「聖金曜日のレスポンソリウム」によせて

−イエス・キリストは何のために、生まれてきたの?
ヴィクトリアさんも考えたんだねぇ・・・

この文章が読まれる頃には、街は華やかなクリスマスのイルミネーションに彩られて、とても美しく着飾っていることでしょう。クリスマス−−Christ-mas。キリスト(元々の意味は、救い主=メシア−−Mesaih)の誕生日を祝す世の中のさまざまな試みは、実に派手で、商魂たくましく、賑々しく、きわめて楽しそうです。仏教や神道、あるいは無宗教が多数派の日本においても、人々はこの季節だけはキリスト教徒(クリスチャン−−Christian)に変身します。そして12月24日をキリスト誕生の前夜=クリスマスイブと称し、恋人や家族のある者は一緒に幸せでやさしい時間を過ごしたりするのです。

後にキリストと呼ばれることになるナザレ村のイエスは西暦紀元前7から4年前頃ひっそりとパレスチナ地方の首都近郊の宿屋の馬小屋の飼葉桶の中に生まれました。ひっそりと。そしてそれを最初に見た人たちは、当時の最下層の身分であった数人の羊飼いたちと、今日あまり良い意味で使われない「ガイジン」と同じ立場の占星術師たちだったといいます。

私の友人に牧師の息子で明治学院大助教授・久山道彦氏がいます。彼は、高校時代、多感なこともあってクリスマス前になると涙を流すのです。そして言うのです。「君はイエスが、どんな気持ちで十字架にかけられたか考えたことがあるか。イエスが、何のために生まれて来たのか考えたことがあるか。彼は自分を殺そうと今まさにしている人々のために、身代わりになって死んだのだよ。死ぬためにだけ生まれてきたんだよ」。当時まだクリスチャンでなかった私には、彼がオイオイと泣きそうになりながら言うその言葉の深さを知ることはなかなかできませんでした。けれども、たしかにもし、キリストが「私の罪」(ここで言う罪とは、犯罪という人間の決めた罪という意味ではもちろんなく、人間ならば誰でももっている原罪−−日本語に正しく訳すならむしろ、仏教用語の「業」のほうが近いかも知れません。)のために死んだとするなら、本来死刑に処せられる「私」の身代わりとなったとするなら、クリスマスはその「身代わり」の誕生であり極めて慎み深く、涙を流して「ありがとう!」と叫ばなくてはならないのだろう・・・と思うことができたのは、久山道彦氏が「・・・そんなイエス様のことを思うと、俺のために死ぬためだけに生まれてきたイエス様のことを思うと、可哀想で、申し訳なくて、生誕を祝すクリスマスの讃美歌や、カロルや幸せなクリスマスソングなんてとてもじゃないが歌えないよ!」と私に語った数年後のことでした。

今年の晩夏重陽の節句の日に父を亡くしました。父もクリスチャンでしたが、私とは宗派の違う無教会主義の集会に通っていました。

けれども、父と私を共に結ぶキリスト教の考え方、最も基本的な概念は「イエス・キリストの無実の死は、私達一人ひとりの原罪を贖い取るためのものだった」(贖う=もとの意味は奴隷市場から奴隷を買い取る、という言葉が「聖書」では使われています)というものです。この考え方はごく最近アメリカの神学界でも成果として発表されていて、何でもケリュグマと呼ばれている個所が、キリスト教の最重要テーマとして十数ヵ所選ばれています。いわばキリスト教の般若心経みたいなもので、実はこれをぴしっと文言にしたのが、ミサ曲の歌詞の原典であり、教会で毎週唱えられる信徒信条(世界史でニケア信条と書くとマルをもらえる)であり、その大元となるのが、「コリントの信徒への手紙1」の15章1〜8節。史上最大のケリュグマはここだといわれます。

キリストの生誕を世界が祝すクリスマスを前にして、今夜皆さんは、キリストの逮捕と、史上最も残酷な死刑である十字架刑で寂しく死んでゆくキリストを描いた音楽をお聴きいただくわけです。

私達の力量が足りないのでヴィクトリアの音楽を表現できていないかもわかりません。途中ですやすやと眠っていただいてもけっこうですが、ヴィクトリアも久山道彦氏と同じようにイエスが十字架上で味わった孤独のことを、少しでも感じていただければ幸いです。

他の人とは、ちょっと違ったクリスマスを味わっていただけるのではないか、と思っております。

<相澤真>


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2002/01/20 10:44