プレトリウス「テレプシコーレ舞曲集」
ミヒャエル・プレトリウス Michael Praetorius(1571?〜1621)は、ヴュラ川流域にあるアイゼナハ近くのクロイツブルクに生まれた。父親は厳格なルター信奉者であったが、ルター派内の様々な派閥間争いのために、一家は何度か住居を移した。プレトリウスは1587年、フランクフルトの聖マリエン教会オルガニストに任命され、1590年までその職を務めた。1595年から1621年に死ぬまで、ヴォルフェンビュッテルの宮廷オルガニストを務めたが、1604年以後は宮廷楽長の地位にもあった。プレトリウスは音楽に関する百科全書的な大著である音楽大全(Synthagma Musicum)を出版しただけでなく、プロテスタントのための多方面にわたる音楽の作曲のほか、オルガン奏者としても活躍するなど、同世代のドイツ音楽家の中で最も精力的な活動を残した。プレトリウスが主に力を注いだのは教会音楽で、企画された世俗曲および器楽曲の曲集のシリーズはただ一巻しか出されなかった。それが、今回取り上げる舞曲集<テレプシコーレ>である。
<テレプシコーレ>は1621年に出版され、その名はギリシャ神話に登場する9人のミューズのうち舞踏をつかさどる女神「Terpsichore」に由来しており、その中には300余りのフランス舞曲が収められている。曲集の表紙には多くの言葉が書かれているが、そこには「この曲集にはフランス人の舞踏教師が踊る様々な舞曲が含まれており、それらは王侯貴族の食卓や宴会を楽しませるために用いられるものである」と述べられている。曲集中の舞曲は、ヴォルフェンビュッテルに住むブルンスヴィック公の舞踏教師であったアントワーヌ・エムローが、プレトリウスに舞曲の旋律を4声および5声の曲に編曲してくれるように頼んだため伝えられたものである。プレトリウスはこうして受け取った音楽のほとんどにバス声部と内声部を付け加えたが、これらの曲の初めには「クロイツブルクのミヒャエル・プレトリウス」の頭文字M.P.C.が付されている。プレトリウスはこの曲集を自分の名で出版するのが妥当か、という点でいささか気がとがめたようで、その序文には「これらの舞曲の旋律や歌は、主として有能なヴィオール奏者やリュート奏者として知られているフランスの舞踏家たちが作曲したもので、彼らが仕える貴族たちに踊りを教えるとき、それらの楽器で旋律を演奏した」と記されている。
舞曲の素性からそのまま推測すれば、曲は弦楽器などで演奏されることを想定していたことになる。なぜならフランスの宮廷では、正式な舞踏会で演奏を受け持ったのはヴィオール奏者のグループであり、またヴィオールは舞踏の教習の伴奏として使われる典型的な楽器だったからである。しかし当時のドイツでは、舞曲は宴会や儀式の時の余興や、バックグラウンド・ミュージックとして使われていたようで、その際どの楽器を使用するかについて加えられた制限はほとんどなく、演奏者がそれに順応できるということだけだったと思われる。そのため、今回のようなリコーダーアンサンブルを中心にしたような演奏形態も、その当時行われていたのかもしれない。
今回演奏会で取り上げた曲の大まかな背景などは次のようなものである。
スパニョレッタ<Spagnoletta>
プレトリウスによると「スパニョレッタはフランドル地方から伝わったもので、その音楽は1550年頃のフランス・シャンソンに由来しているにもかかわらず、フランスではまれにしか踊られなかった」と説明している。流れる様な旋律が、独特の和音で支えられている美しい曲である。ブーレ<Bourree>
踊り手が輪になって足を横にはこぶブランルという踊りの変形であり、17世紀後半になって初めて独立した宮廷舞踏となった。フィルー<Philou>
ガヴォットに似た4拍子の曲である。プレトリウスは「若い従僕らによって夕方街頭で歌われた曲」と説明している。バレー<Ballet>
その多くは、宮廷の演劇的な余興などで披露された、特別な振りつけをともなった踊りである。なお、曲の題名は踊り手の衣装や仮装を表しているらしい。クーラント<Courante>
3拍子による比較的簡潔な踊りであり、後の時代のフランス形式に見られる拍子の変化はそこにはない。ヴォルト<Volte>
3拍子で踊られるガルヤルドに似た、プロヴァンス地方を起源とする8分の6拍子の軽快な踊りである。<葛谷光隆>
2002/01/20 10:48