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「夢が叶うこと」 
FUJIsan

2002/05/09 13:32

 いつかやりたい。いつかなりたい。いつかほしい。いつか…。
 願いはさまざまでも、こうやって「いつかは…」と思う気持ちは誰にもあるだろう。願う気持ちは美しい。しかしそれはなかなか簡単にかなうものではないことも同時に人は知っている。だからこそ、かなったときの喜びも大きいのだろう。簡単にかなうことは却って不幸せなことなのだとよく思う。

 卑近な例から挙げてみる。「いちご牛乳」ってご存じかなあ。例のいちご風味のピンクの牛乳です。あれは確か僕が中学校の時にできた。友達が「おいしいぜ」と教えてくれ、牛乳屋さん(こんな店知らないでしょう)の店頭で飲んだときにはおいしくて感激した。あの頃いくらしたのかなあ。とにかく滅多に飲めないものだった。毎週土曜日にはブラスバンドの練習をしていたからお昼御飯のお金を親からもらっていた。そのお金が浮いたときだけ飲んでいた。ところが今、そんなものコンビニにいけばいつでも手に入る。しかも100円という金額はすぐに出せる金額だ。だからたまに買って飲むが、ちっとも感激はしない。当時の僕と今の僕のどちらの喜びが大きかったかは言うまでもない。

 かつては目の前にあって、ほしがりさえすればすぐに手に入ったのに、あとになってほしがってもなかなか手に入らないものというのも、たくさんある。抽象的かもしれないが私たちの人生って、そういうものなのではないかと思ったりする。高校生を教えていて、進路について考えさせるときによくこう思う。親は「何の道にでも進ませたい」といっているのに、本人は「大学なんかどこでもいい」とか「勉強は嫌だから働く」なんて平気で言っている。もったいないなと思いながらも、時期が来ればきっと後悔するなと考える。何のことはない、自分だってそうだった。学部を出るときに「大学院に」という声だってあったのに、そのときは「はやく教師になって自分の力を試したい」と考えていた。だから学部卒業と同時に教師になったのだが、結局あとでもう一度「勉強しよう」という気になったときにずいぶん大変だった。修士を持っていれば開けそうだった道も、学士だから無理だったということもあった。ただ、これもまた人生。何かが見えたときから始めていかなければならないのも人生なのだ。だからいつも「今」は出発点である。積み重ねてきたものは人によって違うが、その「現在」から出発していくという点ではみんな同じなのだ。みんな平等だ。

 ある人が若い頃からずっとやってみたかった道があった。若い頃は、いつかできると楽観していた。ところが年を経るにつれ、いつか家族ができ、周囲のしがらみが増えるにつれてだんだんとしようにもできなくなっていた。しかし気持ちの中ではいつかできると思っていた。その時期が来れば、と時期を待つような気になっていた。
 ところが「時期」なんて待っていても来やしない。それどころかますますやりにくくなっていく。そんなあるとき、一つの小さなきっかけを得る。ささやかなきっかけであったが、そのときに「今これを逃したらもう一生できないかもしれない」と感じてそのきっかけをもとに、人を頼りにして始めてみた。やりたかった道だ。面白くないはずはない。待っていたらできなかったのが、一歩進んでみたらできた。これは喜びであると同時に、発見でもあった。いつも「今」は、そこにいて自分を待ってくれている。その「今」を頼りにして自分が歩みを進めていくか、ただ相手がやってきてくれるのを待っているだけか。これによって全く人生も変わってしまうのだ。「今」が見えにくくなっているときもある。たまにはっきり見えたりするときもある。その機会を逃さないことこそ、生きていくことの意味なのではないだろうか。いつも願っていれば、その機会を失することはなく、必ずかなう。「夢はかなう」のだ。

「現在」はいつも出発点。そして夢は叶うものなのだ。


2002/05/09 13:32