【続・北京見聞録】
<序>

 かれこれ(こんなキザな台詞は、私には似合わないなぁ)中国から帰国して半年近くになるのであるが、あちらで中国語を使って生活していたなんて夢のような気がしてくる今日この頃である。今回は題名を偽ってしまうが、洛陽・西安・蘇州・上海について書いてみたいと思う。

<其ノ一>

 洛陽の白馬寺は、仏教をやったことのある人には(否、中哲生なら当然)必修の名称である。つまり、中国における仏教の発祥の地なのである。彼の昔、後漢の頃、白馬に乗った王子様よろしく、僧が西の方からやって来て、時の皇帝・明帝が彼らのために建立したのであるとかいう話は、『後漢書・西域伝』に見える。
 この寺の山門の外に白馬がいて、一枚何百元とかいう暴利で写真を撮ってやるという中国人が沢山いて追っかけられてしまった。その白馬が明帝の時の話に出てくる白馬なら、千元出してもいいのだが、そんな訳ないな。
 龍門って、確か司馬遷の生まれたとこだよなぁと思いつつ、国際旅社のガイドさんに借りた真っ赤な傘をさして、モノトーンの風景の中に立っていた私を、龍門の石窟たちはせせら笑っていた。目の前は伊河という川が雨の中を悠久と流れ、それにかかる龍門橋は、向こう岸が見えなくて、モノトーンというよりは歴史色という感じがたまらなくて、その中を右往左往する真っ赤な私は、始皇帝に穴埋めにされそうなレーガン大統領のような(何のこっちゃ)場違いを演じてしまっていた。
 この石窟の前、つまり川の対岸は、やはり山になっていて、これは白居易の墓なのだ。白居易と白楽天が同一人物だって高校の頃は知らなかった私も、今ではこんなに立派になって墓参りをしています。
 白居易の有名な詩って何だったっけとぶつぶつ言いながら、そうだ『長恨歌』だと叫んだ私を、仲間は無視してくれた。つい数分前まで私は、『離騒』だったっけと思い悩んでいたのであった。折角思い出したのに。

<其ノ二>

 駅に降りるとそこは城壁の前。好きな女の子の前でドキドキしている少年のように私の胸は高鳴った。
 城壁の内側は白かった。地面から1メートルくらいは白くないので、人の足だけが白い朝の中で太極拳をしていた。宿舎に着くまで心の中で、ワァーとイイナァこの感じという二語を繰り返していた。百年河清を待つようなこの白い霧。映画『FOGS』(誰も知らないかな)みたいな感じと言ったら、余りにもこの歴史の重みは伝えられないし、富士山とかの高地の朝は、これに比べたらモヤだから、ただの霧じゃなくて、中国四千年の伝統のエネルギーの気体タイプのエキス入りの霧だ。
 例の兵馬俑の少し離れたところに、秦始皇陵があって、小高い丘になっている。断わっておくが、何もないただの丘だ。でもこの周りを掘ると色々な物が出てきそうだ(実際、お宝が出て来るのだろうと思う)からたまらない。でもやっぱりただの丘で、周りは見事な田園風景である。
 碑林は、今思うと結構良かった。白文の十三経(白文なのは当然か)を手で触ってみたが、知っている章句では音読したりした。大きな字から小さな字まで、丸文字から角文字まで、どれか一つ持って帰りたい。そういえば、拓本を作っているところ見たのが、百聞は千聞に如かずじゃなくて、一見に如かずのよい勉強になった。
 大雁塔って、三蔵法師ゆかりの寺(大慈恩寺)にあるけれど、ただの塔なんだと思う。でも上まで登ると西安が見渡せて、やはりここどもワァーとなる。しかし、崩れてしまいそうな気がした。巴金の『長生塔』のように。
 西安は、あの霧のせいなのか、とっても好きにならせてくれた。西安に比べたら北京なんて、まだまだ青い。だって周王朝の昔からだもんね。

<其ノ三>

 寒山拾得って、わざわざ蘇州の寒山寺まで来たのだから知っているよねと思ったら大間違い。私は、「寒山拾得」っていう言葉しか知らなかったのさ。
 寒山も拾得も人の名前で、本当に二人なのか一人なのか、それとももっと大勢の人の総称なのか謎が多いけど、風狂な人らしい。この人は、唐の人です。それからこの寺は、例の「月落烏啼霜満天」の句で有名だったのは知っていたけど。
 虎丘っていうのが蘇州にあって、呉王闔廬の塚なのだそうだ。この時は、霧雨が降っていて写真が撮りにくいなあ(カメラが濡れるから)と思いながら、上海でのガイドさんに上海語を習いながら見学しました。どうも天気が悪かったから、ぼんやりとした印象しか残っていないのが残念である。
 ところで、蘇州は、庭園が有名で、中国の四大名園のうち「拙攻園」と「留園」があるのだけれど、時間がなくて全く見学出来ませんでした。結局見たのは、北寺塔、寒山寺と虎丘だけです。上海から列車で一時間もあれば着けるのに、マイクロバスで行ったから四時間近くかかってしまった。
 蘇州の運河は、余り見られなかったけど、水の都という印象は薄く、敢て水に拘われば雨かな、という具合です。蘇州って、みんなが言う程じゃないなぁと思ったのは、他ならぬあの雨のせいでしょう。因みに、このツアー中は、最後の三月二十六日を除くと、ずっーと雨でした。洛陽では、それが却って良かったんだけど……。西安では、割と晴れていたなぁ。

<其ノ四>

 上海は丸一日南京路を歩いただけである。だから、ガイドブックに載っているような見どころへは全く行っていないと言っても過言ではない。
 ところで、この時は大阪空港利用の仲間は、帰国してしまっていて(二十六日の朝、宿舎を発ちました)、残るは私と横浜の女の子一名の二人きりで。朝食を食べると二人でバスに乗って南京路まで行き、上海一と言われる繁華街を散策しました。買物をして、食事をして、大流行の肝炎に恐怖して、てな具合でした。
 締めくくりに、和平飯店(中国では、飯店、賓館と言ったらホテルのこと。このホテルは、上海でもベストスリーにランクされる程の高級ホテルです)の北楼七階だったか八階だったかのレストラン(中華は飽きたので洋食の)で、上海の黄浦江を行き交う船と、黄昏から夜の帳が降りる街を見下ろしながらワインで乾杯して、食事をして……。バックには、ピアノが生演奏でショパンを奏でていた、と言うより叩いていたと言う方が正しいかな。窓からは大時計が見えていて、これがライトで輝いていた。
 この時計が三度目の時を告げ、そろそろ戻ろうということになり、タクシーを頼んで宿舎へ帰った。

<結語>

 上海で一緒だった子は、横浜の子だから、上海の港の風景が横浜みたいだと言っていた。私は私で、陸の方のゴチック風の重々しい建物が銀座とか日本橋辺りに似ていると言って、二人でお互いに帰国したら確かめに行くと言い合っていた。
 バンドと言うところが川沿いにあって、これは公園なんだけど、やたらとカップルが多くて、何となく居づらくて、目の遣り場に困ってしまった。あっちのアベックは、必要以上にベタベタしていたのが印象的であった。

<註釈>

 白馬寺の白馬とは、作り物の白馬ではなく、山門の脇の方で飼われていた本物の馬のことです。

<今回もある蛇足>

 白馬寺の前で飼われていた何頭もの馬たちは、自分たちがどんなに由緒のある寺院の門前で、どれほどセコイ商売に利用されているかなど知る由もないだろう。
 しかし大学で中国のことを話していて、ある先生もこのような暴利としか言いようのない中国人のしたたかな商売に何度も遭遇したということでした。
 また、名勝旧跡へ行くと、小学生くらいの女の子が寄って来て、自分で作った折り紙細工のような物を1元とかで売りに来ます。凄まじい根性だなぁと感心していると、瞬く間に取り囲まれてしまいます。みなさん、中国へ行くことがありましたら、「換銭」と共に、この手の商売には十分ご注意下さい。でも、気が向いたら一つ買ってみたら……。
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