[バックナンバー]


「演奏会の録音」
FUJIsan

2002/01/20 10:48

 「ウィリアム・テルの放った矢はリンゴにはついにあたらない」というロジックをご存じだろうか。こういうものです。ウィリアム・テルの弓を離れた矢はリンゴまでも距離の中間点を必ず通る。そこを通過すると今度はそのさらに中間を通る。つまりどこまで進んでもその先には距離が残る。だから当たらないというのです。このロジックにはもちろん大事な要素が抜けているので間違いなんですが、何が違っているのか、暇だったら考えてみてください。決して考えすぎないように。

 さて、この話を思い出したのは、今ひそかに持ち上がっている「The Complete Works of OPE」(OPE大全集)のことを考えていたからです。OPEの演奏会は旧OPE時代の1979年あたりからのものも含めて、全てデジタル録音されており(デジタル録音のない時代のものもデジタルでダビングしてあり)、私が保管しています。これらはDAT(デジタル・オーディオ・テープ)に記録されており、私自身で少しずつCDに作り直しています。このたび大全集を作るということになったとは言うものの、それは手作業で行われることになるのです。もちろん業者に頼んだらやってくれますが、制作枚数を考えると1枚につき数千円はかかるというものを誰が買うのかということになります。単純計算してもOPEの最新の演奏会が第17回。一回の演奏会はは二枚組になるので34枚。一枚5000円かかったら17万円ですよ。結局は個人が仕事の終わったあとに少しずつ作業して作っていくということになるのです。一回の演奏会は正味時間で約100分。マスターを作るのには、設定や調整や微妙な作業がいるので、その三倍以上かかると思います。さらにそこから制作枚数分を作る時間ということになると、本当にたいへんな時間と労力を要する(もちろん技術と、製作する機械を買うお金だって個人負担です)わけです。

 この大全集の発案者は私ではなく、大きい体を折り曲げて自らをいかに小さい車に詰め込めるかという人体実験継続中であるテノールのあのお方ですが(あの車は、2200キロで98万円だった私の前のワゴン車よりはるかに高いはず。キログラム単価はフォアグラなみ?)、忙しくて演奏会の打ち上げにも来られない彼が仕事の合間を縫って取り組んでいることについては、心から敬意を表したいと思っています。でもおそらく全集として日の目を見るには一年やそこらではむずかしいでしょう。となると、次の演奏会が開かれる。もう一年といっているうちにまた新たな演奏会が・・・。と、こうして大全集がウィリアム・テルの矢になってしまうのではないかと思ったのです。私としては、切りのいいところで第20回演奏会あたりまでに完成してくれれば十分だと思っています。でもあと三年しかないぞ。

 さて、CD作成についてもこのようにたいへんなのだが、その音源づくり、つまり録音についてもたくさんの苦労があった。以前は40キロもあるオープンリールのデッキを持ち込んで録音したこともあったが、ここ15年くらいはソニーの屋外録音用DATを手に入れて使用している。まったくOPEのためにしか使わない機械である。マイクは以前はテクニクスを使っていたが最近はソニーのECM959である。そしてここ最近はこのDATのほかに、ソニーのMDをバッテリードライブでテクニクスのマイクをつないでサブとして録っている。つまり二つの録音を取るようにしている。片方は電源をとり、片方はバッテリードライブにしているというのは、もし何かで電気が来なくなってももう片方は生きるためである。全て私の機械でやってきた。

 一番ヒヤヒヤしたのは第15回演奏会、バッハの「ヨハネ受難曲」を演奏したときである。あの録音だけは取り損ねてはならないと、いつもはスイッチを入れるだけまで自分でセットしておき、スイッチを入れるだけの係の人を頼んだりしていたのを、この時は録音のよくわかる人に頼み、機械もいつものものに加えてもう一台DATを回すことにして3台で録音するという万全の体制だった。もちろん全部別電源。これで完全のはずだった。しかしうまくいかないときはどうやってもうまくいかないのだ。

 結果的にいうと、3台ともみんな駄目だった。1台はさっきまで動いていたのに直前で動かなくなってしまい、1台は途中で止まってしまった。そして唯一生き残った機械は、左右の音量が勝手に時々変わってしまっていた。この最後の機械での録音も、最終曲の最後の音が消えて、指揮者が手を下ろし、観客が最初の拍手をしようと息を吸ったというタイミングで音が切れていた。拍手は入っていない。あと五秒早く止まっていたら、あのヨハネの完全な録音は何もなかったのだった。

 私はこの惨状を見て、それでも一応最後まで音が残っていたことに感謝し、この最後の機械での録音をもとに何とか聞けるものを作り上げようとした。つまりは左右のバランスが極端に悪いのだ。サーッというヒスノイズが全くないデジタル録音であるだけに、音の小さい方を機械的に最大にまで持ち上げ、それに合わせて音の大きい方を絞っていき、左右バランスのとれる音量を設定した。そしてよく聞いておいて、音のバランスの崩れるタイミングを計ってそこで記録しておいた音量バランスまで一気に手作業で調整する。これを何度かやって全体を通して左右バランスの気にならないマスターを作った。あとは全体のレベルを合わせてマスターCDをつくり、さらに複製のCDを作った。これができたときは本当にうれしかった。あきらめないで作り上げてよかったと思った。聞かれてみてそのあたりがわからなかったら私の細工がうまくいったということなのだ。

 幸い、今回そして次回18回演奏会の開かれる市民文化ホールでは、DATとMDの両方で録音を取ってくれる。私の録音係もそろそろ引退したいと思っているが、どうなるだろうか。


2002/01/20 10:48