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世界が違って見えるとき
oni

2002/06/28 18:06

 ある人権教育団体の発行する道徳副読本(いわゆる学校の道徳で使う教材文集)に掲載されている教材の一つに,「夕やけがうつくしい」という手紙文があった。活字ではなく,実に拙い手書きの文字で載せてある。
 それを書いた北代色さんは高知県の同和地区に生まれ,高齢になるまで文字を習得する機会を奪われていた。そんな中でようやく識字教室が地区に開設されそこに通うことで文字の読み書きをすることができるようになった。
 その喜びをお世話になった先生に出す手紙にしたためたものである。その一節にこんなくだりがある。

 夕やけを見てもあまりうつくしいと思わなかったけれど じをおぼえてほんとうにうつくしいと思うようになりました。

 ある実践研究会でこの教材を使った実践例が報告されたが,そのときに問題になったのが,
「じをおぼえて夕やけがうつくしい」
という心情を子どもたちにどう理解させるかという点だった。
 考えてみれば我々教師も子どもたちも文字はいつの間にか読み書きできるようになっていたわけで,色さんのような高齢になってからできるようになったわけでないから,教える側が実感できないことを指導しなければならないのである。
 私はそのとき以来この点が何か引っかかっていて,字を読み書きできてしまっている人間は色さんの思いに迫ることはできないのだろうか?と思っていた。が,ある時ふと思い出したのは何でもない出来事がきっかけだった。街を歩いていると,ふらふらと小学生くらいの子どもの自転車がこちらに向かって迫って来てばたんといかにも不器用な感じで倒れた。「ぼく,大丈夫?」と声を掛けると,うんとうなずいて立ち上がったのでホッとした。聞けば乗れるようになって間がないという。怖いけど,楽しいからどんどん乗ってしまう,ということを話してくれた。そして,自転車に乗っていると周りの様子が違って見えるというような意味のことを言うのである。確かに自分が乗り始めの頃も何が楽しいかというと,歩いているときに比べて幾分高い視点と(たかだか数十pのことではあるが)今まで遠いと思っていたところに早く行けるようになったことへの喜びで,何かそれまで見ていた景色とは同じはずなのに違って見える新鮮さがたまらず,怪我をしてもめげずに日が暮れるまで乗っていたような気がする。この「同じ景色なのに違って見える」というのが色さんの「夕やけがうつくしい」という感覚と通じるのではないかと感じたのである。

 そして今ひとつ,そうではないかなと思っているのが,楽譜の読み書きのことである。私は高校生の時にバイエルを独習で弾くことで楽譜が読めるようになった(ようである)。また同時期において始めた合唱を通して楽譜に書かれていることを声に出して再現できるようになった。つまり楽譜を介して自分の力で作曲した人と共通の音楽を共有できるのである。そして,仲間とアンサンブルも可能になった。(ただしこれは私の場合かなり簡単な曲に限られる。苦手な音程や,かなり複雑なリズム,頻繁に転調が繰り返されるなどの曲は私の限界を超えているのだ)この曲どんな響きがするのかな?ちょっと合わせてみようよ,というときに実際に合わせられるというのはとても楽しいことで,それまで楽譜が印刷された紙をただ音楽が紙面に表されているものと漠然と認識していたが,とてもかけがえのない価値を持ったものに思えるようになったものである。その楽譜が,ある日どこかで聞いて一度自分たちでもやってみたいと思った曲の楽譜であればなおさらのことである。たった1枚の紙から音楽が立体的に立ち上がっていくことに素直に驚きを覚えるとともに,立ち上げる力が自分にわずかではあるが備わったことに何か世界が広がったような感覚を覚えたものだし,今でも初見の曲が読めて合わせることができたりするとそんな気持ちになる。
 きっと色さんも,待望久しかった文字の読み書きの力を習得して,それまで何にも自分にとって意味を持たなかった街の看板やポスターが一つ一つ意味を持って立ち現れてきたのだろう。また遠くの友人と手紙をやりとりすることで,電話ではできない思いの伝達や気持ちの共有の手段としての文字のすばらしさも知っただろう。それらを通して「人間として生きている」という実感を感じたはずである。その延長上に夕焼けの美しさを感じる人間としての心のゆとり,いわゆる「文化」の一端を解するようになったのではないかという思いにようやく到達したのだがどうだろう。
 ついでながら,色さんのように差別によって文字を奪われていた人たちは単に経済的に不利益を被っていただけでなく,人間として文化的に生きる権利をも奪われていたということであり,そのことに驚きを通り越し憤りさえ感じてしまうのである。

「じをおぼえて夕やけがうつくしい」

 このような純粋な感覚を持ち続けたいと思うのは私だけだろうか。このような感覚を忘れずにいたら,文字や記譜法に限らず人間が作り上げてきた様々な文化を謙虚にかつ貪欲に学ぶことができるのだろうなと思うのである。高校進学率が100パーセントに近くなった現代,文字の読み書きする力を備えることは当たり前になっている。しかし,受け身の学習に慣れ,自ら学ぶということから逃避しコミュニケーションを拒否するような子どもたちが増えてきている,いや我々がそういう子を増やしてしまっているのも実態である。この詩は私たちが忘れかけた大事なことを示してくれているような気がしてならない。


2002/06/28 18:06