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KAMEでもわかる科学の話、他(ヨタ談)>自己紹介
改訂 (2006/01/07)

自己紹介

自己紹介をすると長くなるので、一度、書いてしまって、後はそれを参照してもらうことにする。なんか、昔話になってしまった。昔話もしだすと長いんだよな。

昔から外で遊ぶことや理科や工作全般が好きだったが、工作の延長でラジオ作りをしたのが、小学校の後半ぐらいだろうか。なかなか思うような性能が得られなくて悔しかったこと、ラジオの番組を聞くこと自体がおもしろかったこと、などから、しばらくラジオ作りに没頭していた。中波、短波ラジオを作っていた。

そのうち、中学に入って、放送部という名の無線部に入り、VHF/UHF帯の無線機に触れた。PLLに感動して、それにのめりこんだ。いままでLC共振回路のバリコンをいかに微妙にチューニングするかに腐心していたのだが、PLLだとサムホイールスイッチでパチパチだからね。TC9122、TC5081、TC5082、10.24MHz、MC3357(59,61)の組み合わせは今でも覚えている。アマチュア無線の免許を取ったのも中学生のころだ。VHF/UHF帯のトランシーバを改造すれば、色々な無線通信をWatchすることができた。

高校にすすんだころに、ウォークマンが周囲で流行る。レンタルCDで借りてきてカセットテープにコピーして通学途中で聴くのだ。ヘビメタにハマッてた。ウォークマンを使うおかげで充電池をなんとかする必用がでてきた。充電器を作ったり、NiCd電池の特性を調べたりしていた。このころ、そういう需要があったので、NiCdの特性が伸びてるころで、結構おもしろかった。といっても、単三で700mAhというもので、今からするとかわいいものだ。ほかにも、ワンボタンリモコンなんてのも作っていた。本体の中に組み込むため、ロジックICのフラットパッケージ品を削って使用するのだ。

このころ、色々な機器が小型化されているが、それらは専用のASICが使われている。アマチュアにはそんな石はとても手に入らず、どうせメーカー製には勝てないと悟った。また、このころ、無線機に悪名高い「Jマーク」なるものがつきはじめた。これは、都合の悪い周波数で送受信できないように無線機のCPUが対策されているものだ。Pchもデジタル化されたこともあって、コンピュータに支配されているような無線にも興味を失った。

で、大学に入った時、初めてのパソコンを買った。EPSONの98互換機 PC-286だ。MS-DOS、Vzエディタ、TurboC++という、当時標準的な環境でプログラムを覚えた。バイトでためた貯金で、増設メモリやHDDも買った。CPUが100倍に高速化された今でもエディタの起動速度が変わらないのは謎だ。学生時代は時間があったので、プログラムに没頭できた。

その後、学部3年になったころ、学部の計算機センターに出入りし、Unixシステムのアカウントを得た。メール、WorldWideWeb(当時はMozaicと呼んでいた)などはその時からのユーザだ。某女子大とローマ字でチャットしたてという青春の思い出もある。日本のウェブサイトを端から見てまわったりできるぐらいの規模だ。一日10時間ぐらいウェブをクリックしてた。それまでのマスメディアによる統制された大本営発表ではなく、個人が発信する情報はとても新鮮だった。

自分のパソコンもLinuxが動くやつにした。FreeBSDでも良かったんだけど、気の迷いみたいなもんだ。Java、Perl、Tcl/Tkにも手を出した。Perl以外は身につかなかったがPerlでCGIを作るアルバイトをしていた。時給5000〜10000円で、かなり生活が助かった。時給換算でいえば今のサラリーマン時代よりもずっと高レートだ。当時はそれだけ、この分野の人材が不足していたということだろう。新しいジャンルだけに日本語の情報が少なく、英語のWebページを見て知識を手に入れた。

大学時代はそれ以外にもクラブ活動でアーチェリーをしていた。それなりに真剣に取り組んでいたほうだと思う。一応、フィールドインカレにも行った。卒業後は一緒に練習していた友達と離ればなれになったせいか、結局続けていない。弓も処分した。

研究室ではメカトロニクスということで、制御などを中心にやっていたが、実質は実験装置づくり(機械工作、アナログ回路、デジタル回路、パソコンでの制御ソフト)にかかりっきりで、その装置を使った研究には達っしていなかったように思う。そのかわり、ありあわせのジャンクで短時間にとりあえず動くものを、仕立てる能力が身についた。

学部卒業後は大学院の修士課程に2年いた。その時に始めたダイビングは今も続けている。妻と知り合ったのもダイビングが縁だ。このころからインターネットが一般にも普及しだしてきた。ダイビングのメーリングリスト(SDML)に入ったら、随分と友達が増えた。いつのまにかMLのスタッフに加わっていた。MLも規模が大きくなるにつれ、良識の無い人の参加もたまにはある。そういった人達への対処は、私みたいな技術一本槍の者には苦労したが社会勉強にもなる。

2000年ごろからマイコン、HDLによる論理回路設計について興味をもちだして、いろいろといじりだした。なにより、雑誌でそういったデバイスを使った製作記事が増えてきた影響が大きい。デバイスも日本橋や通販で手に入りやすくなったし、開発環境もPC上で動くフリーなものがダウンロードできる。昔は大金を投資しなければ使うことができず、アマチュアの前に壁としてたちはだかったマイコン、ASICが、今は自由に使えるデバイスとして夢を広げてくれるのはとても興味深い。

ソフトウェアやインターネットが金設け中心になり、既存企業の権利保護が優先され、開発者の自由が制限されることが多くなった時期とも一致する。一時はASICの壁に阻まれて電子工作から遠退いたが、マイコンとCPLD/FPGAはASICに対ち向かっていくだけの自由の力と夢を感じた。

結局、電子工作(ASIC、マイコンの壁)→無線(Jの壁、デジタル通信)→ソフトウェア(著作権)→HDL と規制から逃げ回わり自由を求めて放浪しているような気がする。

マイコンやFPGAなどのデバイスは開発環境の習熟コストが大きい。もし仕事で使う場合を考えると、趣味で使っていて馴染みのあるものを使うだろう。メーカのみなさんもデバイスの入手のしやすさや開発環境のフリー化などホビイストの方をもっと向いたほうがシェアも増えるのでは、と思う。

子供が生まれてからは、まとまった時間がとりにくく、ダイビングから遠退いてしまった。かわりにはじめたのが自転車だ。機材を使う遊びでないとマニア心が満足しないのか。ここでもキーワードはやっぱり、自由だと思う。きちんと練習すれば、100km ぐらいは軽く走ることができる。思いつくまま、身一つであちこちに出かけることができるのがうれしい。最初は通勤用に買ったのだが、すぐに自転車圏外に転勤になったので、休日の朝に、朝練と称して走り回っている。

勤務先での仕事は書類と会議に追われている典型的なサラリーマンだ。おかげでレポートと言い訳がうまくなった。そんな能力でもあると役にたつ。



近藤靖浩