指揮者のつぶやき… 〜指揮者の寺子屋〜


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初めての海外旅行 -ヨーロッパの思い出-
その4:
さすが本場の音、そしてパレストリーナゆかりの地
TAKAちゃん

2003/02/08 00:21

 さて、ソーレムを離れた後、たしかロワール川添いの古城をいくつか見て、ニースに出た。そして、モナコを通り、ようやく本来の目的である国際会議の開催国であるイタリアへ入った。イタリアに入る直前の駐車場で、それまで後部座席においておいた荷物をすべてトランクに移し、車内には何も無いようにした。車上狙いやこそ泥の多いイタリアならではの対策だそうであった。まず、ミラノの空港に向かい後発のT氏を迎えた。そして、3人組となった我々はちょっとだけスイスに立ち寄った後、開催地のボローニャに到着した。ここまでの走行距離はおよそ1万キロであった。

 参加した国際会議は粘土に関するもので、会議に関しては特記することはないが、何とか無事に発表も終えることが出来た。この会議は4年毎に開催され、前回のアルゼンチンの会議などその後も何度か参加した。次回は2005年に日本での開催が決定しており、ボクは事務局長を務めることになっている。会議では毎日のように夕方にイベントがある。その一つに劇場でのコンサートがあった。ボローニャの近くには、ヴァイオリンの制作で有名なクレモナの町がある。このコンサートで聴いた弦楽器の音は澄みきった素晴らしいものであった。演奏も良かったのかも知れないが(この会議の事務局長も参加していたくらいだから、それほど名の通ったグループではないと思うが)、さすが本場の音と大いに感心した。楽器の良さだけではなく、乾燥気味の気候や風土が弦楽器に良く合っているのだろう。日本のような湿った気候は弦楽器には不向きだそうで、外国から来る楽団の弦楽器奏者は苦労するという話を聞いたことがある。逆に、管楽器には適度な湿り気が必要で喜ぶのだそうだ。会議の途中で1日自主休日を作り、フィレンツェに行くことができた。時間の関係で美術館に一つも寄れなかったのが残念であったが、街の雰囲気は堪能することができた。

 我々の地質学や鉱物学の国際会議では、会議の前後にその国の主要な地域の見学会が組まれている。この時、他の2人と分かれて、ボクは二度と行くことはないだろうと思って、シシリー南イタリアを回る10日間の見学会に一人で参加した。見学会といっても半分は観光である。まず、ミラノからシシリーのパレルモに飛んだ。ピサの斜塔の真上を飛んだのが印象に残っている。そこからは、マイクロバスでの旅である。朝の出発が8時頃、何カ所か見て昼食になる。イタリアでの昼食は充分に時間をかける。大抵は途中の町のしゃれたレストランでのフルコースである。前菜にパスタが多いときには2種類、メインは鹿やウサギなど日本ではめったに口にできないものも出た。ワインが二人に1本くらい出て、最後にはチーズとケーキと果物が出る本格的なものである。たっぷり2時間くらいかけて昼食が終わると、またバスの旅である。適度に揺られながら、英語の説明を聞いていると、必ずと言って良いほど瞼が重くなる。それでも初めのうちは理解しようと努力するのであるが、イタリア訛りの強い英語で、聞き取れない単語が出てくると後は子守歌状態となる。見学地に着くと下車して見学をして、その後はまた子守歌である。見学地では一同すべてが熱心に質問したり討論したりしながら、試料採取に熱中する。こんな旅だから、当然のように予定時刻から遙かに遅れて、ホテルに着くのは夜の9時頃になる。それから、またフルコースの夕食である。少し雑談をして部屋に戻ると12時を回っていることもしばしばである。部屋では、その日の記録を取り、試料を整理するので、寝るのは1時過ぎとなる。そして翌朝は6時過ぎには朝食となるので5時過ぎに起きることになる。こんな10日間で、終わりには胃腸が疲れ果てて食べられなくなってしまった。しかし、友人も多くできて楽しい旅ではあった。

 この見学会の最後はポンペイの遺跡見学で、ナポリで解散となった。ボクはその後ローマに出て、ローマ市内を3日ほど観光した。ローマはわが国で言えば京都のようなところで、市内の至る所に遺跡や博物館などの観光名所がある。特に印象に残っているのはヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂システィーナ礼拝堂と、パレストリーナにゆかりの2つの教会(サンタ・マリア・マジョーレ教会とサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ教会)を見たことである。ローマは、今後も機会があればゆっくりと観光してみたいところである。

 

 これが、初めての海外旅行であるヨーロッパの思い出の概略である。ローマからは,ふたたび南回りの便で、シンガポールを経由して帰国した。この当時、シンガポール航空では、シンガポールで一泊以上しないと帰れないようなダイヤとなっていた。ボクはシンガポールに2泊して観光を楽しんだ。宿は知人に紹介して予約してもらっていた安宿である。夜に到着する便なので、空港に着いたらまず電話で宿泊の確認をせよと言われていた。言葉が不自由なので心配だったが、近くの公衆電話から電話した。ところが何度かけても繋がらない。ボクは焦った。すると、電話機の下に電話帳があるのに気付いた。電話帳で見ると、局番が一桁多くなっていた。最近、番号が変わったらしかった。新しい番号にかけるとすぐに繋がった。なにやら盛んに話しかけてくる。予約がないようではなく、どうやら道案内をしてくれているらしい。行き方は事前に聴いていたので適当に返事をして、タクシーでホテルに向かった。シンガポールには中国系の人が多く、日本人とよく似た顔立ちである。それなのに皆流暢に英語をしゃべる。それが悔しかったが、街は大変きれいに整備されていて、楽しくすごすことが出来た。

 この旅の期間は1ヶ月を越えてしまった。これだけ長くわが国を離れ、それもレンタカーで気ままに旅をするなど、今となっては考えられないことである。若気の至りであった。このような旅を許してくれた勤務先と家族に感謝している。

 

旅の教訓4:外国語は英語ができれば何とかなると思っていたが、やはりその国の言葉は少しはしゃべれることが必要である。今はそんなことはないかも知れないが、フランスの田舎町やイタリアではレストランなどで英語が通じないところが多かった。ローマの横丁のレストランや、泊まっていた中級のホテルのレストランでも全く通じなかった。前者では手振りで隣席の人と同じものを注文し、わずかに覚えたてのイタリア語で白ワインと水を注文した。後者では、英語が通じない代わりに何と日本語のメニューが用意されていて、指一本で注文ができた。同様なことは、その後訪問した中国、ポーランド、アルゼンチンでも経験した


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