下から書いてます
2008年12月
■2008年12月27日
「関ヶ原」 下巻 司馬遼太郎著 新潮文庫
西軍石田三成19万石、東軍徳川家康250万石。
徳川家康は慎重だった。なかなか江戸を立たなかった。西側武将たちに密書を書いていたのである。
そのため西軍の中でも家康に味方して内応するというものが大勢出た。
しかし歴史は勝ったものの歴史だからこれはよくわからない。
家康の味方についた武将たちが岐阜城を落とすと家康はやっと重い腰をあげた。様子を見ていたのである。
石田三成も家康が出てくるのを待ちあまり小競り合いはしなかった。
一大決戦で勝負を決めようと思っていたのである。
読書家だった石田三成は自分を張良や諸葛孔明と思いあわせていたのかもしれない。
ついに家康は来た。関ヶ原の戦いが始まった。
西軍10万、東軍7万。しかし西軍の半数以上は山の上に陣取って日和見を決め込んでいた。
すでに家康と内応していて東軍に味方することを決めていたのである。
西軍で実際に戦っていたのは2・3万くらいなものだった。
そして決定的だったのが山の上で日和見を決め込んでいた西軍だった小早川秀秋1万5千の裏切りだった。
これで東軍家康の勝利は決定的となり、ただ1人落ちていった石田三成もつかまり首をきられた。
歴史は勝ったものの歴史である。
西軍のほとんどが家康に内応していたというふうに書いてあるけど実際はどうだったのだろうか。
小早川秀秋の裏切りも実は東軍がおしていたからではないのか。
石田三成はほんとに嫌われ者だったのだろうか。
歴史小説もフィクションがかなり多いからね。
■2008年12月23日
「関ヶ原」 中巻 司馬遼太郎著 新潮文庫
会津120万石の上杉は、城を造り、兵を募兵したりしだした。この中に前田慶次郎利大?利益?(とします)などがいた。
家康は秀頼様のために上杉征伐を行うと称した。
「豊臣家の叛臣」上杉景勝を討つという資格なればこそ秀頼の家来である諸大名を家康は率いていけるわけであった。
家康が大阪を去り江戸についた頃、石田三成が豊臣恩顧の大名を集め兵をあげた。
その数10万、家康の兵力を上回った。
石田三成方、西軍の筆頭には5大老の毛利がついた。
西軍もいろいろいわれているけど形は整った。石田三成もこの戦いは勝ったと思っただろう。
西軍は家康に密通するものがたくさんいたと書かれているけど実は大阪城、石田三成側へも同じように密通があったんじゃないかと思う。
どっちに転んでも家督が残ることを考えた大名はたくさんいたと思う。
この気に領土をひろげようとするものまでいた。九州の秀吉の元軍師黒田官兵衛や真田幸村の父真田昌幸など。
天下は乱れ、関ヶ原が一日でおわってしまうとは上記のものなどは思ってなかった。
真田昌幸は徳川秀忠の軍3万を足止めして関ヶ原にまにあわせなかったのに西軍がまけてしまってちょっとかわいそう。
黒田官兵衛などはこの乱に乗じて九州を統一してそこを足がかりに天下をとろうとおもっていたほどである。
石田三成が挙兵したということで東軍家康は栃木?あたりで軍議を開いた。
豊臣恩顧の福島正則が真っ先に先鋒を願い出て皆それに続いた。
東海道の領土は家康をふせぐために豊臣恩顧の大名でかためられていたのだが皆、家康に土地を差し出すっと宣言した。
真っ先に言ったのが山内一豊だった。そのため関ヶ原後たいした活躍もなしに土佐一国をもらった。
なんにしろ家康はうまいことしたな。
■2008年12月16日
「関ヶ原」 上巻 司馬遼太郎著 新潮文庫
2009年のNHK大河ドラマ「天地人」で直江兼続が主人公なのでそれにかかわりのある「関ヶ原」を読んでおこうと思いました。
「天地人」は、天の時、地の利、人の和、からきているのかな。
「関ヶ原」は石田三成を主人公として書かれています。
司馬遼太郎さんは徳川家康があまり好きではなかったようですね。
日本を統一した豊臣秀吉は朝鮮に侵攻。またその頃世継ぎの秀頼が生まれる。
五大老に、徳川家康、前田利家、上杉景勝などを置き、五奉行に石田三成がいた。
秀吉は五大老、五奉行などに秀頼の後事を託し亡くなる。
はじめ秀吉の死は秘密にされ朝鮮から武将たちがひきあげてきた。
ところが戦争中に石田三成がこの秀吉子飼いの武将たちを厳しく讒言(ざんげん)したというので激しく衝突した。
この武将たちは秀吉の妻北の政所(ねね)にもおされ家康を頼っていくようになる。
だんだん家康は豊臣側の武将をとりこみ石田三成も失脚させられてしまう。
秀頼を託された前田利家もまもなく亡くなってしまっった。
もう家康にこわいものはない。家康は秀頼のいる大阪城にもいついてしまった。
石田三成がいればこんなことにならなかったろうと思われたが後の祭りだった。
そして家康の目の上のたんこぶだった加賀100万石の前田家に謀反の疑いありと北伐しようとした。
前田利家がなくなり後をついだ利長にはこれに対処する器量はなかった。
利家の妻まつは自分が人質となり家康の元にいき、江戸に住むことになった。
これで前田家は何が起こっても家康に兵をあげることはできなくなった。
石田三成の親友に会津上杉120万石の軍師直江兼続がいた。
直江兼続の上杉軍が東の会津から兵をあげ、家康が東に向かったところを三成が豊臣恩顧の武将を集めて西から兵を挙げると構想をねる。
豊臣秀吉が朝鮮に侵攻したときに明から朝鮮に援軍がきた。
そのせいで明も疲弊したせいかしばらくして明は滅び清になった。
元寇の時にはしばらくして鎌倉幕府が滅びた。。。
2005年6月
2005年6月8日
「関ヶ原」 下巻 司馬遼太郎著 新潮文庫
上杉征伐で東にむかった家康。
そこで西から石田三成が兵をあげた。その数10万。
上杉は伊達政宗などとやりあっていて江戸に進入してくることはできない。
家康は石田三成と決戦するために西にむかった。その数7万。
西軍10万、東軍7万。関ヶ原で一大決戦がはじまった。
専門家が布陣をみると西軍の勝ちであるというという。
しかし西軍の半分以上の武将は山の上で日和見(ひよりみ)をきめこんで戦いには参加しなかった。
また謀反して東軍につく武将もいた。
西軍で実際に戦いをしているのは3万くらいしかいない。
西軍の半数がはじめから家康に調略されていたといわれているけど、
実際、西軍が戦いに有利におしていれば皆西軍についていたんじゃないかと思う。
東軍徳川家康の勝ちであった。
2005年6月5日
「関ヶ原」 中巻 司馬遼太郎著 新潮文庫
会津の上杉が城を築いたり浪人を募兵したり戦いの準備をしはじめた。
家康は上杉を討とうと大阪から豊臣武断派武将をひきつれて江戸にもどってきた。
そして石田三成は大阪で家康をうつと兵をあげた。
東から上杉、西から石田三成が兵をあげ家康をはさみうちにする作戦である。
家康も乱をのぞんでいた。野戦で絶対の自信をもっている家康である。
この戦いをきに家康は天下を自分のものにするハラである。
どっちがはめたのか、どっちがはめられたのか。
家康は一緒に上杉へ東征へむかった豊臣武断派武将を自分の味方にひきいれることができた。
石田三成は豊臣武断派武将にきらわれていたのだ。
豊臣武断派武将は豊臣秀頼に弓をひいたのではなく石田三成をやっつけたかったのである。
家康にいいようにつかわれてしまった。
2005年6月2日
「関ヶ原」 上巻(全3巻) 司馬遼太郎著 新潮文庫
まだ幼い秀頼を残して秀吉は死んだ。
天下を取りたい家康と、豊臣家(秀頼)を守りたい石田三成が争った天下分け目の戦い関ヶ原の小説です。
東軍徳川家康と西軍筆頭石田三成の天下分け目の戦い。
秀吉が死んでその子、秀頼の守り役前田利家もまもなく死んでしまった。
ために徳川家康が天下人に近づいた。
石田三成は5奉行筆頭として豊臣家を守ろうとしたがたかだか20万石の身の上で関東250万石の徳川家康にかなうわけはなかった。
この小説は石田三成を主人公にしたものなんだけど、
石田三成は性格に問題があったとか嫌われ者だったとかいわれているけど
関ヶ原で負けたからそういわれるのであって実際はどうだったのだろうか。
たかだか5奉行筆頭なだけで西軍の指揮をとった石田三成は結構すごいなぁっと思うのだけど。。