りょうの「項羽と劉邦」読書記録 りょう99@笠原良太

下から書いてます


 

■2009年1月26日
「項羽と劉邦」 下巻  司馬遼太郎著 新潮文庫

関中に退き、また新たな兵士をもらった劉邦はまた項羽に戦いを挑んだ。
劉邦は項羽と戦えば必ず負けた。
韓信は項羽と劉邦が戦っているすきに北方で勢力を拡大した。
劉邦は韓信からたびたび兵士をもらう。
ついに劉邦は北方の韓信のもとへ身一つで逃げ韓信の兵士の大部分をもらった。
また項羽に戦いを挑むがとてもかなわないので穀倉に籠城した。
そして別働隊が項羽の補給路をゲリラ戦で襲いまくった。
韓信は北方で勢力をほこり斉王となり心理的に項羽を圧迫した。
劉邦の城は落ちない。食料もたっぷりある。
項羽の軍は食料がなくなり飢餓をおぼえた。
ついに双方和睦することになった。
しかし項羽が引き上げると劉邦は和睦を破棄し項羽軍を追撃した。
それでも劉邦は負けて小城に籠城した。
そこへ韓信軍30万がやってきて項羽軍を包囲した。
項羽の耳に楚の歌が聞こえてきた。四面ことごとく楚歌だった。
項羽の地元は楚であり、こうも我が兵が劉邦に味方したと最後をさとった。
項羽は囲みを破った。河がある。この河を渡れば楚である。船もある。
しかし項羽は自分だけ身一つで楚の国には帰れぬと河を渡らず討たれた。

劉邦が和睦を破って項羽を追撃したのはちょっと気分が悪い。

   

■2009年1月25日
「項羽と劉邦」 中巻  司馬遼太郎著 新潮文庫

懐王はいった。「最初に関中に入った者を関中王にするであろう」っと。
関中に入るには、函谷関を破らねばならなかった。
項羽は秦の正規軍と戦い破りながら函谷関をめざした。
劉邦は張良の進言により函谷関を通らず南側の武関から項羽より先に関中に入った。
劉邦は関中から目と鼻の先の秦の都、咸陽をおとした。
またも張良の進言により略奪などはしなかった。
劉邦は関中、咸陽の長老などからも関中王になってほしいといわれ、
うかれあがって密かに項羽がやってくる函谷関を閉ざしてしまった。
それに怒った項羽は函谷関を破り、明朝、劉邦軍に総攻撃をかけようとした。
項羽軍は10万くらいで劉邦軍は3万くらいだろうか。
劉邦は、鴻門(こうもん)の会で項羽にわびて命はなんとか助かった。
しかし劉邦は巴蜀と漢中(関中ではない)の地を与えられそこの王に封じられた。
巴蜀は道が険阻で罪人が送られる所で二度と劉邦はそこから出てこれないと思われた。
項羽は秦の首都咸陽で略奪をほしいままにした。それが戦国時代の唯一の楽しみであったのだ。
項羽は秦の兵士20万人を穴埋めにし、その家族からも恨まれていた。
また項羽は関中に未練もなく楚の近くの彭城に帰っていった。
関中ではまた劉邦で出てくるのを望んでいた。そして劉邦は出てきた。
この少し前から韓信が総指揮をとる将軍として劉邦についている。
韓信は項羽についていたのだが項羽の護身兵としかつかわれなかったので劉邦のもとへきた。
劉邦は関中を出て項羽の留守だった彭城を56万の兵でおとした。
ところが項羽軍は3万で彭城を奪還した。56万の兵が3万の項羽軍に敗れたのである。項羽の強さはハンパじゃない。
劉邦は滎陽(けいよう)城に籠城した。
この頃、項羽軍だった黥布(げいふ)が劉邦についた。
1年くらい籠城して劉邦はまた関中へ逃げた。関中では簫何(しょうか)がうまく治めている。

前に書いたのとほとんど同じ。。。

  

■2009年1月23日
「項羽と劉邦」 上巻(全3巻) 司馬遼太郎著 新潮文庫

紀元前3世紀、中国では戦国時代が続いていたが秦の始皇帝が中国を統一する。
始めて皇帝となったので始皇帝である。
始皇帝は過酷な税と労役を民にかした。
万里の長城、住居阿房宮、始皇帝の陵墓などの過酷な労役だった。
男子を労役にとられると畑は荒れ、税は払えず悪循環だった。
また人数がそろってなかったり期限におくれたりすると死罪になった。
亭長(警察署長?)をしていた劉邦も労働者を引率して現場に向かったが、労働者が逃げてしまい死罪になるので野に隠れてしまった。

始皇帝は自分の権威を広げようと各地を巡幸した。
始皇帝を見た劉邦はこう思った。 大丈夫、当ニ此ノ如クナルベキナリ。男はこうなきゃだめだ。
始皇帝を見た項羽はこう思った。 彼取ッテ代ルベキナリ
始皇帝を殺せば自分が皇帝になれると思う者が多かったらしい。
そしてその巡幸のおり、始皇帝は突然死んだ。

そうして始皇帝は死ぬと各地で反乱がおきた。
楚の名族出身の項梁、項羽も兵を挙げ、劉邦もこの機に応じて兵を挙げた。項梁は項羽の叔父である。
劉邦は項梁の配下についた。
しかし項梁はまもなく秦の官軍に殺されてしまう。

楚王の血をひいている懐王はいった。「最初に関中に入ったものを関中王にするであろう」っと。
項羽は主力を率い、秦の主力にあたった。項羽は勝ち秦の降兵20万人を穴埋めにした。くちべらしのためでもある。
同族同士の虐殺は世界的にもめずらしくこれほどのものは他になかったらしい。

一方、囮専門の劉邦のことはあまり書いてないのだけれど関中にむかっている。

 

 


2005年5月18日
「項羽と劉邦」 下巻 司馬遼太郎著 新潮文庫

一気読みしました。

劉邦は関中に逃げた。関中では簫何(しょうか)が後方支援をうまくやっておさめている。
劉邦はまた新たな兵とともに関中を出て項羽に戦いをいどんだ。
しかし項羽は圧倒的な強さである。
またひどく敗れた劉邦であった。
韓信は別働隊として北方で勢力を拡大している。
劉邦は韓信の方へのがれ韓信に兵をもらいまた項羽とたたかう。劉邦は戦えば必ずまけた。
韓信は項羽と劉邦が戦っているすきに北方で勢力を拡大して斉王となり第三勢力を築く。
戦いつかれた両軍は和睦して両軍撤退することになった。
項羽は撤退したが劉邦はその和議をやぶって項羽を追撃した。
項羽は怒ってとって返して劉邦をやぶった。劉邦は小城に籠城した。
そこへ韓信軍30万がやってきて項羽軍を包囲した。また劉邦の味方もかけつけてきた。
項羽に味方するものは一人もいなかった。
項羽のこもる城外から楚の歌がきこえてきた。四面ことごとく楚歌であった。
項羽は、わが兵がこうもおびただしく漢に味方したかっと最後をさとった。
項羽は囲みを破って逃げ延びようとしたがとうとう最後となった。
戦えば必ず負けた劉邦が最後の一戦に勝って天下をとったのである。

 

2005年5月18日
「項羽と劉邦」 中巻 司馬遼太郎著 新潮文庫

楚王の血をひいている懐王はいった。「最初に関中に入った者を関中王にするであろう」
劉邦は軍師張良のはたらきなどにより先に関中に入ることができた。
劉邦は関中王きどりであった。
そして後から来る項羽をふせごうと函谷関(かんこくかん)を閉ざしてしまった。
しかし後から来た項羽は函谷関をやぶり関中に殺到した。
そして劉邦は鴻門の会で項羽にわびて、命だけは助かった。
劉邦は蜀の地に送られることになった。当時蜀の地は罪人が送られるトコロで山も険しくもう二度と劉邦は蜀の地から出てくることはできないと思われた。
項羽は関中で略奪をほしいままにして故郷の方へ帰っていった。ホウジョウを根拠地とした。
項羽は略奪もしたし、投降した20万人の秦の兵を生きながら穴埋めにしたりした。
劉邦は関中を領有しても略奪もなにもしなかった。
秦の本拠地だった関中は項羽を恨み、劉邦がまた出てくることを期待した。
このころ韓信は項羽の護衛兵程度にしか用いられなかったので劉邦の配下となり全軍の指揮をまかされる。

そして劉邦はまた蜀から関中に出てきた。
各地の兵を吸収しながら項羽のホウジョウをめざした。ホウジョウについたときには劉邦の兵はなんと56万人にもなっていた。
悪逆非道の項羽につくものは少なかったのである。
劉邦の徳により兵が集まってくるのだった。
しかし56万の劉邦の兵は、項羽の兵3万にやぶれた。
項羽は並の強さではなかった。三国志だったら呂布なみの強さである。
劉邦は逃げに逃げた。ケイヨウ城で1年くらい籠城したが項羽にやぶられまた逃げた。
項羽の配下だった黥布(げいふ)はこのころ劉邦についている。

 

2005年5月15日
「項羽と劉邦」 上巻(全3巻) 司馬遼太郎著 新潮文庫

2千年ほど前の中国の物語である。
劉邦の子孫が三国志の劉備玄徳ということかもしれない。

戦国時代が続いたが秦の始皇帝が中国を統一した。
始皇帝は過酷な労働を民にしいた。万里の長城などの土木事業。
ために始皇帝が生きているうちか死んでからか各地で反乱がおきた。
そのなかに項羽や劉邦がいた。
始皇帝は各地を巡幸したが、始皇帝を見た劉邦はこう思った。
大丈夫、当にかくの如くなるべきなり。(男はこうなきゃだめだ)
項羽はこう思った。彼取って代るべきなり。
楚王の血をひいている懐王はいった。「最初に関中に入った者を関中王にするであろう」 関中が秦の本拠地である。
項羽と劉邦は同じ軍に属していた。項羽の陣に劉邦が加わっているような感じであった。
項羽は秦の本軍と戦い、劉邦は別働隊として関中をめざした。
劉邦は囮(おとり)専門であった。誰も劉邦が先に関中に入れるとは思っていない。