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キャッチボール すっど
oni

2006/01/02 12:34

 「フィールド オブ ドリームス」というアメリカ映画をご存じだろうか?私はあの最後の場面になると,なぜか得も言われぬ気持ちになり,泣けてしまう。主人公が,神の啓示を受けて自分のトウモロコシ畑をつぶして作った球場で,かつてMLBの好選手であった父親の亡霊とキャッチボールをするという場面なのだが,自分の野球に対する思い入れに加え,お互いに理解し合えないうちに死に別れた父子の気持ちを思うからなのだろうか,その辺よくわからないが,思い出すだけで泣けてくるのである。とくにケビンコスナー扮する主人公が,外野のトウモロコシ畑に帰って行く名選手の亡霊たちの中,一人遅れて帰ろうとする父親の背中に向かってはにかみがちに
"Daddy"
と呼びかけ,二人はおもむろにキャッチボールを始める。
いかにもくつろいだゆったりしたフォームで。
ただそれだけなのだが,このシーンを思い出すと,もういけない・・・。
その後,カメラは二人のその様子から次第に引いてゆき,夕暮れ迫る野球場,そしてそれを取り囲む(アメリカ中西部ならどこにでもあるらしい)広大なトウモロコシ畑の風景を上空から撮していく・・・。
次第に暗く,小さくなり,二人の姿はもう見えない。見えないが心には何かが残る。


 今年とてもうれしかったことがある。小3の息子が野球に興味をもちだし,二人でキャッチボールらしいことができるようになったことだ。息子用のグラブやバットを買うときはとても浮き立つような気持ちであった。
思えばわたしも小学校のいつの頃からだったか,父親とキャッチボールをしていたことをよく覚えている。
さほど裕福でもなかったので子供用の野球用具など買ってもらえなかったが,父親は「大は小を兼ねる」ということだったのだろう大人用のキャッチャーミットを買ってきて,それまで使っていた大人用グラブとで一応キャッチボール可能の環境を整えてくれた。父が,自転車で仕事から帰ってくると,「ゆう,行っど」の声かけがあり,家のすぐ前にある専売公社のたばこ乾燥工場の通用門前にある少し広いスペースに行くのだった。そこが私たちのブルペンだったのである。

 今思えば,まだ小学生だった私相手では全力で投げられなかったからだろうか,私の目から見た父はどう見ても軟投派で,7色の変化球を投げ分けるまさに魔術師のようだった。飄々と投げる父の球を受けていると,いろんな変化をしてくるのでよく受け損なってあちこちにボールを当て痛かったのを覚えているが,それでも懲りずに,毎日汗まみれになってやったのは,ボールを投げ,受けることそのこと自体への楽しさに加えて,父親との大事なコミュニケーションの時間を無意識に楽しんでいたのかもしれない。

 その父も今は,米寿を過ぎ,老人介護施設に入っている。鹿児島に帰るたびに息子を連れて施設に行くが,物忘れが激しく,10分と空けず自分の孫を指して「こいゃ,だぃじゃったけ(これはだれだったかな)?」と,宣うので,苦笑しながら,「おいん(俺の)息子の,隼人じゃっがね」と,教えなければならない。私は郷里を離れてから長く経つので,強健だった父が衰えていく様子をつぶさに見ていたわけではない。それだけに帰省の都度「え,いつの間に?」と浦島太郎のような感覚にとらわれるのだ。その間,同居していた兄一家や少し離れている姉夫婦には亡き母のことも含めてかなり苦労させてきたというのに,のんきなものである。(無責任とも言える)そんな後ろめたさもあったのだろう,帰省する回数も減りがちだったが,最近もっと,頻繁に帰らなければ,と思うようになった。その理由として,「息子とのキャッチボール開始」があるのだ。孫の姿を見せると同時に「あなたの孫が息子である私とキャッチボールをするようになったのですよ」と,そのことだけでも伝えたくなったのである。で,そうした。すると,「ああ,おまえとようやったどねぇ(よくやってたよなあ),あん乾燥場んとこいで(あの乾燥場のところで)・・・」と実にいい顔をして返してくれた。以後数回同じことをしているが,いつも同じようにいい顔をしてくれる。

 他愛もないことだが,これが父子というものなのかもしれない。理屈ではない,何かよくわからないが,うれしかったり,泣けてきたり。父と子だからこそ,感じることがあると思う。私を含めて日本の男性の多くは父親とのキャッチボールに何とも言えない思い出や郷愁をもっているようだ。人によっては,キャッチボール以外のものに感じているかもしれない。ただそれが何であっても,「父と息子」という場合には,理屈を越えた,また「母と娘」の場合とはかなりニュアンスの違ったものを感じてしまう。冒頭の映画「フィールド オブ ドリームス」の最後の場面に説明不可能な感慨をもつのもそのせいかもしれない。

 今,確かに息子とのキャッチボールできることへの喜びを感じているのだが,少しつらいのは,仕事からの帰りが遅くなり,自分が子供のときのように平日ではとても親子の時間がもてないことである。思えばあのころは,今よりゆったりしていた。こんなところにも親子でのつながりが薄れていき,親の愛情を十分に感じられない子供たちが増えている現代の物理的かつ社会的制限の世知辛さを感じてならない。 


2006/01/02 12:34