少年期の思い出—その二、トンボ
TAKAちゃん
2002/09/14 17:48
最近、トンボの数が減ったように思う。以前には夏も後半になるとちょっとした広場には無数の赤トンボが群れ飛んでいた。いやトンボに限らず虫の数が減ったと思う。しかし、そうは言っても大学構内には、山の上ということもあって、そこそこ虫がいる。ボクが赴任した頃は、研究室の窓からキツツキや雉を見たこともあった。それにしても、我が学園グループの設置校は、ごく一部を除いて、どうして山の上にばかりあるのだろう。この話題は、いずれ書くとして、今回はトンボを初めとする昆虫類に関する思い出話を。
小学生時代のボクは、ご多分に漏れず昆虫採集に凝っていた。蝉の鳴き声で種類がわかるのは当たり前として、蝶、トンボ、蜂など、飛んでいるのを見ただけで名前を言い当てることが出来た。ボクが母の実家で生まれて、東京に戻って住んだのが世田谷区の赤堤であった。今では、家や学校で埋まって空き地もなくなっているが、当時はまだ水田や畠があり、牧場まであった。水田があるのだから、そこに水を引くための小川ももちろんあった。そのため、ボクにとって幸せなことであったが、かなり生き物の豊富な環境で育ったことになる。小学校から帰ると、いつもこのような場所に出かけては、虫を捕ったり、ドジョウを捕ったり、模型飛行機を飛ばしたりしてすごした。六年生になるまで、ほとんど家で勉強をやった記憶がない。宿題をしないで平気な質ではないので、きっとやったのだろうが、夏休みの課題以外にほとんど記憶にない。父母も大目に見るというか協力してくれた。コオイムシというのをご存じだろうか。体長2cm程度のコガネムシを少し平にしたような、黒褐色の水棲昆虫である。雌が雄の背中(翅の上)に卵を産み付けるため、雄は卵がかえるまで飛ぶことも出来ず、ひたすら卵を護るのである。誰ですか、身につまされるというのは。このコオイムシを捕ってきたことがある。母は水槽で飼うのを許してくれた。そして1ヶ月、水槽中は小さなコオイムシだらけになっていた。
そうだ、トンボの思い出だ。その家の近くの水田跡には沢山のトンボが集まってきた。その中に、もういなくなってしまったのか近頃はついぞ見た記憶がないギンヤンマがいた。そのギンヤンマは雄が圧倒的に多くて雌は仲間内でも貴重であった。まず雄を捕まえて糸に結び、それを飛ばして雌を誘う(本当は、雄に雌を軟派させるのであろうが)のである。ある日、やっとの事で雌のギンヤンマ(仲間内ではチャンと呼んでいた)を捕まえたのであるが、近所のガキ大将に取られてしまった。ボクは、泣きながら家に帰った。後にも先にも、ボクが悔しくて泣いたのはこの時だけだったと、後年母に聞かされた。ちなみに、ギンヤンマはかなり大きなトンボで、しっぽの付け根が美しい空色なのが雄、黄緑色なのが雌であった。
前回書いたが、ボクの母の実家は神奈川県の山奥で、毎年のように夏休みに遊びに行っては昆虫採集をしていた。母の実家は、戦前は小さいながらもその村落では一番の有力者であった。そこのお嬢さん(母のこと)が東京に嫁いでたまに帰郷するわけだから、一緒にいるボクは「都会の上品なお坊ちゃま」であって、みんなにちやほやされたのである。ここには、わが国最大のトンボであるオニヤンマがいた。何故かバスの走る街道を悠然と上り下りしていた。このオニヤンマ(地元では大山トンボ、もしくは大ヤンマと呼んでいた)の取り方が変わっていた。街道に面する障子を一斉に開けてしばらく待つ。すると、蚊を追いかけたオニヤンマが家の中に飛び込んでくる。その一瞬をとらえて障子を閉めるのである。その後、一家総出で箒やハタキ(これ、今では死語ですね)で追いつめてとらえるのである。ボクは、ここに行くたびにこれをやらせていた。このトンボが今も大学構内にいる。オニヤンマを見るたびに、子供の頃の昆虫採集を懐かしく思い出すのである。
母の実家の周辺は山であったので、沢山の昆虫がいた。そしていつもボクの昆虫採集の相手をしてくれたのが、母の末弟の叔父と向かいの家の‘テッちゃん’だった。‘テッちゃん’は東京土産のきれいなキャンディーが欲しいばっかりに、いつも手足のように昆虫採集を手伝ってくれた。釣りに行けば、こっそりとボクの釣り竿の針に、自分でつった鮠をかけてくれていた。そして、叔父はボクがタマムシが欲しいと言ったばかりに、裏庭の20mはあろうかというケヤキに上ってくれた。
その叔父は、数年前に急逝した。仕事熱心の一方で花作りや釣りの好きな気さくな叔父だった。ボクと10才ほどしか違わないこともあってか、一人っ子のボクを弟のようにかわいがってくれた。早すぎる死であった。ボクの母方の祖父はボクが生まれる直前に死んだ。従って、戦後のごたごたで大変な時期を、母のすぐ下の叔父が切り回していた。軍隊で苦労し、その後は小学校の教員を勤めていた厳しい、怖い叔父であった。しかし、ボクが生まれた直後は、毎日のように風呂に入れてくれていたそうである。何かの機会に一緒に飲むと「俺が風呂に入れてやると、湿疹で真っ赤な顔をして、ピーピー泣いていた」と何時も聞かされた。その、叔父が今年の一月になくなった。珍しく年賀状が来ないと思っていたが、年末から悪かったそうである。その叔父の葬儀で‘テッちゃん’に本当に久しぶりに会った。立派に成人して(自分の歳を考えたら、あたりまえだが)土地の習慣として、葬儀を取り仕切っていた。いいおじさんが二人、亡くなった叔父の思い出と、過ぎた昔の思い出を肴に、夜遅くまで杯を重ねた。父母ともに兄弟が少ない方ではなかった(母は七人、父は四人兄弟)が、ボクの子供の頃を知っている者が年ごとに減っていく。人生の宿命とはいいながら、人生の寂しさを感じさせる夜であった。
2002/09/14 17:48