『人間学アカデミー 』について

ここでは、「心の意味を問い直す」という共通テーマで、2001年10月からスタートした『人間学アカデミー』について紹介します。
『人間学アカデミー』は、下記の日程で盛況裡に進行し、現在は第4期講座が開講中です。
なお、詳細については、『人間学アカデミー』のHPでご覧頂けます。(クリック)

『人間学アカデミー』の日程等

★第1期講座 ◆終了◆
  テーマ:「心の意味を問い直す」
  開講期間:2001/10/27〜2002/6/22
   講師:@橋爪大三郎 A櫻田 淳 B滝川 一廣 C西 研 D 竹田 青嗣 E小浜 逸郎
◆第1期講座の概要はこちらでご覧になれます。(クリック)

★第2期講座 ◆終了◆
  テーマ:「自分と社会をつなぐもの」
  開講期間:2002/9/21〜2003/7/5
   講師:@小浜逸郎 A滝川一廣 B橋爪大三郎 C呉 智英 D竹田青嗣 E佐伯啓思
◆第2期講座の概要は、現在はご覧になれませんので、ご注意下さい。
◆竹田青嗣の「社会思想と現象学」レジュメは、こちらでご覧になれるようになりました。

★第3期講座 ◆終了◆
  テーマ:「人間はどこまで自由か」
  開講期間:2003/9/20〜2004/7/10
   講師:@長谷川三千子 A橋爪大三郎 B小浜逸郎 C小谷野敦 D浜田寿美男 E滝川 一廣
◆第3期講座の概要は、こちらでご覧になれます。

☆第4期講座 ◇開講中◇
   テーマ:「日本人は幸福になれるか」
  開講期間:2004/9/18〜2005/7/9
   講師:@中島 義道 A山田 昌弘 B加地 伸行 C斎藤 環 D浜田寿美男 E佐伯 啓思
◆第4期講座の概要は、こちらでご覧になれます。

 
また、終了した第1期から第3期講座分については、随時まとめられ、新書として発刊されております。
 すでに発刊された著書についての詳細はこちらで見れます。(クリック)


第1期『人間学アカデミー 』の報告
★第1期『人間学アカデミー』については、『樹が陣営』の読者でもあり、「しょーと・ぴーすの会」会員でもある”根本義明”が報告いたします。

★開催期間2001年10月27日〜2002年6月22日
★主宰者:小浜逸郎・佐藤幹夫(『樹が陣営』発行人)
★講師陣と講演タイトル(敬称略) (各講師ともに、一講座2時間×3回)
 @ 橋爪大三郎 『「心」はあるのか』(クリック)
 A 櫻田 淳 『個人と国家』
 B 滝川 一廣 『「心の病」とは何か』(クリック)
 C 西 研 『「歓び」について』(クリック)
 D 竹田 青嗣 『方法としての現象学』
 E 小浜 逸郎 『情緒と身体』
 * なお、19回目に、全講師参加の卒業シンポジュウムがある。

★報告者(根本)からのコメント
 あることが「わかる」とはどういうことなのか。子どもにものを教えるとはどういうことなのか。本当は、今の教育の何が問題なのか。そもそも心とは何なのか。世の中の動きはどういうふうに捉えるとよく見えるのか。そういったことについてのヒントを得られればと思い、当レポートを連載します。物事を考えるうえでの原理論に当たるものですので、即効性はないのですが、そのうちジワジワ効いてくるといった類のものでしょう。


【題名】第1回講座「「心」はあるのか 」・【講演者】橋爪大三郎 :2001年10月27日 (於)麻布学園

● セミナー開会の辞;小浜逸郎
 当セミナーの開催は自分にとって長年の夢だった。自分のことはともかくとして、他の5人の講師陣はいずれも自分の専門の枠をはるかに超えたスケールの大きな仕事をしている。福沢諭吉の言葉に「専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」とあるが、<実>=実用と捉えるのではなく、われわれの日常的生や社会的行動と学問に橋渡しをするのが学者たるものの務めであると言っているものと解釈したい。講師陣はいずれもその役割を十分に果たしうる人たちである。
 同時多発テロは、世界的ではなく世界史的な大事件であると捉えている。世界史的とはどういう意味か、自分に講師の番が回ってきた時に詳しく述べたい。それを客観的なものとすれば、他方で、人間は、ドストエフスキーが『地下生活者の手記』で述べたように一本の煙草と世界を引き換えにすることも辞さない存在であるというのもこれまた真実である。それを実存的なものとすれば、人間は、実存的なものと客観的なものの二重性において存在しているといえる。その二つのもののつながりを当アカデミーを通じて、あなたの心と体のなかでみつけてくれればと思っている。


◆講師自己紹介
はしづめ だいさぶろう
 1948年神奈川県生まれ。東大大学院社会学研究科博士課程修了。執筆活動を経て、現在、東京工業大学大学院社会理工学研究科・価値システム専攻教授。社会学者。
 著書 『言語ゲームと社会理論−ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン』『仏教の言説戦略』『橋爪大三郎コレクションT〜V』(以上、勁草書房)、『はじめての構造主義』(講談社現代新書)、『橋爪大三郎の社会学講義』『同2』(夏目書房)、『選択・責任・連帯の教育改革完全版』(共著・勁草書房)、『こんなに困った北朝鮮』(メタローグ)、『言語派社会学の原理』(洋泉社)、『天皇の戦争責任』(共著・径書房)、『幸福のつくりかた』(ポット出版)、『ヴォ―ゲル、日本とアジアを語る』(共著・平凡社新書)、『世界がわかる宗教社会学入門』(筑摩書房)、『政治の教室』(PHP新書)、『強いサラリーマン、へたばる企業』(共著・廣済堂出版・近刊)ほか多数。
http://www2.valdes.titech.ac.jp/~hashizm/

小浜さんの重々しい言葉に圧倒されてしまいました。とても緊張しています。身銭を払ってでも学ぼうとする人たちが一番熱心な生徒なのです。これから心についてそれがあるのかないのか論じていこうと思います。私はこれまで心のことなどあまり考えたことがありません。私は、むしろ、心など実はないのかもしれないという立場で話してみようと思います。


◆目次◆

『人間学アカデミー 〜心の意味を問い直す〜』レポート〔1〕
 ◆1.「心」はどのように論じられてきたか
 ◆2.では、人間は、なぜ「心」があると思うのか、信じるのか
 ◆3.なぜ、言葉は通じるのか
 ◆4.人間はどのような存在なのか

『人間学アカデミー 〜心の意味を問い直す〜』レポート〔2〕
 ◆5.言語ゲームとはなにか
 ◆6.言語ゲームは、価値相対主義か
 ◆7.言語ゲームと「心」のはたらき
 ◆8.言語ゲームと人間の成り立ち

『人間学アカデミー 〜心の意味を問い直す〜』レポート〔3〕
 ◆9.性と愛
 ◆10.言葉と倫理
 ◆11.言葉と表現
 ◆12.なぜ「心」が問題になるのか


『人間学アカデミー 〜心の意味を問い直す〜』レポート〔1〕:2001年10月27日

◆1.「心」はどのように論じられてきたか

1) 心理学では・・・心を研究しないのが心理学
・内観法;wundt(ブント)により創始される。
心は、自分に開かれ他者に閉ざされている→心を自分で観察せよ→アメリカの学者たち(代表者ワトソン)に批判される→
・行動主義 behabiorism;観察可能で操作可能な概念しか認めない(物理学のマネをして科学性を獲得しようとした)→心ではなく行動を対象とする→一定の批判起こる→
・認知科学cognitive science;心の働きをさまざまな機能に分解→機能をプログラム(心を正面から扱っていないといえるのでは)

2) 哲学では・・・哲学者は心の存在を疑っているのではないか
・ヘーゲル;意識bewusstsein(何かについて知っていること)→自己意識selbstbewusstsein→同一性identiat(言い換えれば、「自己」「自我」)(『精神現象学』より)*「心」とは違うもの
・心身二元論;「キリスト教に遠慮している哲学」「言い訳的に心に言及」身体〜物体〜客観 精神〜主観 →身体と精神の関係は??→最終的には身体一元論に帰着するのでは?
・マインド〜欧米では、頭のことを指す〜理性 ・ハート〜心というよりも単なるポンプのイメージ 理性は人びとに共通で論理的・機械的であるとされる。

3) 宗教では・・・心を重要視しているとは言いがたい
・ ユダヤ教:「霊魂は、存在しない」(エジプトの死者崇拝に反発) 生命〜神の息吹
*神がいる点を除くと極めて唯物論的な宗教
・ キリスト教:自由意志は、存在しない  神を信じる〜神の恩恵(カルバン)
・ 仏教:自我は存在しない、自我は幻影である、とする  (法ダルマが存在する)

以上より、この世には「心」をあると考える人とないとかんがえる人がいる、ということになる。



◆2.では、人間は、なぜ「心」があると思うのか、信じるのか

1) 「心」がないとは、どのようなことか?
・ 他者は、人間のように見えるが、人間であるとは確かめられない。確めようがない。
演技? 機械?実は、わからない。
・ 他者は、心をもっていない 自分(私)は、心をもっている(それは確かか?)→他者が存在し、他者が私と同じ精神活動を行っていれば、心が存在するものとする。そのようにわれわれはみなして生きている。
(参考)橋爪大三郎 1989年「社会はどのような空間であるのか」『創文』302:11-14.
<内容のまとめ>
* A;私は、身体があるから、生きている。そしてこの身体は、物理的空間のなかにあ る。ほかの人々の身体も、やはり同様だ。私の身体も、ほかの人々の身体も区別なしに、同じひとつの空間のなかに並列している。
B;他者たちは、私のなかで生きている。この世界にしても私が捉えた、私のなかの世界である。なぜならば、私がいなくなったら、私の知っている他者たちも、世界も、なにもかも壊滅してしまうのだから。
A→B→A→B・・・の連鎖=社会空間 B→Aのところで断ち切ったもの:唯物論的リアリティ
A→Bのところで断ち切ったもの:現象学的リアリティ
* つまり、唯物論的リアリティと現象学的リアリティは、全くの別物、あるいは対立す る立場なのではなく、同じ社会空間における諸連鎖のふたつの切り口の差異としてとらえることができる、ということ。

2) 独我論 solipsism は可能か
・ 他者や世界の存在は、私の存在ほど自明でない →確実に存在するのは私だけ=独我論
・ 独我論は、反証できない(だが、検証もできない)
・ 独我論を自分以外の者に「主張する」ことは、矛盾している →独我論は、反論しな くていい/相手にする必要がない/それでおしまい

3) 「心」が先か、言葉が先か
・ 言葉が存在するから、他者が存在し、心が存在する(のではないか)。少なくとも「心 が先」というのはおかしい
・ チューリング・テスト(相手が機械か、人間・知能であるかを判定) ;欠陥あり→被験者について何も言っていない。
<cf>精神医学;熟練した医師が30分診察してみて「こいつはおかしい」と思えばそう判断された相手は精神病と診断される⇒チュウリングテストも精神病の判定法も、人間の正常な思考とはなにかについてきちんと述べていない。そこがおかしい。
・ 確実にここ(そこ)にあり、他者とわかちあえるのは行為(言葉)である。



◆3.なぜ、言葉は通じるのか

1) 言葉が意味をもつことは、根拠づけられるか
・ ある言語(例えば日本語)が意味をもつことを、その言語で説明しても無益である。
<cf>異星間交信など
・ ある言語が意味を持つことを、ほかの言語で説明しても無益である。
<cf>解読 翻訳
・ 言語が意味をもつことは、ただ「理解」するしかない。「解る」しかない。
 「考えるな、見よ」
*根本的なことは他の何かによって基礎づけられることはない。
2) 言葉が意味をもつのは、なぜなのか
・ 言葉はルールにもとづく記号列 ルールはそこにある(ルールそのものはルールの記述とは異なる)
*ルールはわかるしかない、書けない、説明できない(ウィトゲンシュタインの言語論)
・ 言葉が意味をもつのは、それが「理解」できるから(理解は理解の説明とは異なる)
・ 言葉≒数列 2,4,6,8,10,……(以下同様) ルール≡以下同様(ずっと続けられる)
* 2,4,6,8の次に2が来ると信じる人を10が来ると信じる人が説得することは不可能。逆もしかなり。

3) 言葉はなぜ、「心」をうみだすのか
・ 言葉は、自分にとって(だけ)開かれていることを、他者にとって(だけ)開かれている ことと、同じ言葉に置き換え、交換する。人は誰も言葉の平等性から逃れられない。
<cf>言語は「私的言語」ではない。
・ 「心」:めいめいが、めいめいに(だけ)開かれている領域をもつことを承認する



◆4.人間はどのような存在なのか

1) 人間を殺してはいけないのか
・ 人を殺す/殺さない →殺し方の違い(事故/自衛/戦争/殺人/テロ・虐殺)
* 人を殺すことをおしなべて絶対悪とし、思考停止をしてしまってはならない。たとえ ば戦争における兵士による敵兵の殺人行為は、そうしなければ自分が殺されるのが背景。それに対して、テロ・虐殺における殺人行為は、自分を殺す気の全くない相手に対するもの。両者は、倫理的次元を異にする。よって、テロを防ぐために戦争に踏み切るのは、より大きな悪を防ぐために、より小さな悪を選択する行為として捉えることができる。(その意味で是認できる)⇒殺し方の違いについての文化をきちんと築くべき

・ 他者の存在(生存)は、社会〜ルール〜言語ゲームの「前提」である
・ 人間〜身体〜行為〜言葉  他者の身体を保全し、行為や言葉を理解するのが社会
2) 人間はどのように、互いに関係するのか
・ 人間の相互関係の三つの様式
@ 身体−身体(セックスの関係。第三回で論じられる);A身体−形式―身体(言語を 仲立ちとする関係、つまり社会);B身体−……−身体(権力の関係)
・ 形式(言語)は身体とその関係を構造化する  身体が先にある、のではない。
・ 人間は、このように成立した空間(社会)のなかに生み出され、生きる。
3) 社会はどのような空間であるのか
・ 社会は身体の交代に関わらず、(相対的に)不変→社会は「実在」する
・ 言語は、身体に帰属するのではなく、社会に帰属する
言語は社会の最大の公共財→ 言語は社会空間の作用素(operator)
・ 言語を中心に社会を再構成する立場:言語派⇒自分の立場
自然の因果関係+言語・性・権力という枠組で世界をとらえてみる。



●質疑応答

@ 言葉の共有の実現によってそこから生まれる心の世界の広がりがあるのでは
・ ・・自分としてはそういう考えはとらない。意見や考えの一致とは、<まだ不一致が あらわになっていない状態>のことである。つまり、ルールの一致はありえない、ということ。だからといって、ルールは存在しないといった議論は独我論であって、自分はそういった考え方はとらない。

A 近代の戦争は、必然的に虐殺を伴うものなので、戦争と虐殺を区別するのは難しいの では
・・・20世紀の戦争は、総力戦である。そのなかで兵士と一般市民を区別することが難しくなっているのは事実。誤爆などによって一般市民が巻き添えになることが多い。しかしそれはあくまでも過失であって、虐殺とは異なる。


『人間学アカデミー 〜心の意味を問い直す〜』レポート〔2〕:2001年11月3日

★報告者より;今回は、主に、ヴィトゲンシュタインの思想遍歴の紹介を通じて、言語ゲームの核心部分が語られます。そこから、社会やさらには「心」へ切り込んでいきます。

◆5.言語ゲームとはなにか

1)ヴィトゲンシュタインとは何者か
一言でいえば、変人そして天才。世紀末のウィーンの裕福なユダヤ人家庭(オーストリア一の金持ち)に生まれる。厳格な父(若い頃芸術家を志すが家の事情で断念。その不満を子供たちに投影)と音楽好きの優しい母(友人にブラームス。後にウ゛ィトゲンシュタインはリルケに全財産を譲る)。家庭教師で勉強(その頃のヨーロッパの裕福な家庭は1科目ごとに家庭教師を子供につけた)→リンツの工業高校(勉強ができずに機械いじりばかりしていた)。同級生にヒトラーがいた(20世紀のヨーロッパはこの二人を中心に回っていたとも言える、余談)。三人の兄が次々に自殺→自分も自殺するのではないかという不安。プロペラ製作→数学 →数学基礎論→哲学、と興味の対象が移る。ケンブリッジにラッセルを訪ねる。ラッセルは当時最高の数学者。無理難題を突きつけて先生をいろいろと困らせる学生だった。ラッセルが当時手がけていた数学基礎論の矛盾点をいくつも指摘して、中座させる。第一次大戦が勃発。オーストリアの志願兵として、常に命の保証のない最前線で戦う。(ヴィトゲンシュタインはとにかく死にたかったのではないか。自殺や狂気への不安から逃れるには、殺されるのが一番。一番殺されやすい場所は戦場、それも最前線。そう考えたのではないか。)たくさんの勲章をもらう。そういった極限状況下の塹壕の中で『論理哲学論考』の草稿を書く。恩師ラッセルの尽力によって『論考』を出版。それにもかかわらず、ラッセルの序文に文句をつける。「『論考』によって哲学の根本問題は解決された。」として学問に対する興味を急速に失う。小学校教師→庭師→姉の邸宅設計(『ヴィトゲンシュタイン=ハウス』、直線だけで出来ているユニークな建物。)やがて、初期の間違いに気づく→ケンブリッジに戻り、セミナーを開始。オーストリアがナチス=ドイツに占領され、ユダヤ人であるヴィトゲンシュタインは、英国籍を取得。第二次大戦で病院で働く。教授辞職。『探求』推敲。癌で死亡。

2)『論理哲学論考』の世界  ―――写像理論―――

・ テーマ;言葉(≒思考)をしっかり世界(≒意味)につなぎとめておくには?
←ここには、ヴィトゲンシュタインの狂気に対する恐怖があるのでは
言語命名説(世界が元→言語が派生、常識的な考え方)もその逆(言葉が元→世界が派生、例えばキリスト教・プラトンなど)も誤った考え方。
⇒言葉と世界は二つのものではなく本当は一つのもの;ヴィトゲンシュタインは、そう考えた。
‖ ☆ 写像理論:言葉と世界は対応している。世界と対応しない言葉(たとえば、神・悪魔 ・天使)は切り捨てる。

<『論考』の内容>
● 1.世界とは、かくあることのすべてである。(The world is everything that is the case.)
「起こっている」
1.1 世界は、事物ではなく、事実の全体である。・・・・・
2.かくあること、すなわち事実とは、事態が存立していることである。
3.諸事実の論理的写像が、思考である。
4.思考とは、有意義な命題である。
5.およそ命題は、要素命題の真理関数である。(気にせず、次に行きましょう;報告者)
6.真理関数の一般形は、〔p、ε、N(ε)〕である。(これも気にしないようにしましょう;報告者)
7.語りえぬことについては、沈黙しなければならぬ。(有名な命題です;報告者)

■自分(橋爪)なりに、『論考』の内容をまとめると、以下の4項目になる。
(1) 世界は分析可能である。
(2) 言語は、分析可能である。
(3) 世界と言語は、一対一に対応している。
(4) 以上、(1)〜(3)以外は言表不能=思考不能である。哲学の中で扱わなくて 良い、ということ。
* 問題点
@『論考』の主張は一種の独我論である。なぜなら、その内容は全てその人の頭の中のことだけだから。
A「言語は世界に言及する」そして「言語は世界に言及しない」のだとしたら『論考』はどういう言語なのか。『論考』の主張は、『論考』の存在そのものを裏切っている。最初から語りえぬことを語っている。

(若い頃、中央公論社の『世界の名著』で、『論考』を読み、訳がわからなかった。こうやって、簡潔に内容をまとめ、誰にでもわかるようにさりげなくできるのは、すごいことだと思います。橋爪さんの話しっぷりは、おしなべて、さりげなく、よどみなく、丁寧です。;報告者)

3)言語ゲームlanguage game のアイデア
・ 「言語は分析可能ではないのでは」という疑問が、ヴィトゲンシュタインに浮かぶ。
<例>要素命題は存在しない。  この薔薇は赤だ→黒でない
(命題の真偽は、その要素命題の「真理可能性」によって条件づけられる、と考えていたヴィトゲンシュタインにしてみれば、要素命題が存在しないのでは、という疑問は、頭を抱えざるをえない類のものだったのでしょう。つまり、この世界の真理性の根底を揺るがすに足る疑問だったのでしょう;報告者)
・ 言語と世界を対応させる手続きは存在するのか、しないのではないか。
<例>直示的定義(例えば、これは椅子)は不可能
*なにもわからない子供に、椅子とは何か教える時には、椅子をひとつひとつ並べていき、ある段階で、突然『わかる!』。単にわかる。椅子とは何か、言葉で記述するのは非常に難しい。
・ 言語の意味は、用法を観察して「理解」するしかないのではないか。
石工と助手の例示/石aと石bの例示(助手は石工の作業手順を観察するうちに石aと石bの意味を理解する。)
* 人は状況の中で言語の意味を理解するものなのではないか。はじめはわからないが、 状況の中で、あるときわかり、そして一度わかってしまったら、なぜわかったのか忘れてしまう。そういうことなのではないか。



◆6.言語ゲームは、価値相対主義か ⇒結論;ちがう

1)社会は、さまざまな言語ゲームの渦巻きである。
・ 言語ゲームは、「あるルール(規則)に従った、人々の行為の秩序ある集まり」。
・ 宗教の、貨幣の、法の、科学の、・・・・・の、言語ゲーム
・ ある言語ゲームのなかでは、その前提がゲームのなかで「実在」し始める
<例>@1万円札は、見るかぎりただの紙とインクである。それにもかかわらず、自分は1万円札に価値があると思う。それは、自分以外の人々がそう思っているから。それは、人々の間で交換という経済のゲームが繰り返される中で一万円札には価値があるという前提が「実在」し始めるということである。
A神が存在するから信じるのではなく、信じるから神が実在するのである。等等・・・
2)社会は、価値(大事なこと)と意味(そのわけ)に満ちている
・ 人間は、任意のどんな言語ゲームの外にもでることができる。
・ それでも人間は、どれかの言語ゲームのうちに入っていなければならない。
* どれかしらの言語ゲームに入っていることが人間であることの条件である。つまり、 全ての言語ゲームの外に出てしまったら人間ではなくなる。
・ 価値相対主義を掲げるポストモダン思想(浅田 彰・柄谷 行人・中沢 新一などが代表格;報告者)は、近代(という言語ゲーム)の外に出るというが、それならどこに属しているのか。ポストモダンはそれをきちんといえないのではないか。中途半端な思考はやめて、もっとはっきりさせたほうがよい。結局日本のポストモダンは、ソフトな相対主義にすぎない。ぶちぶち言っていないで、もっと突き詰めた方が良い。
(橋爪命題;価値相対主義は、相対主義という名の価値絶対主義である)

3)内的視点(価値・規範)と外的視点(事実)
・ 言語ゲームは外から視れば、「人々がそういう行為をしている」という単なる事実・ 〜である・観察者の立場⇒二次的ゲーム
・ 言語ゲームは内から視れば、「そのルールに従わなければならない」という規範・〜 すべき・プレイヤーの立場⇒一次的ゲーム
* カント以来の哲学は、事実と規範を二元論的に捉えてきたが、言語ゲームは一元論で 捉える。
(事実と規範を二元論的に論じているかぎり、規範が現実的なポジションを得られないことになる。つまり現実に対して無力ということになる。その意味で、言語ゲームの事実‐規範の一元論は、斬新かつアクチュアルな視点だと思いました;報告者)



◆7.言語ゲームと「心」のはたらき

1)感覚
・ 逆スペクトルの懐疑;要するにお互いの感覚は外から見えないし、一致を確認するこ ともできない。お互いの感覚の不一致に、気づくことはない。比較のしようがないから。ということ。 ◇ 例えば、赤、青という色はそう名づけられているだけ。われわれは色の名を共有する という色のゲームをしているのであって、色に対する感覚を共有しているのではない。すなわち、色は客観的なものではない。さらには、感覚の共有はありえない。

2)アスペクト(様相)

・うさぎ〜アヒルの図;上の図はうさぎなのか、それともアヒルなのか。うさぎに見えているときは、アヒルには見えないし、逆にアヒルに見えているときは、ウサギには見えない。

同じ世界でも二通りの見方がある。

ものの見え方は人によって違う。

数列も同じ

<例>1,2,4の次に来るのは8なのかな7なのかなと迷う⇒これもアスペクト、両方とも成り立つ
一致している場合、それはあくまで取りあえずの一致である。そう考えるべき。全ての言語ゲームについてそう言える。だから、状況の中で、ゲームをやりながら、不一致が生じたら、ルールを作る、あるいは作り変える。

3)自由・意図・欲望
・ なぜ人びとは、「自由」に行為すると考えるのか。ルールに従っていても、逸脱が自 由だから。
・ なぜ人びとは、まだ実現していない「将来」を考えるのか。 予測/期待/意図
・ なぜ人びとは、自分が何かを「望んでいる」と考えるのか⇒欲望は確かに存在するのか?言語ゲームの観点からすれば、疑わしい。



◆8.言語ゲームと人間の成り立ち

1)自己への信頼
・懐疑の言語ゲーム;何ごとかを疑うためには、何ごとかを信頼しなければならない
* 人は、色々なゲームに参加できる。そういう色々なゲームに参加し、ゲームを積み重 ねるなかからアイデンティティが生まれる。色々なゲームのなかで、哲学というゲームは、「当たり前だと思われていることを、当たり前と思わない」ゲーム、つまり懐疑のゲームである。懐疑のゲームに入り込むと社会に戻れなくなる。それを乗り越えるためには、<信頼>が必要。(ヴィトゲンシュタインが最後に考えたこと。『確実性について』全集9)
ヴィトゲンシュタインによれば、何かを懐疑するためには、懐疑の言葉を発するうえで、懐疑の内容を理解し、心が整理され、その意味を理解できないとできない。

懐疑する者は、少なくとも言語のシステムを信頼している。懐疑の前提は言語ゲーム に対する信頼である。
(私は、デカルトの『我思う、ゆえに我あり。』を連想しました;報告者)

2)名前と人格
・ 人びとは社会(言語ゲームの渦巻き)のなかで、それぞれ異なった場所を占める。
・ 豊かになった内容は、異なった単純な形式によって区別されるしかない。→それが名 前
・ 名前によって、他者の人格が、あらわな輪郭を持つ。自分の人格は輪郭を持たない。
3)霊魂
・ 他者の人格の連続性(心)が、他者の実在を離れてわたしにあり続けるならば、それ を霊魂と名づける。
・ 他者に霊魂があるなら、自分にも霊魂がなければならない。
・ 自分に霊魂があるのなら、自分に霊魂でないもの(肉体)がなければならない。
* 言語ゲームの立場から、二次的三次的・・・副次的に「心」を記述できないものかと 考えている。



●質疑応答

@ 車椅子の人にとって東京は不自由。これはアスペクトか。
―――その通り。それに何かしら加味しなければならない。

A 煙草のポイ捨てというルール違反は、煙草のポイ捨てはいけないというルールを皆が意識しているにもかかわらずなぜなくならないのか。
―――ルール違反の存在は、ルールがないことを意味しているのではなく、ルールがあることを明示している。問題なのはル―ル違反が頻発すると、ルールの存在そのものが危うくなること。
< その場合は、サンクション(懲罰)が必要となる。

Bルールを変えるのはどうやって。
―――ゲームをやりながらルールを作り変えていく。

C 狂気への不安を感じた時、ウ゛ィトゲンシュタインはなぜ、言語にこだわったのか。
―――ノイローゼみたいなものと考えればよいのでは。

D経済学的な意味での「価値」は言語ゲーム理論によればどうなるのか。
―――経済的な交換行為の付属作用としてとらえる立場である。

(参考)
クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』産業図書
橋爪大三郎『言語ゲームと社会理論―――ウ゛ィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン』勁草書房・1985
橋爪大三郎『仏教の言説戦略』勁草書房・1986

*次回が、橋爪言語ゲーム理論講座の最終回です。言語ゲームの観点からいわゆる<エロス>や芸術や教育の領域に切り込んでいきます。(報告者)


『人間学アカデミー 〜心の意味を問い直す〜』レポート〔3〕:2001年11月10日

普段は心について考えることなどないので、今回のお話を引き受けてから考え出しました。
ところで、前回は2次会のお誘いをお断りしましたが、実はあの後、紀伊国屋ホールに行って『言葉は誰のものか』という、糸井重里さん主宰のイベントに参加しました。アナウンサーの八木アキコさんや、さんまさんがきていて、自分もなんやかといっていたんですが、なんと吉本隆明さんもご登場なさって(会場、驚きの声)、吉本さんは、最近は目の具合が良くないということで、本も読めないそうで、それに加えて、足も不自由なんですが、そのときは意気軒昂で、大変愉快そうに・・・・・

(そこに、数分遅刻の小浜氏登場。ちょっとばつが悪そうな様子;報告者コメント)
小浜氏の弁;前回に続いて遅刻して申し訳ございません。ここを貸してもらえるように麻布高校と交渉してくれた山内さんによれば、<麻布時間>というのがあるそうで、その影響もあるのかなと思います。前回の内容を自分なりにまとめれば、ヴィトゲンシュタインの理論を社会学に大胆に応用したもので、ニヒリズムの乗り越えへのヒントがあるように思いました。

(橋爪さんにバトンタッチ)
で、さっきの続きなんですが、私が「言葉はみんなのものだ」と言ったんですが、それをオスギとピーコのピーコさんがえらくほめてくれたんですね。顔はどちらがどちらなのか、全く区別がつかないんですが。(場内 笑い)今日は、前回と違って、軽装できましたし、二次会に出席するつもりですので、皆さんもどうぞ。(場内、意外な申し出に歓びを交えた驚きと戸惑いの空気。結局20名弱参加。3分の1弱の参加率)

さて、「心」には、感覚とか快不快とか感性とか美とかいろいろなパーツがありますが、そのうちおもに<好き嫌いの感情>について述べようと思います。【講演者】



◆9.性と愛

1)愛しているから「愛している」と言うのか
前回、7の1)の「感覚」のところで「自分は『痛い』のは自分のことだからわかる。しかし、他の人が痛いかどうかはわからない。でも、自分と同じように『痛い』と言っているのだから痛いのだろう」といった話をしました。その考えを「愛している」という言葉に当てはめれば、愛しているから「愛している」と言うのではなく、「愛している」と言うから愛しているのではないか。「愛している」と言うから愛しているという現実が生まれるのではないか。
・ 言語ゲーム≒行動主義(「痛い」というから痛い。ヴィトゲンシュタインは自分の認 識論をそう名づけている。後の心理学の行動主義と名は同じでも内実は全く異なる。)
ふるまい(用法)の一致
・ 「愛している」というから愛している
遂行文(performative sentence)とは・・・
一言で言えば、「言葉を発すること自体が、世界に実在を作り始める、そういった文」ということ。
例えば、初めて相手に「あなたが好き」というときを考えてみる。言おうかどうか迷っている段階では、「好き」という事実は、相手からは見えないし、自分にとってもどこかあやふや。「好き」と言うことによって、相手にとっても、自分にとっても、「好き」という事実が実在し始める。裁判の判決文や命令文もそうである。
そして、遂行文には、嘘か本当かという区別はありえない。嘘も本当もない。蛇足ながら、日本人の男性はもともと愛の観念がないせいか、女性に詰め寄られると困ってしまう。
いちいち聞かないで欲しいと思ってしまう。それに対して、ハリウッド映画のなかでは、「I LOVE YOU.」が連発される。実際、アメリカ人の男性は、毎日、「I LOVE YOU.」を言う。そうしないと、愛していることにならないので言う。行動主義的なのである。
キリスト教においては、結婚とは、契約に基づく愛情関係なのでそういうことになる。そんな背景を知ってか知らずか、ハリウッド映画を観た日本の女性達は、男達に「I LOVE YOU.」の言葉を求める。お互いなんとなく解り合うのを理想とする男達は、わざわざ言うのはわざとらしいと思ってしまう。そういう、男女の擦れ違いがあちこちで演じられているわけである。
遂行文と対になるのが、<事実報告文>である。
<例>「このポストは赤い」→嘘か本当か検証可能 ・感覚ばかりでなく、意図intentionや内面は、それを表現するふるまいとともにある。
2)性別と身体
・性:身体―身体 →身体同士が、直接関わる領域;性の根本は、人間から人間が生まれるということ。つまり、母と子の関係である。だから、親子関係が、社会の根本である。
・言語:身体―形式―身体  身体同士が間接的に、意味を介して関わる領域;さまざ まな社会組織(会社・学校・・・)の世界である。
・ 「猥褻の分離公理」…言語が、意味を共有する"公然"の空間を作り出し、性が、それと区別され、"秘匿"される空間を作り出す。
*  猥褻というのは犯罪とされるが、他の犯罪行為と違って、その行為の被害者を確定 するのが難しい。なのに犯罪とされる。それは何故か。ずうっと疑問に思っていた。ヒントを得たのは、サル社会におけるセックスの在り方を観察したときである。サル社会においては、みんなが見ているところでセックスをする。つまり、サルには猥褻の感覚がない。しかるに、なぜ人間は猥褻の感覚をもつのか。そこに、人間が社会を作る上での公理が存在するのではないか。そう考えて、「猥褻の分離公理」を生み出した。

人間は、家族の外側に社会という公然の空間を作った。性愛は家族の領域に封じ込められた。それが、家族の領域からはみ出した場合、猥褻という現象が起きる。サル社会は、家族兼社会なので、猥褻という現象は起きない。
さらに、その典型としての<近親相姦>(incest taboo、全世界に普遍的にみられるタブー)は、社会が自らの安定性を確立するための戦略として捉えることができる。つまり、子供からみれば、家族内での性愛表現は禁じられている。だから、見ず知らずの誰かと仲良くならなければならない。そのことを子供は運命づけられている。で、子供は、性愛を通じて、家族の再生産をする。そのことを通じて社会はその安定性を獲得する。
(このあたりの流れ、すごいと思いませんか?報告者)

・ 性愛〜互いの身体感覚を標的とする相互行為
・性別:性と性愛に関わる役割を予期させる類別  母〜産む機能 女〜母と同性
「遠隔対称性」(吉本隆明『共同幻想論』ほか)  男〜母と異性  ∵遠隔を志向
*性別の意識は、かなり根源的なもの。自分を自分と意識した時から(物心ついた時から)、ほぼ同時に発生。
精神病者の人格が解体しても、性別意識は解体しない。それくらい根源的。
⇒家族(特に母、報告者註)との関係で、自分を意識する時、同時に性別の意識をもつ。それゆえ、他人の性別を識別する人間の能力は、とても鋭い。
⇒それゆえ、性別においては<母>が中心的な役割を担う。すなわち、<母>とは、子を産む機能であり、<女>とは、母と同性の存在であり、<男>とは、人間のうち女性ではないもの。それゆえ、<男>は、遠隔を志向する。
⇒子を産むか産まないかの役割分担が、性別の根本。それも、社会の戦略、すなわち、社会が自らを安定させるための必要、節約の要請に基づくものとして捉えることができる。
(ここも、すごいと思いませんか。報告者)
・性別のゲーム →性愛のゲーム →親族のゲーム →愛情のゲーム

* 性別のゲームが根本で、そこから性愛のゲームが派生し、性愛のゲームから親族のゲ ームが派生し、親族のゲームから愛情のゲームが派生する。

3)告白と主体(参考までに・・・)
・フーコーのテーゼ「告白は内面と主体をつくり出す」  罪の告白〜性の告白
・言葉(公然)の世界から隔てられ秘匿されているのは、自己身体に関する(性)関係 ∵人間は自由な意思をもつ〜自由の基盤は身体〜自身体への関係は直接〜性関係
・ 個人(主体)は、心をそなえた実態ではない。告白や遂行や言語のなかで結ばれる仮 象にすぎない(のではないか)

*人間は身体をもっているからこそ、神の支配から逃れた自由意思をもつ。自由意思をもつから罪が生まれる。
それゆえ、罪の告白の中核は、性の告白である。性の告白を、神の前ですることによって、人間は、神から自由な内面と主体(近代的な意識)を持つに至る。
(では、キリスト教の告白システムをもたない文化圏においては、自由な内面と主体は育たないのか、という疑問が湧き起こってきますね。アジア人としては、フーコーさんに、楯突いてみたいところです;報告者)



◆10.言葉と倫理

1)嘘
・任意の出来事について、嘘をつくことができる →どんな言葉も、正しい証拠がない
・しかし、すべての出来事について嘘をつくことはできない ∵その場合、言語は存在理由なし
・言葉を話す以上、かなりの部分は嘘ではない。 →言葉の背後に真実の領域あり→その真実の領域を相手の心とみなして関係を切り結ぶ
*事実報告文の場合、事実と照らし合わせれば、その真偽は判定できる。しかし、世の中のたいていの言葉は、その真偽を判定できない。だが、相手のいうことは、大体のところ本当だとみなさないと、人間関係が破綻してしまう。
*「人は全ての出来事について嘘をつきとおすことができない」という発想のヒントになったもの
⇒「不動点定理」(fix point theory);「閉空間から閉空間への自己連続写像は不動点を持つ」
閉空間:境界のあるもの 自己連続写像:なだらかにとぎれなく移って行くところに結ばれる全体像(思いっきり単純化すれば、「Aの無限の繰り返しは必ず非Aの一点を招来する」ということか;報告者)
<不動点の例>・頭の髪の毛のツムジ  ・地球上の無風地帯
(つまり、嘘をずっとつき続けるうちに必ず不動点としての「本当」を生み出してしまう、といったことか。
これは、知的なゲームとして非常に面白い連想だと思います。例えば、無神論の主張は神という「不動点」を招来する。平和の連呼は戦争と言う「不動点」を招来する。「I LOVE YOU.」の繰り返しは、愛の不在を招来する(?)・・・・・。高度な頭脳においては、理系と文系の区別はあくまでとりあえずのものに過ぎず、二つは対立の関係にあるものではなく、相乗効果的に関係しうることの格好の例だと思いました;報告者)


2)約束はなぜ守るべきか
・約束:ある事態を生じさせる意思の言葉による表明  言葉にあわせて行為する
*約束は、社会的に発達すると契約になる。その意味で、約束は社会の基本。
・すべての約束が嘘であることはありえない →誠実さ →意図や意志は現実となる
・人びとの意志は現実を構成する  言葉が現実を構築し人びとを拘束することの信頼がそこから生まれる。

3)法と道徳
・法:責務obligationを課すルールの言葉による表明  言葉にあわせて行為する。
*責務とは、責任をとらせるということ。
・社会はこのようでなければならないという強固な集合的意志が、法を背後で支える。
・道徳:行為の自由(選択肢)のあいだにはたらく望ましさの磁場  法をはみ出る道徳は法ではない  個々の人の内面に、「善」の場所を用意する多様性
*道徳は、法をはみ出た周辺部分にあるもの。



◆11.言葉と表現

1)歌と詩
吉本隆明『言語にとって美とは何か』
・言語の美的な機能  繰り返し語りたい、聞きたい →定型(反復されるパターン)
* 「繰り返し語りたい、聞きたい」という思いが、美に対する感動の中心にあるもの
その思いが、定型を生む。
・歌:声の可塑性を基礎に表現される言葉の美  歌が共有され、情緒が共有される。
→歌ははじめ伝承だった〜コスモロジ(神話)〜個性は集合的心性のなかに溶解して定着
・詩:個的な世界を言葉の美として表現  詩が創作され、心が個別化する。
文字〜時間・空間を特定して出来事を記録し陳述する手段→個性の可視化 アモス書
* 文字には記録性がある。それゆえ文字の発見は、歴史記述を可能にする。そして、個 人的な作品が可能となり、個人の感情がそこに表現され、作品を読むことを通じて、他の人々がそれを共有するに至る。
上記のアモスというのは旧約聖書中でユダヤ民族の滅亡を予言する人物。その予言を人々に語ることを禁じられたアモスはそれを文字で書き記した。それが世界ではじめての予言書である「アモス書」。その後、予言者が登場するたび予言書が書かれ(モーゼの「創世記」など)、旧約聖書が編まれることになる。

2)演劇(虚構)
・演劇:現実からある状況、役割、人格を抽出して再現する  背景はコスモロジ再現される行為(演技)の背後に、心(内面)を観て共有する  ただし心はない

*演劇においては、登場人物の性格は、現実の社会におけるそれを誇張したもので、そのことによって、人間の心を解かりやすいものにして、観客はそれを共有する。
・物語→文学:言葉によってある状況、役割、人格を創出する  そこに心を読む
・ 心のリテラシー 人為的な演劇や文学で、人びとは純化した心を読解する力を高める
*すなわち、現実と虚構には、互いを豊かにし合う相互作用があるのではないか。

3)自分を語る制度
・自己の成り立ち  役割や関係や集団の結節点として、社会的自己はある自己が自己であることに責任をもつこと  誠実性 理解 責務 →誓い
・言葉は、自己のありかたを不断に明らかにするツール  あわせて他者を語る。
・大勢の前で/内輪の前で/自分にだけ/神の前で自分を語る  どれが本当?
言葉は絶えず相互に参照し、修正され、更新してどこまでも続いていく自己はそれにもかかわらず語り切れないものとして、言葉をすり抜ける →告白



◆12.なぜ「心」が問題になるのか⇒教育が普及したことと関係がある

1)教育の戦略
・教育:次の世代の思考と行動様式を再生産すること。  社会は行動様式と、それに対 応する内面をもつとされている。  上の世代の懐疑…若い世代は心を学んだか?

(公教育は、子供の個性や可能性の全面開花のためになされるもの、つまり子供個人のためになされるもの、といった議論があるが、そういった教育論では、教育問題の本質にまでは切り込めないことが以下の議論からわかる。小浜氏も「教育は、本質的に子ども個人のためでなく、社会のためになされるもの」と捉え返して、戦後民主教育の建前論では、なかなかその中身にまで立ち入ってきちんと論じ切れなかった、教育の諸問題を切れ味鮮やかに論じている。その画期性は強調されるべきである;報告者)

・ 教育はしばしば心に照準し、どう行動様式を学んでも不十分だとする →権威
* 上の世代が、下の世代に教育する場合、教える内容は、「行為が反復できるもの」と なる。そして、下の世代が、教えられた内容を反復できるようになったとき、上の世代には不満が残る。すなわち、反復される行為の背後にある「内面」「心」が伝わっていないという思いを抱き、「若い奴らは、肝心な点が欠けている。ハートがない。」という不満をもつのである。若い世代からすれば「教えられたとおりちゃんとできるようになったのにそれ以上どうすればいいんだ」ということになる。そこで、上の世代に権威が作られることになる。
・社会の違いに応じて、教育も異なる共同体に参入(成人式型)→社会階層が明らかな社会:身分に適応するための教育→職能が分化していてそれを子が引き継ぐ社会:職能に適応した職業教育→近代社会:組織に適応するための教育(学校教育)
2)規律訓練と「心」―――近現代教育の特徴
・学校教育  汎用性の高い思考と生活様式を獲得すること
  職業と厳密に対応せず(なんの役に立つのか解らない)
青年期の延長  知識格差の生産  画一性(軍隊と相似)〜学年・カリキュラム・成績 ・学校教育は、世俗的(ヨーロッパ文化の文脈で、「神と関係がない」ということ)で 、しかもそこで行われる教育自体が自己目的化する。
→そこで照準される「心」は、宗教ともコスモロジとも結びつかない
→個的な差異が重要なものとして生徒の心に浮かび上がる。
*画一化された空間においては微細な差異が際立つ(<例>制服とオシャレの関係)
・学校教育は、画一化的な社会のなかで、個的な差異としてある自分とはなにかという問いを生む→その答えは与えられない →高校全入段階でこの問いは普遍化(☆)
(ごく小数の者が高等教育を受けていた時代においては、「自分とはなにか」という問いが、社会的に少数を構成していたが、だれもが高等教育を受けるようになれば、みんながみんな「自分とはなにか」と問うようになる。それが<自分さがし>の普遍化の意味。蛇足ながら、橋爪さんは、高校と言う言語ゲームのルールの変更(一部の若者が入るべき場から全ての若者が入るべき場への変更)に伴う必然を語っているのであって、みんながみんな高等教育を受けるようになって賢くなったから、そういう高級な悩みを持つようになったと言っているのではない。そういう意味では、学力低下と自分さがしの普遍化はなんら矛盾しない。また、そのことは、<自分さがし>という言語ゲームの全てが意義深く、価値のあるものであるという保証は全くないということも意味していると思います;報告者)

3)「心」はあるのか
・心は「心」そのものとしてはありえない  その表出(言葉、行為)としてのみある
・心は、理解されるときそこに(その表出において)ある  数列の「…」と同じ
* AさんならAさんというひとが、a1,a2、a3・・・という言語を紡ぎ続ける中で、それを受けとめる相手があるとき、Aさんらしさ、Aさんの心はこんなものではないかと「わかる」。その意味で、相手が「わかる」ところにAさんの「心」がある。つまり、Aさんの心はAさんの内側にあるのではなく、むしろ、外側にあると考えた方が事の真相に近いのではないか?
・心は、それを理解するもうひとつの心に対して現れる→ 心のネットワーク
・心の対称と非対称
他者の心は、他者の外形の背後に隠れている。
自分の心は、世界の客観へと連続している(隠れていない、世界の受けとめ方そのものとして自分に開かれている)(自分の心と他者の心の非対称性)この2つを、同じ心と呼ぶ(心の対称性)のは、「心の言語ゲーム」においてのみ可能なのでは?
(自分にとって、自分の心と他者の心は非対称的な関係にある。にもかかわらず、人間は、自分の心と他者の心を同じ心と呼ぶ。つまり心の対称性を求める。言い換えれば、対話を求める。それは、自分の心は対話の相手によって「わかられる」ことによって、他方においては、相手の心は自分が「わかる」ことによってはじめて成り立つとする<心の言語ゲーム>によってのみ可能なのではないか。言い換えれば、<心の言語ゲーム>によってはじめて、お互いがお互いの心を「わかりあう」可能性が生まれるのではないか。そのように橋爪さんはおっしゃっている、と私は理解しました;報告者)

・前項の問い(☆)は、そのものとしては答えられない。その問いを生み出した社会的文脈を理解するとき別な問いにかたちを変えて解消する(しかないのでは?)



●質疑応答

@ 社会のルールをAからBに変えたい場合、ルールの変更に無関心な人々が多数を占め るのが普通。そのためルールBの立場よりルールAの立場、すなわち、現状維持派の方が有利。ルールBの立場の者はどうすればよいのか。
現状維持が続く場合、その原因は、ルールを変えたい立場のアイデアが悪いか、変えるための努力が足りないか、いずれかである。

A 心には自分では気づかないが、相手には解る領域、すなわち、無意識の領域があるが 、それは、言語ゲームの立場からは、どう捉えられるのか。
無意識の領域は確かにある。しかし、それに決着をつけるのは、結局自分なのではないか。

B 人間の心には、言語以前の領域が存在するのではないか。それは言語ゲームの立場に おいては否定されるのか。(佐藤幹夫)
言語以前の領域が存在することは、認める。しかし、言語以前の領域に言語以前の手段で入っていくことは出来ない。明瞭な言語によって語るほかはない。それゆえ、明瞭な言語によって語られることによって、始めて、言語以前の領域は存在することになる。

C 人間と人間の了解は、言語の媒介なしに成し遂げられる場合がある。それをどう考え るのか。(小浜逸郎)
そういう事実を無視しているわけではない。小浜さんにぜひやってほしい。

D テクノロジーの発達が、人間を変えていく可能性はあると考えるか。
テクノロジーの発達は、「自分は機械なのか、それとも人間なのか」と人間に対して問いかける機械すなわち、ヒュウマシーン(橋爪氏の造語;報告者註)を必然的に生み出すだろう。その場合、機械と人間の真部分集合を媒介に機械と人間をつなげてしまうことによって、人間と機械の対立関係を乗り越えるより他にない。

E 言語の違い(例えば日本語と英語)は、言語ゲームの差異をもたらすのか。
(この段階で、報告者自身が質問しょうかどうか、迷いだしたので、橋爪さんの回答を聞き逃してしまいました。すみません。)

F 人間は全ての言語ゲームから逃れることは出来ない。とりわけ、近代という言語ゲー ムから逃れることは出来ない。そして、とりわけ、近代を象徴するのは国家という言語ゲームだと思われます。橋爪さんは、戦後の日本人は国家という言語ゲームをプレイヤーとしても観察者としてもきちんとやりきれていないと『政治の教室』でいっています。他方、同時多発テロや環境問題に見られるように国家という言語ゲームがほころびを見せ始めている。その二つの課題に対して、どう折り合いをつけたらいいのか。(報告者)
国家という言語ゲームを乗り越えるためにこそ国家という言語ゲームを徹底する。民主主義を徹底的に追求してみる。それでダメなことが判明した段階で、次の手を考える。それが折り合いのつけ方です。

★(二次会の席で、橋爪さんに小林よしのりや新しい歴史教科書の公私論をどう思うか尋ねてみた。
橋爪さんは「彼らのように、公と私を対立するものとしてとらえるのは生産的ではない。
加藤典洋の『私から公を作り出す』という立場を基本的には支持する」とおっしゃった。重ねて「天皇に戦争責任なし」とのお考えは、民主主義を担う主体としての国民のプライドを示すものと考えていらっしゃるとの理解でよいのか」と訊いたところ、「そうだ」とおっしゃった。)

G 自殺についてはどう考えるか。
文化によって自殺に関する価値判断は異なる。

平たい言葉で言えば、<相手には、なるべくわかるようにキチンと言いなさい。わかるまで言いなさい。それが出来ない場合、相手にとっては、あなたの心がないのと同じことなんだよ。それとは別に自分の心があるというのは単なる思い込みなんだよ。そういう現実をキチンと引き受けなさい。>というのが、橋爪さんのメッセージなのではないかと思いました。どこか、日本人的な甘えを拒絶する姿勢を感じました。「日本人的な甘え」を、小浜さんの言葉に置き換えれば「他者依存体質」ということになりましょう。そこから、個人的にさらには社会的に脱却するところに、日本をめぐる諸問題の解決の糸口を見出していらっしゃるようにお見受けしました。(報告者)
参考文献
橋爪大三郎 1995『性愛論』岩波書店
橋爪大三郎 1993『性空間論(橋爪大三郎コレクションV)』勁草書房
(文責 根本義明)

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最終更新日:2004年04月12日