新刊書籍紹介 その2

『樹が陣営』執筆者の新刊書籍を紹介します。今回は2003年3月以降に出版された書籍です。(mori)
2003/03/10発行 『頭はよくならない』【小浜逸郎】
2003/04/20発行 『次の時代のための吉本隆明の読み方 』【村瀬学/著 佐藤幹夫/聞き手】
2003/06/15発行 『「恋する身体」の人間学 』【小浜逸郎 】 ◆第2期「人間学アカデミー」
2003/09/08発行 『ハンディキャップ論』【佐藤幹夫】
2003/10/13発行 『団塊の世代とは何だったのか』【由紀草一】
2003/11/15発行 『やっぱりバカが増えている』【小浜逸郎 】
2004/01/10発行 『近代哲学再考』【竹田 青嗣】
2004/01/10発行 『現象学は〈思考の原理〉である』【竹田 青嗣】 ◆第1期「人間学アカデミー」
2004/01/20発行 『哲学は何の役に立つのか』【西研+佐藤幹夫】
2004/03/15発行 『国家の役割とは何か』【櫻田 淳】 ◆第2期「人間学アカデミー」
2004/06/20発行 『よみがえれ、哲学』【竹田青嗣&西研】
2004/07/10発行 『こころの本質とは何か』【滝川一廣】◆第3期「人間学アカデミー」
2004/09/10発行 『愚か者の哲学』【竹田青嗣】
2004/03/15発行 『正しい大人化計画』【小浜逸郎】
 「新刊書籍紹介」(2001/06/21〜)RETURN

『頭はよくならない』小浜逸郎/著 (2003/03/10)

【出版社名】 洋泉社 【出版年月】 2003年3月【ISBNコード】 4-89691-712-X 【本体価格】740円 (税別) 【頁数・縦サイズ】 270P 18cm 【分類】人文 /哲学・思想

◆目次
序章 切ないコンプレックス(人はなぜ「頭がよくなりたい」のか、三人寄れば学歴の話 ほか)
第1章 「頭がいい」とはどういうことか(頭の良し悪しをめぐる行き過ぎた礼節感覚、ホンネにはTPO、タテマエにはガス抜きが必要 ほか)
第2章 この人を見よ―私自身の場合(Q.ところでおまえは「頭がいい」のか?、あらゆる謙遜は「見栄」である ほか)
第3章 頭のいい知識人、バカな知識人(頭のいい知識人、もともと頭が悪いことがすぐわかる人 ほか)
第4章 あきらめと痛みから出発する21世紀の教育論(脳生理学にすがっても「頭はよくならない」、勉強は「汝自身を知る」ためにこそ ほか)

◆要旨
「頭がよくなる」とシアワセになれる?「勉強ばかりがすべてじゃない!」と思っているクセに"頭がよくなる"という宣伝文句にはついつい惹かれてしまう。ノーベル賞受賞者の劣等生エピソードに快哉を叫びながらも自分の子どもにはやっぱり世間並み以上の学歴を期待している。…そんなだれもが抱える「頭の良し悪し」への切ないこだわりは「健全なあきらめ感情」を肯定することでしか解消できない!頭のいい知識人・バカな知識人から、著者自らの学校歴までを俎上に載せ頭脳コンプレックスなるものの諸相を徹底的に検証する。

◆【書評】
相互リンクの「編集工房・樹が陣営HP」に「さいとうゆう」さんの、本書に関する優れた書評がありますので、ご紹介しておきます。⇒「樹が陣営の力たち」【・さいとうゆうのブックレビュー】はこちらで見れます。(クリック)


『次の時代のための吉本隆明の読み方 』【村瀬学/著 佐藤幹夫/聞き手】(2003/04/20)

【出版社名】 洋泉社 【出版年月】 2003年4月 【ISBNコード】 4-89691-717-0 【本体価格】 2,200円 【頁数・縦サイズ】 222P 20cm 【分類】文芸 /対談集

◆目次
第1部 「座標」という発想のゆくえ(「マチウ書試論」のモチーフと発想
『言語にとって美とはなにか』のモチーフ
『心的現象論序説』について
「身体・生命・エロス」と神戸事件
「おくれ」の問題について ほか)
第2部 「地図」を求めて(地図がわかるとはどういうことか
『共同幻想論』と『古事記』
「転向論」から『共同幻想論』へ
『ハイ・イメージ論』と世界視線
「支え手」としての共同体)

◆要旨
思想の継承はどのようにして可能なのか?―クサすための批評や教祖のご託宣を拝聴する類いの態度からは決して生まれない。新しい事実がつぎつぎに発見されていく時代のなかで、古くならない「思想」などあり得ないが、吉本隆明が不死鳥のように読まれていくのは、「見るものの位置」によって「対象」がまったく違って見えるからだ。「座標」と「地図」というキーワードで読み解き、思想がもつ党派性や権力性を排し、多面体としての吉本隆明の核に迫る。

◆【参考】
相互リンクの「編集工房・樹が陣営HP」に、著者「村瀬学さんの”あとがき”」がありますので、ご紹介しておきます。⇒「村瀬学さんの”あとがき”」はこちらで見れます。(クリック)

◆【書評】
相互リンクの「編集工房・樹が陣営HP」に「添田馨」さんの、本書に関する優れた書評がありますので、ご紹介しておきます。⇒「樹が陣営の力たち」【・添田馨クリティーク】はこちらで見れます。(クリック)


『「恋する身体」の人間学』【小浜逸郎/著 】(2003/06/20)

【出版社名】 筑摩書房 【出版年月】 2003年6月 【ISBNコード】 4-480-05992-X 【本体価格】 700円 (税別) 【頁数・縦サイズ】 222P 18cm 【分類】 哲学

◆目次
第1章 哲学が苦手としてきたテーマ―身体と情緒
第2章 人間は動物の一種だが、ただの動物ではない
第3章 心とは「はたらき」である
第4章 身体とは「意味」の体系である
第5章 情緒とは「開かれ」の意識である
第6章 「意味する」とは何を意味するのか
第7章 言語の本質とは何か
第8章 身体と情緒の「意味」性
第9章 性愛感情とは何か
第10章 人はなぜ恋をするのか

◆要旨
プラトンやデカルトなどの哲学者は、身体や情緒の問題を、うまく解きほぐすことができなかった。そのためその人間観は、私たちの経験や常識とはどこかずれている。そこで本書では、誰もが納得できる話から始めて、少しずつ思考を重ねていき、情緒や身体の本質に迫っていく。その過程で、人間が社会生活を営む上で欠かせぬ言語を取り上げ、言語だけが「意味」をもつのでなく、身体や情緒も「意味」性を帯びており、社会を作り上げる要素でもあることが示される。私たちの性愛感情の源にも迫った本書は、「人間」という存在を深く理解する上で示唆に富む、新しい人間学の試みである。

◆補足
本書は第2期「人間学アカデミー」(クリック)での講演をもとに執筆されたものである。


『ハンディキャップ論』【佐藤幹夫著】(2003/09/08)

【出版社名】 洋泉社【出版年月】 2003年9月8日【ISBNコード】 ISBN4-89691-702-2
【本体価格】720円 【頁数・縦サイズ】 215P 18cm 【分類】評論

◆【目次】
序章 「あたりまえ」ということ
第一章 「ハンディキャップ」をひらくために
 1.つくられた「障害」――「色覚異常」 2.櫻田淳の場合 3.「支援」から見えるもの
第二章 「家族」という場所から
 1.「わからなさ」という実存に向けて 2.「親」であることと養育について
 3.彼らの兄弟姉妹であるということ
第三章 「教育」という場から
 1.「遠くのもの」と「目の前のこと」 2.わたしが愛した「つわもの」たち
第四章 社会のなかのハンディキャップ
 1.社会にとっての「彼ら」の存在 2.わたしが提案したいこと
言葉にし難いことなど――あとがきにかえて

◆【概要】
・「障害を生きるということ、障害をひらくということ」はどういうことかを、根源的に問う!
 それを問うことは、感動でも賛美でもなく、「人間の多様性への視点をつくる」ためにこそ問わなければならないのである。
・「障害は個性」という言い方が隠すもの?ほんとうに「障害は個性」なのだろうか?なぜハンディをもつ人の努力に「感動」するのだろうか? これらの質問を通し、【「障害」とは人間が持つ多様性のひとつであり、人間の多様性への「ひらかれ」こそいま、私たちの豊かさとしてもっとも求められるべき課題である。】と、著者は結論付けている。
・言い換えると、本書では、福祉や教育の言葉ではなく、ましてやイデオロギーでもなく、「ふつう」の言葉で粘り強く考えるための実践的ハンディキャップ論が展開されている。

◆【著者略歴】
・佐藤幹夫(さとう・みきお):1954年秋田県生まれ。國學院大学文学部卒業。現在、批評誌「樹が陣営」を主宰しながら、エロス論、文学論、共生論を展開中。

◆【僭越なる推薦文(mori)】
・批評誌「樹が陣営」発行人・佐藤幹夫さん単独の書として、本書は、前回の『精神科医を精神分析する』(洋泉社新書)に引き続いての第2作目となる。前作で、「完全にプロの物書きレベルに達した」と賞した覚えがあるので、今回はかなり厳しく読ませて頂いた。その上で言ったとしても、前作に比べて1ランクアップの出来栄えである。
・前作の推薦文では「佐藤さんの、傷害者に対する、温かいまなざし」という具合に”抽象的”な言い方しかできなかったが、今回は「小浜ハイデガー哲学」に対する「佐藤ヘーゲル哲学」とでも呼ぶべき核心(確信)に満ちた表現となっており、前作執筆以降の「精進ぶり」が伺える。

一応、【目次】に沿って簡単に内容を紹介しておく。
【序章 「あたりまえ」ということ】では、我々は「言葉が通じることが”あたりまえ”と思っているが、障害者との間で「言葉が通じない」という”あたりまえでない場面”に圧倒されたことが、本書の意図の一つとなっていることが述べられる。
【第一章   「ハンディキャップ」をひらくために】では、桜田淳さん(2002/01/20発行 『「弱者救済」の幻影』参照)を取り上げ、納税者になったことの桜田淳の感慨を、「社会的承認」を得たことの感慨と、的確に表現している。
  【第二章  「家族」という場所から】では、最首悟さんの著書「星子が居る」を取上げて、重度障害者の星子さんが問えない「人間とはなにか」という根源的問いを、本人(星子さん)に成り代って、家族(父親最首さん)が、問わざるを得ないことが述べられる。その回答へのヒントが「死(親の有限性)」と「養育」というキーワードで述べられる。本書の白眉である。
  【第三章 「教育」という場から】では、佐藤さんの現場経験のエピソードが4人の「つわもの」たちとの交流をとおして語られている。本書で一番おもしろい部分である。
【第四章 社会のなかのハンディキャップ】だけは、第一章〜第三章に比べ、調子が変わっており、一寸、散漫な構成/表現が目に付き、分かり難いのが残念である。個々のトピックスは面白いので、違った書き方があったように思われる。とくに【「犯罪と司法」という場のスケッチ】は、別途、一冊の本にしたほうが良い内容である。
【あとがきにかえて】は、編集工房・樹が陣営で読めるの(下記【本書の関連情報】参照)で、ご参照頂きたいが、佐藤さんの率直な感想であり、その真摯な姿勢に好感がもてる「最も佐藤さんらしさに溢れた文章」である。


 さて、本書の書き方のように、「実例を挙げ、佐藤さんの見方を”哲学的表現”でまとめる」というやり方は、小浜逸郎さんや竹田青嗣さんとの交流で得た表現方法であるように思われる。そのため、本来であれば、【浜田寿美男さんや滝川一廣さん】の心理学的見方が相応しい箇所でも今回は、あえて「哲学的表現」を採用したのだと気づいた所がある。佐藤さんの「ボロ酔い日記」に見られる”ひょうきんなキャラクター”には、呉智英流の「芸/ワザ」が似合いそうなので、是非、その心理学的見方と哲学的見方を、うまく組合わせ、それに「ひょうきんな味」をスパイス的に加味した「佐藤幹夫独自のスタイル」に鍛え上げて行かれると、今後、より広い分野での評論に取組まれる上では良いのではないかと、誠に僭越ながら思っている。そのスタイルは、あと一歩である。
 これではちっとも推薦文になっていないと誤解される怖れがありそうなので、最後にはっきりと推薦文を書いて置く。
【はっきりした推薦文】
・本書に興味のある方は、まず「編集工房・樹が陣営HP」にある「言葉にし難いことなど――あとがきにかえて」を読んで頂きたい。私もこの「あとがき」を読んで、本書を読むのを楽しみにしていたが、実際に読んでみて、その期待以上の著書に仕上がっているのを知った。
・2年前に初めてお会いした時に拝見した佐藤さんの文章からは想像もできない進歩のあとが伺える。まさか、ヘーゲルの精神現象学をモノにするとは思っていなかった。佐藤さんの精進が並大抵のものではなかったと思い、感心させられた次第である。
・本書は、従来の「障害者論」を乗越えた「新しい視点でのハンディキャップ論」になっており、随所に佐藤幹夫独自の見方が哲学的表現で述べられており、佐藤さんの考えが分かりやすく読取れる。その意味で、本書は、私(mori)の今年度(2003年)10冊目の良書として「良書年報」に登録させて頂いた。佐藤さんの単著としては、初めての登録となった。是非、一読をお勧めしたい良書である。以上(mori)

◆【本書の関連情報】⇒ 『ハンディキャップ論』の「あとがき」はこちらで読めます。


『団塊の世代とは何だったのか』【由紀草一】(2003/10/13)

【出版社名】洋泉社【出版年月】2003年10月【ISBNコード】4-89691-763-4  【本体価格】740円【頁数・縦サイズ】236P 18cm 【分類】新書y 097

◆【目次】
序章 団塊世代の真後ろで―私の立場
 ・どこまでが団塊か ・「世代論」のくだらなさ ・あなたにとっての団塊の世代とは ・後の世代に生まれて ・生き延びるために逃げる「私」・戦後的「私」の誕生
第一章 幼くして民主主義教育を受ける
 わかりやすい二極分化 ・父アメリカと子どもたち ・永遠の息子の父になるのは難しい ・男らしさは彷徨う ・民主主義教育が模索される ・学級反省会の始まり ・内面が革命される ・教師たちは戦った ・学校は黄金時代を迎える ・金八先生、ワシントンを恨む ・裏のメッセージも伝わる ・子どもたちは市場となる ・後の連続射殺魔、テレビを使った意地悪をされる
第二章 学生として乱を起こす
 全共闘登場 ・多すぎる大学生と社会の矛盾 ・「何もしないことは戦争を許すことだ」 ・ベトナム反戦運動の「後先」 ・日大全共闘の闘い ・学校神話をめぐる争い ・敵方の「憎むべき」死 ・「自己否定」の論理と心理 ・全共闘の終わり、赤軍派の登場 ・革命的自己は正当化される ・共産主義化、しからずんば死 ・革命的自己は現実を喪失する ・「全共闘記」の厳しさ ・『全共闘白書』の能天気
第三章 若者として歌う
 祭りのあとの風景 ・情報は深夜に発信される ・笑いが深夜に発信される ・こだわるべきことなど何もないことにこだわるな ・フォークの中心が交代した ・拓郎は明るく主張し、陽水は軽く沈む ・七三年譜 ・表層は挑発する ・モノも軽くなる ・リーダーは去る ・ヒーローも去る ・男同士のエロスはマンガを美しくする ・「あしたのジョー」に対する全共闘的誤解 ・リーダーの造形にも失敗する ・同棲して女に甘える
第四章 サラリーマンとして惑う
 島耕作、地雷女を踏む ・自分最優先の人生 ・派閥に属するにしてはあまりに傲慢 ・元全共闘、敗れる ・豊かさの後にくるもの ・「島耕作」の致命的なご都合主義 ・普通のサラリーマン柏木誠治 ・家を去り親を去る ・老後の同居問題 ・男の子は何も言わない ・女の子はおしゃれをする ・会社人間の誕生 ・アトム化の後で ・団塊の世代は何も始めなかった
終章 日暮れて道はなく、課題はある
 もうすぐ本当に一人になる ・「戦後」に本当に向き合おう

◆【概要】
・なぜ団塊の世代は嫌われるのか?後続世代からの批判は正当なのか?何か創出した世代か、尻馬に乗っただけの世代か、それが問題だ。嫌われ続ける団塊の世代、その根拠の正否を問う!
・過剰意味づけ、うるさい、自分の主張を押しつける、せっかち、リーダーシップなし、責任をとらない、被害者意識ばかり、…いまや団塊世代をバッシングする言葉は何らの緊張感なしに垂れ流されている。 しかし、誰にそう言い切る資格があるのか?
・純粋戦後世代第一号たるこの世代を論じることは、とりもなおさずこの国の戦後が無意識に追及してきたものを論じることに他ならない。好悪の感情ではなく、自分を論じるようにこの世代を論じ切ることは、じつに戦後を、身勝手に正当化するだけのろくでもない代物にするか生きる根拠とするか、の分かれ目である。

◆【著者略歴】
・由紀草一:1954年茨城県生まれ。78年早稲田大学大学院文学研究科芸術学専攻終了。現在、茨城県の公立高校教師(英語担当)著書に「学校はいかに語られたか」(宝島社)、「学校の現在」(共著 大和書房)、「間違いだらけのいじめ論」(共著 宝島社)、「いじめの救済宣言」(共著 時事通信社)

◆【僭越なる推薦文(mori)】
・読書会「しょーとぴーすの会」の幹事役である由紀草一さんの新著『団塊の世代とは何だったのか』である。
・読書会での舌鋒鋭い由紀さんの議論や、人間学アカデミー(掲示板)での鋭い指摘の数々を知っている管理人にとっては、もっと過激な著書となるのかと思っていたが、そうではなかった。それぞれのトピックスが、我々団塊の世代にとっては「思い当たるフシ」があり、しかも、由紀さんの昔日を懐かしむような温かい眼差しにあふれた表現が多く、共感する所が大であった。

◆「序章」は、”ある幅の年齢層の人々における意識と行動パターンの最大公約数が、その時代全体の思想傾向を形成する”という「世代の定義」を前提とし、由紀さんを含む「団塊の世代論」を展開する。
その中で、「団塊の世代」の人々が、「社会の問題を建前としては語っても、自分たちの自我の問題としては語らなかった」という、我々にとっては耳の痛い”最初の結論”を提出する。この結論には同感せざるを得ないと感じた。
◆「1章」は、昭和30年代の「民主主義教育」について、ご自分が教師であるという視点から、鋭く議論を展開しているのが特徴である。
特に「モノ、カネ、生活様式が時代思潮の基底を形成するため、”男”に成ることの難しさにあふれた時代であった」という指摘は鋭い。
◆「2章」は、昭和40年代の「学生運動」について述べている。全共闘運動を「観念が肥大化し、現実感を喪失した運動」とみる視点は、「団塊の世代」に続く世代(後で説明するが、取りあえず、「後期・団塊の世代」と名づけておく)の視点であり、その意味で客観的である。
なお、私が考える「団塊の世代」とは、昭和23年を中心とした前後4〜5年の世代のことであり、由紀さんが考えておられる昭和20年か昭和29年までの前後10年(この後期の方に、由紀さん自身が含まれる)は、広すぎると思っている。その微妙なズレが、由紀さんと私との微妙なズレになっている事を、この新著『団塊の世代とは何だったのか』を、今度、再読してみて気がついた。その気づきに基づき、この推薦文を書き直しする必要を痛感した次第である。
◆「3章」は、昭和40年代から50年代にかけての「若者文化」について、”歌と深夜放送と笑い”を取り上げて、巧みに紹介している。政治の季節は終ったのである。
 ここでの「団塊の世代」の青春時代に対する心理描写は見事である。立派な文化論になっている。但し、『戦後の民主主義と消費社会は「自分は、そんじょそこらの人間とは違う」という傲慢な考え方をする自我を育てた』という由紀さんの言い方は、先ほどの昭和20年か昭和29年までの前後10年の後半部分の属する世代(由紀さんも含まれる「後期・団塊の世代」)には当てはまるが、前半の世代(私が含まれる「前期・団塊の世代」)には、当てはまらないと、私は思っている。
◆「4章」は、昭和50年代の「企業戦士、サラリーマン」について、「課長・島耕作」等の作品を元に分析する。
 その結果としての「自分最優先の人生」という表現には、社会を意識して学生運動をしたと思っていた自分の実態を暴かれたようで、ドキッとせざるを得なかった。しかし、女々しくも弁解させてもらうなら、「時代もかわり、自分も変わらざるを得なかったんです。」というのが本音である。
 この章では、「団塊の世代とは、親の面倒をみる最後の世代であり、子供に面倒を見てもらえない最初の世代である。」という表現に圧倒された。まことにその通りと膝を打って、思わず天を仰いでしまった。
◆「終章」の「日暮れて道はなく、課題がある」は、我々団塊の世代に対する、由紀さんからの問題提起「戦後に本当に向き合おう」であるが、余りにも難しく、私には答えられない。
 しかし、この問題提起は非常に重要である。我々団塊の世代にとっては「問題の全てである」といっても過言ではない。なんとかして解答を出さないと、この先「日本」はどうなるのか、心配である。
なぜなら、今の社会の惨状に対して、その責任の一端(過半?)は、我々団塊の世代にあるのは確かであり、その事は「率直に認めざるを得ない」と私も思っているからである。

さて、本書では、「団塊の世代」の特質をあぶりだす過程を通し、団塊の世代(後期)に属する由紀さん自身の自画像を綴っているとのことである。その意味で、本書は「戦後60年の立派な社会論/文化論」になっている。
 由紀さんの手馴れた、巧みな表現が功を奏しているのは勿論であるが、その前提として、由紀さんの幅広い目配りがあることも見逃せない点である。この博学な知識が上手にまとめられているので、我々『団塊の世代』にとっては、色々なことを考えさせられて、楽しかった。
 団塊の世代には特に推薦しておきたい好著である。
以上(mori)

『やっぱりバカが増えている』【小浜逸郎 】 (2003/03/10)

【出版社名】 洋泉社 【出版年月】 2003年10月【ISBNコード】4-89691-762-6 【本体価格】720円 (税別) 【頁数・縦サイズ】 270P 18cm 【分類】 新書・選書 /教養 /教養新書

◆目次
第1章 この利口バカな小権力者たちを見よ!(上野千鶴子―その鉄面皮な政治主義と権威主義の仮面を剥げ;斎藤学―このフェミニスト気取りの屁理屈屋を嘲笑せよ;寺脇研―歴史上の最愚策「ゆとり教育」の元凶を糺せ;立花隆―この「知の巨人」は裸の王様だ);
第2章 社会をめぐるおかしなおかしな非常識(「対話」はどこへ行ったのか;「きずな」は薄れるだけなのか;オウム信者に人権はないのか;カルト宗教の向こうに何があるのか;退屈が新しい「殺人衝動」をつくりだした;十二歳は子どもなのか);
第3章 性と家族の迷走を糺せ(男女はどこまで「平等」なのか;ジェンダーフリー教育はなぜ「愚か」なのか;夫婦別姓はなぜ間違いなのか;「母」であること、「父」であることとはなんだろうか;いま父親はどんな役割を求められているのだろうか;どうしたらバカ社会を終わらせられるか)
◆要旨
みんな百点ゆとり教育?露出狂まがいの性教育にジェンダーフリー?
性差と性差別の違いもわからず、ただのわがままを個人主義とはき違え、自由主義を気取った全体主義であることも理解せず、「害毒」を垂れ流し続ける小利口な権威主義者たちに、もう、これ以上ダマされてはいけない。
この時代が抱えもつ困難から目をそむけず、ふつうの男の視点から現在の時代風潮に切り込むこの鋭さを見よ!ここまできたらはっきり言う。ほんとうのバカはお前たちだ。
◆【あとがき】
【あとがき】はこちらで読めます。(クリック)


『近代哲学再考』【竹田 青嗣】(2004/01/10)

  • 【出版社名】径書房 【出版年月】 2004年01月21日【ISBNコード】 4-7705-0184-6 【本体価格】2100円 【頁数・縦サイズ】 256P 20cm 【分類】哲学・思想一般

  • 【目次】
    ◆はじめに
    ◆「存在の謎」と「言語の謎」────哲学とは何か
     哲学とは何か
     哲学の「謎」────アポリアとパラドクス
     哲学の本質────「普遍洞察性」について
     「存在の謎」と「言語の謎」
    ◆認識問題と観念論────近代哲学の根本問題
     反=近代哲学
     近代哲学と「観念論」
     近代社会の原理────ホッブズとルソー
    ◆「絶対的なほんとう」をめぐって────近代精神の探求
     カント────自由と道徳
     反=ヘーゲル────コジェーヴと「歴史の終焉」
     ヘーゲルと近代精神
     「道徳的意識」とカント
     「良心」とヘーゲル
     「ほんとう」とは何か────ヘーゲル対ハイデガー
    ◆絶対自由と絶対平等────「自由」のアポリア
     近代社会の矛盾
     市民社会と「法」の本質
     「絶対自由」と「絶対平等」
     「自由」の本質
    ◆希望の原理────「近代」の可能性と不可能性
     現代思想のアポリア
     希望の原理

  • 【概要】
    【「自由」に苦しむ私たちに示される最も大きな解答】
    現代哲学は「自由の自覚=“ほんとう”への欲望」を省みず、混迷する社会に断片的な解答しか与えることができない「価値相対主義」に堕ちている。著者は、忘れられた「モダン」の突出し孤立した営みにおける達成に、来るべき「自由」の道をみる。
     本書は、現代社会の政治、法、権力、倫理などの諸概念(総じて、人間と社会の関係概念)に「モダン」を架橋する真に創造的な画期的論考。「日本におけるポスト・ポストモダンの本格的な到来を告げる書物」と橋爪大三郎氏に評された『言語的思考へ』(径書房刊)から約2年ぶりに著者が放つ「意味と価値」の本質論! 

  • 【版元から一言】
    「自由な社会」の実現は、じつはけっして本質的な意味での人間的自由を実現しないのではないだろうか。むしろ社会的な自由の解放が進展するほど、人間は新しい不自由と抑圧の中に投げ込まれるのではなかろうか──この現代社会にあらわれた「自由」という難問に、著者は本書においてひとつの重要な解答を示しています。

  • 【著者からのメッセージ:はじめに】
     われわれの時代をいま大きく覆っているのは、「近代」に対する深刻な疑問と反省の念である。それはたとえば、モダンはすでに終焉しいまやポストモダンの時代に入っているといった、あるいはポストモダンすら終わったという言い方で語られている。近代は人間にとって新しい希望の時代だったはずなのに、なぜこのようなことになったのだろうか。
     ルソーはかつて、次のようなマニフェストで近代社会の思考を開始した。人間は自由に生まれついたのにいたるところで支配の鎖につながれている。なぜこうなったのかはただちに言えないが、しかしどのような政治統治なら正当化されるのか、この問題の原理なら自分は言うことができると思う、と(『社会契約論』)。近代哲学はここから近代社会の基礎理念、つまり、人間の自由な諸権利、そして万人の対等な権限による政治といった新しい社会の考え方を生み出した。社会契約と一般意志は、いまもわれわれの社会の基本原理であるといってよい。
     だが、ヨーロッパの近代がこの市民社会の考え方を基礎として展開してゆくや、まもなく大きな新しい困難が姿を現わしたのだった。すなわち人々はたしかに「自由」になったが、にもかかわらず新しい種類の支配関係が生み出されてきた。現在われわれが見ているのは、たとえば、人間は社会的に自由になったが「人間的な自由」はほとんど存在せず、人々はむしろいたるところで「自由」に苦しんでいる、といった事態である。またこの事態は、より進んだ社会でいっそう顕著なものと感じられている気配すらある。
     「自由な社会」の実現は、じつはけっして本質的な意味での人間的自由を実現しないのではないだろうか。むしろ社会的な自由の解放が進展するほど、人間は新しい不自由と抑圧の中に投げ込まれるのではなかろうか。これが「自由」の概念にたいするまず第一の疑念である。第二に、これも周知のことだが十九世紀と二十世紀は、人間にとって未曾有の災禍と悲惨の時代だった。資本主義の拡大による異常なまでの競争とその結果としての植民地支配と世界戦争。これらがもたらした恐るべき結果は、ヨーロッパの知識人に「近代」および「ヨーロッパ的原理」に対する深刻な反省を呼び起こした。この二つが、われわれを覆っている「反近代」の思潮の中心的な理由であって、大きな必然性をもっているというほかない。
     ところでしかし、このような「近代」と「ヨーロッパ」への懐疑と対抗は、適正なバランスの上に立っているだろうか。わたしがさしあたり置いてみたいのはそういう問いである。
     わたしは「在日」として日本社会に生きてきたが、差別の抑圧感はわれわれのうちにしばしば、過剰な「反日本社会」の観念や過剰な「民族精神」の思考をその反動力として生み出してきた。わたしにとっては思想におけるそのような反動形成の力学は、いわば見慣れたものだ。
     たしかに、近代は歴史上まれに見るような大きな規模の矛盾を生み出した時代だった。しかしそのことは、すぐに、近代および近代社会の意義を全体的な否定へともたらすものだろうか。近代という時代への根本的な反省はもちろん思想にとって不可欠のものである。しかしそれにもかかわらず、わたしには、現在流通している「反近代」の思潮は、いわばニーチェの言う「疚しい良心」たることを克服しえていないように思える。
     「疚しい良心」の本質は、自己の良心の負い目を“打ち消す”ために反省や懐疑を発動させ、そのことで思考が普遍性へ開かれずに内攻する、という点にある。わたしは「在日」の思考がそのような反動形式に陥る傾向をもつだけでなく、過去の戦争という事態の疚しさから、日本人の思考がまたしばしばそのような方向へ向いてきたことを知っている。そして、同じ「疚しい良心」が、二十世紀以降のヨーロッパ知識人たちにおける反近代、反ヨーロッパの思潮を捉えていると考える。彼らはヨーロッパ近代が生み出した大きな過ちの“罪を贖いたい”という無意識裡の欲求によって過剰な自己否定性を制御することができず、そのことで、「ヨーロッパ近代」の本質的な意義と弱点の双方についての厳密な洞察力を喪失しているのである。
     たとえばその代表的思想であるポストモダン思想は、「市民社会」「近代国家」そして「自由な主体としての人間」という近代の基本概念はもはや終焉した、と主張してきた。それにはやや屈折した理由がある。マルクス主義は近代の「自由」の原理を「平等」の原理によって批判したが、この原理は、人間の「精神の自由」への大きな抑圧として働いたために失敗に帰した。ポストモダン思想は、いわば高度社会における人間の「精神の自由」を表現する思想であって、だからそれは、マルクス主義と資本主義とをともに人間の精神の自由を圧迫し、規定的で拘束的なものへと構造化する思想と制度として批判したのである。そして彼らはそれを、一切の「規定的なもの」、「構造化するもの」、「制度化するもの」に対抗する“価値相対化”、という方法によって行なった。
     ここで致命的だったのは、彼らが、この反規定性、反構造化の思想を、近代社会の理解にそのまま持ち込んだことだった。近代社会はそこで、人間の間断なき「平均化」「制度化」「構造化」のプロセス、人間が自由となることでむしろ真の自由を失うこと、主体となることでむしろ真の主体たることを喪失すること、自己の主人となることでかえってシステムの永続的な奴隷となることの、不断のプロセス、として描き出された。だが、このような像は果たして近代社会のもっとも根本的な本質をよく表現したものといえるだろうか。おそらく答えは否である。
     たとえば、近代社会の本質として、ルソー、カント、ヘーゲルに代表される近代哲学が取り出したものと、現代のポストモダン思想が取り出したものを慎重に比較してみる。すると、わたしの見るかぎり、ポストモダン思想の近代像は、国民国家の権力的性格の“一側面”をよく表現してはいるが、しかし近代社会全体についての核心的な本質については近視眼的であり、むしろ近代哲学がはるかにそれを深く捉えていることが分かる。わたしがここで明らかにしようとしたのはまずそのことである。いまそれを簡潔に整理してみよう。
    ◆(1)近代社会の原理は、市民社会理念によって代表される。それは各人による「自由の相互承認」という原則において営まれる社会、つまり一切の超越的権威と権力を取り払って、フェアなルールゲームとして営まれる社会、という原理を設定する。
    ◆(2)このことによって、「政治」の概念、「法」の概念、「権威と権力」の概念が、本質的に変更される。
    ◆(3)このことによって、「倫理」の概念、つまり社会的正しさと人間的道徳性の概念も、本質的に変化する。
    ◆(4)さらに、人間と「社会」の関係概念が根本的な変容を蒙る。つまり思想は、世界の存在と正しき信仰の真理をめぐるものではなくなり、本質的に、一方で「社会思想」となり、一方で「実存思想」となる。またこの両者の連関が必ず探求の対象となる。思想は、社会を人間の実存の一般条件と捉えてその絶えざる改変を目標とする社会思想となり、かつての真理や形而上学の探求としての思想は終焉する。
    ◆(5)近代社会の設定によって、人間の生の範型と意味もまた根本的に変化する。人間は「共同体的役割」(カラクテール)という本質を捨て去り、自由な個体性を承認ゲームを通して表現する人格的主体(=ペルゾン)という新しい本質を獲得する。このことから、人間の本質は、根本的に多様なものとなり、その実存は、「自己配慮」から自己の関係の「存在配慮」へとめがけるものとなり、その倫理は、信念対立をたえず克服して“普遍性”を求める存在となる。

       このようなことが、「自由の相互承認」を基礎原理とする近代社会における、人間と社会の関係上の公準なのである。なにより重要なことは、近代社会および近代国家がどれほど多くの矛盾と困難を顕わにしても、ここに取り出された近代社会と近代の人間の本質はもはやけっして逆戻りさせることができないということ、われわれはさまざまな矛盾を克服しながらこれらの人間関係の本質を、少しずつその十全な成熟に向けて深めていくほかはない、ということである。おそらくこのことが明確にされないかぎり、現代われわれが共有している「近代」への根本的な疑義が、「疚しい良心」の打ち消しという動機から離れてほんとうに普遍的な批判思想として成熟することはありえないように思う。
     ヘーゲルの『精神現象学』は、近代の人間が、信仰、啓蒙、絶対自由、道徳思想といった範型の中で自己の内的な「ほんとう」をとことん推し進めざるをえないような存在本質をもつにいたったことを、鮮やかに描き出している。われわれは他に、恋愛や真理や芸術といった近代独自の「ほんとう」の範型をもっているが、この「ほんとう」への欲望こそは、近代人の「自由」の自覚がつかみだした新しい人間の存在本質の形だった。この近代精神の本質は、絶えざる構造化と規範化といった現代社会の傾向によっては説明もできないし、またそこに還元されることもない。それはむしろ現代社会のそのような側面を克服しうる近代の内的原理なのである。
     現代思想の価値相対主義は「近代の原理」を批判するが、しかしけっしてそれを超え出ることはできない。なぜなら、価値相対主義の内的動機は、アイロニズムという形をとった現代的な「精神の自由」への希求であり、つまり、まさしくそれ自身が近代の「ほんとう」の欲望の挫折した一形態にすぎないからである。
     そういうわけでこの本の中心的テーマは二つある。一つは近代の人間の「ほんとう」への欲望がどのような諸形態をとることになるのかという問題。もう一つは、この「ほんとう」への欲望が近代国家がぶつかった困難の前で挫折し、イデオロギー的思考と相対主義的アイロニズムの間で出口を見失って揺れ動いているという事態を、いかに克服するかという問題である。

     わたしは、ここで「自由の相互承認」という概念を、この問題に新しい展望を与える一つのキー概念として提出しようとした。この基礎概念から、われわれが現代社会の本質的な困難を克服して新しい地平へ進み出るための諸概念を展開してみたいのだが、そのために、さしあたって、近代における「自由」と「平等」の概念のせめぎあいを描くことが、はじめの出発点となるだろう。

  • 【推薦文】
    『樹が陣営』22号の特集「21世紀の竹田青嗣」の「近代哲学再考」(クリック)という論考で示された竹田さんの近代哲学に対する見識が、本書では具体的に詳細に分かり易く紹介されている。勿論、この2年間に深化した竹田思想を十分に反映した著作となっている。
    内容は【著者からのメッセージ:はじめに】に記述されている通りであるが、ポイントは「可能性の原理、つまり@国家的レベルでの排外主義を制御する原理とA資本主義的競争を制御する原理を構想することが緊急課題である」という点にある。
    本課題は私(管理人)の生涯の課題である「個人と社会の関連性」と重なるものであり、非常に興味のある提案も見受けられる。但し、これらは、あくまで哲学的理念なので、実際にどう具体化するかが一番のポイントである。その点については「日暮れて道遠し」の感じがしないでもない。竹田哲学の主眼目を集大成した意欲的著作である。(管理人mori)

  • 【竹田青嗣】
    1947年大阪生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。現在、明治学院大学国際学部教授。哲学者。文芸評論家。主な著書に『〈在日〉という根拠』『自分を知るための哲学入門』『現代思想の冒険』『ニーチェ入門』『プラトン入門』など多数がある。詳細は、【竹田青嗣ホームページ】で見れます。


    『現象学は〈思考の原理〉である』【竹田 青嗣】(2004/01/10)

    【出版社名】 筑摩書房 【出版年月】 2004年1月【ISBNコード】 4-480-05993-8 【本体価格】780円 (税別) 【頁数・縦サイズ】 270P 18cm 【分類】ちくま新書 393人文 /哲学・思想

    ◆目次
    序 現象学は哲学の可能性を拓く
    1 「思考の原理」としての現象学
    2 時代閉塞を乗り越える原理―現象学の射程
    3 言語の現象学
    4 「欲望論」原論
    結 現象学は「本質」についての学である

    ◆要旨
    世界観や宗教、信念上の深刻な対立は、現代にあっても絶えることがない。現象学は、「信念対立」を調停し克服する原理として構想されたのにもかかわらず、現在、そのことはほとんど理解されておらず、種々の誤解にさらされている。本書はこうした誤解を解き、現象学の重要概念を分かりやすく解説してゆく。
    3部以降では現象学の方法原理を用い、人間そして社会の原理論の礎石をなす言語、身体の本質を探究する。
    本書は、「真理」を僭称する知に対抗する思考の原理としての現象学の、新たな一歩をしるす一書である。

    ◆【あとがき】
    「思考の原理」といった考え方は成立するだろうかという問いは、哲学では長く本質的な問いでありつづけている。なるほどこの問いは、現代思想ではすっかり“うさんくさい”ものと見られている。しかしじつは、この問いが廃れるときには思想と思考の運動が枯渇している証拠だと考えていい。
    ・はじめにこの問いを自覚的に提出したのは、プラトンとアリストテレスだ。彼らはソフィストたちの“何とでも言う”レトリックや詭弁論に業を煮やして、それぞれに考えた。一方は「イデア論」で、一方は「論理学」。二人の偉大な哲学者の独自性が出ていてとても興味深い。
    「イデア論」は、世界と人間のものごとには必ず確固とした「イデア=本質」というものが存在するはずだという直観を核としていた。「論理学」は、むしろ「言葉」が現実を正しく表現しうることへの信頼を核とした。
    ・そもそも「思考の原理」という考え方は、この世にはいつでもさまざまな考え方や信念の対立が存在するが、そのことはこの世に「ほんとう」や「真なるもの」がまるで存在しないということの証拠であるはずがない、ということを明らかにしようとする動機から現れている。ところが絶対神といった観念が思想と思考の世界を覆うと、この問いは問いとして滅ぼされてしまう。「どのような考え方が正しいか?」という問いは、単なる論理的な「形而上学」か「物語」になって、隠された権威がそれを裁定するという場所で決着をみる。ここでは、「普遍的なものを確保するための原理は何か」という問いは死ぬのである。
    ・「思考の原理」の問いは、近代ではデカルト、ヒューム、カント、ヘーゲルといった哲学者がこれをもっとも本質的な形で提示した。ライプニッツ、スピノザ、ロック、バークリーなどはむしろ「何が正しいか」を立てようと努力した哲学者である。「じつは何が世界の正しい像か」を考えることと、「普遍的な考え方ということの原理はあるのか、どのようにそれを言えるのか」を思考することの間には、大きな、決定的な隔たりがある。
     もっとも優れた哲学者が、つねにもっともラディカルな「思考の原理」の思考者でありつづけてきたことは、哲学的思考が普遍的であることの大きな証拠であると言える。現代哲学は、ニーチェのきわめて直観的な原理思考の示唆のあと、フッサールの現象学を生み出した。ここで「思考の原理」についての思考は、ヨーロッパ哲学の中で一つの頂点をもったといえる。しかし現象学はそのようなものとして理解されたことがなかったのだ。
    ・驚くべきことに、これまで現象学は、世界の真理の基礎づけの学、などと見なされてきた。つまりまったく「さかしま」の理解がまかり通っていたのだ。事実学をやめよ。それは結局信念の対立と、したがって権威づけられた思想どうしの対立に帰着するほかない。本質学を開始せよ。そのことで、思想をフェアな関係のゲームとして開け。これが現象学の方法の根本メッセージである。 ・現象学を「思考の原理」についての学、あるいは「思考の原理」についての思考である、と捉え直すことは、まず、「ほんとうは世界はこのように存在している」といった独断論的物語や思考を打ち倒すことである(現在、いたるところにそういう知の独断論が存在しているのだが)。そして、その代わりに、誰かが世界についての像や考え方や信念や主義をもって生きるということの、また多くの人がそのような信念や世界観をもちながら互いに関係しあっているということの、その本質的な意味を問う方法を明確にする、ということなのである。
    ・要するに、「思考の原理」とは、「正しい考え方の原理」という観念に対抗する考え方だ。「正しい考え方」とは、専門的知によって生活の知を圧倒するような知であって、つねに“うさんくさい”。むしろわれわれは経験によって「優れた考え方」というものを知っている。こちらのほうは大きな知でも、精密な知でもなく、考えるということの人間的意味と理由をつねに自ら理解しているような思考である。そのような思考の本質は、人間の生活の存在するところ、つねに一つなのである。
    フッサールはこのような「思考の原理」の学を、ひたすら原理論としてのみ構想した。しかし、その土台をあまりに厳密かつ堅固なものにしようとした結果、彼のテクストは、ほとんど適切な理解を越えるような難解なものとなってしまった。現象学に対する長い誤解の原因は、フッサールの記述それ自身のうちにもある。そこでわたしの意図は、現象学の方法原理の、実際に“使用例”を提示してみることにあった。この本でわたしが試みたのは、「言語の本質」「人間的身体の本質」を、本質観取によって取り出すということだった。この二つのテーマは、近代社会から現代社会への変移の中での、われわれ自身の自己了解にもっとも深くかかわるテーマだからである。
    ・1989年に『現象学入門』を出して以来、わたしはこの領域において、ようやくつぎの一歩を踏み出せたように思う。
    ・この本は、2002年度「人間学アカデミー」(クリック)の連続講義をもとにしてできたものだ。この機会を与えていただいた当講座の関係者諸氏に深く感謝したい。編集を担当していただいたのは筑摩書房の石島裕之氏である。タイトルは氏の発案で、わたしも納得し、このあとがきもそれに触発されたものだ。ここで感謝の意を表したい。
    二○○三年十一月 竹田青嗣 (以上)

    ◆僭越なる推薦文(mori)
    ・私(管理人)は、”竹田さんの本を読んでいる時こそ「至福の時間」と思うタイプの竹田ファン”なので、推薦文を書くのは気が引けますが、ご勘弁下さい。
    ・「あとがき」で竹田さん自身が”『現象学入門』を出して以来、わたしはこの領域において、ようやくつぎの一歩を踏み出せたように思う。”と書いておられる通り、本書では進化した竹田現象学を堪能できます。どこが進化した所かを探すのが楽しみとなるので、私自身の意見は述べません。
    但し、「現象学入門(NHKブックス)」や「はじめての現象学(海鳥社)」を読んだことのある人には「進化した竹田現象学」を堪能できますが、そうでない人には、一寸難しく感じられるかもしれません。そう言う人は、まず、「現象学入門」か「はじめての現象学」を一読後、本書を読まれることをお薦めします。
    ・なお、本書は2002年度「第1回人間学アカデミー」(クリック)の連続講義をもとにしてできたものですが、”全くの書き下ろし”と言える内容になっています。それは、この間に「竹田現象学」が、その分だけ進化したことを証明しています。その意味でも、人間学アカデミー受講者にとっても「読む価値の高い竹田現象学の集大成(但し、まだ完成してはいないと思ってますが・・・)」として推薦したいと思います。 以上



    『哲学は何の役に立つのか』【西研+佐藤幹夫】(2004/01/20)

    【出版社名】 洋泉社 【出版年月】 2004年1月【ISBNコード】 4-89691-785-5 【本体価格】740円 (税別) 【頁数・縦サイズ】 270P 18cm 【分類】新書・選書 /教養 /教養新書その他

    ◆目次
    序章 哲学の難しさにまけないために
    佐藤■哲学はなぜ難しいのだろうか
    西■「なぜこんなことが問題になっているのか」という著者の動機をつかむこと

    第一章(ニーチェ)「自分」をどこから考え始めるか
    佐藤■人生の「勝ち負け」を決めるのは誰なのか
    西■社会問題としてアプローチするための二つの方法
    西■まずは自らの無力感やルサンチマンに気づくこと
    西■いま何ができるか、何が自分を楽しくさせるか考えること
    佐藤■自分の生をなぜつまらないと感じてしまうのか
    西■どこから考え始めるか――「そのような君がいるだけだ」

    第二章(ソクラテス‐プラトン)「考える」ことについて考えてみる
    佐藤■思春期の「悩み」はなぜ袋小路に入ってしまうのか
    西■人間関係を、自分を鍛える場とすること
    佐藤■人はなぜ「考える」という営みを始めるのか
    西■それは「考えることに先立つ衝動」を基盤としているだろう
    佐藤■なぜ友人関係は大事なのか
    西■友人関係とは互いの生き方を表明し、それを理解し合おうとする関係である
    佐藤■哲学はなぜ始まり、どうして「対話」というかたちをとったのか
    西■世界像の壊れが哲学を根拠づけた
    西■ソクラテスとプラトンは、人間の「真善美」という価値を哲学の対象とした

    第三章(カント)「人間」とはなんだろうか――近代という枠組みを考えてみる
    佐藤■人間はなぜ人間か
    西■自由への強い欲求が近代を作った
    西■西洋近代の「理性」は、自分をコントロールしつくそうとする欲望を生んだ
    西■身体には関係のルールが沈殿している
    西■人は言語をもつことによって人生という固有のストーリーを生きている
    佐藤■人間はどこから人間になるのか
    西■客観的視線を取り込むことが人間的世界への入り口であるだろう
    佐藤■「客観的視線」とはさまざまな「置き換え」ではないだろうか
    佐藤■身体とは、それ自体が表現性として世界に開かれているのではないか

    第四章(ヘーゲル)教育と働くことをめぐって
    佐藤■教育の目的とはなんだろうか
    西■教育は社会の一員として生きることを目的とすると考えたらどうだろう
    佐藤■人は働くことによって何を求めているのだろうか
    西■役割関係を承認について、ヘーゲルはこんなことを教えてくれた

    第五章(フッサール・橋爪大三郎)「私」から社会へどうつなげるか―「われわれ」の語り方
    佐藤■社会の問題と自分とをどうつなぐことができるか
    西■「内からの視点」と「外からの視点」、そのことにどこまで自覚的かが問われるだろう
    佐藤■「意識に定位する現象学から社会を語る」とは?
    西■現象学は社会に対する思いや経験を内省し、一般化し、共感的理解へ向かうもの
    佐藤■権威に寄りかからず、素手で考えることが見直されてよいのではないだろうか
    西■社会の問題へは独特の身のこなし方がある
    佐藤■社会問題へどうコミットし、ルール感覚や責任感覚をつくり直すか
    西■「われわれ」感覚が自分と社会とをつないでいる
    佐藤■社会へのコミットは「ちっぽけな自分」だと腹を決めたとき始まるのではないか
    西■社会についての思考には二つの存在意義がある

    第六章(カント・ヘーゲル)9.11以降、正義の問題をどう考えるか
    佐藤■社会の正義をどこから、どう考え始めるか
    西■地球規模の「われわれ」の感覚が成立しつつある
    西■国際社会のルールは自由の相互承認と合意でしかつくり出すことはできない

    終章(東浩紀・フーコー)再び「考える」ことについて
    佐藤■自由と権力の問題をどう考えるか
    西■他者に対する共感はどうしたら可能か
    西■近代哲学を再確認しながら、「自由」への新たな視点を作りたい

    ◆要旨
    人はひとりでは生きられない。それが哲学の始まりである。
    思春期はなぜ苦しいのだろうか。親も社会もなぜ「うざい」のだろうか。学校へ行け? 高学歴? 働いて早く一人前になれ? やってられねえ! ・・・しかしそのとき、じつは「哲学すること」の入り口に立っている。「問い―答え」という対話を通して、「哲学すること」の意味を問う入門書の決定版!

    ◆【前書き】 西研
    ★この本は、佐藤幹夫さんとの二度にわたる対談からはじまった。それから佐藤さんはご自身の意見を詳しく書き込み、さらに新たに鋭い質問を加えてきた。それに答えるかたちで、ぼくもどんどん書いていった。この作業をくりかえしてできあがったのがこの本である。なので、この本の六割くらいは(もっとかもしれない)まったくの書き下ろしである。
    ★できあがってみると、ぼくが今まで考えてきたテーマのほとんどが佐藤さんによって引きずり出されてしまったなあと思う。そこには、「生の無力感からどうやって脱することができるか」(ニーチェ)といった〈実存〉に関わるテーマも、「教育の本質は何か・私たちが採りうる正義の基準は何か」(ヘーゲル)といった〈社会〉に関わるテーマも含まれている。
    しかしどれを語りあうさいにも、二つのことがつねに佐藤さんとぼくの念頭にあったように思う。その一つは、「考える」ということを、私たちの生のなかにどうやって取り戻し根づかせるか、ということだった。
    人は「自分と世界との関係」(世界像)をたえず創りあげながら生きる動物である。これからどうやって生計を立てられるかと悩んだり、自分がめざす大切なことは何だろうと問うたりしながら、生きていく。そして、その答えが見つからないとき、人は方向を見失い、生きる意欲を失う。
    この本のなかで、哲学と批評、そして対話ということがくりかえし話題にあがっているのは、明確な共通な世界像が壊れてしまったこの時代のなかで、私たちの一人ひとりが、“どこから・どうやって”自身の世界像をつくりあげていけばよいのか、さらに、社会全体としてもどうやって共有しうる世界像と方向とをつくりあげていけばよいのか、これこそがいまもっとも大切な課題だ、と二人とも強く感じていたからだと思う。
    そのことと深くつながるのだが、この本を貫くもう一つの大きなテーマは、「近代」とは何か、そして、「近代哲学」はどのような原理を提出してきたか、ということである。現代思想は明らかにいきづまっていて、それを打開するためにはいったん近代哲学に戻って考え直す必要がある、とぼくは考えてきた。

    ★哲学とは、「原理 principle」の思考である。あれこれの恣意的な説明で満足せずに、「何を根本に置けばよいか」をつねに問題にしようとする思考が、哲学なのだ。たとえば学校教育の困難はだれもが認めることだが、「近代以降の社会のなかで、学校にはどのような存在理由があるのか」についての原理的な思考を欠くならば、改革をめぐってあれこれの思いつきが乱舞するだけになる。
    ポスト・モダン思想の代表格であるフーコーは、「学校とは心身を調教する装置である」という。試験を行えば、いちいち生徒を見張らなくても試験前になると自分から勉強し出す。近代とは巧みに人を調教する技術が発達した時代なのだ、というイメージを彼は広めた。
    それに対して、近代哲学の代表者ヘーゲルは、近代の核心を「個々人の自由(生の選択)が可能になること」に見ている。そこからは、学校とは将来における職業選択の自由を可能にし、かつ、フェアで対等な人間関係の仕方を身につけさせるための装置、というイメージになる。さてどちらが、学校を含む社会制度をデザインするさいの「原理」たりうるだろうか。
    ぼくが近代哲学にこだわるのは、現代社会の諸問題を捉え新たな方向を探るさいに、「どこに足場(原理)を置くか」ということがきわめて重要だからだ。近代哲学が提出している正義と教育の原理は今でも古びていないどころか、ここを足場にしてこそ新たな方向を導くことができる。近代哲学がこうした“強さ”をもつことを、ぼくはこの十年くらいかかって「発見」してきたと思っている。

    ★最終章で、佐藤さんから、大澤真幸・東浩紀『自由を考える−−9.11以降の現代思想』(NHKブックス)を読んでコメントすることを求められた。この本からは、時代に対する鋭敏な感覚が伝わってきたが、考えが少しも前進していかないのが残念だった。それは彼らが、ポスト・モダン的な“思考の定型”から自由でないことの結果だと思えた。結果的にこの章は、現代思想的な“定型”に対する厳しい批判となった。
     ぼくは他者の批判や論争を好まず、自分の場所だけで文章を書くことをよしとしてきたところがある。しかしこれからは、「考える」ことを仕事とする人間として論争の場にも出て行かねばならないのだな、という覚悟めいたものが、この批判の作業とともにやってきた。それと同時に、自分が何を足場としどこへ進もうとするのか、をあらためて確認することができたのはうれしかった。佐藤さんには深く感謝したい。
    ◆【補足】西研HPに本件(『自由を考える−−9.11以降の現代思想』)に関する「もぎたて語りおろし」がありますので、ご紹介しておきます。⇒「西研のもぎたて語りおろし」【自由を考える】はこちらで見れます。(クリック)

    ★さて、哲学は何の役に立つのか? ニーチェはこう言っている。「ひとは哲学のなかに世界像を求めるが、それは、そのなかで私たちが心から自由であると感じ、私たちの最も力強い衝動が自由に活動できると感じるからである」(『力への意志』§418)。この本が、真摯に生きようとする人たちにとって、自由と快活さを感じさせるものでありますように。
    二○○三年十一月八日 西 研

    ◆僭越なる推薦文(mori)
    ・本書のポイントは、西さんの【前書き】にある通り、@「考える」ということを、私たちの生のなかにどうやって取り戻し根づかせるか、及びA「近代哲学」はどのような原理を提出してきたか、という二つの問いに答えた点にある。
    ・この回答が実に分かりやすく、しかも深みのあるものになっているのは、単に佐藤さんの質問に答えるというインタビュー形式ではなく、西さんと佐藤さんとの哲学対話、現代風に言うと「哲学的コラボレーション」の結果であると思われる。佐藤さんの狙い通りである
    ・まず佐藤さんが、教育や障害問題というご自分の守備範囲を越えた具体的テーマを選定し、「これを哲学的にはどう考えれば良いのか」と西さんに鋭く迫っている。勿論、その具体的テーマに対し、佐藤さんの哲学的研鑽結果の一端が披露される。その佐藤哲学の精進ぶりには目をみはるものがあるが、やはり西さんの「しっかりした本質観取」を前提とした説明は冴えており、説得力がある。
    ・私も折を見てはこの「本質観取」の実践に挑戦していますが、中々難しいものである。「本質観取に基づいて経験を内省し、それを一般化する言葉を見つけることで共感的批評が行える」という西さんの指摘は極めて重要である。是非、佐藤さんにも「本質観取」の実践に挑戦して頂き、佐藤さん独自の視点からの批評文を読みたいと、老婆心ながら考えています。
    ・最後に、これ以上易しい近代哲学入門書はない、と言って過言でないほどの出来映えであり、本年度第1号の良書として「良書年報」に登録すると共に、皆様にもご推薦致します。以上



    『国家の役割とは何か』【櫻田 淳】(2004/05/20)

    【出版社名】 筑摩書房 【出版年月】 2004年3月【ISBNコード】 4-480-05994-6 【本体価格】777円 (税別) 【頁数・縦サイズ】 253P 18cm 【分類】ちくま新書 394 シリーズ・人間学 4
    ◆目次
    第1章 人間にとって「秩序」とは何か;
    第2章 恫喝よりも誘導、誘導よりも説得―「政治」の三つの手段;
    第3章 「力の体系」としての国家;
    第4章 「利益の体系」としての国家;
    第5章 「価値の体系」としての国家;
    第6章 揺らぎ始めた国家の姿―グローバリゼーションと国家

    ◆要旨
    ・国家はいま、激流にさらされている。わが国内にあっては、景気低迷、財政逼迫、少子高齢化といった問題を抱え、対外政策においては、テロリズムの続発、地球環境破壊といった問題を抱えている。こうした状況にあって、国家が担うべき「役割」とは何か?そもそも国家は、どのような役割を引き受けてきたのか?
    ・こうした問いに答えるべく、本書は、「力の体系」「利益の体系」「価値の体系」という三つの視点から国家の役割を整理し、グローバリゼーションが進展する中で、国家はこれからどうあるべきかを展望する。民主主義体制を成熟させるためにも、「国家の役割」を考えることは重要であり、本書はその貴重な手がかりを提供する一書である。
    ◆僭越なる推薦文(mori)
    ・未読
    以上



    『こころの本質とは何か(統合失調症・自閉症・不登校のふしぎ)』【滝川一廣】(2004/09/26)

    【出版社名】 筑摩書房 【出版年月】 2004年7月【ISBNコード】 4-480-05995-4 【本体価格】735円 (税別) 【頁数・縦サイズ】 219P 18cm 【分類】ちくま新書 395 シリーズ・人間学 5
    ◆目次
    第1章 「精神医学」とはどんな学問か(「人間学的精神病理学」という流れ;人間の原理論から症状論・局在論 ほか)
    第2章 統合失調症というこころの体験(統合失調症のふしぎ;統合失調症の苦しみと三つの可能性 ほか)
    第3章 「精神遅滞」と呼ばれる子どもたち(精神遅滞と自閉症;精神発達とはなにか ほか)
    第4章 自閉症のこころの世界(自閉症の発見と研究のはじまり;カナーは自閉症をどうとらえたか ほか)
    第5章 不登校と共同性(学校制度のはじまり;わが国の学校の成功 ほか)

    ◆要旨
    マニュアル化された現代の精神医学は「こころ」を身体メカニズムの一種ととらえ、正常と異常の境界線をひいてゆく。これに対して本書は、「こころ」の病はけっして「異常」ではなく、人間の「こころ」の本質の、ある現われとして把握する。こうした立場から本書は、統合失調症、自閉症、不登校という三つの「ふしぎ」を取り上げ、「個的」でありながら「共同的」でもある「こころ」の本質に迫ってゆく。私たちの「こころ」を根本から考え直す上で示唆に富む、人間学的精神医学の試みである。


    『正しい大人化計画』【小浜逸郎】(2004/09/26)

    【出版社名】 筑摩書房 【出版年月】 2004年3月【ISBNコード】 4-480-05994-6 【本体価格】777円 (税別) 【頁数・縦サイズ】 253P 18cm 【分類】ちくま新書 394 シリーズ・人間学 4
    ◆目次
    第1章 日本の若者問題とは何か(大人とは何か;大人は死を内在化している ほか)
    第2章 「教育システム」はこう変えよ(「教育システム」構想のための五大原則;義務教育機能を限定せよ ほか)
    第3章 「法的な通過儀礼」を設定せよ(法的な「大人化」の時期とは?;「法的な通過儀礼」の第一段階 ほか)
    第4章 就労体験で間延びした日常を立て直せ(つねに労働は社会性を帯びる;労働経験を「学校教育」とは別に味わわせる ほか)
    第5章 「上昇システム」への依存を断ち切れ(「学問の要は活用にあり」を復活させよ;構想実現にとっての克服課題)

    ◆要旨
    ひきこもりやフリーター、ニートなど、自分の生き方が定まらず、あてどなく漂う若者が増えている。こうした若者の「難民」化は、本人にとっても社会にとっても決して望ましいことではない。だからといって彼らを非難しても意味はない。いま本当に必要なのは、若者を絶望させないための仕組みを構築すること。教育・法・労働という三つの側面からそのためのプログラムを構想する本書は、若者自身のよき生とよき社会を実現するための必読の書である。

    ◆著者:小浜逸郎の意図
    ひきこもり、フリーター、若年失業者、少女売春、教育の荒廃、少子化、いつまでも大人になれない若者など、日本社会のこれからを憂慮させるような現象が目立ちます。どのような考え方をすればこうした問題の本質がつかめるのかを解明し、教育・法・労働の三つのアングルから具体的かつ実践的な解決の方途を探ります。
    頑固な保守的規範主義にも安易な個の絶対自由主義にも陥らない、これからの先進社会にふさわしい処方箋を提案するつもりです。すでに前著『やっぱりバカが増えている』(洋泉社新書)で、そのアウトラインを示しておきましたが、本書では、さらにそれを緻密に展開するつもりです。


    最終更新日:2004年5月17日