バッハ:カンタータ第46番「考えみよ、かかる苦しみのあるやを」

1723年5月22日、バッハはケーテンからライプツィヒに引っ越してきた。その8日後の5月30日の日曜日からバッハのトマス・カントルとしての仕事が始まった。一年の約60日にあたる教会暦の祝祭日に市内の主要4教会に教会音楽を供給することと、トマス学校における寄宿生の教育であった。つまり、バッハは毎週一曲以上のカンタータを作曲する必要があったわけである。バッハの死後、1754年に出版されたミーツラーの「音楽叢書」に収められた「追悼記」によれば、バッハは5年分の教会カンタータを残したとされている。従って、約300曲の教会カンタータが存在したことになるが、今日残っているのは約200曲に満たないものである。バッハが本当に5年分のカンタータを作曲したかどうかは議論のあるところが、ともかく、最初の2年間はほとんど毎週のように新作のカンタータが演奏されたことが記録されている。バッハは激務に追われながら、忙しい毎町を送ったことになる。このような中で生み出されたカンタータや受難曲のすべてが、我々の心に響く珠玉の名作であるのは正に驚嘆に値するといえよう。

ところで、当時のライプツィヒの礼拝式は午前7時に始められ、延々3時間におよぶものであった。1984年の第2回日本バッハ・アカデミーで再現された礼拝式では、式はオルガンの前奏とラテン語のモテットにより始められ、さらに前奏としてのオルガンの即興演奏に続いてミサ曲(ルター派の教会の伝統に基づきキリエとグローリアのみ)が歌われた。祈祷があり、使徒書朗読があり、コラール前奏曲に続き会衆によってコラールが歌われた後、福音書が朗読された。そしてカンタータの第一部が歌われた。さらにコラールが歌われ、牧師による説教があり、コラールが歌われ、カンタータの第二部が歌われるなかを聖餐式が行われた。そして、コラールの歌唱と、オルガンの後奏で式が終わった。トマス・カントルたるバッハは、毎週のように行われる礼拝式の音楽を担当したのである。

このように、カンタータは各酌祭日の礼拝の中で用いられ、その日に朗読される使徒書や福音書の内容と密接に結びついたものである。本日演奏するカンタータ第46番「考えみよ、かかる苦しみのあるやを」は、三位一体後第10日曜日用に作られたもので、バッハがライプツィヒに着任した年である1723年の8月1日に初演された。この日朗読された使徒書は「コリント人への第1の手紙、12・1−11(霊の賜物について)」、福音書は「ルカによる福音書、19・41−48(エルサレム破壊の預言と、宮からの商売人の追放)」、受難を控えてエルサレムに近づいたイエスが、町の未来を憂い、泣きながら語ったとされる言葉である。これをふまえたカンタータも罪への厳しい戒めの調子が目立っている。

第1曲は旧約聖書の言葉(エレミアの哀歌)による大規模な合唱曲で、「主が我々に下した苦しみの大きさ」を描く。オーケストラの前奏に続くカノンを伴った自由なポリフォニー形式の前半部と、合唱フーガの二つの部分からなっている。バッハは、のちに前半部分に<クイ・トリス(Qui tollis)>の歌詞を当てはめ、移調してロ短調ミサ曲へ転用している。冒頭の主題に手を入れたほかは一小節の過不足もなく利用されている。テノールのレチタティーヴォとバスのアリアが「滅びへの警告、人々の嘆きと裁きの厳しさ」を歌う。続くアルトのレチタティーヴォとアリアは、福音書の言葉を引用しながら「悔い改めの必要性と、イエスの愛の庇護」を歌う。そして、オーケストラの伴奏と間奏を持つコラールによって締めくくられる。


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2002/01/20 10:48