パレストリーナ「教皇マルチェルスのミサ曲」

 バレストリーナは1525年頃ローマの東およそ40kmほどのところにあるパレストリーナという町で生まれたと考えられている。彼の本名はジョヴァンニ・ピエルルイジであるが、出身地を表わす言葉が加えられ、一般にはパレストリーナの名で通っている。10歳の頃からローマのサンタ・マリア・マッジョーレ教会の少年聖歌隊員として音楽教育を受けはじめ、その後、教皇庁システィナ礼拝堂聖歌隊員、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ教会楽長、教皇庁カペルラ・ジュリア楽長、などとして活躍した。大変多作な作曲家として知られ、生涯に105曲のミサ曲、250曲あまりのモテトゥス、その他多数のラテン語による宗教曲が残されている。なお、この他にイタリア語による世俗マドリガーレやカンツォーナなども多数現存しており、決して教会音楽のみに身も心も捧げたというわけではなかった。

  ルネサンス音楽の特徴は、そのポリフォニー技法にある。ある声部に現れた旋律を、各声部がお互いに模倣しあい、その重なり合いによって音楽が作られている。パレストリーナはこの様式に和声的な要素を巧みに組み込んでいった。特に3度や6度の和音を多用し、不協和音を慎重に避けて、充実した響きが生まれるように配慮されている。旋律線は流暢でおおらかであり、不協和音を避けて順次進行の多いなめらかな動きを示している。時にはホモフォニックな書法も取り入れられるが、全体として内的な激しさを見せるところがほとんど無く、透明で澄んだ美しさをたたえた穏やかな音楽となっている。

 パレストリーナが活躍した時代は、宗教改革に対抗するようにカトリック教会で行なわれた内部改革が、教会音楽の分野にもおよんでいた時代であった。ルターによる宗教改革に対抗するように、カトリック教内でも数々の内部改革が行なわれた。そして1545年12月に、北イタリアのトレントで第一回の公会議が行なわれた。この中で教会音楽に関する改革が討議された。その際に、会議で全てのポリフォニー音楽を廃止するという案が大勢を占めたときに、パレストリーナが神に導かれて新しい傑作ミサ曲を書き、それが会議で演奏されて、その素晴らしさに感動した人々が、従来通りポリフォニー音楽を認めたと。そのミサ曲こそが「教皇マルチェルスのミサ」であったとされたのである。その後、この説は歴史的に否定され、単なる伝説に過ぎないことが明らかにされている。

 実際のところは、「教皇マルチェルスのミサ」の成立に関しては、あまり良くわかっていない。この曲は、1567年にローマで出版された『ミサ曲集第2巻』におさめられているが、自筆楽譜が現存しており、それは1562年頃のものとされている。パレストリーナの在世中でこの名前を持つ教皇は、1555年にわずか3週間で急逝したマルチェルス(マルケルス)II世しかいない。従って、現存する筆者楽譜は1562年頃のものとしても、教皇マルチェルスII世の在位中に書かれたと考えるのが自然である。現在、この曲は1555年の聖金曜日、教皇マルチェルスII世の在位3日目に、聖週間の音楽の歌詞がはっきりと聞き取れるようにすることを告げるために、教皇が聖歌隊の歌手たちを招集したという出来事と密接なつながりがあるのではないかとされている。

<坂本尚史>


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2003/09/09 22:06