[バックナンバー]


「車中で想う」 
FUJIsan

2002/06/30 17:38

 自宅から職場まで、自動車で通勤している。片道約40分の道のりを毎日走らせているので、毎日正味1時間半近く自動車内にいることになる。かつて電車通勤していたこともあるが、そのころは車内で本ばかり読んでいた。運転中は本が読めないから音楽を聴くばかりである。

 去年買ったこの車には六枚のCDを切り替えられる装置が付いている。ここのところずっと毎日聞いているのはバッハの「マタイ受難曲」(リヒター、ミュンヘンバッハ合唱団)とチェンバロ・ソロ曲集(グスタフ・レオンハルト)である。念のため書き添えておくが、私がクラシックしか聴かないと思いこんでいる方が意外に多いらしいのであるが、私の車に積んでいる六枚のうちにはほかに「マンハッタン・ジャズ・クインテット・ライヴ」「タペストリー」(キャロル・キング)もある。ジャズは大好きだし、70年代のロックやポピュラーも、やはり当時高校から大学生だった私としては外せない。

 さて、リヒターの「マタイ」とレオンハルトのチェンバロのうち、ここ数日は特にレオンハルトを聴いている。朝も夕も、静かなチェンバロのソロである。3月の終わり頃から個人的に心が落ち着かないことが多く、何かに心慰められないかといろいろな本を読んだり、音楽を聴いたりを頻繁にやっている。私は気持ちがテレビやコンピューターゲームに行くことはないので、本と音楽にひたすら没入してしまうことになる。
 しばらくは、心が寂しくて落ち着かないのなら人の声の入った音楽がいいのではないかと思い、マタイをずっと聴いていた。他者のために自らを失わせるという究極の愛の姿がこの作品にはこのうえなく美しい旋律の中で見事に歌われており、これはこれで随分慰められた。しかし、ここ数日はなぜかチェンバロ・ソロに、もっと心が向かっている。

 かつて「ジャズ喫茶」と銘打った喫茶店が全国的に多くあった時代があった。岡山にも柳川交差点の裏に「シャイン」という店があったし、シンフォニービルができる以前の同所地下には「エルソール」という店があった。1960〜70年代という、自分が年齢的にのめり込みきれなかったころに隆盛を見たタイプの店だったので、80年代になって岡山に移り住んでから、却って雰囲気を追体験するために行っていたのかもしれない。要するにジャズが大きな音でなっている薄暗い空間でコーヒーを飲むのである。今の喫茶店と決定的に違うのは、おしゃべりをしてはいけないのである。客がしゃべっていると店員が来て注意される。

 ところがこういう店には「ヴォーカルタイム」と呼ばれる時間がある。昼間の客が少ない時間に2〜3時間、静かなジャズヴォーカルがかかる。この時間には、自慢のオーディオ装置も吠えない。そしてこの時間には客がおしゃべりしていいのである。はじめは私は「歌声をバックにしておしゃべりをするのでは、声がぶつかってしまい、しゃべりにくいんじゃないか」と思っていたが、実際はそうではなく、なぜかこれが合うのである。不思議なのだが、楽器の音だけの場合よりも、人の声でうたわれている時の方が話し声にマッチする。
 思うに、じっと自分の心を追求しているときには、楽器の音色はその心をさらに深め、純化してくれるのではないだろうか。そして逆に人の声は聴く者の心を温め、柔らかくしてくれるのではないだろうか。心が柔らかくなったとき、傍らに心許せる人がいれば、つい話をしたくなるのでないだろうか。

 考えてみれば最近ずっと車内では考え事ばかりしている。そんなときに、レオンハルトのチェンバロは、心の奥底にスーッと入り込んでいき、考えの中で固まりゆく私をさらに深めたり、また意外なフレーズで心を慰めてくれたりする。本当に音楽に心慰められていると実感する。アコースティック楽器の持つ不思議な魔力が、人の心に作用するものがあるような気がしてならない。


2002/06/30 17:38