりよい生活?】と【近代と自由の再検証】をまとめるべく、今回【「功利主義」から「調和の原理」へ】を書いた次第である。
■近代”功利主義”の失敗
・結局の所、近代の合理主義というより、近代の”功利主義”が生みだした考え方が、失敗を招いたのであろう。ここで”功利主義”とは、例えば、「心と体」、「観念論と唯物論」、「個人と社会」とか、相反する2つのアイテムを”うまく融合させてしまう考え方”である。「福徳一致」を目指そうとする考え方も、考えてみれば、随分と”功利主義的考え方”である。(本当は、こんなに簡単には言えないので、興味がある人は「近代哲学再考(竹田青嗣:径書房)」などをご覧下さい。)
■市場社会
・近代”功利主義”が生みだした一つ目の考え方は「個人的利益追求が市場社会に調和をもたらす”神の手”が存在する。」というものである。つまり、利己的な利益追求を「個人の権利/自由」すなわち「善」として認めたのである。ところが、市場社会における「お金」というものが、無限的価値を持つようになり(物を買う以外に、人を服従させたり、殆ど、どんなことでも可能にしてくれる力を持っているのが「お金」である)、人間に対して無限的欲求を促すものとなり(車や本など具体的なものは”無限的に欲しい”とは思わないが、抽象的な「お金」というものは、いくらでも欲しくなる。丁度「無限の欲望は、無限の欲望喚起力をもつ”言葉”の働きに依存する。」場合と同じである。)そのことに、気づかなかったのである。(M.ウェーバーのように、気づいていた人も居たのであるが・・・)残念!
その「お金」追求の凄まじさに平行して、貧富の差は拡大し、人々は孤立化(無連帯化)を深め、”共同性が後退”したのである。
■善悪の基準
・近代”功利主義”が生みだした二つ目の考え方は「善悪の基準を”超越的存在(神や仏)から切り離し、個人的な”快/不快”の原理に根拠を置く」というものである。そうなると「倫理性」を「利他性におくか、それとも自己中心性におくか」という難問が解決され、あっさりと「自由⇒自己中心性」という「非道徳世界」が出現したのである。この結果、「一つ目の考え方の場合」と同様に「共同性=コミュニティ」が失われた。
■共同性=コミュニティの回復
・結論を言うと、これからのわが国(世界)においては、「人と人との関係、つまりコミュニケーションを重視した”共同性=コミュニティ”の回復が最重要かつ急務である。最近のNHKの番組「世界遺産の旅」を見ていると、ヨーロッパ等には、昔からの続いている”コミュニティ”が存在していることが分かり、羨ましい限りである。わが国にも昔は、”コミュニティ”が存在(その分、自由と「お金」は少なかったのだろうが)していたようである。
・私が考える”調和の原理”とは、「共同体への善行」を「個人の幸せ」につなぐこと(福徳一致)の前提となる「コミュニケーション&コミュニティの回復」のことである。詳しいことは省略し、アイテムだけを引用すると、武田一博の「自律と協同性の哲学(市場社会から公共社会へ)や、河野勝彦の「人間中心主義から生命(自然)中心主義へ」や、清水博の「場の文化(違いを認める共生の論理)」、須原一秀の「現代の全体をとらえる一番大きくて簡単枠組み(無原則の友好、無条件の寛容、2重基準の標準化等)」、竹田青嗣の「希望の原理(国家的排外性と資本主義的競争原理の制御に関する構想)」)等々、参考になる考え方が、最近は見受けられる。これらの「共同性」に比重を置いた考え方が”調和の原理・希望の原理”であるように思われる。近代ヨーロッパという考え方が、無条件に普遍的なものではないことが分かった(911事件やイラク攻撃などのニュースを見ていて、個人的に、そう思うようになった)現時点での結論である。 以上
◆須原一秀の著作『現代の全体をとらえる一番大きくて簡単枠組み』は、誰もが薄々と感じていた所を、一刀両断に表現した感がある。それによると、「現代の全体」をおさえるためには、「現代大衆社会」の全体的性格をおさえなければならない。そのためには、その「大衆社会」を作り出したものを知る必要がある。それは紛れもなく「科学技術」と「民主主義」と「資本主義」であり、それらの背景にある「科学主義」、「自由主義」、「個人主義」、「人権主義」である。しかし一番重要なことは、それらのもう一段奥にある「ものの見方・感じ方・考え方」をおさえることである。ところが解りやすいことに、「科学・民主制・市場経済・大衆社会」は、ある一つの「単純な古代思想」と関連している。・・・
◆ここまで読んできて、すぐに「2004/04/25:何故、自然科学が近代西洋にだけ起こったか」を思い出した。そこでは、「さて、近代西洋に生まれた自然科学に関しては「かなりの普遍性がある」としても、果たして近代西洋に生まれたもの(近代思想、近代国家、資本主義等々)がどの程度「普遍性」を持っているかは重大な問題である。この「近代思想がヨーロッパローカルなものに過ぎないのではないか」という点に関しては、朝日カルチャー哲学講座「フッサール現象学」後の雑談でもしばしば取り上げられていた問題点である。」と述べてあった。・・・
◆つまり、ある一つの「単純な古代思想」とは「普遍主義」であると気づいた次第である。正に「哲学」が誕生した古代ギリシア世界は、グローバル化が進む「現代社会」と同じ状況だったのである。2000年以上時を隔てた世界が、共に「民主主義」とを基本とし、更に現代は、経済的にも「個人主義/自由主義/資本主義が一層進んだ”無連帯な高度消費社会(お金社会)”」になったのである。
◆従って、「科学主義」、「自由主義」、「個人主義」、「人権主義」を前提とする以上、「民主主義と資本主義が中心の大衆社会」以外の選択肢はない、というのが結論である。換言すると「民主主義と資本主義が中心の大衆社会」から生み出される「猥雑さと悪趣味と犯罪等々」がはびこる『場』においてしか、この「民主主義と資本主義」という”ある意味で最高のシステム”は機能しないのである。その結果、「普遍的真理」も「普遍的正義」も政治的・学問的・哲学的に成立していないという現実を踏まえた上で、若干挑発的・反常識的な主張を経由し、「暫定的原則」、「無原則の友好」、「無条件の寛容」、「二重基準の標準化」が結論される、と須原は言うのである。
◆つまり、完全無欠ではありえないが、現在考えうる最高のシステム「民主主義と資本主義」を受け入れ、改良する外に、現時点での選択肢は無いこと。かつこのシステムが必ずしも「普遍的システム」ではないこと、を前提として「(イスラム文化等への)違いを認める共生の道筋を見出す必要がある。」ということになる。ここに至り、この「民主主義と資本主義」の基礎となった近代思想を否定してきた「現代思想」が、それ以外のシステムを生み出すことができなかった理由を良く理解できた。こうして、管理人(mori)の「自由と共同性」/「私と公」をめぐる思索の旅を「ここいらで一段落させたい」と考えるようになった所である。 以上
・先々週の土曜日(9/10)に、新橋の「米山サロン」に参加してきました。「米山サロン」とは、数年前に「情報交換/親睦」を狙いとして、私(管理人mori)が勤めていた某電機メーカーのOB(6人程)を中心にして作った勉強会です。テーマも無く、殆ど、雑談に等しいサロンでしたが、強いて今回の雑談の流れを紹介すると次の様になります。 ・まず、1996年刊『正統の哲学、異端の思想』の著作紹介で始まりました。この著作は、帯書に「デカルト、ルソー、ヘーゲルは自由社会の破壊者だった−−−近代哲学常識の狂信を糺す」と書いてある通りで、結論は「自由を圧搾する”狂信の哲学”たる、デカルト的「理性」主義と、ルソー的「平等」主義と、スペンサー的「進歩」主義に対する信仰と狂信が、「民衆」を主体とする政治制度(デモクラシー)と結びついて、全体主義が生まれる。」というものです。本書は「保守主義の論客・中川八洋さんの”別格の傑作”だと思いますが、ルソーとへーゲルに関して、一寸誤解があるのでは?・・・」という印象でした。 私は1996年に既読してましたが、その時はこのような印象はありませんでした。そこで、私としては、竹田青嗣さんの『近代哲学再考』を元に、ルソーとへーゲルが誤解されている所以を説明した次第です。誤解といっても、ルソーとへーゲルに関して中川八洋さんの書かれていることが”間違いである”というよりも、本書には書かれていないが「ルソーとへーゲルには、近代の哲学及び社会学に関する極めて重要な”意義”がある。」ことを紹介し、皆さんに納得して貰った訳です。
・問題はその次の著作『大東亜戦争とスターリンの謀略−戦争と共産主義(三田村武夫著/自由選書)』の紹介です。一般の書店では販売していないので、私も全く知りませんでしたが、恐るべき内容の著作でした。簡単に言うと「大東亜戦争はスターリンの謀略である。つまり、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実であった」ということです。ショックの余り、しばらく「声」も出ませんでした。後日、内容をチェックしてみましたが”本当”の様です。日本人必読の書です。
・この後は、「日本の核保有こそが”外交上の切り札”になる」から始まって、山田風太郎の『人間臨終図鑑』で「大部分の死は苦痛らしい」と理解し、最後に「幹事さんのスペイン旅行記」に至るまで、昼食を挟んで5時間に渡る「”喧喧諤諤”たる実に楽しい雑談会」でした。幹事さん、会員の皆さん、お疲れ様でした。特に、ホスト役のYご夫妻には、場所のご提供や飲食物のおもてなしを頂き、感謝にたえません。なお、次回は川勝平太の『文明の海洋史観(中央公論社刊)』を紹介したいと思ってます。以上
◆ルソー ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■◆ヘーゲル
・前回(2005/09/20:「米山サロン」という雑談会)の記事中に次の様な表現がありました。【中川八洋さんの著書『正統の哲学、異端の思想』を読んで、ルソーとへーゲルに関して、一寸誤解があるのでは?・・・誤解というより「ルソーとへーゲルが果たした”近代社会に関する極めて重要な意義”を敢えて見逃している」という印象を持ちました。】 この点に関して、若干補足説明をしておきます。
◆近代哲学の原理を打ち立てた哲学者の中に@ルソー(社会の原理は契約と一般意志)とAヘーゲル(近代の原理は自由)が含まれる。
・簡単に説明すると、@社会が契約に(合意)によって成立するとは、一切の社会(家族や共同体や国家)は、「自由と平等」を基礎とする人間の「合意」が唯一の構成原理である。従って一切の「権利や法などの根拠」は「人々の合意」にある、ということである。これが近代社会の原理である。
・たとえ王政であろうと「人々の合意」が根拠としてあれば良いのであるが、近代国家は人民に統治権があり、その政治体制の実行者としての「政府の行為の正当性の基準」が「一般意志(国民全体の福祉=幸福)」にある、ということ。すべての人民にその「一般意志」が分かるかどうかは問うていない。
・一方、A近代の原理は自由とは、人間は「自由」を求める存在であり、近代とはその自由追求の歴史が実現した時代である。従って、へーゲルの言う「法の根拠は「自由」である」とは、「自由の相互承認を前提とする近代社会において初めて、人間は”他者も含めた存在への配慮”を目指すようになるので、この時、法の根拠は「自由」であると理性は捉えることが出来る(簡単に言うと、個人の幸福追求が、他人の自由を妨害しない限り、個人の自由であり、権利であると認められる。)ということである。
・つまり、ヘーゲルの言う「自由」は「理性」に裏づけられたものであり、その意味で、自由+理性=ヘーゲルの普遍意志≒ルソーの一般意志となる。
・また、ヘーゲルは、近代社会は「自由と平等」が基本理念であるが、「自由な人格(法に関する)」という点でのみ人間は平等である。つまり、平等は「自由の理念から出発した社会の不平等を克服するために出された後発的かつ抽象的理念」であると述べている通り、ルソーを補完する立場を取っている。
・ここで問題(誤解)となる言葉が「平等」と「理性」である。”どの範囲の「平等」を考えるのか(法の前の平等だけか、結果の平等までか)、どの範囲の「理性」の有効性を考えるのか”によって、その後の展開は大きく変るのは明らかであろう。今回はこれ以降の説明は省略する。
◆なお、上記の説明は、神名龍子さんの「りゅこ倫」に掲載されている『2002/05/01 「どう解く」の系譜・2 −社会契約説とイギリス経験論−』 を参考に致しました。興味のある人は、下記のURLから、ご覧下さい。
⇒「どう解く」の系譜・2 以上
◆最近「スピリチャルな世界」に関する本、例えば『神との対話(N.ウォルシュ)』、『ソウルメイト(飯田史彦)』、『生きて死ぬ知恵(柳澤桂子)』、『運命をかえる未来からの情報(森田健)』、『幸せの宇宙構造(小林正観)』等を読んで驚いた。ウソっぽい所も”無きにしもあらず”だが、いずれも面白い本であった。この分野での最近のキーワードは「ソウルメイト(魂の友)」の様で、試しに”ソウルメイト”でBOOK検索をすると30件以上の著作が出てきた。今回は、特に気に入った著書を2点(『神との対話』、『ソウルメイト』)紹介する。
◆著書『神との対話』は、私生活と仕事の両面で苦しんでいた著者が「神」に宛てた手紙を書く。書き終えたその時、「神」からの回答があり、著者は「神との対話」を開始した、ということである。ウォルシュさんが対話した「神」が、「どういう存在か(絶対神、八百万の神々の一つ、守護霊 等々)?」が良く分からないのが一番の難点であったが、「神」との対話内容は”素晴らしいものであり、色々と参考になる”点が多かった。一番のポイントは「人間を含めた宇宙・自然は”神性(大いなるいのち、宇宙意識)の表われ”であり、人間は魂を向上させ、その”大いなるいのち”に還える旅をしていることに気づく必要がある」と言う点である。「大いなるいのち」に関しては、「よくある物語」の一つとして興味を持ったが、それ以上に、本書に書かれた「神からの具体的メッセージ」には、大いに納得させられた。勿論、本書にも「ソウルメイト」の話が出てくる。
◆著書『ソウルメイト』によると「ソウルメイト」とは、現生に出会い”試練と喜び”を与え合うべく【中間生】に一緒に「人生計画」を立て約束した人達のことである。これだけでは「トンデモ本!」と思われるが、10年程前に、J.ホイットン著『輪廻転生』を”驚異的感動”の内に読んでいたので、今回は”想定の範囲内”という印象であった。
◆著書『輪廻転生』によると、ホイットン博士の「退行催眠」により、初めて「バルド(【中間生】、中有)」と言われる「生と生の間に挟まれた部分」が明らかにされた。(つまり「バルドで次の人生の計画を立てる」ということである) この学術的著作である『輪廻転生』を正しく下敷きにして書かれた『ソウルメイト』は、十分に信憑性のある”物語”になっていると感じた。元々「ソウルメイト」は10年程前に著書『輪廻転生』の中で初めて見つけた言葉(但し、そこでは「魂の友」という表現で簡単な説明があったのみ)であるが、その時は”にわかには”信じられなかった。しかし今回の著書『ソウルメイト』は、この「ソウルメイト」という一点に絞り込んで、実例を元に詳解してあったので、”ソウルメイトという物語”が、十分にあり得ると確信できた次第である。
◆ただ一つ気になったのは、両書ともに、その中で「本書は宗教書ではない」と断っている点である。何か、宗教書ということ自体が「既に偏見を与える」という著者の意向が感じられたのである。両書ともに”優れて宗教的”である。何故なら、両書の”物語”を信じられた結果、私の人生観は”かなり変わった”からである。「信ずるものは救われる」というのが「宗教の世界」なら、私にとって、両書は十分に宗教書としての役割を果たしてくれた。 以上
『2005/09/20:「米山サロン」という雑談会』の中で「次回は、川勝平太の『文明の海洋史観(中央公論)』を紹介したいと思ってます。」と書いたので、再読してみた。 まず、本書のポイントを「序」から抜粋してみると次の通りである。
◆「近代はアジアの海から誕生した。より正確にいえば、海洋アジアからのインパクトに対するレスポンスとして、日本とヨーロッパに新しい文明が出現した−これが、本書を貫く海洋史観のテーゼである。近代社会への歩みは、通常、農業社会から工業社会へという観点から捉えられている。・・・近代イギリスが最初の産業革命を経験し欧米がそれに続き、日本は明治時代にその後塵を拝しアジア諸国はそのさらに後を追って現代に至っているという従来の常識的な進歩主義史観である。本書はこの常識に挑戦する新たな「海洋史観」を提唱
◆以上の説明でどれ程理解できるかは分かりませんが、再読してみて、2002年に読んだ時には気づかなかった程、内容が豊富で深く、とても、この「ぼろ酔い日記」の中で簡単に紹介できる内容ではないことに気づかされた次第である。
・そこで、本書は、有名なサイトである「国際派日本人要請講座(発行人:伊勢雅臣)」の【川勝平太氏の海洋史観】コーナー(下記)で、詳細に紹介されているので、興味のある方は、そちらをご覧頂くこととしたい。
◆話を元へ戻すと、本書を「米山サロン」で紹介したいと考えた動機は、「近代」に関する極めて重要なヒントが、本書に含まれている点であった。今回は、そのポイントを4つだけ列挙するに留める。
@近代ヨーロッパは、海洋アジアからの「インパクト」で誕生した。
A近代ヨーロッパは、海洋アジア貿易から「自由」を学んだ。
B近代ヨーロッパの「暴力的収奪性=植民地化」の理由
C近代ヨーロッパの「普遍主義的世界システム化」の理由
以上
・40年程前に読んだ「仏教説話」なので、出典も題名も忘れてしまったが、その内容だけは今でもはっきりと覚えている物語がある。題名は「吉祥と黒師(または、黒耳)の姉妹物語(注)」としておこう。その内容はこうである。・・・
『昔々、在る所に、信心深いが貧乏な百姓の若い男がおった。貧乏で嫁にも来てもらえないその男は寺に行き「私の信心がほんとうなら、どうぞ、三国一の花嫁を授け給え」という「(まことに虫のよい)願」を、阿弥陀如来(観音様だったかもしれない)にかけた。・・・満願の夜、男の家の戸を叩く音がした。男が戸を開けると、そこには「吉祥(きっしょう)」という名前の絶世の美女が立っており、「私をどうぞ嫁にしてほしい。」というのであった。男は「これは阿弥陀様のご利益」と喜んで、女を家に招き入れた。ところが、絶世の美女の後ろから、絶世のブスとしか思えない女が付いているではないか。(グリコを買うと必ず”おまけ”が付いてくるように・・・)聞けば、そのブス女は「黒師(または、黒耳)」という名前で、「吉祥」の妹だとのこと。「吉祥」は美女で性格も良いのに対して、「黒師」の方は、ブスな上に性格も悪い、と来ている。男は「私は吉祥さんを嫁にしたいので、黒師さん、あんたは出ていってくれ」と言ったのである。(当然であろう)それに対して、吉祥は「私達姉妹は一心同体、妹の黒師も一緒に置いてほしい。もし黒師を出て行かせるなら、私も出て行くしかない。」というのである。男は無言・・・ 追い討ちをかけるように吉祥の言葉が続く・・・ 「人間は、物でも地位でも何でも、手に入れる迄は、私(吉祥)という”良い面”だけを見る傾向があり、手に入れようとあくせくするが、手に入れてみて始めて、裏の黒師という”悪い面”に気づくのです。しかし、すべての物事は、”良い面”と”悪い面”とが「一心同体で切り離すことが出来ないもの」として存在しているのです。手に入れる前に、黒師の面を見るのも大切です。」と・・・』
この話は、今でも私の人生を支える大事な教訓となっている。
■閑話休題■
・さて、「近代」について色々と書いてきたが、この「近代」に関しても、「吉祥と黒師の物語」が当てはまる。それも、ピッタリと。つまり、当初は「近代の素晴らしさ:自由・理性・進歩・平等・・・」という「吉祥的側面」を見ていたが、実際に訪れた「近代」の「黒師的側面」に気づいたのが、「近代の超克」とか「ポスト近代」という発想である。しかし、吉祥天女が言うように「近代の”悪い面”を切り離し、”良い面”だけを残そうとする」のは、どだい無理な相談だったのである。この「近代の”吉祥と黒師”的側面」を最初に確認したのは、10年ほど前に読んだ【山崎正和の「近代の擁護」】という本においてである。その本の良さが、最近になって分かった次第である。
以上
(注)
★吉祥天女 きっしょうてんにょ 仏教の女神。・鬼子母神の娘であり、多聞天の妻。律法を司る。 日本の女神。七福神のひとり。
・名前:吉祥天。功徳天。宝蔵天女。 ・姿:羽衣をまとった美しい女性。右手にハスの花を、左手に珠を持つ。
★黒耳天女 こくじてんにょ 仏教の女神。・閻魔の妻。災禍を司り、いつも姉の吉祥天女と行動を共にする。
・名前:黒暗天。黒暗神。黒耳。 ・姿:醜悪な容姿をしている。左手に人頭の杖を持ち、牛に乗る。
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・前回、「近代の”吉祥と黒師”的側面」を最初に確認したのは、10年ほど前に読んだ【山崎正和の「近代の擁護」】という本においてである、と書いたので、以下に若干の補足説明をしておく。
・山崎正和さんの「近代社会/近代文明に関する著作」は30年以上前の「反体制の条件」以来、折に触れて読んできたが、あまり印象に残っていなかった。最近、読み返してみた次の4冊(@「反体制の条件」、A「柔らかい個人主義の誕生」、B「近代の擁護」、C「世紀末からの出発」)は、かなりのインパクトがあり、なぜその当時にインパクトを感じなかったのかが不思議な程である。
・結論を先に言っておくと、山崎さんの「近代社会」に関する考え方の柱は、@私と公(個人と共同体)A永世観(個人の生命の非永遠性に対し、生命や社会の永続性を考える)B近代と共生の関係 の3つである。
◆@1970年刊の「反体制の条件」
・本書は絶版であり入手困難であるが、山崎さんを研究する場合には重要な著作である。何故なら、、山崎さんの「近代社会」に関する考え方の3本柱が全て説明されているからである。その柱とは、簡単に言うと、@人間の共同体への所属とそこでの共生が、自我拡張欲求から人間を守ってくれる。A人間は、固体の生命を超えた「生命の永遠性」や個体より長生きするもの(自然とか風俗も含め)に所属しているという感覚なしで生きて行けない B近代は、この共生感覚を破壊してきた。従って、(財産や家族等の)私生活の権利だけが体制(社会や国家)に転化しない唯一の「反体制の条件」となる、と本書ではまとめている。
◆A1984年刊の「柔らかい個人主義の誕生」
・本書は「消費社会の美学」という副題がついている通り、近代以降の消費社会における個人のあり方を論じてベストセラーとなった山崎さんの代表作である。
・そこでは、@集団の主な仕事は「目的の発見」にあり、これが「個人と共同体の接触の仕方の基本」となる。B近代における「普遍的不幸の減少(共同体的)と個人的不幸の拡大」の必然性は、「満足の喪失=分相応の喪失」という意識が「不安」の源泉となり、「見せびらかしの消費への過剰な傾倒」に至る。A従って、人々は「顔の見える柔らかな集団」に帰属し、美的・消費的に生き始めるであろう、と言う。つまり「新しい個人主義と,成熟した〈顔の見える大衆社会〉」の必要性を説くものである。以下は次回に・・・
・
前回の続きであり、山崎・近代論の白眉である「近代の擁護」以降を紹介する。
◆B1994年刊の「近代の擁護」
・本書のポイントは「近代主義」者達の蹉跌を明らかにすることにある。その蹉跌とは、本書の”あとがき”から抜粋すると、次の通りである。
『進歩主義の立場に立って「近代」をむやみに理想化し、理性の時代、自我の時代、進歩の時代と持ち上げた、無邪気な楽天家達(近代主義者)の過ち(蹉跌)です。思えば、彼等の「近代」の神格化が、どれほど近代化の現実の歩みを歪め、また人々に近代についての幻想とそれを裏返した幻滅を与えたことか。じつをいえば「ポスト近代」論もまさにそうした近代主義の裏返しとして生まれたものなのです。』
・つまり、近代性の蹉跌として、具体的には「アノミー(内面に働く文化的規制力の衰退状態)とヴァニティ(人に見られることの喜び)の衰退」が根本的であり、その原因は、「これまで特定の職業集団に属していた人々が、近代産業への移行後、近代社会の中で自分の位置付けを見失っていることに尽きる」という。その意味から「近代の意味を再確認し将来を再構想しよう」と提案するものである。それが「近代の擁護」というタイトルの趣旨でもある。
◆C1995年刊の「世紀末からの出発」
・「世紀末」とは、ある時代の終わりであると同時に、はじまりの時期でもある。この20世紀末は、近代を支えた神話が崩壊し、新たな「物語」が再生しようとしている、と本書の帯書きに記されている。
・本書には、現代社会を見通した卓見が見える。例えば、米国の「貧富の対立を増すように働く米国の文化のあり方」が階級社会をもたらすこと。日本における「清貧の思想」に対し、我々の生活から何かを引き算することによって「近代」を超えようとする清貧の思想は現実的でない」等々・・・
・最後に、この世紀末における希望として2つのアイデア(@「倫理的慎み」とA「真の宗教性」)を提出する。「近代主義や合理主義によっても脅かされることのない”究極の非合理性”があることを、近代そのものが発見したのであるから、A「真の宗教性」は検討の余地のある考え方である。但し、ここでは紙数が足りないので、@「倫理的慎み」とA「真の宗教性」の詳細説明は省略する。
★「激動の」と言うか「暗鬱なる」2005年は終了する。2006年は良き年であることを祈るばかりである。 以上
「ぼろ酔い日記」(2003年11月〜)RETURN

最終更新日:2005年12月05日
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