バナナ
TAKAちゃん
2002/04/30 11:00
ボクは果物が好きである。蜜柑、八朔、林檎、桃、西瓜、梨、など、柿は今一だけれども。野菜も含めてほとんどの果物・野菜類が大好きである。けれども、バナナだけは、食べない。別に、嫌いなわけではない、だから、外で出されれば食べる。しかし、少なくとも家では食べない。理由は・・・・・・ある。
信じられないかも知れないが、戦後しばらくの間バナナは大変高価な果物だった。今で言うと、もっとも高級なマスク・メロンや高級果物店にならぶ白桃と同じくらいだったと思う。だから、めったに食べられなかった。ボクの小さい頃、我が家の食卓にバナナがのることなど一度もなかった。
そんなボクも2、3度バナナを口にしたことがあった。それは、世の中にこんなに美味しいものがあったかというくらい、甘くて、ねっとりとした舌触りで美味しかった。その味は、今も忘れることが出来ない、ほの苦い思い出とともに。ボクのバナナに関する思い出は、何故か全て駅のホームでの出来事である。ボクは戦後すぐの生まれである。ボクの父はNHKに勤める建築音響の技術屋であった。本当は最初は別の会社に勤めていたらしいが、ボクの記憶にはない。そして、当時の一般的風習の通り、父方の祖父母と同居していた。ボクの祖父は鉄道省(その後の国鉄、今のJR。この横文字の響きは鉄道安楽マニアとして許せないくらい嫌いであるが、この話はまたいつか)のトンネルを中心とした土木工事の技師でだった。伯備線や土讃線、予讃線の工事の関係で6年ほど岡山に住んでいたそうである。因みに、父は六高の卒業である。戦時中は台湾に行っていて、母が結婚したときには死んだものと思ってくれと言われていたそうである。良くドラマなどに出て来るが、当時の姑はとにかく威張っていた。特に、ボクの祖母は何故か気位が高く、母も何かと遠慮していた。なお。ここでは関係ないが、この祖父母は大変夫婦仲が悪く、母はずいぶん苦労していたことを記憶している。ボクの今の仕事が粘土関係の研究であり、関連の専門学校で建築環境工学を教え、音楽にも手を染めて、岡山に住んでいる、ということには、何か因縁めいたものを感じるのはボクだけであろうか。ボクは、このような家庭の、今では当たり前のようになっているが、当時は珍しい一人っ子として育った。安サラリーマンの、どちらかというとやや貧しい生活ではあったが、一応は大切に育てられたお坊ちゃまであった。カミさんは4人兄弟の末っ子である。一人っ子と末っ子はどちらが悪いかとよく言い争うになるが、ボクは断じて一人っ子の方が良いといって譲らない。第一、一人っ子は長男と末っ子の良いところばかりを兼ね備えている。従って、思いやりの心が強い。末っ子は甘やかされているだけで、思いやりが少ない(もちろん人によるだろうが)とボクは思うのだが如何だろうか。・・・・・・・・・・、そうそうバナナだ、一人っ子談義はまたいずれ。
・・・で、母としては、子供のボクにたまにはバナナを食べさせてやろうと思っても、ままならなかったのである。そんなボクが小学校にはいる歳になった。東京では一部に名門小学校(慶應などの、良家のお坊ちゃまがいくところ)、一般の公立(東京では区立)小学校、それに国立大学の付属小学校があった。親はみんなそうだと思うが、ボクの親も‘親バカ’もしくは‘教育ママ’のはしりで、ボクをさる国立大学の附属小学校に入れたいと思ったようだ。そこで、お受験である(古いか)。とは言っても、万人に門戸を開いている国立の学校だから、試験自体は簡単である。そこで、試験を通ったものの中からくじ引きで合格者を決まることなった。小学生を試験で選抜するというのも無理な話であるが、くじ引きというのも残酷な話である。結果は、見事にはずれであった。そんなことが2度ばかりあった(本当は一度は試験で落ちたような気もするが、それでは話として面白くないので無視することにする)。結果が出て、家に帰る国電の駅前の果物屋で、母はバナナを一本(もちろん一房ではなく正真正銘の一本)買ってくれた。そして、祖父母への遠慮か「ここで食べなさい」といって、駅のホームのベンチで食べさせてくれた。
似たような思い出がもうひとつある。ボクの生まれは神奈川県の山の中である。今では小田急線の急行で小一時間とバスで15分の距離であるが、当時はなかなかの山奥であった。母方の祖母はボクが生まれてまもなく脳溢血で倒れ、半身が不自由で歩くときは杖をついていた。そして、ボクが小学校5年生の時になくなったので、記憶に残っていることは大変少ない。そんな祖母が一度だけ我が家に遊びに来たことがあった。その時に何があったか、母が姑にどんなに気を遣っていたのか、全く記憶にない。不思議に覚えているのは、理由は覚えていないが、近くの今とは比べようもなく交通量の少ない頃ではあったがそれなりに車の多かった甲州街道を、杖をつきながら一生懸命に渡る姿と、帰りに新宿駅まで送っていったときのことである。駅のベンチで2時間に1本の次の急行を待つ祖母に、母がバナナを買った。その1本のバナナを、曲がった腰を更に丸めてベンチに座りながら、「美味しいね」と言って食べていた祖母の姿が、今も瞼に焼き付いている。
そんなわけで、ボクはバナナを積極的には食べない。ほろ苦い思い出と、その時の美味しかった味の記憶を大切にしたいからである。でも、今でもバナナは美味しいと思う。そして、スーパーやボクの家の食卓の片隅で傷んで黒くなっているのを見ると、許せない気持ちになる。そして、家族がほんの少し色が変わったくらいでそこを取り除いて捨てるのを見ると、いつも怒る。家族には、それくらいなら食べてしまえばいいのにと言われるが、しかしやはり食べられないでいる。
結局、これもボクのこだわりの一つである・・・・・・。
2002/04/30 11:00