
『樹が陣営』執筆者の新刊書籍を紹介します。今回は2003年3月以降に出版された書籍です。(mori)
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「新刊書籍紹介」(2001/06/21〜)RETURN

【出版社名】 洋泉社 【出版年月】 2003年3月【ISBNコード】 4-89691-712-X 【本体価格】740円 (税別) 【頁数・縦サイズ】 270P 18cm 【分類】人文 /哲学・思想
◆目次
序章 切ないコンプレックス(人はなぜ「頭がよくなりたい」のか、三人寄れば学歴の話 ほか)
第1章 「頭がいい」とはどういうことか(頭の良し悪しをめぐる行き過ぎた礼節感覚、ホンネにはTPO、タテマエにはガス抜きが必要 ほか)
第2章 この人を見よ―私自身の場合(Q.ところでおまえは「頭がいい」のか?、あらゆる謙遜は「見栄」である ほか)
第3章 頭のいい知識人、バカな知識人(頭のいい知識人、もともと頭が悪いことがすぐわかる人 ほか)
第4章 あきらめと痛みから出発する21世紀の教育論(脳生理学にすがっても「頭はよくならない」、勉強は「汝自身を知る」ためにこそ ほか)
◆要旨
「頭がよくなる」とシアワセになれる?「勉強ばかりがすべてじゃない!」と思っているクセに"頭がよくなる"という宣伝文句にはついつい惹かれてしまう。ノーベル賞受賞者の劣等生エピソードに快哉を叫びながらも自分の子どもにはやっぱり世間並み以上の学歴を期待している。…そんなだれもが抱える「頭の良し悪し」への切ないこだわりは「健全なあきらめ感情」を肯定することでしか解消できない!頭のいい知識人・バカな知識人から、著者自らの学校歴までを俎上に載せ頭脳コンプレックスなるものの諸相を徹底的に検証する。
◆【書評】
相互リンクの「編集工房・樹が陣営HP」に「さいとうゆう」さんの、本書に関する優れた書評がありますので、ご紹介しておきます。⇒「樹が陣営の力たち」【・さいとうゆうのブックレビュー】はこちらで見れます。(クリック)
【出版社名】 洋泉社 【出版年月】 2003年4月 【ISBNコード】 4-89691-717-0 【本体価格】 2,200円 【頁数・縦サイズ】 222P 20cm 【分類】文芸 /対談集
◆目次
第1部 「座標」という発想のゆくえ(「マチウ書試論」のモチーフと発想
『言語にとって美とはなにか』のモチーフ
『心的現象論序説』について
「身体・生命・エロス」と神戸事件
「おくれ」の問題について ほか)
第2部 「地図」を求めて(地図がわかるとはどういうことか
『共同幻想論』と『古事記』
「転向論」から『共同幻想論』へ
『ハイ・イメージ論』と世界視線
「支え手」としての共同体)
◆要旨
思想の継承はどのようにして可能なのか?―クサすための批評や教祖のご託宣を拝聴する類いの態度からは決して生まれない。新しい事実がつぎつぎに発見されていく時代のなかで、古くならない「思想」などあり得ないが、吉本隆明が不死鳥のように読まれていくのは、「見るものの位置」によって「対象」がまったく違って見えるからだ。「座標」と「地図」というキーワードで読み解き、思想がもつ党派性や権力性を排し、多面体としての吉本隆明の核に迫る。
◆【参考】
相互リンクの「編集工房・樹が陣営HP」に、著者「村瀬学さんの”あとがき”」がありますので、ご紹介しておきます。⇒「村瀬学さんの”あとがき”」はこちらで見れます。(クリック)
◆【書評】
相互リンクの「編集工房・樹が陣営HP」に「添田馨」さんの、本書に関する優れた書評がありますので、ご紹介しておきます。⇒「樹が陣営の力たち」【・添田馨クリティーク】はこちらで見れます。(クリック)
【出版社名】 筑摩書房 【出版年月】 2003年6月 【ISBNコード】 4-480-05992-X
【本体価格】 700円 (税別) 【頁数・縦サイズ】 222P 18cm 【分類】 哲学
◆目次
第1章 哲学が苦手としてきたテーマ―身体と情緒
第2章 人間は動物の一種だが、ただの動物ではない
第3章 心とは「はたらき」である
第4章 身体とは「意味」の体系である
第5章 情緒とは「開かれ」の意識である
第6章 「意味する」とは何を意味するのか
第7章 言語の本質とは何か
第8章 身体と情緒の「意味」性
第9章 性愛感情とは何か
第10章 人はなぜ恋をするのか
◆要旨
プラトンやデカルトなどの哲学者は、身体や情緒の問題を、うまく解きほぐすことができなかった。そのためその人間観は、私たちの経験や常識とはどこかずれている。そこで本書では、誰もが納得できる話から始めて、少しずつ思考を重ねていき、情緒や身体の本質に迫っていく。その過程で、人間が社会生活を営む上で欠かせぬ言語を取り上げ、言語だけが「意味」をもつのでなく、身体や情緒も「意味」性を帯びており、社会を作り上げる要素でもあることが示される。私たちの性愛感情の源にも迫った本書は、「人間」という存在を深く理解する上で示唆に富む、新しい人間学の試みである。
◆補足
本書は第2期「人間学アカデミー」(クリック)での講演をもとに執筆されたものである。
【出版社名】 洋泉社【出版年月】 2003年9月8日【ISBNコード】 ISBN4-89691-702-2
【本体価格】720円 【頁数・縦サイズ】 215P 18cm 【分類】評論
◆【目次】
序章 「あたりまえ」ということ
第一章 「ハンディキャップ」をひらくために
1.つくられた「障害」――「色覚異常」 2.櫻田淳の場合 3.「支援」から見えるもの
第二章 「家族」という場所から
1.「わからなさ」という実存に向けて 2.「親」であることと養育について
3.彼らの兄弟姉妹であるということ
第三章 「教育」という場から
1.「遠くのもの」と「目の前のこと」 2.わたしが愛した「つわもの」たち
第四章 社会のなかのハンディキャップ
1.社会にとっての「彼ら」の存在 2.わたしが提案したいこと
言葉にし難いことなど――あとがきにかえて
◆【概要】
・「障害を生きるということ、障害をひらくということ」はどういうことかを、根源的に問う!
それを問うことは、感動でも賛美でもなく、「人間の多様性への視点をつくる」ためにこそ問わなければならないのである。
・「障害は個性」という言い方が隠すもの?ほんとうに「障害は個性」なのだろうか?なぜハンディをもつ人の努力に「感動」するのだろうか? これらの質問を通し、【「障害」とは人間が持つ多様性のひとつであり、人間の多様性への「ひらかれ」こそいま、私たちの豊かさとしてもっとも求められるべき課題である。】と、著者は結論付けている。
・言い換えると、本書では、福祉や教育の言葉ではなく、ましてやイデオロギーでもなく、「ふつう」の言葉で粘り強く考えるための実践的ハンディキャップ論が展開されている。
◆【著者略歴】
・佐藤幹夫(さとう・みきお):1954年秋田県生まれ。國學院大学文学部卒業。現在、批評誌「樹が陣営」を主宰しながら、エロス論、文学論、共生論を展開中。
◆【僭越なる推薦文(mori)】
・批評誌「樹が陣営」発行人・佐藤幹夫さん単独の書として、本書は、前回の『精神科医を精神分析する』(洋泉社新書)に引き続いての第2作目となる。前作で、「完全にプロの物書きレベルに達した」と賞した覚えがあるので、今回はかなり厳しく読ませて頂いた。その上で言ったとしても、前作に比べて1ランクアップの出来栄えである。
・前作の推薦文では「佐藤さんの、傷害者に対する、温かいまなざし」という具合に”抽象的”な言い方しかできなかったが、今回は「小浜ハイデガー哲学」に対する「佐藤ヘーゲル哲学」とでも呼ぶべき核心(確信)に満ちた表現となっており、前作執筆以降の「精進ぶり」が伺える。
一応、【目次】に沿って簡単に内容を紹介しておく。
【序章 「あたりまえ」ということ】では、我々は「言葉が通じることが”あたりまえ”と思っているが、障害者との間で「言葉が通じない」という”あたりまえでない場面”に圧倒されたことが、本書の意図の一つとなっていることが述べられる。
【第一章 「ハンディキャップ」をひらくために】では、桜田淳さん(2002/01/20発行 『「弱者救済」の幻影』参照)を取り上げ、納税者になったことの桜田淳の感慨を、「社会的承認」を得たことの感慨と、的確に表現している。
【第二章 「家族」という場所から】では、最首悟さんの著書「星子が居る」を取上げて、重度障害者の星子さんが問えない「人間とはなにか」という根源的問いを、本人(星子さん)に成り代って、家族(父親最首さん)が、問わざるを得ないことが述べられる。その回答へのヒントが「死(親の有限性)」と「養育」というキーワードで述べられる。本書の白眉である。
【第三章 「教育」という場から】では、佐藤さんの現場経験のエピソードが4人の「つわもの」たちとの交流をとおして語られている。本書で一番おもしろい部分である。
【第四章 社会のなかのハンディキャップ】だけは、第一章〜第三章に比べ、調子が変わっており、一寸、散漫な構成/表現が目に付き、分かり難いのが残念である。個々のトピックスは面白いので、違った書き方があったように思われる。とくに【「犯罪と司法」という場のスケッチ】は、別途、一冊の本にしたほうが良い内容である。
【あとがきにかえて】は、編集工房・樹が陣営で読めるの(下記【本書の関連情報】参照)で、ご参照頂きたいが、佐藤さんの率直な感想であり、その真摯な姿勢に好感がもてる「最も佐藤さんらしさに溢れた文章」である。
さて、本書の書き方のように、「実例を挙げ、佐藤さんの見方を”哲学的表現”でまとめる」というやり方は、小浜逸郎さんや竹田青嗣さんとの交流で得た表現方法であるように思われる。そのため、本来であれば、【浜田寿美男さんや滝川一廣さん】の心理学的見方が相応しい箇所でも今回は、あえて「哲学的表現」を採用したのだと気づいた所がある。佐藤さんの「ボロ酔い日記」に見られる”ひょうきんなキャラクター”には、呉智英流の「芸/ワザ」が似合いそうなので、是非、その心理学的見方と哲学的見方を、うまく組合わせ、それに「ひょうきんな味」をスパイス的に加味した「佐藤幹夫独自のスタイル」に鍛え上げて行かれると、今後、より広い分野での評論に取組まれる上では良いのではないかと、誠に僭越ながら思っている。そのスタイルは、あと一歩である。
これではちっとも推薦文になっていないと誤解される怖れがありそうなので、最後にはっきりと推薦文を書いて置く。
【はっきりした推薦文】
・本書に興味のある方は、まず「編集工房・樹が陣営HP」にある「言葉にし難いことなど――あとがきにかえて」を読んで頂きたい。私もこの「あとがき」を読んで、本書を読むのを楽しみにしていたが、実際に読んでみて、その期待以上の著書に仕上がっているのを知った。
・2年前に初めてお会いした時に拝見した佐藤さんの文章からは想像もできない進歩のあとが伺える。まさか、ヘーゲルの精神現象学をモノにするとは思っていなかった。佐藤さんの精進が並大抵のものではなかったと思い、感心させられた次第である。
・本書は、従来の「障害者論」を乗越えた「新しい視点でのハンディキャップ論」になっており、随所に佐藤幹夫独自の見方が哲学的表現で述べられており、佐藤さんの考えが分かりやすく読取れる。その意味で、本書は、私(mori)の今年度(2003年)10冊目の良書として「良書年報」に登録させて頂いた。佐藤さんの単著としては、初めての登録となった。是非、一読をお勧めしたい良書である。以上(mori)
◆【本書の関連情報】⇒ 『ハンディキャップ論』の「あとがき」はこちらで読めます。
【出版社名】洋泉社【出版年月】2003年10月【ISBNコード】4-89691-763-4 【本体価格】740円【頁数・縦サイズ】236P 18cm 【分類】新書y 097
◆【目次】
序章 団塊世代の真後ろで―私の立場
・どこまでが団塊か ・「世代論」のくだらなさ ・あなたにとっての団塊の世代とは ・後の世代に生まれて ・生き延びるために逃げる「私」・戦後的「私」の誕生
第一章 幼くして民主主義教育を受ける
わかりやすい二極分化 ・父アメリカと子どもたち ・永遠の息子の父になるのは難しい ・男らしさは彷徨う ・民主主義教育が模索される ・学級反省会の始まり ・内面が革命される ・教師たちは戦った ・学校は黄金時代を迎える ・金八先生、ワシントンを恨む ・裏のメッセージも伝わる ・子どもたちは市場となる ・後の連続射殺魔、テレビを使った意地悪をされる
第二章 学生として乱を起こす
全共闘登場 ・多すぎる大学生と社会の矛盾 ・「何もしないことは戦争を許すことだ」 ・ベトナム反戦運動の「後先」 ・日大全共闘の闘い ・学校神話をめぐる争い ・敵方の「憎むべき」死 ・「自己否定」の論理と心理 ・全共闘の終わり、赤軍派の登場 ・革命的自己は正当化される ・共産主義化、しからずんば死 ・革命的自己は現実を喪失する ・「全共闘記」の厳しさ ・『全共闘白書』の能天気
第三章 若者として歌う
祭りのあとの風景 ・情報は深夜に発信される ・笑いが深夜に発信される ・こだわるべきことなど何もないことにこだわるな ・フォークの中心が交代した ・拓郎は明るく主張し、陽水は軽く沈む ・七三年譜 ・表層は挑発する ・モノも軽くなる ・リーダーは去る ・ヒーローも去る ・男同士のエロスはマンガを美しくする ・「あしたのジョー」に対する全共闘的誤解 ・リーダーの造形にも失敗する ・同棲して女に甘える
第四章 サラリーマンとして惑う
島耕作、地雷女を踏む ・自分最優先の人生 ・派閥に属するにしてはあまりに傲慢 ・元全共闘、敗れる ・豊かさの後にくるもの ・「島耕作」の致命的なご都合主義 ・普通のサラリーマン柏木誠治 ・家を去り親を去る ・老後の同居問題 ・男の子は何も言わない ・女の子はおしゃれをする ・会社人間の誕生 ・アトム化の後で ・団塊の世代は何も始めなかった
終章 日暮れて道はなく、課題はある
もうすぐ本当に一人になる ・「戦後」に本当に向き合おう
◆【概要】
・なぜ団塊の世代は嫌われるのか?後続世代からの批判は正当なのか?何か創出した世代か、尻馬に乗っただけの世代か、それが問題だ。嫌われ続ける団塊の世代、その根拠の正否を問う!
・過剰意味づけ、うるさい、自分の主張を押しつける、せっかち、リーダーシップなし、責任をとらない、被害者意識ばかり、…いまや団塊世代をバッシングする言葉は何らの緊張感なしに垂れ流されている。 しかし、誰にそう言い切る資格があるのか?
・純粋戦後世代第一号たるこの世代を論じることは、とりもなおさずこの国の戦後が無意識に追及してきたものを論じることに他ならない。好悪の感情ではなく、自分を論じるようにこの世代を論じ切ることは、じつに戦後を、身勝手に正当化するだけのろくでもない代物にするか生きる根拠とするか、の分かれ目である。
◆【著者略歴】
・由紀草一:1954年茨城県生まれ。78年早稲田大学大学院文学研究科芸術学専攻終了。現在、茨城県の公立高校教師(英語担当)著書に「学校はいかに語られたか」(宝島社)、「学校の現在」(共著 大和書房)、「間違いだらけのいじめ論」(共著 宝島社)、「いじめの救済宣言」(共著 時事通信社)
◆【僭越なる推薦文(mori)】
・読書会「しょーとぴーすの会」の幹事役である由紀草一さんの新著『団塊の世代とは何だったのか』である。
・読書会での舌鋒鋭い由紀さんの議論や、人間学アカデミー(掲示板)での鋭い指摘の数々を知っている管理人にとっては、もっと過激な著書となるのかと思っていたが、そうではなかった。それぞれのトピックスが、我々団塊の世代にとっては「思い当たるフシ」があり、しかも、由紀さんの昔日を懐かしむような温かい眼差しにあふれた表現が多く、共感する所が大であった。
◆「序章」は、”ある幅の年齢層の人々における意識と行動パターンの最大公約数が、その時代全体の思想傾向を形成する”という「世代の定義」を前提とし、由紀さんを含む「団塊の世代論」を展開する。
その中で、「団塊の世代」の人々が、「社会の問題を建前としては語っても、自分たちの自我の問題としては語らなかった」という、我々にとっては耳の痛い”最初の結論”を提出する。この結論には同感せざるを得ないと感じた。
◆「1章」は、昭和30年代の「民主主義教育」について、ご自分が教師であるという視点から、鋭く議論を展開しているのが特徴である。
特に「モノ、カネ、生活様式が時代思潮の基底を形成するため、”男”に成ることの難しさにあふれた時代であった」という指摘は鋭い。
◆「2章」は、昭和40年代の「学生運動」について述べている。全共闘運動を「観念が肥大化し、現実感を喪失した運動」とみる視点は、「団塊の世代」に続く世代(後で説明するが、取りあえず、「後期・団塊の世代」と名づけておく)の視点であり、その意味で客観的である。
なお、私が考える「団塊の世代」とは、昭和23年を中心とした前後4〜5年の世代のことであり、由紀さんが考えておられる昭和20年か昭和29年までの前後10年(この後期の方に、由紀さん自身が含まれる)は、広すぎると思っている。その微妙なズレが、由紀さんと私との微妙なズレになっている事を、この新著『団塊の世代とは何だったのか』を、今度、再読してみて気がついた。その気づきに基づき、この推薦文を書き直しする必要を痛感した次第である。
◆「3章」は、昭和40年代から50年代にかけての「若者文化」について、”歌と深夜放送と笑い”を取り上げて、巧みに紹介している。政治の季節は終ったのである。
ここでの「団塊の世代」の青春時代に対する心理描写は見事である。立派な文化論になっている。但し、『戦後の民主主義と消費社会は「自分は、そんじょそこらの人間とは違う」という傲慢な考え方をする自我を育てた』という由紀さんの言い方は、先ほどの昭和20年か昭和29年までの前後10年の後半部分の属する世代(由紀さんも含まれる「後期・団塊の世代」)には当てはまるが、前半の世代(私が含まれる「前期・団塊の世代」)には、当てはまらないと、私は思っている。
◆「4章」は、昭和50年代の「企業戦士、サラリーマン」について、「課長・島耕作」等の作品を元に分析する。
その結果としての「自分最優先の人生」という表現には、社会を意識して学生運動をしたと思っていた自分の実態を暴かれたようで、ドキッとせざるを得なかった。しかし、女々しくも弁解させてもらうなら、「時代もかわり、自分も変わらざるを得なかったんです。」というのが本音である。
この章では、「団塊の世代とは、親の面倒をみる最後の世代であり、子供に面倒を見てもらえない最初の世代である。」という表現に圧倒された。まことにその通りと膝を打って、思わず天を仰いでしまった。
◆「終章」の「日暮れて道はなく、課題がある」は、我々団塊の世代に対する、由紀さんからの問題提起「戦後に本当に向き合おう」であるが、余りにも難しく、私には答えられない。
しかし、この問題提起は非常に重要である。我々団塊の世代にとっては「問題の全てである」といっても過言ではない。なんとかして解答を出さないと、この先「日本」はどうなるのか、心配である。
なぜなら、今の社会の惨状に対して、その責任の一端(過半?)は、我々団塊の世代にあるのは確かであり、その事は「率直に認めざるを得ない」と私も思っているからである。
さて、本書では、「団塊の世代」の特質をあぶりだす過程を通し、団塊の世代(後期)に属する由紀さん自身の自画像を綴っているとのことである。その意味で、本書は「戦後60年の立派な社会論/文化論」になっている。
由紀さんの手馴れた、巧みな表現が功を奏しているのは勿論であるが、その前提として、由紀さんの幅広い目配りがあることも見逃せない点である。この博学な知識が上手にまとめられているので、我々『団塊の世代』にとっては、色々なことを考えさせられて、楽しかった。
団塊の世代には特に推薦しておきたい好著である。
以上(mori)
【出版社名】 洋泉社 【出版年月】 2003年10月【ISBNコード】4-89691-762-6 【本体価格】720円 (税別) 【頁数・縦サイズ】 270P 18cm 【分類】 新書・選書 /教養 /教養新書
◆目次
第1章 この利口バカな小権力者たちを見よ!(上野千鶴子―その鉄面皮な政治主義と権威主義の仮面を剥げ;斎藤学―このフェミニスト気取りの屁理屈屋を嘲笑せよ;寺脇研―歴史上の最愚策「ゆとり教育」の元凶を糺せ;立花隆―この「知の巨人」は裸の王様だ);
第2章 社会をめぐるおかしなおかしな非常識(「対話」はどこへ行ったのか;「きずな」は薄れるだけなのか;オウム信者に人権はないのか;カルト宗教の向こうに何があるのか;退屈が新しい「殺人衝動」をつくりだした;十二歳は子どもなのか);
第3章 性と家族の迷走を糺せ(男女はどこまで「平等」なのか;ジェンダーフリー教育はなぜ「愚か」なのか;夫婦別姓はなぜ間違いなのか;「母」であること、「父」であることとはなんだろうか;いま父親はどんな役割を求められているのだろうか;どうしたらバカ社会を終わらせられるか)
◆要旨
みんな百点ゆとり教育?露出狂まがいの性教育にジェンダーフリー?
性差と性差別の違いもわからず、ただのわがままを個人主義とはき違え、自由主義を気取った全体主義であることも理解せず、「害毒」を垂れ流し続ける小利口な権威主義者たちに、もう、これ以上ダマされてはいけない。
この時代が抱えもつ困難から目をそむけず、ふつうの男の視点から現在の時代風潮に切り込むこの鋭さを見よ!ここまできたらはっきり言う。ほんとうのバカはお前たちだ。
◆【あとがき】
【あとがき】はこちらで読めます。(クリック)
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