「ヨハネ受難曲」に思う

 「受難曲」とは耳慣れない言葉ですが、イエスの受難、つまりイエスという人物が十字架にかけられて死刑になったことを歌曲で表現したものです。バッハはその生涯に四つの受難曲を作曲したと言われています。四つというのは新約聖書に出てくる四つの福音書、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネという四人がそれぞれ書いたイエスの言行録すべてであり、そのいずれの中にも受難の話があるので、四つの受難曲とは「完全」を意味することになるのです。
 しかし現在、バッハの作品はかなり散逸していて、受難曲も「マタイ」と「ヨハネ」だけしか残っていません。あったと言われる「マルコ受難曲」も「ルカ受難曲」も今では聞くことはできません。たいへん残念に思います。
 一般に「イエス・キリスト」と呼ばれる人物ですが、名がイエス、姓がキリストではないのです。「イエス」は確かにこの人の名ですが、「キリスト」というのは「救い主」のこと。つまり「イエスを救い主として認め信じるのだ」という信仰的な意味を持つのが「イエス・キリスト」という呼称なのです。だからこそ「キリスト教」と呼ばれるのです。
 さてみなさん、今日演奏されるこの長い「ヨハネ受難曲」の中に「イエス・キリスト」という言葉が何回出てくると思いますか。これが実にたったの1回なのです。感動的な救いの最終曲である40曲目の中に、「Herr Jesu Crist(主、イエス・キリストよ)」と出てくるだけなのです。長い長い受難の話が続き、イエスの死を看取った者たちが、本当の最後に「まことにイエスはキリスト(救い主)であった」と讃えるのです。そしてこのような歌詞で幕を閉じるのです。「主イエス・キリストよ。私の祈りを聞き入れてください。私は永遠にあなたを讃えます。」なんと感動的ではありませんか。 
 しかし、この文章をお読みのあなたは、おそらくキリスト教徒でない方の方が多いでしょう。だから「感動的だ」なんて一方的に言われても「そうかなあ」と首を傾げられるでしょうね。ただ、今から約二千年も前に中東にイエスという名の男が生きていて、人々につくし教えを広めたために死んだという事実。今日の演奏に出てくるように、尋問の際に何か一つでも否定すれば死ななくてもよかったのを、死を選ぶような返答をあえて続け、そして十字架にかけられ惨殺されたという事実。(「トリノの聖骸布」と呼ばれる、キリストの死骸をくるんだ亜麻布が現存しており、科学的にも二千年ほど前に使われた死者をくるんだ布だと認定されています。X線を当てるとキリストの顔が浮かんできます。)
 こういったことだけ見ても、自分のためでなく他者のために死んでいった男のいたことはわかります。他者の罪のために死んでいったイエスという一人の男の生き様という見方をしても、この物語は胸に迫るものを持っていると思うのです。そしてその男の話が二千年も語り継がれてきたところには、信仰の有無とは無関係に、一人の人間の生き方が人々に感動と勇気を与えたのだということが示されているのです。

 さて、この貴重なプログラムに文章を載せていただけるのは私が岡山ポリフォニーアンサンブル(OPE)のオリジナルメンバー(当初からの会員)の一人だからのようです。そこで、わがOPEとバッハの受難曲の関わりについて少し語ることにします。
 小曲中心で地味に活動してきた私たちが大曲に出会うことになったのは1993年のバッハ「マタイ受難曲」演奏会でした。あれは、同じく岡山で活動する岡山バッハカンタータ協会という合唱団の演奏会に、OPEが団として参加することになったものでした。そのために一年間、OPEとしての活動は休み、カンタータ協会の練習に合流しました。それまでOPEの演奏会では、バッハのカンタータを1〜2曲取り上げていたものの、大曲を取り上げることはできませんでした。それが、バッハの、それも合唱音楽の最高峰の一つといわれる「マタイ受難曲」に参加できるということ、しかも指揮者はバッハ演奏の巨匠ヴィンシャーマンという最高の条件の中で歌えるということで、勉強をしに行くつもりでの参加となったのです。演奏会自体はよいものだったと思います。(私個人としては演奏会当日が39回目の誕生日にあたり、よけいに印象深い演奏会でした。)
 しかし、この演奏会を通して私たちが得たものは、実は薄っぺらい感動だけではありませんでした。確かに練習は厳しく、できなくて泣きたくなるほど難しいことを要求されました。でもそれが団としての結束を高めていくことになったのです。どのように歌っていったらいいのかをよく話し合いました。あの時ほど真剣に歌について語り合ったことはOPEの中ではあまり記憶がありません。それに、自分たちがやってきた音楽の作り方が正しかったのだという確信を持ったのです。あのバッハの音楽をちっぽけなわれわれのグループが演奏しても、本当の演奏になっていないのではないかという不安はずっと持っていましたが、そうではない、これが正しい方法だったのだと確信を持てたことは大きな収穫だったと思います。技術的には未熟ですが、方向としては間違っていないことを教えられたのはヴィンシャーマン先生の、バッハの、そして神様の恵みであったと思っています。あの時共演の声を掛けてくださった岡山バッハカンタータ協会にも感謝します。
 さて、確かに「マタイ」は歌いました。しかしこれは私たちだけの演奏会ではありません。私たちが15周年記念演奏会を企画するときに「ぜひバッハの曲で」と考えたのも、あの演奏会がもとにあったからだと思います。決めた曲は「ヨハネ受難曲」。マタイよりは少し短いものの、そこにバッハの盛り込んだ心の深さでは変わりのない大曲です。バッハの四大宗教曲(「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」「ロ短調ミサ」「クリスマスオラトリオ」)の一つにも数えられています。私はここに、OPEの10年に及ぶバッハ連続演奏の集大成を見ることができると思っています。そしてなによりOPEの特長であるほのぼのとしたまとまりの良さと意気込みの大きさが現れてくるはずだと信じています。

 今からちょうど10年前、1989年11月26日に開かれた第3回定期演奏会プログラムに、今もなお団長である有馬さんがこう書かれています。「そもそも、この合唱団が最終的にめざすところのひとつとして、マタイ受難曲に代表されるバッハの大曲をこの岡山で演奏できるようにする、ということを暗黙のうちに掲げてきたのです。」
 第3回演奏会は初めてバッハのカンタータをプログラムに乗せた演奏会でした。ふだん大言壮語など決してしない有馬さんの、これは本音なのだと私はこの言葉をかみしめ、折に触れて思い出すものでした。あれから10年、毎年バッハのカンタータを演奏し続け、いよいよ「めざすところの」作品を演奏する日がやってきました。しかし今日の演奏会がOPEの最終目的なのではありません。それは曲がマタイでないという意味ではありません。一つの夢が実現するということは、次の夢を語ることに他ならないからです。かつて有馬さんが「本当にそんなことができるだろうか」と不安を持って書かれたに違いなかった言葉が今日実現したように、このグループは夢を現実のものとする意欲と実行力にあふれています。このすばらしい仲間たちとなら、私は次なる目標を掲げていけると思っています。私の夢、いつかこの仲間たちと一緒に、バッハの「ミサ曲ロ短調」を歌いたい、こう思うのです。
 ここで忘れてはならない人たちがいます。私たちは合唱だけでなく器楽合奏のメンバーを含むユニークなアンサンブルですが、ほかにいつも演奏会に出演してくれている仲間たちがいます。それは毎回すばらしい音色を聴かせてくれているオーケストラの面々です。昨年の演奏会では、合唱よりもオーケストラの演奏がすばらしいのでびっくりしたという声すら聞かれました。毎回年末の忙しい時期に予定をあけてくれ、駆けつけてくれる「仲間たち」。しかもレギュラー化したメンバーのため、私たちも落ち着いて歌えるのです。昨年私は初めてOPEの演奏会で指揮をさせてもらったのですが、この方々の演奏でなかったらきっと失敗していただろうと思います。「岡山ポリフォニーアンサンブル室内合奏団」。いかに私たちが感謝し、頼りにしているか。それは今日の演奏の中でも感じ取っていただけることと思います。「OPEのバッハ」のために集まってくれる方々です。

 今日こうしてヨハネを歌えることはもちろん、こうやって夢を語れることを、私は人生の幸せだと思います。そして改めて私の仲間、全てのOPEメンバーの一人一人に感謝します。

<日下不二雄>


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2002/01/20 10:48