| 発行人エッセイ 【五体大不満】 | ||
●口上 ●「障害」とは何だろうか いきなり大問題から入ってしまうが、「障害」となんだろうか、と訊かれたら、「障害とは障害に決まっているじゃないか、何あたりまえのことを訊いてるんだ」と叱られるだろうか。わたしが深く物事を考えないたちであるためか、何をもって「障害」というのかが、ときどき分からなくなる。 たとえば「色覚異常」というものがある。かくいうわたしは「赤緑色弱」ということになっている。色盲とは違って、色の区別はできる。しかし、微妙な違いが識別できないことがある。たとえば夜、車の運転をしていると、信号が周囲の街灯やネオンと区別しにくくなる。あるいはモスグリーンなのか、ダークグレーなのか、黒なのか、ちょっと見分けられない。黒だと思って買ったセーターが、家であけてみるとグリーンだったなどということもある。 生活にあたっての不便といえば、そんなところだろうか。何を言っているんだ、そんなものは「障害」のうちには入らない、とさらに叱られるだろうか。たしかにそうである。しかし、もう少しだけお付き合いしていただきたい。 わたしが学生のとき、「色覚異常者」は理科系すべての学部の受験資格がなかった。美大も、教員養成学課程の美術や理科ももちろん、小学校課程、養護学校課程も受験できなかった。わたしは幸いそんなところには眼もくれず?文学部などというところにもぐり込んだから、何も騒ぎにはならなかった。 しかし、である。わたしがもっとデキがよく、医者になりたいとか工学部に入って技術屋になりたいという大望を抱く秀才だったらどうだったろうか。このとき「色覚異常」は進路選択を阻む立派な社会的バリア=「障害」ということになってしまわないか。おそらく歯ぎしりしながら文科系に進路を変えた秀才はいたはずである。 わたしは就職浪人の期間を三年ほど持つが、そのとき、実際にこんなことがあった。小学校教員の免許状を取得しようと、ある大学の通信教育に申し込みをしたところ、ほどなくして就職課なるところから連絡が入った。当方は、単に免許状の取得のみならず、就職まで責任を持って面倒を見ている、それが方針なのだ、ということであった。それはありがたいとわたしは思った。 ありがたい話には、しかしその後があった。あなたの健康診断書には「色覚異常」と記載されている、色覚異常者を小学校教員として採用する県はない。免許取得後の就職斡旋にまで責任をもてないが、それでもよろしいか。おおむねそのような主旨であった。通信教育は、当然のごとくその後挫折したが、このことは長くわたしの心に残った。頭では知っていたことではあったが、現実に直面すると、やはりわたしも複雑であった。 小学校の教員をやっていた友人から聞いたこんな話もある。四年生になると色覚検査が行われるが、受け持ちに一人、「色覚異常」の子が出た。その旨を家庭に伝えたところ、すぐに母親が訪ねてきて、「健康の記録」や「指導要録」などの公簿に、色覚異常であることは絶対に記載しないでくれ、と頼まれたのだという。母親は当然、進路上のハンディとなるのを知っての依頼であった。色覚異常は治るのであり、絶対に治すから、と示したのが、「色弱は治る」を売り物にしたある機関のパンフレットであったという。 これらはいずれも二十年も昔の話である。受験資格について、今どうなっているのかは分からない。教員養成課程の受験資格からは、とうに撤廃されたとも伝え聞く。眼科治療が色弱を本当に治せるようになったのかどうかも、わたしには分からない。しかしここにあるのは何だろうか。正面から問うことはしなかったものの、なんかおかしいんじゃないか、とは感じ続けてはきた。 ここにみられるのは、同じ身体のハンディが、ある場合には深刻な「障害」となり、またある場合にはそうではない、という事態。つまり「障害」とは、たんに身体の「ハンディ」を指すのみならず、そのことによって社会的不利益を余儀なくされ、社会の制度がバリアとなって立ちふさがる事態だと言え、「色覚異常」はその典型的な例である。ここまではいい。社会的ハンディキャップとは、そのようなものだと言われてきたからだ。 ならばわたしが養護学校教員として採用されたのは、どのような「特例」がそこにあったのだろうか。むろんわたしはその恩恵に預かってきた身だから、大きなことは言えない。天につばを吐きかける行為である。しかし、わたしは養護学校教員を二〇年以上も続けながら、免許状の取得を拒否してきたのだが、それは、実はこのことと関連している。わたしには小学校課程も養護学校課程も受験資格がなかった。しかし養護学校に任用された。そればかりか採用の後、「委託研修生」制度の名のもとで一年間大学に通ったら、小学校免許状までもが簡単に取得できたのである。 バカげた話ではないか。だったらなぜ受験資格なし、などという取り決めをしていたのか。社会制度=バリアといっても、しょせんこの程度のものではないか。「障害者」を「障害者」たらしめているものが何であるか、わたしはその一端に触れた気がした。そのときわたしは、退職するまで免許は取らないぞ、とひそかに一人でレジストすることに決めたのである。我ながらガキみたいではある。 わたしが言いたい「この程度のもの」というのは、つまりはそれを運用する側の腹一つで、必要以上に厚い「バリア」として振りかざすこともできるし、抜け道を作って通そうと思えばそれもできる、たかだかその程度のものではないか、ということである。 それはわたしの「障害」が「色覚異常」という、障害と呼ぶのもおこがましい軽微なものだったからだろうか。しかし現に、受験資格は剥奪されていたではないか。わたしにだって、「世の中の仕組み」というやつのいい加減さに、人をバカにするんじゃない、と怒る資格くらいはあるだろう。 心身に重いハンディを持つ多くの人々は、わたしとは逆の経験を余儀なくされてきたはずである。本人にはそこに並ぶ資格は十分にあるのに、社会制度のほうがそれを認めようとしない。ささいな事実を必要以上に分厚い「バリア」として、彼らの前に差し出してこなかったろうか。その決め言葉が、櫻田淳さんの『「福祉」の呪縛』に出てくる「前例がない」の一言である。してみると、わたしの場合は「前例」があったのだろうか。 心身にハンディを持つ人々を「障害者」たらしめるのは、ハンディそのものではない。それは社会制度である。そしてそれを運用する者の「前例方式」が、それに加担している。それがこの問題のすべてではないが、少なくともそのような一面は間違いなくある。そして「障害」の社会的側面には、これまで述べてきたような「人を馬鹿にするんじゃない!」というところが、まちがいなくあるのである。 ところで、小浜逸郎さんとの対談集『「弱者」という呪縛』のなかで、櫻田さんがこんなことを言っている。障害者年金は収入によってランク分けされていて、年間六百万以上になると打ち切りになる。櫻田さんは支給されなくなったとき、「ああ、これでおれは普通の人間になったな」と思ったという。 これは何気なく洩らされた感慨ではあったが、わたしは櫻田さんの壮絶な闘いぶりを垣間見たようで、いろいろなことを考えさせられた。しかし、福祉畑にいるあるスジからは不興を買うだろうな、とも思った。むろん心配したのではない。櫻田さんがそんな批判などでびくともしない表現者であることは知っている。ただ、そう感じたということである。 櫻田さんは「ある意味」では、もはや「障害者」ではない。わたしはそのように考えるものである。「ある意味」とは、これまで考えられてきた「障害者」=「弱者」=「福祉」によって庇護される存在(障害者年金に守られる存在)、という枠組から、一歩踏み出している、つまり、「障害者/健常者」という枠を超えているのである。櫻田淳という存在そのものが、すでにそのような「障害」の社会的側面を、なぎ倒しているのである。 枠を超えている、とか、一歩踏み出している、とかわたしは簡単に書いているが、それがどれほど気力を要するものであったかは、想像を絶する。「障害」とは、社会が作る「制度=バリア」である、と先に書いた。そして櫻田さんは自身の獅子奮迅の力で、その「制度=バリア」を壊してきた。つまり、「障害者」とは社会によって作られるものであるという点から言えば、もはや櫻田さんを「障害者」と呼ぶのは不当だという理屈になる。 わたしにとっての櫻田さんとは、まず何よりも一人の確固とした表現者であり、気鋭の政治学者である。それは彼の読者にとっても同じだろう。もしわたしが彼の福祉論、「障害者」論に異論を感じたら、それは遠慮なく書かせていただく。当然である。その結果返り討ちにあうかもしれないし、新たな一致点が確認されるかもしれない。これまた当たり前のことである。 ところで、先の櫻田さんの発言を読んだ知人から、はたしてわたしは詰問された。「なぜ、反論しなかったのか。働きたくても働けない障害者がたくさんいる、その人たちのことを考えたら、思いやりのない発言ではないか。その発言は、重度の人たちを切り捨てている」という意味の難詰であった。正直に書くが、わたしはどっと疲れた。 「できる子はいい、スポットを浴びることができる、しかしできない子はどうするのか。できない子に、もっとスポットを当てるべきではないか。」その通りである。しかし、「その通り」のことが実現されるために、なぜみんな「平等」で、横並びにならなければならないのか。福祉畑でも、ときどきこういう「絶対平等主義」にお目にかかることがある。 いささか立ち入ったことを書くことになるが、櫻田さんは、手がほとんど使えない。歩行も、階段の昇り降りは支援を必要とする。食事や着衣もそうである。その櫻田さんが自力で(この「自力で」という言葉が持つ重みを、ぜひ考えていただきたい)、大学院まで進み、現在の職と収入を得るところまで来た。そして「ああ、おれも・・」と洩らした。その感慨に頭が下がりこそすれ、なぜ思いやりがないと非難されなくてはならないのか。何かが混同されているのである。 確かに「重度」の障害をもつ人々がいることは、わたしも知っている。しかし、問題がまったく別である。「重度」の人たちが、働く場を得ること、生きがいや楽しみを持つこと、さまざまな人と人間関係を取り結ぶこと。そのような問題にどう支援するかということは、それはそれでしっかりと知恵を出し合って考えられるべきことである。しかしそのことが、櫻田さんが自身に対してそのような感慨を抱くことと、なぜ同列に考えられなければならないのか。 さらに言うが、思いやりがないという意見の裏を返すなら、櫻田さんに、「みなと同じように、ちゃんと『障害者』のままでいなさい」と、そのように言っていることになるではないか。「絶対平等主義」と言い捨てたくなるのはそれゆえである。「障害者への思いやり」なるもののすべてを、わたしは否定するものではない。しかし、善意や「おもいやり」というものが、しばしばその裏に思考停止や鈍感さを隠すことは、自覚していてもよいのではないかと思うのである。 なぜならば、「前例がない」という言葉もまた、「『障害者』は『障害者』のままでいろ」という、そのような言葉である。なぜこのような「奇妙な一致」を見せることになるのだろうか。それは「障害者」を思いやる人々の考える出発点もまた、「障害者/健常者」という二分法的なところに留まっているからである。そこでは思いやらなければならない「弱者」が、あらかじめ前提とされているからである。 もし「思いやり」なるものが、気使いとか、配慮、たしなみという関係一般に見られるものや、お互いの「助けたり助けられたり」に関わるものであるならば、それは何も障害をもつ人々に話を限る必要はない。誰もがお互い様だというべきであり、また人に押し付けられるべき筋のものでもない。もしまた社会的な発言として述べられているのであるならば、それはほとんど功を奏さない。そこは現実的実効性が図られる場であり、もっと具体的かつプラクティカルに考えられるべきだからである。わたしはそう考えるものだが、いかがなものだろうか。 誰が「障害者」をつくりだしているのか、それはわたしたち自身ではないか、などという脅迫めいたことは、わたしは言わない。よもや誤解はないとは思うが、わたしはこの世に「障害者」などいない、と言いたいのではない。「善意」や「思いやり」は、時に目を曇らせる。しかしそのように指摘されたとき、「善意」や「思いやり」の持ち主は、おそらく憤慨するだろう。社会の仕組みやお涙ちょうだい式の善意やら、みんな平等式の思いやり、というフレームを取り去ったとき、「障害」というものがまた別の見え方をしてくるのではないか。 そのことをわたしは指摘してみたかったのである。 ●「支援する」ということ ここでは「支援」ということを考えてみる。 だいぶ以前の話になるが、あるTV番組で目の見えない若い女の人が話すのを目にする機会があった。そこで彼女は「生まれたときからほとんど眼が見えなかったし、こんなものだと思っていたので、特別不便だと感じたことはない」と別に力むわけでもなく話していた。わたしはハッとさせられ、そしてすぐに、これは彼女の生活感情の自然な流露だと受け取るべきだ、と思えた。 わたしたちは、視覚や聴覚、その他、身体の障害を決定的なダメージのように思いなしがちである。たしかに、彼らが生活の諸技能や他者とのコミュニケーションを獲得するまでの過程には、わたしたちにはうかがうことのできない困難があったことはまちがいない。そしてまた生活上での不便さも、予測を越えるものがあるに違いない。 しかしまた一方で、ここに紹介した女性が言うように「特に不便なことではない」という生活感性も、また真実に違いないと思われるのだ。そして、ここからはわたしの推測になるが、この女性が「特に不便なことではない」と淡々と話す言葉の向こうには、おそらく家族の有形無形の「支援」の積み重ねがあったはずである。つまり「支援」が、もはや「支援」とは意識されないほど日常性のなかにまぎれている、その結果、もたらされた言葉ではないかということになる。 このことを言い換えると、次のようになる。 日常を生きる者として自らの生活をかたち作ろうとするとき、わたしたちの誰もが多かれ少なかれ、何らかのハンディや自身の特性を引き受けて生きる他ない、という点では障害の有無に関わらず、等価である。 つまり生活する、あるいは生活を共にするという家族の場においては、「障害/健常」ということさらな差異は意味を為さなくなり、個性とか特性という差異一般に解消されてしまう。急いで言うが、わたしは「障害は個性である」などと言いたいのではない。暮らしをともにする局面に立つとき、「障害」もまた差異一般に解消される生活感性が必ず訪れるのであり、ここにおいて、先にあげた女性の「こんなものだと思っていた」「格別不便でもない」という言葉を受け取るべきではないか、と言いたいのである。 例えば、日常の家族や友人の中にあって、彼らがどんなふうに生きられているだろうか。衣食住のそこかしこにおいて、多分さまざまなかたちでの支援を受けているだろう。しかし家族にあっては、それは支援であると意識される以上に、自然なコミュニケーションのスタイルとして定着しているはずである。あるいは支援がすなわちコミュニケーションそのものである、という場合もあるだろう。 いずれにしても、こういうふうに話し掛けたほうがスムーズにことが運ぶとか、こういうときはこう振る舞ったほうがいいということを、それまでの生活史の中で両者は自ずと身につけている。そのとき支援は無意識の振る舞い、あるいは日常の所作そのもとしてすでに定着しているはずであり、そのとき自らの「障害」は格別なことでも「特に不便なこと」でもなくなっている。そこでは障害の有無などということさらな差異性は溶解しているはずなのだ。 むろん家族ばかりではない。彼らと長く日常を共にしているならば、ハンディを持つ「A君」や「Bさん」はいつのまにかただのA君Bさんになっている、そのようなことになるのである。 いささか恥ずかしくもあり、曰く言い難い思いもあるが、ここで再びわたしの弟に登場してもらう。 夕飯時になって大人の手が足りないとき、わたしは彼の食事を手伝わされた。小学校三年生位には、すでに始まっていただろうか。二歳下とは言え、背丈はわたしとさほど変わらない。脳性マヒに固有の緊張で、体は突っ張っている。その弟をうまく折り曲げて抱きかかえ、スプーンで食べるものを口まで運ぶのである。 こちらはいたずら盛りのくそガキである。10分、15分ほどはそれでも殊勝に続けているが、やがていたずら心が押さえがたくなる。はいよ、といって弟の鼻先までスプーンを持っていって自分で食べてしまったり、嫌いなものをわざと続けて口に入れたり、それはもう心ないことこの上ない兄であった。 むろん弟はだんだん怒り出す。なかなか気丈なやつで、滅多なことでは泣かない。こちらもこちらで、お前、兄貴に向ってなんだその反抗的な態度は、てなもんで、父親や母親に小突かれるまで、喧嘩をしているんだか食事をしているんだか分からない夕食となる。むろんいつもこうではないが。 さて、それなら弟が、わたしとの食事を厭っていたかというと、おそらく反対であった。最後は喧嘩別れになることをお互いに知っているが、どうも満更ではないようで、大人たちはそれを口実に、わたしをおだて上げていたフシもある。しかし、満更でないのはわたしも同様であった。 読んでくださった方がどう受け取るかは分からない。しかしわたしには、彼の食事の「介護」をしている、ということさらな意識は皆無だった。大人の手がないときにわたしが代わりを務めることに、歓迎はしていていないまでも、それでも格別いやとも思わずに付き合ったし、彼の食事とはそのようなものであると当然のように思っていた。 さらに言えば、喧嘩のような食事のような遊びのようなかかわりは、どこにでもある、普通の兄弟のそれとそんなに違うものではなかったろうとわたしは思っているのだ。つまり、それがわたしと弟のコミュニケーションのスタイルの一つであった。 むろん、わたしにまったく遠慮がなかったとは言わない。しかし、この年齢だったらさして珍しくもない、兄弟同士のサバイバルも残酷さも意地の張り合いも、およそ兄弟ならばするだろうことを、わたしは遠慮なく持ち込んでいた。そしてバカ、と叱られ小突かれるのはわたしであった。およそ当然なのだが、それはまたそれで喧嘩のタネとなる。くり返すが、わたしにとって、彼と食事をするとは、そのようなものだったのである。 さて、ここから話が少し飛躍する。 支援がことさら支援ではなくなる「かかわり」、つまり家族や、face to faceの親密なかかわりとは、人としての尊厳とか矜持という誰もが持って然るべきものが、ことさら意識されぬままに、もっとも尊重されている場面である。かけがえのなさを意識する必要がないほど、彼は彼として、そこにいるのである。 ここにおいて、「障害」への支援とはどういうことか、というその意義を見出すことができる。 支援とは、現象的には、彼の日常の不便さを手助けする行為である。しかし、実はそれ以上に、彼の人としての誇りとか矜持とか呼ばれるものと、わたしたちが日常的に共存する、そのようなことだとわたしには思われる。人としての誇りとか矜持とか、ちょっとオーバーな言い方だが、それがわたしの考えるところである。むろん、誰もがそのように支援すべきだなどと言いたいのではない。 食事や着脱や移動に支援を要するということは、それ自体、恥ずべきことではない。むしろ、支援を受けられないまま放置される事態のほうが、彼の尊厳は損なわれていると言うべきである。自力では着脱がままならない、しかし乱れた着衣のままに放置されたり外に連れ出されたりする方が、よほど彼には恥ずべきことではないか。家族にあって、誰がそのようなことを望んでするだろうか。食事、移動その他にあっても同様である。 くり返すが、誰もがそのように支援すべきだと言いたいのではない。かかわりに濃淡があるように、支援にもまた濃淡がある。義務感で始めるもよし、義侠心で始めるもよし、かかわりの濃淡に応じてそれがなされるだろうことは、言うまでもない。そして、支援を受ける側は、できれば自分の力でやれることはやりたいのだ、と実は感じているかもしれない。何も彼は、赤ちゃんのようにすべてにわたって介護して欲しいと望んでいるわけではない。必要に応じてなされるべきものであることは言うまでもない。 わたしが言いたいのは、支援とは手助けではあるが、それは続けられる中で人と人のかかわりそのものになり、ついには支援ということさらな意図が消えていく、ということである。そして人は、親密なかかわりの中でこそ、互いの自己を認め合ってよく生きることができる、というきわめて当たり前のことが、そこでも為されている。 わたしたちはときには離反したり、ときには親密さを取り戻したりしながら、助け、助けられて生きる、そのような存在である。だから支援とは、助け、助けられて生きるほかないわたしたちの、何気ないひとコマなのだとわたしは考えている。 ●「知的障害」が得たものと無くしたもの ここでは、思い切り顰蹙を買いそうなことを書かせていただく。 わたしは目下、「レッサーパンダ帽・短大生殺人事件」の裁判の傍聴を続けている。2001年4月30日に浅草で起きた、あの、レッサーパンダ帽をかぶって出没していたとして話題となった事件である。いずれきっちりした形でまとめるつもりでおり、ここでは傍聴しながら感じたことを自由に書いてみたい。 なぜわたしがこの事件に関心をもったか。被告が「高等養護学校」を出た、いわゆる「知的障害者」であり、法廷という場が、「知的障害者」にとってどのようなものか見届けたい故である。言ってみれば、法廷とは罪を為したものが最後に自身を守る場であり、「知的障害者」である被告に、どこまでそれができるのか。また裁判官が、どこまで彼の「知的障害」という特性を理解するか、それを見届けたいというのが、傍聴の目的である。 しかしここで書きたいことは、そのことではない。すでにここまで、タイトルを入れて五回、わたしは「知的障害」という言葉を使っている。「傍聴記」はすでに一二〇枚ほど書き進めているが、自分でもうんざりするほど、「知的障害」なる言葉のオンパレードなのである。これはいったいどういうことなのかということが話の枕である。 ガキの頃、大人たちの話に小耳を傾けていると、よく「どこそこの嫁(婿)は、ちょっとここが(と、頭を指し)足りない。字はろくに書けないし、数も一〇まで数えられるかどうか」などという話題になることがあった。しかしその女(男)は、無事に嫁入り(嫁とり)し、子をもうけていた。 むろん彼女(彼)はことあるごとに、「馬鹿」だとか「うすのろ」だとか、蔑まれたことだろうと思う。しかし彼女(彼)は、「知的障害者」ではなかった。たしかに「馬鹿だ、うすのろだ」と言われたであろうが、しかし場合によっては「頭は足りないが、体は丈夫だし、よく働く」とか「三人も丈夫な子を産んだ」とか、そのような言葉もまたときには聞かれたのである。 つまり、「頭の足りない」ことは最終的な価値ではなく、ときと場合によっては「よく働く」ことや「丈夫な子を産む」ことと逆転しうる、そのような価値だったのである。わたしは大人たちが蔑むのも聞いたし、褒めているのも聞いている。ろくに学校に行かなかったというし、行ったとしても、教師にはまともに相手にされなかった。「人権無視」もいいところである。しかし四〇年ほど前は、わたしの生まれ育った東北は、まちがいなくそのような社会であった。 さていま、彼らは「知的障害者」の名のもとに、医療、教育、福祉のサービスを受ける存在となっている。そしてその権利も守られ、「馬鹿」とか「うすのろ」という言葉がいかに心ない言葉か、という感性も行き渡っている(ここではあえて使っているが、むろんわたしもその感性を十分に共有している)。これは近代の達成であり、このこと自体批判されるべきことではない。 しかし事態に反作用はつきものである。進歩、あるいは達成と考えられているものも同様であり、「知的障害」と見なされるようになったことにも、得たものと失ったものがあるのではないか。かつてならば蔑まれながらもそれなりの労働力として社会のどこかで生きられたものを、「知的障害者」として「養護学校」なるところに席を得たことが、逆に彼らの生きる場所を奪うことになっていないか。そのようなこともまた、つい考えてしまうのである。 これは「心ない」物言いなのだろうか。あるいは、自分で自分の養護学校教員という二一年間に、つばを吐きかける行ないなのだろうか しかし、仕方のないことだなと思いつつも問うが、たとえばいま、ハンディをもつ子たちはどれくらい近所に遊び仲間を持っているだろうか。以前、わたしの勤務先で放課後のすごし方を調査したことがある。放課後友だちと遊ぶという答えは、212人中5名。休日は3名、雨の日の休日は0という回答であった(実施は平成四年。この年、全校生徒122名であるから、複数の回答となっている)。 たった5名と見るべきか、5名もいた、と見るべきか。 むろん「福祉サービス」の充実や、保護者による自主的取組みで、デイケアやボランティアたちとすごすなど、さまざまの試みがなされていることは、わたしも知っている。それはそれで、大変結構なことである。しかしそれは、近所に遊び仲間を失っていくことを代償として得たものである。 ところで、わたしの弟には、ちょくちょく家に遊びに来てくれる、ずいぶんと年の離れた女の子がいた。たしかSちゃんといった。ふたりして何をしているか。Sちゃんは絵本など読んで、ときどき弟になにごとか話し掛ける。弟は、そのそばにごろんと寝転んで、ニコニコしている。それだけである。わたしにはそれだけにしか見えない。しかし弟はそうではない。ちゃんといっしょに遊んでいるつもりなのである。 わたしはもちろん加わらない。Sちゃんがたまに友だちを引き連れてくることがあり、当然、弟は女の子に囲まれることになる。しかし女の子と遊ぶなど、沽券にかかわる。ましてや弟のお遊び友だちである。うらやましいなどと、口が裂けても言うわけには行かない。 たまに弟の世話をしてくれていた、言うところの「お手伝いさん」(わたしたちは「姉さん」と呼んでいたが)も加わり、Sちゃんと三人でなにごとかしていることがあった。わたしも誘われるが、女の遊びなんかできるか、ふん、てなもんである。弟にはガールフレンドがいるが、兄にはいない、などという話題になろうものなら、お前は女だから、今日から女の名前で呼ぶことにする、などと、さっそくまたバトルが始まるのである。どこまでも小意地の悪い兄貴であったのである。しかし、今のわたしは素直に言うが、Sちゃんにはとても感謝している。とてもありがたかったな、と思う。 昔は良かったなどと言いたいのではない。良いのはどちらか、などと問いたいのでもない。たまたまわたしの弟が僥倖に恵まれていたのであって、障害をもつ多くの子どもたちは、ろくに外へも出ることの適わない生活をしていたのかもしれない。しかし、自然に集まって、バカにされながらもとにかくくっついて遊んでいる、そのような交流はもう失っている。これもまた避けられない近代への移り行きの結果である。 なぜことさらこのようなことを書き記したのか。ここで裁判の話に戻る。 被告Yは、「高等養護学校」への入学を望んでいなかったという。教師たちにも信頼が置けなかったらしく、彼にとっての「高等養護学校」入学とは、「知的障害者」というレッテルを貼られただけの、屈辱以外の何ものでもなかった。卒業式も欠席し、卒業アルバム、療育手帳などは破り捨てている。そして卒業以後、彼は、「中卒」で通したという。 むろんこれは弁護側の陳述であり、わたしが直接得た情報ではない。法廷戦術も加味されているだろうから、どこまで事実かは留保しておく必要がある。「『知的障害者』というレッテルを貼られた」ということを、彼が「理解」しているかどうかさえも、現段階ではわたしには分からないのである。 しかし、少なくとも、四〇年前のわたしの田舎では可能であったような、「馬鹿」だなんだと言われながらも生きていく場所を、彼自身が作ることに失敗したことはまちがいない。わたしはここに、近代の背理、あるいは過酷さを見る。このことには説明が要るだろうか。 わたしたちの近代の社会は、「馬鹿」だなんだと言いながら生きる場所を与える寛容さをなくしている。「馬鹿」という言葉は差別的である、したがって言ってはならない、そのような「気づき」を持った代わりに、「知的障害者」という言葉を与え、きわめてソフトなかたちで「彼ら/彼らでないわたしたち」と差異線を引く。そして差異の目盛りは、いっそう微細になっていくだろう。これもまた近代の宿命である。 彼らは、さまざまな権利を得たことを代償として、「知的障害者」という言葉を与えられた。しかし医療はいまだ「知的障害」を完治しない。つまり、一度与えられた名は、消すことはできない、という心理的インパクトを与える。そのことの過酷さを、Y被告が少なくとも生活史のなかで思い知らされていたらしいことは、窺い知ることができた。しかしまた一方で、アルバムを捨て、療育手帳を破り去るほどの「自意識」も、近代がY被告もたらしたものに他ならないのである。 くり返すが知的障害者も昔は幸せだった、昔に戻れ、などと言いたいのではない。もはや後戻りなどできはしない。わたしの物言いを「差別的だ」とか「心ない」と弾劾することは簡単である。しかし、それは近代というもののはらむ過酷さから目をそらすことである。わたしたちが達成した近代なるものが、何を得、その代償として何を失うこととなったか。裁判を傍聴しながら、そのような思いがわたしの脳裏に浮かんでいたのである。 しかしこのことは、我が身にまっすぐに跳ね返ってくることになる。近代の過酷さ、などと考えながら、わたしの書く「傍聴記」には「知的障害」なる言葉がぞろぞろと出てくるのである。いや、「彼ら」などとズラしたつもりで書いているが、「彼ら」と書いたとたん、そこに「彼ら/彼らでないわたしたち」という二分法が顔を出している。いい子ぶっているのではない。わたしもまた骨の髄まで近代に漬かりきっているのである。この隘路をわたしの「傍聴記」は超えられるだろうか。 ●家族である、ということ ――最首悟『星子が居る』を手がかりに 「障害」をもつ子の親になる、家族である、とはどういうことなのだろう。 養護学校の教員なんぞをし、母親たちから「先生」などと呼ばれる破目になりながら、そんな問いともつかない思いをどこかにかかえてきた。お母さんたちは、なにか、ある独特なものを持っているのである。それは何なんだろうと、わたしは感じつづけてきた。 酒などを飲んで話す機会が何度かあった。ほろ酔いになってくると、「死」という言葉がひょいひょいと出てくる。出産の後、心のバランスを崩し、入退院をくり返していた、しばらく普通の暮らしができなかった、という母親もいた。「代わりをしてくれていたおばあちゃんまで参っちゃって、仕方がないから出てきたのよ」などと、笑い飛ばしながら話すのである。辞めたあと小さなお祝いをしてもらったが、そこでも「一つ間違えば」という苦労話で盛り上がり、「先生、書くネタに困ったら、いつでもいらっしゃい。何でも話すから。だけど儲けは半分よ」などといって笑っている。 「強さ」、といっただけでは何かが足りない。「開き直った」というのとも違う。そんなときである、これは何なんだろう、という問いが、ふと、上ってくるのは。 最首悟さんに『星子が居る』(世織書房)という本がある。最首さん(⇒ 【最首悟さんのホームページ】はこちらです。)は予備校の講師をしながら、作業所の運営にかかわるなど多方面で活動している。その最首さんの四番目の娘でさんである星子(せいこ、とお呼びするらしい)さんについて書かれたものをまとめたものが、『星子が居る』である。440ページと、かなり分厚い。わたしは最首さんと、思想のすべてにおいて考えを共にするものではないが、この本は、ハンディをもつ子の親である、家族である、ということについて、多くのことを教えてくれる。 『星子が居る』は星子さんが五歳になったところから書き始められ、二十歳になったところで終わっている。星子さんはダウン症であり(染色体の検査はしていないと断ってはいるが)、目は光を失っている。言葉も話さない。音楽が好きで、クラシック(特にモーツァルト)、モダンジャズ、中島みゆきなどを好んで聞き、機嫌のいいときには喉をクックと鳴らすという。 気性は激しいらしく、生活の流儀を乱されると怒り、怒りや不機嫌が昂じると耳の後ろをかきむしり、眼を叩くという自傷行為に及ぶ。食事も固形物はだめで、牛乳は哺乳びんから呑み、しかも長いこと母親からしか受け付けなかったという。 このような星子さんに対し、最首さんは「わからなさへの定位」と書く。「何を考えているの?」と、ときおり家族の誰かがもらすが、むろん星子さんは答えない。何が悲しいのか、なぜ怒っているのか、何がうれしいのかわからない。どうして中島みゆきの曲を好むのかも分からない。なぜ食べないのか、なぜ話さないのか、全て分からないことだらけなのだが、この「わからなさ」は、家族の中にあってある位置を占めていると最首さんはいう。 しかもそれだけではなく、わからない存在であることによってこそ、星子さんは家族に何事かを与えてもいるのだ、とそのように星子さんという存在を見定めようとする姿勢を、「わからなさへの定位」といっている。 むろん、この「分からなさ」はたやすい言葉ではない。眼前にいるわが子の「わからなさ」は、分かることができないわが身への恨み、憤り、悔しさなどを始まりとしている。なぜ自分だけがという理不尽さ、承服し難さへの言葉にならない思い。不憫であるほどにつのる、そのようなわが子へのすまなさ、取り返しのつかなさ。何事かによってもたらされた大きな悪意の感知と、その悪意への呪詛、そのようなものが秘められているのである。しかしそれを無防備に晒すことを、最首さんは自分に禁じている。 この複雑な思いは、「障害」をもつ子の親が共有する独自性について、最首さんは次のように書くことからも窺い知ることができる。…たがいに決して口には出さないが、「死ぬという考えを、生きるために必要とする」ような独自性であり、「死ねばすむと考えて初めて安心しなければならぬような、一種の或る深い恐怖」であると。そのような恐怖によってつながった無言の連帯感があるのだという。 軽々しい推測は控えなければならないのだろうが、この「連帯感」を手にしたとき、たぶん我が子の「障害」を引き受けることができたのだろうと思う。そしてわたしがお母さんたちと「一つ間違えば」の話で盛り上がっているときに感じるのも、この深い恐怖を共有した「連帯感」に近いもののような気がするのだ。 「自分だけではないのだ」と書いてしまえばなんでもない言葉になってしまうが、最首さんもわたしの知る母親たちも、「自分だけではないのだ」と、自らの宿命を受け入れている。しかしこの「受け入れ」は、受け入れてもなお、「死ねばすむと考えずにはおれない恐怖」と絶えず背中合わせのものなのである。 もう少し最首さんの本について書いてみる。 最首さんは星子さんの「わからなさ」の前で立ち尽くしていることはできない。ないない尽くしの分からない存在である星子さんを介護する日々の暮らしは、待ったなしで過ぎてゆくからだ。暮らしの時間は生活のサイクルを作り、星子さんもそのサイクルの一つとして確実にある位置を占めるようになる。そのとき、障害があるとかないということは、意味を成さない。ただ、家族の一員としてそこにいるだけである。最首さんは書く。 《星子とともに居るということは、そうとうロングスパンの変化は予期しながら、毎日の繰り返しに浸ることである。/(略)/繰り返しは人の輪郭をぼやけさせる。人と人の間を、人と自然との間をぼやけさせにじませる。/(略)/星子といると「共に生きる」という意味がわかってくるような気がしてくる。「共に生きる」という中心は頼りなくておぼつかなくて、繰り返しの連続で受動的で、そして気概に満ちた自尊心がある。》 この考えは、はっとさせられるところがある。とくに最後の一文、「『共に生きる』という中心は頼りなくておぼつかなくて、繰り返しの連続で受動的で、そして気概に満ちた自尊心がある。」という文章には、家族ならではの、親ならではの受け止めがある。すべてが分からなくても、星子さんに「自尊心」があることだけは分かるのである。 しかし星子さんの個別性、具体性に立ち会うとき、最首さんはきわめて「不条理な」問いの前に立たされることになる。このように全面的に介護され、生き難い存在である星子さんを、もし人間であると定位できるとしたら、それはいったいどこでなのか、という問い。それはまた人間とは何かという根源的な問いでもあるのだが、その問いは二つの現実的具体的場面において、はっきりとあらわれることになる。一つには星子さんの身体に変容が訪れたとき。もう一つは星子さんが家族を出て、社会の前に立つことを余儀なくされたときである。これもまた、家族が立ち会わなくてはならない、もう一つの姿である。 最首さんは、星子さんのさまざまな身体の変容にであう。わずかながらではあっても示す体重の増加、思春期の初潮。しかし星子さんの目が光を失うという過酷な現実の前に立ったとき、生れ落ちたことが「be born(生まれ落とされた)」という受動性をもっており、その受動性、無責任性が「生き続けることの原初的な義務」にどこで転化するのか、という問いに変容させていく。 そしてもう一つの現実は、就学という義務教育の始まりにおいてあらわれる。そこで最首さんは、教育の意義と、その容れものである学校という制度を疑う。あるいは学校教育の終わったとき、就労の望めない星子さんが生きてゆく場としての社会が、彼女を受け容れるべくどのような理念や思想を持っているのか。およそ不適当なものではないかとも疑う。 人間への問い。そして社会への問い。いずれも難問である。しかし「わからなさ」を実存とする言葉のない子たちと過ごすことは、必ずどこかでこのような途方もない問いや疑いへとつれてゆくことは間違いない。 「障害」の有無にかかわらず、生まれてきたこと自体には「責任」はない。しかし、どこかでその「無責任性」を、自らの手で「有償性」や「責任」へと転じていかなくてはならない。星子さんのように「分からなさ」を本源とする多くの子どもたちが立ち止まるのは、ここである。彼らはおそらく、何ひとつ問わない。自らの責任も誇りも、権利も問わず、訴えることもない。ただ「分からなさ」をもって、そこにいるだけである。だからこそその問いは、たとえ途方もないものであろうとも、代わりに家族の者たちが問い続けるのだと思う。家族はほかの誰よりも、彼がいかに自尊心をもって生きたかを知っているのだから。 | ||