バッハ:カンタータ第140番 「目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声」

1723年5月にライプツィヒのトマス教会にカントルとして着任したバッハは、すぐに毎週の日曜日および祝日に演奏するカンタータの作曲に取りかかった。それまでにもバッハは何曲かの教会カンタータを作曲していた。それらの多くは前任の地であったヴァイマールで作られたものであり、そこでバッハは毎月1曲のカンタータの作曲しか義務付けられていなかった。従って、手持ちのカンタータは少なく、ほとんど毎週のように新作を演奏しなければならなかった。バッハは生涯に5年分の教会カンタータを作曲したと言われている。1年間の日曜日、祝祭日を60日とすると、総数は約300曲となる。現在残されている教会カンタータは約200曲であるから、その3分の1に当たる100曲が失われたことになる。各種の記録から4年分の教会カンタータが作曲されたことはほぼ間違いないとされているが、残る1年分については、いまだ確認されていない。

バッハは、カントルとして着任した後の2〜3年間は驚異的なペースで新作のカンタータを作り続けていった。その中で、2年目の一年間、具体的には1724年6月21日の三位一体節後第一日曜日から、翌年の3月25日のマリアへのお告げの祝日までの約十ヶ月間、をコラール・カンタータで統一している。コラール・カンタータは一つのコラールの歌詞と旋律をカンタータ作曲の基本としてフル活用するもので、ドイツ・プロテスタント音楽の古い伝統に基づくものである。バッハは第一曲の合唱と最終曲にコラールの第一節と最終節を用い、第一曲はコラール旋律を定旋律(多くはソプラノパート)とした合唱部をともなった大規模なオーケストラ曲としている。最終曲は簡素な四声体として作曲され、この2曲でカンタータの枠を構成した。冒頭合唱には様々な技法が用いられているのも興味深い点である。

今回演奏するカンタータ140番は、三位一体節第27日曜日のために書かれたコラール・カンタータで、バッハのカンタータの中でも特に良く知られた傑作とされている。元になったコラールはフィリップ・ニコライ(1556〜1608)が書いた名高い<目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声>で、マタイによる福音書25章1〜13節にある10人の乙女達の話からその題材が取られている。ここでは、キリストを花婿に、信仰者の魂を花嫁にたとえて、その契りの喜びが歌われている。三位一体節後第27日曜日は、復活祭が特に早い年にのみある日曜日で、1724年にはこの日曜日はなかったため作曲されなかった。バッハのライプツィヒ時代にこの日曜日があったのは1731年と1742年の2回のみであった。バッハは、1731年11月25日のこの日のためにコラール・カンタータのセットの一曲として、この曲を新作として作曲したのである。

既に何度も説明したように、バッハの時代の教会カンタータはその曲が演奏される日の礼拝において朗読される使徒書簡と福音書の章句の内容に基づいたものであり、それを音楽的に補強するものであった。残された資料によれば、三位一体節後第27日曜日に朗読されたのは、テサロニケの使徒への信徒への手紙1,5章1〜11節および、マタイによる福音書25章、1〜13節であった。

「テサロニケの信徒への手紙1、5.1〜11:目をさませ、主の日が襲ってくる」

兄弟たち、その時と時期についてあなたがたに書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。

しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストのよる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。

「マタイによる福音書、25・1〜13:花婿を迎える10人の乙女」

「そこで、天の国は次のようにたとえられる。10人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。その内の5人は愚かで、5人は賢かった。愚かなおとめたちはともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。「油を分けて下さい。わたしたちのともし火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えた。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている5人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、「御主人様、御主人様、開けてください」と言った。しかし主人は、「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

福音書の章句は、花婿の到着を待つ乙女のたとえを用いて、神の国の到来への備えを説く。カンタータはこの福音書をふまえて、真夜中に望楼から呼ばわる物見らの声を先導としてキリストが到着し、魂との喜ばしい婚姻へと至る情景を、円熟した筆致で気高く描いている。

構成は、第1、4、および7曲にコラールを用いている。物見の呼び声が夜のしじまを破って響く冒頭の合唱曲は、コラールの第1節を用いて近づく花婿を待ち望む乙女たちの心を歌う。第2曲は花婿の到着を知らせるテノールのレチタティーヴォ。第3曲はソプラノとバスのための二重唱で、ソプラノが花嫁の形を取った信仰者の魂を歌い、バスがイエスの言葉を歌っていく。第4曲ではコラールの第2節がテノールで歌われる。第5曲は花婿を迎え入れるバスのレチタティーヴォ。第6曲は再びソプラノとバスの二重唱で、愛の成就の喜びを歌う。第7曲はコラールの第3節が簡単な4声合唱で歌われ、全曲が閉じられる。

<坂本尚史>


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2002/01/20 10:44