少年期の思い出—その一、心の古里
TAKAちゃん
2002/08/25 18:47
前にも書いたが、ボクは昨年から週一回高梁の大学に講義に通っている。半期で13回ほどだから年間30回弱ということになる。初めのうちは、岡山から国道180号線を走り、吉備津神社、総社をへて高梁川沿いに北上する経路で往復していた。片道50kmほどの道のりである。他県の方には地域的な話で申し訳ないが、この道は結構交通量のおおい国道であり、時たま渋滞する。岡山と高梁を結ぶ路線はいくつかあるので、今年からは帰りは吉備高原越えの高梁−賀陽町−吉備高原都市−岡山空港−岡山の道を通るようにした。もっとも往きは、何となく所要時間が不安で、通い慣れた国道を使っている。距離はほとんど違わないが、信号がほとんど無く交通量も少ないのが利点である。もうひとつ利点がある。
この高原越えの道が、いいのである。何がいいかというと、風景がたまらなくいいのである。やや起伏に富んだ高原の一本道で、両側には田園風景が広がっている。田圃があり、畦道があり、野草におおわれた小さな斜面があり、野の花が咲き、そして、かつて藁葺きだったであろう民家が点在する。そして、通るたびに色合いを変えていく。今から、秋の収穫前の稲穂が揺れる姿を楽しみにしている。市内の家を売り払って、このあたりに転居したいような衝動に駆られる。街中には寝泊まりできるだけの小さなマンションでもあれば充分じゃないか、ここから岡山市までたかだか車で一時間じゃないか、と。
なぜ、こんな風景がいいのかというと、子供の頃よくいった田舎の野山を思い出させてくれるのである。私は母の実家で生まれた。母の実家は神奈川県の伊勢原市の、小田急線の駅から大山(ダイセンではなくオオヤマ)へのぼる街道筋の、それも当時のバス(私の生まれた頃は戦後直後で木炭バスだったそうだ、私は記憶にないが)がやっと登れる終点のすぐ手前にあった。大山には、阿夫利神社(別名、雨降り神社)があり、江戸時代には庶民信仰の対象とされ、大山詣りが流行ったそうである。生まれてすぐに東京に帰ったので、長く住んだことはないが、その後も中学に入る頃まで、毎年のように春や夏の休みには一週間程度遊びに行っていた。今でこそ東京郊外の大都会であるが、当時は本当に田舎だった。もちろん電気はきていたが、水道はなく山からの引き水であった。ちなみに、この水で冷やした瓜や西瓜、それに豆腐は絶品だった。バスがたまにとおる街道沿いだったが、裏にはすぐに畠や山が広がっている農村だった。この田舎の野山で、花を摘んだり、虫を捕ったり、沢山の思い出を作った。私の「心の古里」といえる大切なところである。今は、拓けてしまって、ボクがタマムシを捕ってもらった裏山には老人ホームが出来、セミ取りに熱中したミカン畑はゴルフ場になり、魚釣りや水遊びをした清流は、どぶ川と化してしまった。住んでいる人達には申し訳ないが、そこには私の古里はなくなってしまっている。しかし、記憶の底にある田舎の風景は、いつまでも緑にあふれる農村風景である。
十年ほど前に中国の地方都市へ旅行した。専門とする粘土鉱床を調査するためであったが、当時はまだ外国人に解放されていないところも多く、許可されていないところではバスから降りてはいけないなど制約も多かった。目的地の街では、戦後初めての日本人ということだったが、市の助役級の人が常に付き添って案内してくれた。体のいい監視付きだったわけである。その時に通った山里の小村は、まだ電灯もなく、薄汚れた粗末な家々と洟垂れ小僧が見受けられたが、戦後直後の日本の田舎の農村の原点を見る思いがあった。三年前にも、別の中国の山村に粘土鉱床を見に行った。絨毯が敷き詰められて、明るい電灯が煌々と輝く村長宅の客間には大型のテレビが備えられ、庭には衛星放送受信用の大型のパラボラアンテナが堂々と供えられていた。そこには、私の心の古里のような生活はもはや無かった。そして、親よりも遙かに美しく着飾った数人の子供達が遊んでいた。その子供の遊びにのみ、昔の田舎を思い出したのであった。
追記:その中国の村長は「セピオライト長者」(セピオライトは粘土の名前)と呼ばれているそうなので、特別なのかも知れない。しかし、最近の中国ではパラボラアンテナ、テレビ、バイク(自転車ではなく)、携帯電話は、普通の持ち物になっているようである。中国の開放政策はもう後戻りできないところまで行っているように思われる。
2002/08/25 18:47