「合唱との出会い、ポリフォニー音楽との出会い、
そして坂本氏との出会い」
(1999/05/30)
話はいきなり小学校時代に遡る。小さい頃から歌が好きだったのかどうかは、自分ではよくわからない。少年少女合唱団出身とかいったような華やかな経歴も何もない。合唱について最も古い記憶は、小学校の中頃である。当時住んでいたアメリカの片田舎の小学校で学芸会みたいなものがあったときに、体育館のステージに上る数段の階段に、三人の女の子たちと一緒に腰をかけさせられて何か歌った。このときに何を歌ったのかは全く覚えていない。ただ他の女の子たちと同じ音程で歌い、しかも高音は自分の方が伸びていたと自覚したことは覚えている。高い音ならいくらでも出た頃だった。六年生の時に帰国し東京都新宿区の小学校に編入した。ここでも区の音楽会に出るからといって合唱メンバーの一人に入れられた。音楽会の当日、他の子よりも早くお昼を食べて、特別に行動させられたのはうれしかったが、歌う楽しさなんて感じなかった。歌ったのは「峠路」という曲だった。当時の僕は、帰国子女だから「峠」なんて難しい字は読めなかった。それでも読めない漢字があることは恥ずかしいことだった。ある日の練習の時、恥ずかしさに耐え、意を決して、隣に立つ女の子に読み方を尋ねた。半分あきれた顔をして怒ったような様子でぶっきらぼうに「とうげ!」と教えてくれた表情だけは今でも覚えている。そう、このときも女の子の隣で歌うボーイソプラノだった。
歌とのつき合いはこの辺で一旦途切れる。僕は中学校に入ると、音楽よりも小説に没頭してしまったし、途中から入った吹奏楽部もあまり楽しくはなかった。それでも器楽合奏のおもしろさは知った。この間に変声期を迎え、ボーイソプラノはバスに変わっていたことも自分ではよくわからなかった。
高校は都立駒場である。しかし僕は駒場高校に入りたかったのではなかった。当時の都立高校は総合選抜になってまもなくの頃で、僕は新宿高校に憧れて受験したのに、自分の受験番号は駒場高校合格者の方にしかなかったのである。つまり僕はここで、新宿高校出身の坂本尚史氏の後輩になり損ねたわけである。でもここで新宿高校に行っていれば、合唱を始めていたかどうかはわからない。合唱は駒場に入ったからこそ始めたものだった。とはいえ、坂本氏との出会いの発端がこんなに昔にあったのだと思うと驚いてしまう。これが僕と坂本氏との最初のすれ違いだった。昭和四十五年、大阪で万博のあった年のことである。新宿高校のことはいろいろと調べてあったものの、駒場高校のことは何一つ知らないで入学した。実際に入学してみてこの学校が、都立高校唯一の普通科・音楽科・美術科・保健体育科を持つ総合高校だった事を知る。駒場高校の芸術関係の予算はすべて芸術科に行ってしまい、あっちには個人用レッスンルームまであるのに、僕の入った普通科には実に音楽教室さえなかった。わずかに視聴覚教室にピアノが一台だけあり、普通科の音楽の授業は、そこで視聴覚係に間借りをして行われていた。当然の事ながら普通科の生徒が使ってもよい楽器は他にはひとつもなく、楽器自前の軽音楽部以外は、合唱の部が、放課後の視聴覚教室で活動しているだけだった。何か音楽をやりたかった僕が、入れるのは合唱部しかなく、そこで僕は合唱の世界に足を踏み入れることになるのである。
実は僕はこの学校で、人生を決定づける師に出会った。合唱部の顧問は、ご自身が大学時代合唱部に入っておられた古文担当のS先生で「君、ここはいい部ですよ」の一言が僕を合唱の世界に誘い込んだのだった。またその先生が一生の道として自ら選んだ高校の国語教師の道に僕もつきたくて結局は同じ職業に就いた。KOMABAMUSICCIRCLEというしゃれた横文字名のこの部は、頭文字を取って校内ではKMC(ケイ・エム・シー)と呼ばれていたが、部員はみんな愛情込めて「ケムシ」と呼んでいた。「いずれは蝶になろう」という心である。「ケムシ」は実に自主的な部だった。指導者は必ず先輩であり、音楽教師には指導させなかった。卒業生の中で大学生以上をOB、浪人生を準OBと呼び、週三回の練習には必ず誰かが来ていて後輩の面倒を見た。(僕も、大学時代には定期を買おうかと思ったくらいよく行った。)ケムシには先輩の作詞作曲した「クラブソング」があり、若者らしいさわやかな曲調と、友情を中心にした歌詞で、部員たちの大好きな歌だった。高校時代の練習後、学校を出て近くの駅まで十五分ほど、この歌を歌いながら歩くのはこの上なく誇らしいものだった。
このころ中心的に指導してくれていたのが慶大生Iさん、芸大生Sさん、後に芸大に入る浪人中のAさんという三人の男性で、この人たちが来られていた日には練習はピシッと締まっていた。音楽的にもこの三人は卓越していた。後に知るのだが、この頃からその中のAさんはアマチュア合唱団「コール・ムンテレ・ゼンガー」で活動し始めており、この「ムンテレ」にいたのが、まだご夫婦になる前の坂本先生ご夫妻であったのである。Aさんから当時の坂本先生ご夫妻のロマンスを少し聞いたことがあるが、これは秘密である。
当時の僕は「ムンテレ」の存在を知ってはいたものの、あまりに畏れ多い合唱団で、見学に行きたかったのだがそんなことは口に出せそうになかった。高校時代にこう思いこんでしまっただけに、大学生になっても結局一度も見学に行くこともなく、演奏会にも行かずに、そのうち「ムンテレ」は解散になってしまったようだ。もしこの頃見学に行っていたら、坂本氏との出会いはもっと早く訪れていた事になる。これが二回目のすれ違いであった。高校を卒業する頃にケムシのOB合唱団が活動し始めた。そしてコンサートを開こうということになった。ところがまだ自分たちだけでは開けなかったので、ケムシの対外発表の場を設ける意味からもジョイントコンサートをすることにした。ところがその計画中に、中心メンバーだった先輩が急死した。21才、急性心不全だった。大雨の中の葬式、出棺の時に僕たちはクラブソングを歌いながら見送った。このコンサートはぜひ成功させなければならない。この熱い思いで、その後このジョイントコンサートは4回続いた。
ケムシのOB合唱団の名前はCOROOLRACCI(コーロ・オラッチ)となった。「おらっち(おれたち)の合唱団」という駄洒落である。指揮者は、そのときには芸大声楽科に入っていたAさんだった。現在もこの団は活動している。「オラッチ」が最初にステージで歌ったのは、パレストリーナの「バビロン河のほとり(SUPERFLUMINABABILONIS)」であった。坂本氏はポリフォニー音楽にパレストリーナから入ったと書かれていたが、実は僕もパレストリーナが出発点なのである。コーロ・オラッチは、もとはOB合唱団であったのだけれども、すこしずつ一般会員を増やして一般合唱団になっていった。会員数はだいたいつねに30〜40人。混声。日本の曲とポリフォニー曲を演奏していた。指揮者の好みでポリフォニー曲は必ずやっていた。入会する前に合唱経験のある人ばかりだっただけに、お互いの音を聞き合うことが重要であるポリフォニー曲は、得意なレパートリーだった。ミサ曲、モテット、マドリガルと広げていったが、最もおもしろかったのがフランス世俗曲だった。クレマン・ジャヌカンの曲で掛け合いのように歌うことの楽しさは今でもよく覚えている。大学生活も後半になったある日、大学の同級生でクラシック音楽好きの男が「おもしろい喫茶店を見つけたから一緒に行こう」というので、出掛けていった。その店は世田谷の経堂にあって、その名も「バッハ」といった。(現在はありません。)店の主人と話していると、なんとその主人が駒場の先輩であることを知る。そして、その店が「バッハ合唱団」の連絡所になっていること。店主の奥さんが「バッハ合唱団」の指揮者・主宰者であることを知った。この出会いから、「コーロ・オラッチ」と「バッハ合唱団」とのつき合いが始まった。「バッハ合唱団」の演奏会にオラッチのメンバーが友情出演したこともあった。「バッハ合唱団」はバッハのカンタータを歌う合唱団であり、しかも日本語で歌う。もちろん日本語に訳した楽譜など売っているものではないので、指揮者O氏がご自分で訳詩を作って、それを書き込んだ楽譜を作り、それを使って練習をする。聴衆が歌詞もわからないのでは伝わるものが少ないという考え方だと思われる。この方法には是非の議論もあるだろうが、しかしこの方法で200曲もあるバッハのカンタータの殆どを演奏してきたという情熱には頭が下がる。非常に柔らかい音色を持つ合唱団で、日本語の歌詞を聞き取りやすく演奏していた。
「コーロオラッチ」もバッハの作品を取り上げ、モテット3番、そして翌年にはついにダブルコーラス(混声四部の二つの合唱が交互に歌う形式。つまり一つの合唱団を二つにわけなければ歌えない)でモテット1番を演奏した。そして僕は、この演奏会を最後に大学卒業を迎え、団を去った。そして、ちょっとした家庭事情もあって、生まれただけだった故郷岡山にやってきた。1979年のことだった。正確に言うと、大学の終わり頃から、事情があって時々岡山に来なければならなくなっていた。来たらしばらく滞在していた。当時岡山カトリック教会にN神父という合唱好きの神父がおられた。「日下君、合唱が好きならおもしろい集まりがあるので来ませんか」と誘われ、ある夜行ってみた。そこはオラッチと同じような、パレストリーナなどを歌う、本当に小さなグループだった。名前もなかった。その神父と、もう一人別の中年男性が指導していた。その中年男性というのが坂本先生であった。そしてそこにおられた奥さんとも初めてお会いした。合唱の世界に入ってここまでの約10年間、距離的にも音楽的にも近いところで活動してきており、どこかで出会っていてもちっとも不思議ではなかったのが、ついに東京を離れ岡山で出会ったという事なのだろうか。しかも、その後決まった僕の就職先が坂本先生と同じ学園であったという事も全くの偶然であり、さらに不思議な縁であることを感じさせる。
この小さな集まりが、すこしずつ練習を重ね、演奏会をしようということになった。N神父も加わっていたので会場は問題なく岡山カトリック協会聖堂に決まった。伴奏なし。聖堂の後方二階の聖歌隊席で、譜面台を立てて歌った。これが1980年のことだ。(この演奏会を「第0回」と呼んでいる。)曲目はパレストリーナの「ミサ・ブレヴィス」、それから数曲のモテット。OPEが、やはりパレストリーナから始まったのはもう偶然とは言えまい。このときに初めて「岡山ポリフォニーアンサンブル」を名乗った。(スペリングも、頭文字がOPEとなるようにフランス語にした。「オペ」とは医者の用語で「手術」のこと。「手術の必要な人たち」という裏の意味をつけ加えようとするスペリングなのである。)
しかし、この会は、僕も含めて出席率が悪かった。そのうちだんだん合唱にならなくなって、あるとき「新年会」を坂本邸で行ったとき、しばらく休会しようということになってしまった。団名も「新年会愛好会」と呼ばれるようになった。つまり「毎年新年会ぐらいはやりましょう」ということである。これが、時々いわれている「旧ポリフォニーアンサンブル」というものである。このときのメンバーで、その後も参加していたのは、坂本夫妻、日下の他にはTさん(今も京都から参加されています)ぐらいである。皆、それぞれに散ってしまい、中心的存在だったN神父も、転勤で海外に移ってしまわれた。1982年の冬のことだったと思う。坂本氏から電話が掛かってきた。「なんでもポリフォニー曲をやる合唱団を作りたいというチラシをもらったんだけど、一緒に行ってみない?」「それは何という人がやっているんですか?」「Aという人らしいよ」これが現在の団長Aさんとの出会いである。暮れの忙しい時期に、山陽町のAさんのお宅に伺い、新しい合唱団の発足を約束した。指揮者を坂本氏に、団長をAさんにという現在の体制もそのときに決まった。
そして、新生「岡山ポリフォニーアンサンブル」がスタートした。以来、順調にとはいいがたいがここまでずっと続いてきた。岡山のような地方都市で、このような特徴の強い合唱団がずっと続いていること自体が不思議だと思う。それを考えると実に順調であったと言ってもいいのではないだろうか。団として活動を開始したのは年が改まってからであったので、1983年をもってこの団の発足としている。その後、以前のような「新年会愛好会」にならずにずっと続いているのは、坂本氏の熱心な指導と、Aさんの誠実な人柄や運営のしかたが組み合わさった強さがあるからだと僕は思う。
紆余曲折はあったが、これからもこの団が順調に発展していくことを願ってやまない。<Takabumi SAKAMOTO 付記>
私は現会長のAさんのお宅に伺ったのは1983年の大晦日だと思っているのですが…。今度Aさんに確かめてみましょう。