初めての海外旅行
-ヨーロッパの思い出-
その1:神様出現?
TAKAちゃん
2002/11/18 18:02
FUJIsanが昨年の演奏旅行記をまとめて寄稿している。それを読んだある会員のお父様がこれまでの海外旅行記を書かれ、このボクも一部頂戴した。大変興味深く拝見して、ボクも何かまとめてみたくなった。ボクは、これまで本職の専門である鉱物学に関連した国際会議出席などのため、何回か外国出張(旅行、物見遊山?)に出かけたことがある。演奏旅行もあるにはあるが、回数としては少ない。これから数回に分けて、そのボク的な思い出を書いてみることにする。途中で、他の話題が混ざることもあるかも知れないが、お許しいただいて、出来るだけ音楽に関連した話題を織り交ぜて、気ままに書いていくことにしよう。なお、このボクでも、海外に行ったときにはメモ程度の日記(その日の行動と使ったお金くらいだが)は書いている。しかし、古いものはどこにしまったのか、見あたらないものもある。だから、記憶の底の方を何とか発掘してみることにしたい。
ボクが初めて海外に行ったのは1981年のことである。この年、イタリアのボローニャで国際粘土会議が開催され、これに参加するのが一番の目的であった。ただ、せっかくヨーロッパに行くのだから、少しゆっくり見てこようということになった。ボクの大学時代の先輩が数年間のドイツ留学を終えて大学院に復帰していたので、その先輩を中心にレンタカーでヨーロッパを見てこようということになった。さらに、イギリスに渡ってシェフィールドに留学中の後輩を訪ね、その後、その前年ボクの大学の今は亡きN先生の友人でボクの専門とも近いT先生(イギリス人で、N先生に頼まれて我が家に招待して、手作りのクラヴィコードを見せたことの縁で研究室を案内してくれることになっていた)の居られるアバディーンを回ってこようということになった。
この旅行は、まず先輩が先に渡独してレンタカーの手配を済ませ、フランクフルトで合流し、イギリスへ渡る。その後、フランスを縦断してイタリアに入り、ミラノの空港で後発の友人を乗せてボローニャの会議に参加する。ボクはそこで別れて巡検(鉱物や地質関係の国際会議では、会議の前後に周辺地の鉱物産地や面白い地質を見て回る小旅行が組まれているのが普通である)に参加して、その後一人で帰国する。先輩と友人は巡検には参加せずにドイツに帰り、レンタカーを返したあと、帰国する。というものであった。会議参加からあとの旅程では全てのホテルを予約しておいたが、それ以前の旅では適当に動いては夕方着いた街で宿を探すことにした。ボクはやや臆病なので心配であったが、ヨーロッパに来さえすればあとは面倒を見てやると、先輩が太鼓判を押してくれていた。
さて、パスポートのスタンプから見ると、伊丹空港を出発した(もちろん関西空港はまだ計画もなかった頃である)のが、8月の15日である。実は、ボクはそれまで飛行機に乗ったことがなかった。初めてのったのは、シンガポール航空のシンガポール行きであった。全て自費の旅行(もちろん校務出張ではあるが、研究費から旅費は出なかった)なので、格安の南回り便である。最初の難関はシンガポールの乗り継ぎであるが、何とか無事に済ませた。伊丹空港はもちろんであるが、ここまでの飛行機では乗客の多くは日本人で、日本語のアナウンスがあったので安心であった。しかし、これからは日本語のアナウンスはなく、周りにも日本人は見あたらなかった。本当に外国に来たという実感がわくとともに、一抹の不安がこみ上げてきた。しかし、もう大人になっていた(当たり前か)し、ヒグラシが鳴かなかったので大丈夫だった。当時の南回り便は、色々な空港に立ち寄り、そのつど乗降客があり、離陸後には機内食が出る。これには閉口した。終わりの頃には、ほとんど手を付けなくなっていた。昨今の直行便に比べ、時間が掛かり大変であるが、ほとんどの空港で待合室に出られるので、座り続けでない分だけ楽なのかも知れない。シンガポールを出ると、バンコク、デリー、バーレーンを経由して(もう1箇所あったような気もするが覚えていない)、最終目的地のフランクフルトへ向かう。さて、バーレーンまでは順調な飛行であった。バーレーンでは2時間ほど時間があったので、空港待合室に出て売店を見る。さすがに中東の国で、テレビや本で見るキンピカの食器やラクダの飾り物などが売られていた。出発が近づいて再び飛行機に戻ると、まもなく車に押されて搭乗ブリッジから離れ、エンジンを始動して滑走路へと向かう・・・・・・はずなのに、何故かなかなかエンジンが回らない。そのうち、ようやく動いたと思ったら、滑走路へ出たのではなく、再び搭乗口に戻ってしまった。待つことしばし、窓から見ると整備士らしき人影があらわれて、エンジンカバーを開けたりしている。待つことまたしばし、時間が掛かりそうだから、待合室に出ろとのアナウンス、があったらしい(英語で聞き取れなかったが、みんなが動き始めたのでそれとわかった)。待つことまたまたしばし、いや、かなり。駄目なので次の便で部品を取り寄せる、ついてはホテルに案内するからそこで休め、ということになった。この間、乗り合わせた日本人が数名いることがわかり、一緒に行動することになる。ドイツに留学するもの、イギリスでギターの勉強をするもの、仕事で出かける者、など、目的は様々であった。何かあったときには日本人に限らず同じ国の者が集まるようで、同国人のグループがいくつか出来ていた。ホテルに着いたあと、国内観光(バーレーンは小さい島国であるので、カンタンに国内一周が出来る)をさせてくれ、食事が出された。食事も終わろうかという頃、数時間後に出発できると告げられ、一斉に拍手がわいた。結局、19時間遅れでフランクフルトへ向かった。
フランクフルトに着いたのは、夜の2時過ぎで、ロビーに出たのは3時過ぎであった。ここには、先に来ている先輩が迎えに来ているはずであった。しかし、19時間も遅れ、いつ来るかもわからない飛行機を待っていてくれるとは思えなかった。待合室で夜明けを待って、電話をしてみようと思いながら、待合室に行った。すると、かたわらの席に座っていた人物が「ヨッ」といって小さく手を挙げる。見ると、先輩であった。その後には光背が輝いているように見えた。まさに、異国の地で見た神様であった。あとで聴くと、初めはその飛行機は「来ない」、次には「アムステルダムに行く」、さらには「ロンドン」、かなりしてから19時間遅れで到着するとわかったそうである。この時ほど、その先輩の存在を頼もしく、有り難く思ったことはなかった。
さて、これから、二人の神風珍道中の始まり、始まり・・・・・・・・。
蛇足:海外旅行の教訓1 主要連絡先を書いたメモを必ず持参すべし。そのメモは身近におくこと、よもやスーツケースに入れて預けてはならない。ボクが先輩に遅れを連絡できなかったのは、メモ帳をスーツケースに入れてしまったからだったことと、バーレーンから日本への電話が繋がらなかったことによるものであった。
2002/11/18 18:02