バッハ「ミサ曲ト短調」

 ミサはキリストと弟子たちとの最後の晩餐を象徴するキリスト教会の典礼である。カトリック教会のミサで唱えられる典礼文はラテン語が用いられ、教会歴の各主日・祝日ごとに定められる固定文と、原則としてすべてのミサに共通する通常文に分けられる。それらの多くの部分は典礼の確立された5世紀初めの頃から音楽付で歌われるようになってきた。いわゆるグレゴリオ聖歌には多くの「ミサ曲」が含まれている。15世紀のルネサンス時代の初期からは通常文の5つの部分、キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイが一貫して作曲されるようになり、カトリック教会における「ミサ曲」の形式が完成され、現在に至っている。

 現在のプロテスタント教会では一般にミサ曲は歌われることはなくなったが、バッハ時代のルター派教会では少し事情が違っていた。ルター教会での礼拝ではカトリックのミサ典礼が継承されたが、日常語であるドイツ語の導入がすすめられ、ミサ典礼文も大部分がドイツ語に翻訳され、ラテン語のミサ通常文の全文が歌われることはなくなった。バッハの時代の礼拝で必要とされたラテン語ミサ曲はキリエ、グローリア、サンクトゥスのみとなり、それも特定の主日に限って演奏された。

 バッハはその後半生をライプツィヒのトマス教会カントルとして礼拝で歌われるカンタータなどの作曲に当たっていたが、5年分に相当する多数のカンタータを作曲した(現在残されているのはほぼ4年分に相当する約200曲)が、ミサ曲の作曲にはあまり熱心でなかったらしく、多くの場合は他の作曲家による作品の演奏にとどまり、自身の作曲によるものはわずかにキリエ、グローリアからなる4曲の「小ミサ曲」と3曲の「サンクトゥス」が残されているに過ぎない。また、その多くは旧作のカンタータからの転用であった。なお、晩年に完成されミサ典礼文の全文を含む名作「ミサ曲ロ短調」は、当時のルター派、カトリック、どちらの礼拝にそぐわない特殊な作品である。

 本日演奏するミサ曲ト短調は、1726年に初演された教会カンタータ第187番<彼らみな汝を待ち望む>の主要部分を母体として、これに同102番<主よ、汝の目は信ずる者を見守りたもう>および同72番<すべてただ神の御心のままに>から1曲ずつを転用して作られた作品であり、1739/39年頃に成立したものであると考えられている。ミサ曲と原曲のカンタータ楽曲との対応は次のようになっている。

<<ミサ曲ト短調 BWV235>> <<原曲のカンタータ楽曲>>
1.キリエ カンタータ102番冒頭合唱
2.グローリア カンタータ72番冒頭合唱
3.グラーティアス カンタータ187番第4曲
4.ドミネ・フィリ カンタータ187番第3曲
5.クゥイ・トリス カンタータ187番第5曲
6.クム・サンクト カンタータ187番冒頭合唱

・・・今年の8月中旬のある晩、私は岡山の某合唱団の一員としてライプツィヒの聖トマス教会の、バッハもかつて毎週のようにカンタータを演奏したであろう聖歌隊席にいた。教会の内陣にあるバッハの墓(バッハは当初は聖ヨハネ教会に埋葬されたが、19世紀になってここに移された)を見おろすその聖歌隊席で、奇しくもこのミサ曲ト短調の原曲の一つであるカンタータ102番を歌った。バッハ当時と同じ古楽器で演奏される、神への祈りと信頼を込めた、そしてむせび泣くようなその冒頭合唱の前奏を聴きながら、合唱団員の見つめる指揮者(若いハンサムな青年であった)の背後にバッハの幻を感じたのは私だけではなかったと思う。演奏を終えて、当時は、どちらかといえば決して大きいとは言えない田舎町であったであろうライプツィヒの街を歩きながら、このような地でカントルとしての激務に追われながらも、後世に燦然と輝く幾多の作品を残したバッハのすごさ・偉大さを改めて感じた。しかしその一方で、ザクセン地方の中心として栄光を極めたドレスデンの豪華で輝きに満ちた王宮を演奏会後に訪れたとき、彼の叶えられなかった望み、あこがれを感じて、胸が熱くなった。そういえば、私の好きなカンタータには、神への祈りと救いを待ち望む思いに加えて、若干の憂いと切なさを感じさせるものがあるような気がするのだが・・・。

<坂本尚史>


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2002/01/20 10:44