[バックナンバー]


「自転車について」 
FUJIsan

2002/02/06 17:56

 私のコーナーにwinding roadと名付けたのは、私が自転車に乗るからだとは電脳部部長補佐TAKA-C氏の計らいだが、その通り私には自転車という趣味がある。
 これはなかなか理解されない趣味だ。音楽ならもう少しわかってもらいやすい。と書いてみたが、考えてみれば「趣味は音楽です」というと流行のポップスと思われ、「クラシックです」というとなぜか最近はマーラーだと思われ、「バロックです」というと相変わらずヴィヴァルディの四季と思われ、「合唱」というとやはり第九になってしまうのだから、やはり私のやっていることはどれをとっても秘密結社のようなことなのかもしれない。

 自転車の趣味というのは本当に理解されない。私のやっている自転車趣味を正確に表現してみると、1960年代のフランスのツーリング用自転車をいろいろに調べ、また当時の部品を手に入れてそれを使って組み立てた自転車で実際にサイクリングに出かける、というものである。なぜ1960年代のフランスに限定するかというと、このころにサイクリング車の性能も向上し、形の上でも定着して美しい自転車がたくさん生まれた時代だからだ。とりわけフランスは当時ツーリング車の世界では他国を一歩も二歩もリードする国だった。もっともこの世界にはフランスものをやっていても70年代を中心にやっている者、80年代をやっている者などがちゃんといる。90年代になるとマウンテンバイクの時代になってきて、私のやっているような自転車は急速に衰退し絶滅してしまうので、年代で言うとこの辺までである。また同じ時代でもレース用車の多いイタリアをやっている者もいるし、山が少ないということで全く違った形の自転車が発達するイギリスをやっている者もいる。それに日本のものをやっている者もいる。
 さまざまである。私はその中ではフランスもの専門ということになっている。

 仮にサイクリングですということでわかってくれそうな人がいても、どこそこまでいったとかいう遠くに行くための手段のように思われたり、冒険談を望まれたり、でなければ貧乏旅行の話になってしまったりということもあるので、なかなか人に話する勇気を持てない。私のやっているのは、自分で設計して、部品を集めて、自分で組み立てた一台の乗り心地を楽しむというものだから、学生時代はともかく最近はそう遠くにも行かないし、冒険もしないし、またそういった年に数回のためにふだんから何台かをいつも整備しておくのだからむしろ贅沢な趣味だと思っている。

 時折私は自転車専門雑誌「ニューサイクリング」に寄稿している。(どこに出ているかは、どれかの検索エンジンで私のフルネームをいれて検索してみてください。)少し前に書いた原稿の中で、なぜ自分が自転車をやっているのかをひとしきり考えたことがあった。私は東京で育った。自転車趣味は東京で始めた。東京はやはり自然に触れることが少なく、特に雑踏のなかで勤務する人が多くて、休日に自然に触れるために自転車をやっている人は多かった。特に私が大学生の時に住んでいた世田谷には多かった。岡山に来たら同好の士はほとんどいなくて、以来二十年以上も岡山に自転車仲間はいない。全く孤独な楽しみになった。走るときもいつも一人。それでもやめなかったのはなぜか。私はその原稿の中で、自転車を通してものを見ているとそこに人間が見えてくるからだと書いた。私はそこが面白いのだ。

 前述の通り私の自転車仲間ということになれば、自転車はたいがい数台は持っており、みんな自分で設計して、自分で部品を手に入れ、自分で組み立てる。部品入手といってもそんな部品を売っている店はほとんどないし(現在日本に数軒のみ)、あってもひどく高価になっている。多くは人脈で入手する。そうすると一台の自転車の中にその人の考えが見えてくるのだ。組付けの方法を見ても何を考えているのか見えてくる。またいかにその自転車を扱っているか、バッグはどのようなものをどのように使っているか、といったことになるともっとよく見えてくる。さらに自転車は自分の力だけで走らせなければならないものだ。他の人は力を貸してやることができない。だから誰かと一緒に走るとその走り方から、体力はもちろん、思っていることや感じていることまでわかってくることもある。何度か車輪を並べるとずいぶんいろんなことがわかってくる。これは同時に自分も見せているということである。自分の自転車や走りを見て、自分の感じていることや、もしかすると自分でも気づいていないことまで他の人に知られてしまうということでもある。もちろんそういう関係になれる充実感もある。ふだん一緒に走ることはなくても、雑誌に載った知り合いの様子などから、その人の最近が見えてきたりする。人間が見えるのだ。

 この話、何かに似ているなと思ったら合唱も同じなのではないかと思うのだ。かつてある集まりで、合唱をされているという老婦人と話することがあった。その人は「ちょっとくらい違うことを歌ってもいいんですよ。とにかく大きい声を出すとすっきりしますね。大勢いるんだから間違ったってわかりゃしない。ねえ。」と相づちを求めるのだが、私は決して「そうですね」とは言わないので嫌な顔をされてしまった。大きい声を出して発散?とんでもない。私の合唱は緊張の連続だ。真剣そのものだ。もう「ハーモニーを楽しむ」なんていう気になれない。もちろん他の人といっしょでなければ成り立たない性格を持つ音楽なのだから、共生という、人間としての大きなテーマの具現であるのはよくわかっているつもりだが、それ以上のものまで見えてくるのが私たちの合唱だろう。そして他者が見えてくるのは、同時に自分も見られているということであり、自分の醜さ未熟さまでさらけ出さないと歌えないと言うことであり、そう思えなければ、団が自分のものにはならないとも思う。

 自分をさらけ出せる喜び。自分を感じてもらえる喜び。こうしてこそ団が自分のものに、自分が団のものになっていく。始めから団があってそれに付いていくかどうかなのではないはず。実際に団を作っていっているのはあなたなのである。


2002/02/06 17:56