信長の野望日記2 りょう99@笠原良太

信長の野望 嵐世記 信長編 byりょう99

2002年6月21日金曜日

1560年。俺は信長になった。
桶狭間で今川義元を破り天下とりに挑むところだ。
愛知で国固めをする。

1561年。西静岡の徳川家康と同盟を組む。

1562年。岐阜の斉藤の家臣竹中半兵衛をやっとみかたにつけ、
徳川家康と同盟軍を組んで岐阜に攻め込む。
斉藤の稲葉山城を落とす寸前、家康の武将が来て城を落とした。
稲葉山城は家康の城になり岐阜は家康が攻略してしまった。
やられた。単独で攻め込めば良かった。あとのまつり。

1563年。西静岡と岐阜を支配している家康に市姫をやり姻戚関係を結ぶ。
東の西静岡、北の岐阜を家康に守らせ愛知にわずかな武将を残し三重の北畠を全軍で、
攻略する作戦だ。でもやはり岐阜がよかった。かなり未練がある。


1564年。偶然にも三重で地震があり北畠の武将が負傷しているスキに、
三重にのりこむ。


1565年。三重の3城を攻略して愛知、三重で6城になった。
家康の国、西静岡、岐阜はたびたび一揆がおこっているが大丈夫だろうか。。
明智光秀を他の国からひきぬきにかかっているがなかなかひきぬけない。
ひけぬけたら俺、信長は謀反されて殺されてしまうのだろうか。。。

2002年6月22日土曜日


1566年。明智光秀はどうやってもひきぬけないのであきらめる。
家康の西静岡、岐阜でたびたび一揆がおこり家康が滅びてしまった。
同盟国がなくなってしまった。
しかしすぐ長野、山梨の武田信玄と姻戚関係とむすぶことができた。
これで岐阜を安心して攻められる。
しかしまだ戦闘武将がたりない。
たびたび武田信玄と上杉謙信が北長野の川中島の辺りで戦闘をくりひろげている。
戦闘武将確保と上杉謙信の力を弱めるため、上杉から武将をひきぬきにかかる。

1567年。上杉謙信が南長野の武田信玄を攻略したが手薄になった北長野を
山梨から武田信玄がすぐ取り返す。
岐阜の隣が上杉謙信領になってしまったのは考えものだ。
戦闘力143の上杉謙信も南長野にいる。戦いたくはない。
一揆がおこって手薄になっている岐阜を手堅く簡単に攻略した。
これで愛知、三重、岐阜で9城。

1568年。愛知、三重、岐阜で三カ国になり強い武将がたりないので、
いろんな国から戦闘武将をひきぬきにかかる。結構武将が充実してきた。

1569年。山が動いた。南長野の上杉謙信が北長野の武田信玄領に攻め込んだ。
そのすきに山梨の武田軍と南長野を攻める。
武田信玄には申し訳ないが南長野の3城を落とさせてもらった。
岐阜、愛知、三重、南長野で城が12城になる。
しかし上杉謙信は新潟の方でまだ絶大な勢力がある。
武田の城はもう山梨に1城、北長野に1城の2城しかない。
同盟国の武田が攻め込まれたら救援部隊を送って助け上杉謙信の防波堤にする作戦だ。

1570年。滋賀で群雄が割拠して入り乱れてるすきをついて滋賀を占領した。
岐阜、愛知、三重、南長野、滋賀で15城になる。

1571年。他国から強い武将をひきぬき15城で安定したかにみえた。

1572年。室町幕府により信長討伐令がだされた。
北長野の武田はとっくに敗北してたびかさなる上杉軍との戦いで疲弊して、
あげくのはてに北長野の上杉と東静岡の今川同盟軍によって南長野は占領された。
南長野の城を落としたのは3城とも今川軍だ。
今川とも友好度は低いが強力な上杉謙信軍の防波堤になってくれればいいなと思っていたが、
やはり信長討伐令のためか四面楚歌におちいった。
まわり中から戦いをいどまれる。
やはりこのへんが限界なのか。。。

1573年。1974年。なんとか戦闘にあけくれながらももちこたえている。

1575年。静岡の徳川家康を第二軍団長にして委任したら西静岡を、
あっというまに攻略した。これはいいぞ。
滋賀の羽柴秀吉を第三軍団長にして委任して、
三重の滝川一益を第四軍団長にして委任した。
あっというまに秀吉が福井の朝倉を攻略し滅ぼした。
滝川が北奈良を攻略した。城が18城くらいになった。
また喜んだのもつかのまだった。
家康が愛知、西静岡で謀反。。。
秀吉が滋賀、福井で謀反。。。
軍団長は織田一族にしてればよかったのかな。。
でも織田一族にはあまり優秀な人はいないいからたぶん攻略できなかったと思う。。。
秀吉や家康に姫でもやってたら謀反されなかったのかな。。。