ヴィトクリア「聖木曜日のレスポンソリウム」

ヴィクトリアは16世紀後半のスペインを代表する作曲家であり、ちょうど絵画のエル・グレコと同時代に活躍した。ヴィトクリアは作曲家として数多くの作品を書いたが、世俗音楽は一切手がけていない。これは、当時の作曲家としては極めて異例のことであり、ミサ曲やモテットで親しまれているパレストリーナも、実は多くの世俗曲や器楽曲を残しているのである。現在残されているヴィクトリアの作品は、すべてラテン語でうたわれる典礼のための宗教曲である。それらは、ミサ曲18曲、レクイエム2曲、モテット52曲、イムヌス34曲、マニフィカト18曲であり、決して多作とはいえないものである。

トマス・ルイス・デ・ヴィクトリアは、1548年にスペイン中部の町アビラに生まれた。のちにスペインの首都になるマドリッドから、西北西に約120Kmの所にある。彼が生まれた翌年の1549年に、はるか遠い日本の鹿児島にザビエルが上陸している。ヴィクトリアは、まずアビラの大聖堂の少年聖歌隊員として最初の音楽教育を受けた。1563年にイエズス会の手でローマに送られ、イエズス会の最高教育機関の一つであるコレギウム・ジェルマルクムに入学し、歌手として登録された。1569年、20歳の彼はローマのサンタ・マリア・デ・モンセラート教会の歌手およびオルガニストとなり、1573年には母校であるコレギウム・ジェルマルクムの楽長に就任して後進の指導を行っている。この間、1572年には初めての作品集「モテトゥス集」が出版されている。その後、音楽家としての活動のかたわら、聖職者への道を歩みはじめ、1575年に司祭になった。ローマで音楽家として、また聖職者として活躍していたヴィクトリアは、スペインへの帰郷を望むようになった。やがて、30歳代後半になって国王フェリペ二世のすぐ下の妹である皇太后マリア付きの司祭として、マドリッドの王宮の近くにあるラス・デスカルサス・レアレス修道院の楽長として帰国することになった。その後、1611年8月24日に世を去るまでの約25年間を、この修道院で聖職者として過ごしたのである。

ヴィクトリアの作品の中で、その頂点をなすとされているのが、「聖週間聖務曲集」と2つの「死者のための聖務曲集(レクイエム)」である。1585年に出版された「聖週間聖務曲集」は復活祭前の一週間に当たる聖週間で歌われる曲を集めたもので、聖週間の最初の日の枝の主日(イエスがイスラエルに入城した日)で歌われるものが3曲、聖木曜日(捕らえられた日)のためのものが12曲、聖金曜日(十字架に架けられた日)のためのものが12曲、聖土曜日のためのものが10曲となっており、合計37曲の作品が含まれている。

当初、教会暦の肝要な一週間であるこれらの日々、早朝に「朝課」および「賛課」と呼ばれる祈りが捧げられた。しかし後には、「朝課」は「賛課」共々前夜のうちに済まされるように変わり、それとともに、これらの聖務には「暗闇の」という形容詞が付せられるようになった。「暗闇の朝課」は3つの「夜課」に分けられ、それぞれにおいて「レクツィオ(朗踊)」の朗吟あるいは歌唱、レスポンソリウムの歌唱が行われる。そのうち、各日の第1の夜課において唱えられる(3つの)レクツィオは、エレミアの哀歌からのテキストによると決まっている。ヴィクトリアはこられに付曲し、そのかわり、この祈りの(第1の夜課の)レスポンソリウムには曲をつけなかった。第2、第3の夜課においては、ヴィクトリアは逆にレクツィオを司祭による朗吟のまに残し、レスポンソリウムの方に付曲した。ヴィクトリアは曲を典礼のために作曲したので、教会内の伝統に従ったテキストの繰り返しの方法を守っている。すなわち、初めの4声書法による部分の後半を、少ない声で歌われる次の部分のあとに再現させ、ABCBという一種のダ・カーポ形式にしている。これはすべてのレスポンソリウムを通じての特色である。さらに、各セット(ひとつの夜課に含まれる3曲ずつ)の最後のもの(すなわち各聖日の第3および第6曲)では、以上の形のあと、もう一度初めの部分が繰り返され、ABCBABという形をとっている。このうちA、Bの両部分は必ず4声部に書かれ、Cの部分だけがつねにより少ない声で、ソリストたちだけによって歌われる。声部の編成を調べてみると、ヴィクトリアがどのように注意深く全体のプランを組み立てようとしたかがわかる。夜課ひとつごとの、3曲ひと組のレスポンソリウムにおいて、ヴィクトリアはその第1および第3曲をSATB、第2曲をSSATの形で書いているのである。各曲の声部数を減らした部分においても統一はほぼ同様に守られ、最初の曲で2声となるほかは、すべて3声をとっている。ほとんどすべての場合において、声部数を減らした部分Cを歌うソリストたちは、各セット中の第一曲ではSAT、第3曲ではATB、そして第2曲では合唱中のエクストラ・ソプラノ・パートを加えてSSAまたはSSTとなる。以上のように厳格な設計が、楽曲の情感上の多彩さをもたらすための簡素な骨組みをなしている。

ヴィクトリアの「聖週間聖務曲集」に含まれるレスポンソリウムの持つ力は、テクストとそれに付けられた音楽とのパランスの良さによるものである。テキストはそれ自体力強いもので、ヴィクトリアはこの観点から出発し、自然な朗吟のリズムを心して重んじながら、シラビックな(テキストの一音節に対して一音譜を当てはめる方式の)付曲を守っている。そして、適宜な和声あるいは旋律的動機によって、詞の各フレーズに盛られた意味が強調されているのである。本日演奏する「聖木曜日のレスポンソリウム」は、ユダの裏切りからイエスが捕らえられる所までについての、聖書の種々の部分から取ったテキストが用いられているが、繰り返し歌われる「生まれざりしなばまだしもよからぬ」の沈痛な、しかも哀れみを帯びた表現や、「剣と棍棒を持ちて」の鋭く激しい表現が、極めて印象的である。このような虚飾のない音楽語法は彼以前の作曲家たちには知られなかったものであり、かつまた、バロック時代に入ると再び失われていったものである。これはひとえに、ヴィクトリアが音楽家であるばかりでなく、聖務者としてその一生を教会や修道院で過ごしたことによるものであろう。

註:レスポンソリウムresponsorium、時に「応唱」とも訳される聖歌の歴史は古く、中世初期にさかのぼる。当初においては『旧約聖書』中の「詩篇」を朗読するためのもので、respondo(答える)という言葉に語源を持つように、先唱者に合唱が応答する形をとっていた。その後、レスポンソリウムは、聖務日課(時間を定められた教会内のおつとめ)のさいに行われる聖書その他の朗読(レクツィオ)のあと、その内容に対し信徒たちが感謝と感動をこめて応えるという意味合いを持つ、決まった聖歌の一型をさすようになった。そのテキストは常に「詩篇」とは限られず、おおむね聖書にちなんだ範囲で、いろいろなものが用いられた。


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2002/01/20 10:48