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「監督って」 
FUJIsan

2002/02/03 19:20

 アメリカの高等学校の、国際交流担当の先生からEメールが届いた。彼は私の勤める学校(姉妹校)への交換留学の係であり、私も同じ仕事をしていることもあって、もはや仕事を越えた友人である。さてもらったメールのタイトルは「Happy Friday」とあり、そこから想像できる程度の他愛のないものだった。「今、クラスでテストをしている。ちょっと時間があるから君に書いてみた。」その学校には各教室の教員用デスクに、インターネットにつながったマッキントッシュG3が据え付けられている。暇に任せてキーボードをたたいていたようだ。ふとした時に僕を思いだしてくれてことは嬉しいが、それにしても日本でもアメリカでも同じことをするのだなあとと、おかしくなった。私も今は期末試験で数学の試験監督中であり、この文案を考えている。もっとも私の手元にはコンピューターはないが。

 「試験監督」は英語ではどう言うのかと、アメリカから来日したばかりの英会話教師に尋ねてみたことがあった。赴任したばかりの彼に、この学校での仕事を教えている最中のことだった。彼は私に逆にこう尋ねた。「テスト中、教師がすることなんてあるのか。いったい何をするのか。」私は返答に困った。彼の発想ではテスト中に教師がすることなんて何もない、テストは生徒が自分のために受けているのであるだけなのだ、こう言いたかったのだろう。一緒になって訳語を探してみたところ、どうやらproctoringあたりだろうということになった。supervisingというのもあてはまるようだ。しかし一番ぴったりだったのはwatch over students、つまり「生徒を監視する」という意味だ。「試験監督」って何なのかの答えがそのまま訳語になってしまった。

 スポーツの世界にはかならず「監督」がいる。私はサッカーの試合を見るのが好きなのだが、日本代表の試合の最中、監督名がスーパーインポーズで出るのを見ると、国際発信される番組なので英語で「coach Phillippe Troussier」と出る。日本語では「トルシエ監督」というが、国際的には「トルシエコーチ」なのである。どうも試合の時の監督は、作戦指示など試合の流れを総括するのが任務であり、これを「コーチ」と称するのが国際的慣習らしい。すると日本のプロ野球のコーチやヘッドコーチはどうなるのか。

 ただ、これと試験監督は全く違う。生徒のために作戦を立ててやったり、ましてや指示したりするなんて、これは想像して見るとおかしい。選手交代なんて考えるともっとおかしい。「君はこの問題解けないから退場!選手交代!」なんて。

 冗談はさておき、試験監督はつまりは「見張り」である。もちろん途中で具合が悪くなった者への対応とか、印刷不鮮明だと言う生徒には指示を出すとか、するべきことはいくつかある。しかし最大の仕事はカンニングをしないかどうかの監視である。カンニングは現場でないとつかまえられないから少々疲れる。私自身、カンニング見つけて本人も認め、親を呼んだことが何度かあるが、「カンニングしたことは悪いだろうが、子供にそれを認めさせたのは子供にとって苦痛だったはずだから、教師が悪い」といって逆上した父親がいた。その人はまあ見事に怒り狂ったが、世の中にはこういう人もいる。

 さて、「音楽監督」ということになるとどうなのだろうか。この「監督」という言葉にはたいへん重い責任を感じる。監視ではないにしても、試合の流れを作っていく責任者といったニュアンスはあるように思う。その意味では「音楽監督」は「コーチ」なのだろう。時には「試験監督」みたいなタイプが指導する団体もあるのだろうし、コーチだって「鬼コーチ」なんてのがいて「このフレーズ、うまく歌えなかったらグランド十周」なんて言うとか。でもこうやって(グランドは走らないかもしれないが)鬼コーチが鍛えてきた団は確かにある面では上達するだろう。このあたり、安易なアマチュアリズムが音楽の技術的向上心を妨げるというのはよくあることである。私たちが主に行っている合唱の世界でも「ただ来て自分の思うように歌うだけ」とか「大きい声を出したもの勝ち」とかいうのを聞くことがある。

 OPEでは「鬼コーチ」もいない(団長が「鬼」を自称しているだけか)けれど「ただ歌うだけ」「大きい声勝ち」ということもありませんね。ポリフォニー音楽の持つバランス感覚が、団を上品(!)にまとめ上げているのです。(え、誰が上品なんだって?)ただこのバランス感覚というものは実は非常に大切なものであって、単に私たちの歌の世界だけでなく、人の生き方全般に亘るものでもあると思うのです。確か世界史で「中世ヨーロッパの個人主義」なんて習ったように思うのですが、ヨーロッパだって、いや個人主義の権化のように言われているアメリカでだって、周りの人々との調和にはずいぶん気を遣った上で自己主張している姿がはっきり見えます。その点を見ていない日本人が国際社会の中でわがまま視されているのが、現在の問題点なのではないかと思います。人が社会の中で生きてゆく基本がポリフォニー音楽の中にはあるということを、僕は時々感じています。「いかに他のパートを聞くか」がわれわれの練習中の最大課題ですよね。「自分がいかに歌えるか」は二番目のはずです。

 一、二がこうならそのあとは?三、四がなくて五には「指揮者のつまらない冗談に受けて笑ってあげること」かな。冗談の受けなかった指揮者の孤独感は募るものです。もしかすると「鬼コーチ」に変身し、グランド十周を命じるかもしれません。みなさん、来週はジャージで練習に参加してください?!


2002/02/03 19:20