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緻密でせっかちな日本の私
oni

2005/07/17 15:12

  来年のサッカーワールドカップ世界大会行きを日本代表が見事に決めて,日本中が沸き立っている。私としては,出場が決まったくらいで大騒ぎするようなレベルのチームではなかろうし,それではいかんだろう,と言いたいが,この大会に関する日本代表チームの過去のいきさつを考えると,ちょっとでもサッカーに思い入れのある人なら,つい大喜びしてしまうのも無理からぬところかなとも思ってしまう。

 そこへくると私は,むしろオリンピックの方に興奮してしまう質のようである。最近は,次々回のオリンピックの開催地や競技種目のことで話題になっているようだが,昨年夏に開かれたアテネオリンピックは,結構,関連番組を楽しんで見ていたように思う。

 思えば,東京オリンピックが小学校入学の年で,近所のお兄ちゃんたちと棒の先に手作りのいろんな国の旗をつけて野っぱらの地面に差し,陸上競技よろしく,跳んだりはねたりして選手になった気分になっていた。
 以来,メキシコのサッカーチームの活躍,ミュンヘンの男子バレーボールチームの金メダルなど,自分が得するわけでも何でもないのに,いつもなにかに興奮して応援していた。
 なんといってもオリンピックでは選手たちの意気込みや勝ったときの興奮の度合いが他の世界大会とはまるで違うことがなんとなく伝わって来,それでこちらも興奮してしまっているのだ。
 アテネの大会では日本人選手の活躍が著しかったので,素直に喜んで見ていたが,別の意味でいろいろ考えさせられることもあった。

 というのも,アテネの大会が始まる数ヶ月前の報道では,まだ主会場ができあがっていないとか,輸送手段である電車が開通していないとか,まるで信じられないといったニュアンスで伝えられていたのだが,私はこれには何となくホッとしたのである。こんなのんびりした人々が世界の平和の祭典と言われる大きなイベントを持とうとしている,と。
 全く日本ではこんなことは考えられないし,そんな状態だったら主催者側の現場責任者は周囲から責められ,とっくに精神疾患に冒されて入院してるか,自殺しているだろう。
 でもアテネではそんなことなかったようだし,市民も,大会が始まる直前まで,ほとんどのひとが「自分たちの町で百何年ぶりに平和の祭典が開かれるんだ」という意識が低かったようであり,このことも私をホッとさせている。
 で,結果どうだったかというと,大成功である。もちろん,実際にはいろんな不備(あくまで日本人から見れば,だが)もあったろうが,あれだけやれれば御の字だろう。あれだけ意識の低かった市民も,大会が始まると,熱心に自国他国問わず,歓迎し,応援していたとのことである。
 北京やロンドンではその辺の事情がどうなるのかを見るのも興味深いことと感じている昨今だ。

 

 先述の報道のニュアンスからも見て取れるように,我々日本人は,用意をかなり前から周到にして計画通りに寸分違わずにやらなければすまないところがあるようだ。
 中学校の時の技術の先生が,当時技能オリンピックにおいて日本はかなりの成績を収めていたが,その理由としてまず最初に日本チームはきちんとした工程表を作るからだ,と話してくれたのを思い出す。
 日本人は,ある意味結果如何より,技能オリンピックにおける工程表作りのような,そういうことがきちんとできることに価値を認めていないだろうか。
 結果オーライなんて,不謹慎なこととされるし,結果がよくっても,振り返れば途中であそこが何秒遅れた,あそこが何センチ短かったと,事細かに反省点をほじくり出す。そして,そういうことができないアバウトな人間は無能と評され,外される。

 スポーツも成功するためには,周到な準備と戦略が必要とされる。体力や運動能力だけでは世界を征することはできない。
 イチロー選手が,あの体格で160試合からの過酷なMLBの公式戦を乗り切りながら,過去80数年破られなかった記録を突破したのは,彼のストイックなまでの健康管理の緻密さがその天才性と相俟ったからこそだろう。
 また,アテネオリンピックではあんなに小さな体の野口選手があの過酷な暑さと厳しい坂道の続くコースで,最後までスピードを失わず,絶妙のタイミングで飛び出し,逃げ切ったのは,事前の準備と戦略がいかに優れていたかを物語っている。
 水泳の北島選手や柔道の田村選手,野村選手にしても然りである。

 私の好きなアメフットは,「準備のスポーツ」と言われるほど,事前の諸準備が勝敗を左右するウェイトが大きいスポーツである。
 そのスポーツのワールドカップが過去2回開かれているが,ともにチャンピオンはなんと日本である。(知らなかったでしょ,どうせマイナーですからぁっ。)
 でも,「緻密でせっかち」な日本人であることを知っていれば,いかにフィジカル面で劣っていても(実際はこの面でもかなり他国と互角になりつつあるようだ。MLBの松井秀樹選手の活躍を見ればわかるだろう)このスポーツで世界一になることは決して不思議なことではないだろう。

 国内の学生フットボールをリードしてきた関西学院大のチームなどは,この点を彼らなりに「昇華する」域までもっていった感があり,「あんなプレーまで準備するかぁ」と呆れることさえあるほどである。
 かれらは,京都大学が台頭してくるまでの長い間,関西では負けなしだった。
 しかし,体格的に勝る関東のチームにうち勝つために,戦略という準備を充実すること(他にもシステムというこれまた緻密さを要求されるものを重視したという面もあるが)に活路を見いだし,それで互角近くまでに持っていけるという確証をつかんだようだ。
 いみじくもそのことは,このスポーツにおける最も重要な点であり,このスポーツを特徴づける点である。関西学院はその歴史の中でそのことを再確認する歩みを辿ったということだ。単にフィジカル面だけを強化し,個人の能力に頼ったプレー主体のチームはあくまで邪道であり,アメフット風ラグビーをやっているにすぎないのである。
 関西学院はここ数年,京都大学,立命館大学というライバルを同じ関西リーグ内に持ち,彼らとの覇権争いは激烈を極め,このスポーツのおもしろさを如何なく見せてくれている。この点関西やその近辺以外の地区の人たちは大変不幸と言わざるを得ない。(別に構わんて?でしょうね,どうせ,マイナーですからぁっ!)


 いけない,ついアメフットの話になると熱を帯びて,話がそれてしまう。
 「緻密でせっかち」このことを極めることで日本は世界に伍してきたと思う。
 あれだけ国土を焼け野が原にされても立ち直り,とりあえず経済や物質の世界ではトップに躍り出たのだ。そのことは日本人の自信になったし,それだけに,価値あることとみんなが思う。
 学校は,その急先鋒として,はきはきして,よく気のつく,用意周到にできるきっちりした子を育てるようにしてきた。(ということはこれができない子は,ダメの刻印を押された。)
 確かに競い合う場面では,この緻密さというのは勝つためのかなり重要なファクターであるだろう。競技スポーツは競い合うのが建て前だから,緻密さを常に要求したって何ら問題ない。
 でも,それが普段の生活の中で,学校の生活の場で常に,しかも,皆に等しく要求されるとしたらどうだろう。


 そのことが,どこかで人間らしいゆとりのある生活と無縁なところへ連れて行ったような気がする。
 そのひずみが今わたしの勤めている学校という現場の日本のあちこちで噴出しているのだ。

 人間が機械とは違うのは,機械が単に彼が頼りとするエネルギーを定期的に充填しさえすれば動き続けるのに対し,人間は定期的に食事さえとっていれば正常でありつづけるかというと決してそうではないということだ。
 人間は目に見えない大切なものをやりとりしながら生きている。それがコミュニケーションというものであったり,愛情というものであったりする。
 母親が子供に毎日食事を作り与えるがその表情が無表情で何もしゃべらなかったらその子はどうなるだろうか。
 そんな親がいるのか,と思われるかもしれないが,それが決して架空の話ではないし,そんなにまれな話でもないのである。
 子供にどう接すればいいのかわからない。自分の生んだ子なのに,抱きしめることができない,笑顔を見せられない。という親が現実に少なからずいるのである。
 何かの広告で「抱きしめる−というコミュニケーション」というのがあったがまさにあれができないのである。
 すると子供はどうなるか,体は確かに成長するが,精神的に自立できず,病的な行動に走るようになるのである。

 最近,どの学校でも少なからず見かける引きこもりやADHDもこういったことが原因になっている場合があると言われている。
 また,反社会的行動に走るのは幼少期に何か満たされない部分があった人に多いようだ。
 これらはすでに脳科学的に研究が進んでおり,母親の愛情が必要な時期に注がれないと精神の成長に必要な物質の分泌がなされずそうなってしまうのだそうだ。
 聖書が言っている意味とは違うが,まさに「人はパンによってのみ生きるにあらず」である。

 しかし,それはひとえに母親や,保護者の責任にはできない。
 これだけ現在多くの事例が見られるのは,親たちも育つ家庭で精神的に満たされない状況が社会の構造としてすでに存在したと考えられるからだ。
 これだけの歪みを作ってしまった日本の社会全体が今後償っていくべきことだろう。
 でもそんな弱い者たちに目を向けるような国になるのだろうか。
 定率減税制廃止,先行き不透明な年金問題,大企業においてもリストラ,学校は自由選択制(公教育なのに)・・・とこの期に及んでも,金持ち有利のことばかりである。こんなことを見ていると,ため息が出てしまう。


 これはわたしの勝手な解釈だが,戦後の日本はめざましい復興を遂げた一方で大事なものを忘れてきたと言われるが,それはこうしたことをいっているのだろう。「緻密でせっかち」でよかったのだろうか。


 地中海のマルタという島国で暮らす,日本人の精神科医の某氏の言葉を思い出す。
「まあ,当地の人たちはみんな時間にはルーズ,昨日自分が言ったことも忘れてるって具合。でもそれは,些末なことの場合,ほんとに大事なことだけにはきちっとしているから,日本育ちのわたしでも慣れればそんなにいらいらしなくなるんだ。」


 さて,自分はどうかというと,ギリシアのオリンピックの準備の件でホッとしたと書いていることからもお分かりのように,生来のんびり屋で(変なところで神経質だが)おおざっぱ。
 子供の来るお役所に勤めておりますが,お上からのお達示など聞くと胃が痛くなるという人間です。
 え?,「緻密さ」が醍醐味のスポーツが好きなんじゃないの?と言われるかもしれないが,それは一種の憧憬からくるものと思ってください。人間,自分にないものにはあこがれますから。
 演奏会のタイムテーブルなどもわたしが作ったのは,とてもアバウトです。
 一見緻密に見えたとしても,それは仮の姿。どこか抜けています。
 だって練習の時に何か必ず忘れてますから。このところ立て続けにOPEの活動上必要な書類をなくしてるし・・・。
 で,それを気にしなければいいのですが,いけないのがそうした抜けていることで失敗したことを引きずるところ。これが,どうでもいいことでも結構へこんだりする。
 OPEの場合は同好の集まりなので,皆が優しく認めてくれるからいいが,・・・。
 ああ,マルタに生まれりゃよかった。でもあっちにはOPEはないしなあ・・・。


2005/07/17 15:12