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出会い、であい、deai その1
oni

2002/03/02 10:38

 つくづく思うのだが出会いというものほど不思議かつ,大切なものはないのではないか。人との出会い,音楽との出会い…人それぞれでさまざまな出会いをしていると思うが,それらがその人その人の一生を常に左右しているといっても過言ではないと思う。一神教の絶対的な神の存在を信じる人ならそれは神が定められたことと感じるだろうし,私のような典型的な仏教文化の影響を色濃く受けている人(ただし私は神道なのだが)は「縁」というこれまた摩訶不思議なものをイメージするだろう。失礼,「出会い論」を展開しようというのではないのです。
 OPEがここまで来るのにいろんな出会いがあったことは今までに書いてきたとおりだが,自分が音楽(合唱)を始めるようになったのもある意味出会いの蓄積である。恥ずかしながら自分の生い立ちの一部を紹介しながら,その辺のお話を何回かに分けてさせていただこうと思う。ただここでいう出会いとは,人物との出会いとは限らない。ある曲であったり,ある事象であったり,生きてきた中で自分が音楽の方に向いていくにあたって関わりを持った事物すべてが対象だと思っていただきたい。

 とにかくハーモニカが嫌いだった。口に当てて横に滑らせながら吸ったり吐いたり,(あの感触は今でも思い出すたびに嫌になる)頭ではわかっているつもりでもどうもうまく音が出ないことにいらだちを感じていたのを覚えている。小学校1年生の音楽の時間のことである。おまけに先生はこともあろうに,階名読みまでさせた。「もう最低」とは言わなかったが,これで音楽劣等生は決定的だった。(だから今,小学校の教材からハーモニカははずされてるでしょ。あれは私がごねたから…というのはウソです)
 ただわが家はみんな歌好きで,私は小さい頃から歌好きの母や二人の姉の歌声を聞いて育った。おそらく母は,わたしがお腹の中にいる頃から歌ってくれていたのだろう。また父も一緒に風呂にはいると湯船の中でよく何か口ずさむのを聞いていた。学校では音楽落ちこぼれ,家に帰ると姉たちがNHKの「みんなのうた」を見ながらいろんな歌を楽しそうに歌うのを一緒に歌うわけでも無く横目で見てすごすような毎日であった。「何があんなに楽しいのか」…4人兄弟の「シータレ」(鹿児島弁で「末っ子」の意,「尻垂れ」が転じたと思われる)で鼻垂れ小僧の私はいつも不思議な気持ちでその光景を見ていた。
 それが3年生の頃だったか,新しもの好きの父がある日突然ステレオ(と呼んでいいのか,とにかくコンポーネントなんていい物じゃなかった)なる物を買い,続いて「世界名曲全集」とか言うタイトルのレコードを買ってきてくれた。その全集は,ある月は「ピアノ曲集」次の月は「管弦楽集」という風にジャンル別で月ごとに発行されるもので,毎月父はそれを持って帰ってくれるのだった。私は,ステレオを使うことが楽しくてついでにそれらを聴いていたのだが,歌好きが多いと言うだけでクラッシク音楽というものに触れることがほとんどないような地方の普通のサラリーマンの家庭に育った私は,聞き慣れないいろんな楽器の音色や響きに今風で言う「カルチャーショック」をうけたし,魅了されていた。とくに気に入ってレコード針がすり切れるほどに聞いていたのが「行進曲集」に入っていた「ラデッキー行進曲」「旧友」そして「星条旗よ永遠なれ」である。何となくわかるでしょ,バッハの平均律聞いて最初からいいなあと思うような小学校3年生がいたら気持ち悪いですよね
 ここから私の音楽に対するイメージはプラスに転じる。学校の音楽の時間は結構楽しい時間になっていき,歌を歌うことはもちろんリコーダーの演奏もうまくはなかったが楽しみながら取り組んでいたように思う。(だからリコーダーは今でも教材…「いい加減にしろ」というお声が聞こえそうですのでやめときます)
 で,合唱らしきものに出会うのが小学校高学年。私は今はテノールだが,小学生の時は声変わりしてないのに高い声が出にくくその分低いところが出るという変な子どもだった。だから授業中の部分2部合唱のところでは大抵メロディーじゃない方を担当させられた。普段姉たちの歌声を聞いたり,レコードを聴いていたおかげで音を重ねるときれいな響きがして素敵だなと感じるような耳は出来ていた。しかし,声を出して演奏するとなるとまだまだだった。当然主旋律の3度下というハモリの基本形でさえ歌える訳がない。でも「いつかはきれいに重ねたい」というような願いを持つようになったことがまた自分を合唱に近づけることになったのだろう。

 中学生になると,声変わりがあったと言いたいが,いつあったのかはわからないくらいだった。つまり声の音域は劇的に変わることはなかったのである。何故そうなったのかはわからず不思議に思っていたが,あるとき坂本先生から「変声期の時期に歌い続けているとテノールに,歌い続けていないとバスになるらしい」というお話を聞き,なるほどと思ったことである。というのも中学生当時の私は,歌謡曲からフォークソング,音楽の時間に習った曲,父親が家でうなっている懐メロや軍歌まで常に口ずさんでいるような,相変わらず変な少年だったのである。周囲からよく「うるさい」と言われたものである。でも,校内の合唱コンクールでは,クラスの中ではあてにされるようになり,音楽で自分が一目置かれることが不思議なような,でも気持ちがいいようなそんな思いが自信のようなものになっていった。
 この時期自分の音楽に対する姿勢を形成するのに大きな影響を与えるような出会いがあった。3年生の時に音楽を教えてくださった,N先生である。当時30代くらいで結婚されていない女性の先生だった。(と思う)当時では珍しく髪をおかっぱのようにして染めておられた(確か部分的にオレンジ色…)のと,いつもサングラスをかけておられたのが印象的だった。服装も変わっていて何となくボーイッシュだったような…。中学校の音楽の時間というとみんな息抜き気分で行くのが定番だし,それが女の先生ともなると元気のいい男子はなめてかかるようなことが多いようだが,N先生の前ではそんな連中もしおらしくなり,楽しんで授業を受ける,いろんな意味でスゴイ先生だった。テンポよく時にはゆったりと授業を進めポンポンと出す指示や叱責にこちらはたじたじとするのだが,その一方でいい部分はきちんと認めてくれる,そして,自分の好きな曲のレコードを持ってらっしゃい,みんなで聴きましょうと言ってくれる。当時はビートルズサイモンとガーファンクルカーペンターズシカゴ,日本では吉田拓郎井上陽水などが人気あったが,そういったレコードをゴンタな連中が競って持ってきてはみんなで聞いた。今はそれほどではないかもしれないが,当時は洋楽やフォークを聞くのは不良だとひどく言われたものである。そういった曲を音楽室のステレオでボリューム一杯にして聴かせてくれたN先生は何と太っ腹だったことか。「いいものはいい」と認めてくれるところが実に魅力的で,我々のような難しい世代の生徒達の心をしっかりつかんでいたのだろう。
 そんな中で隣のクラスでこんなことがあったと,そのクラスの友人が教えてくれた。そのクラスでは一人の生徒がサイモンとガーファンクルの「ボクサー」という曲のレコードを持ってきて,例によってみんなで聞いた。そしてN先生はこれまたいつものようにその曲がかかっている間ジャケットを読んでいた。曲が終わり,歌詞カードを手にしていた先生は,泣きながら静かに「この曲はとても悲しい歌なのよ。」と語ったというのだ。サイモンとガーファンクルの音楽には反体制的な歌が多いことは何となく知っていたが,何が「悲しい」のかわからず,ただ先生が「泣いた」と言うことに関心を持った。そして,音楽の持つ不思議な力を感じずにはいられなかった。また,それを感じ取り生徒の前で素直に感情を発露した先生のすばらしさ(自分たち生徒との心のつながりを大事にすることも含めて)に感動したものである。後日,「ボクサー」が社会の底辺で生きる人の日常の悲哀を歌った歌であることを知り,「悲しい」の意味が少しわかったような気がしたし,歳をとるに従って共感の度合いが高まったような気がする。音楽がただ美しいということで感動させること以外にも,その主張する内容で人の心を打つと言うこともある,そんなことをこの1件で学んだようだ。そして今私が先生と同じ仕事をしていることもあながちこの出会いと無縁ではないような気がする。

 以上が高校で合唱と出会うまでの私の音楽にまつわる体験談である。いろんな出会いを通して,音楽好きという点では誰にも負けないくらいの人間に育っていたのだと改めて強く思うし,意識のあるなしにかかわらずそういう方向に私を向けてくれた出会いの数々に感謝したい。


2002/03/02 10:38