ラッスス「ダヴィデの懺悔詩篇集」

 16世紀後半のローマにおける最大の作曲家パレストリーナ(1525頃〜1594)が世を去ってからおよそ4ヶ月半近くが過ぎた1594年6月14日、フランドル出身の同じ時代の大作曲家オルランドゥス・ラッススが亡くなった。

 ラッススは一時ローマにいたことがあったが、むしろ異なる地域で活動した音楽家であった。したがって、基本的には伝統的なフランドルの通模倣書法(全く同じ旋律が異なるパートに次々と現れる書法)をふまえているものの、パレストリーナがそれをさらに完成度の高いものへと磨きあげていったのに対して、ラッススの方はホモフォニー書法(和声を中心にした書法)によって劇的な表現を行なったり、北イタリアヴェネツィアを中心に開拓されていった分割合唱(あるいは複合唱)を積極的に用いて、色彩的な効果を生み出している。

 ラッススは1532年にフランス国境からそれほど遠くないフランドル地方のモンスに生まれた。その町の聖ニコラ大聖堂の少年合唱団員として活躍したが、少年期にシシリー副王フェルディナンド・ゴンザガに仕えるためにイタリアにおもむき、シシリー、マントヴァ、ミラノ、ナポリなどで活躍した後、1553年にはローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会楽長となった。1555年アントワープにおもむき、この地で最後の作品集を出版した。なお、ラッススがフランドルに戻ったあと、後任の楽長となったのがパレストリーナであった。1556年ミュンヘンに招かれ、パパリア公アルブレヒト5世の宮廷カペルラに加わり、数年後には楽長を任じられている。その後もミュンヘンですごし、その地で生涯を終えた。

 ラッススは多作家であり、当時の曲種のすべてをつくしている。ミサ曲、モテトゥス、ラメンタツィオ(エレミアの哀歌)などラテン語で歌われる一方、世俗曲のジャンルでもラッススの楽才が多彩に展開され、シャンソンにおいてはフランス人以上にフランス的であり、ヴィラネルラにおいてはイタリア人以上にイタリア的、リートにおいてはドイツ人以上にドイツ的であると評されている。

 ラッススのモテトゥスは、彼の全創作の頂点を形成するものであり、また、ルネサンス全ポリフォニー作品のなかでもきわめて特異な位置をしめるものである。彼のモテトゥスは、フランドル伝来のポリフォニー書法を基調としながらも、付点リズムの多用、鋭いリズムの対比、半音階法、そして予期しない中間終止など、不均整な構成の中に劇的な表現を追求する傾向がいちじるしい。

 本日演奏する<ダヴィデの懺悔詩篇歌>は、こうした傾向を端的にしめす作品で、1572年の聖バルテミーの大虐殺の暗い思い出に悩むシャルル9世の心をいやすために作曲されたと言い伝えられているが、この曲集のラッススによる序文によれば、すでに1560年頃に作曲されたことが示唆されており、実際にはアルブレヒト5世のために作曲されたものと考えられている。旧約聖書の詩篇の中に含まれる神への懺悔と救いの願いを歌ったものから6、31(32)、37(38)、50(51)、101(102),129(30)、そして142(143)をとりあげ、絶望から希望へと移り変わってゆく苦しむものの心をまとめあげている。音楽は基本的に5声で書かれているが、2声、3声、4声の部分がいくつか挿入され、2声部分ではカノン書法が用いられたり、4声部分ではホモフォニックな動きがきわだたせられたりして、苦悩と落胆の状態が強い緊張感のなかに表現されつくしている。

 ラッススは、栄光あるフランドル楽派の最後を飾る偉大な音楽家であり、ポリフォニー技法からは決して離れようとはせず、その基本的な枠内で、自己の表現の世界を極限まで開拓していった。表出への志向の点では次代のバロックの方向に結びつくものがあったが、その音楽は、バロック音楽の成立を促進し刺激するものではあっても、それ自体はバロック音楽として把握されるべきものではなかった。1600年以降のバロックの劇音楽および器楽音楽の台頭とともに、ラッススの音楽、そしてラッススに代表されるフランドルのポリフォニー音楽は急激に衰退の道をたどっていったのである。

<坂本尚史>

(参考:皆川達夫著 西洋音楽史 中世・ルネサンス、今谷和徳著 ルネサンスの音楽家たち)


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2002/01/20 10:44