りょうの「新書太閤記」読書記録 りょう99@笠原良太

下から書いてます


 

2005年7月13日
「新書太閤記」 11巻(終) 吉川英治著

天下は二分された。
東の徳川家康と西の豊臣秀吉。
秀吉は家康と和睦して家康に上洛してもらいたかったが家康はなかなか上洛してくれない。
さぁ。これからどうなるか?っといったところで小説は終わっています。

このあと秀吉は姉や母を家康の元に送って上洛してもらうんだけど。
朝鮮出兵もあるんだけどそこまでは書いてないです。
後々の秀吉は異常だったのでそこで終わって良かったかなっと思います。

 

2005年7月12日
「新書太閤記」 10巻 吉川英治著

織田家相続争いはまだつづいていた。
次ぎに秀吉の相手になったのは徳川家康であった。
小牧、長久手の戦い。
尾張でぶつかった両軍。
秀吉は中入りして岡崎をつく作戦をたてたが中入り軍は敗北した。
局地的な戦いだったが家康の勝ちといっていい。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とつづいていくなかで、
織田家を奪った秀吉、豊臣家を奪った家康っとなんか考えさせられますね。

 

2005年7月11日
「新書太閤記」 9巻 吉川英治著 講談社

織田家相続争いから秀吉と柴田勝家の戦いとなる。
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い。秀吉の勝ちであった。
これで織田家相続争いを秀吉が勝ち取ったといえる。
秀吉ってすごいよなぁ。。

柴田勝家のもとへ嫁いだ市姫は柴田勝家とともに自害した。
市姫と浅井長政との子供たちはたすけられた。茶々、のちの淀殿など。

 

2005年7月9日
「新書太閤記」 8巻 吉川英治著 講談社

明智光秀謀反でたおれた信長。
毛利と戦っていた秀吉はすかさず毛利と和睦して京へとって返した。
明智光秀vs秀吉。山崎の戦いである。
天王山を奪った秀吉は戦いを有利に進める。
明智光秀は敗れ逃亡するところを農民に殺された。
農民が明智光秀の首をもってきたがこれは本当に明智光秀の首だったろうか。
山岡荘八の小説では明智光秀の首だかはっきりせず、
その後も秀吉は明智光秀を捜しもとめたっとか書いてある。
山岡荘八の小説では明智光秀が生きてる設定だったから。
明智光秀天海説などもあったり。

織田家相続争い。秀吉と柴田勝家の軋轢(あつれき)が深まる。

 

2005年7月6日
「新書太閤記」 7巻 吉川英治著 講談社

天下を統一したかに見えた信長。
そんなおりであった、明智光秀謀反、本能寺は。
信長に対し謀反ばかりおこそうとしていた室町幕府将軍足利義昭を追放した信長。
その足利義昭を信長の元へつれてきたのが明智光秀だった。
そんな明智光秀を信長は疎んじ始めていたのかもしれない(そんなこと本には書いてないが。。)
それが原因か明智光秀は本能寺で信長を殺した。
信長の長男信忠も二条城で殺されてしまった。
本能寺直前に光秀が連歌の会でうたった歌。
時は今、雨が下知る五月(さつき)かな。

 

2005年7月3日
「新書太閤記」 6巻 吉川英治著 講談社

敵につかまった黒田官兵衛は助けることができたが竹中半兵衛は病が重くなり亡くなってしまった。
秀吉は着実に中国地方の毛利領を切り取っていく。
信長は武田勝頼を滅ぼして信濃、甲斐を自分の領土とする。
家康にも駿河を与えられる。
日本中央で大勢力を築いた信長。ちょっと前までは四面楚歌だったがもう信長に対抗できる勢力はなくなったといっていい。

 

2005年6月30日
「新書太閤記」 5巻 吉川英治著 講談社

長篠の戦いで武田勝頼に勝利した信長。鉄砲隊が活躍した。
信長は北陸から出てくる上杉を防ぐために安土城を築いたが上杉謙信は卒中で死んでしまった。
秀吉は毛利攻めをまかされる。
秀吉の軍師竹中半兵衛、黒田官兵衛。
竹中半兵衛は病が重くなり、密使に出た黒田官兵衛は敵につかまり牢屋にいれられてしまった。

 

2005年6月28日
「新書太閤記」 4巻 吉川英治著 講談社

武田信玄は上洛戦をおこしたが途中で死んでしまった。
信長が一番おそれていたのが信玄だった。
比叡山を焼き討ちし、浅井、朝倉も滅ぼし、室町幕府将軍足利義昭を追放した信長。
浅井攻めで手柄をたてた秀吉は浅井領18万石をもらうことができ、
母と妻ねねを岐阜からよびよせる。
戦闘にあけくれていた秀吉はいままで母とねねを手元におけなかったのである。

秀吉のおかげか浅井長政に嫁いだ市姫をたすけだすことができました。

 

2005年6月24日
「新書太閤記」 3巻 吉川英治著 講談社

誰も築けなかった川向こうの美濃側に城を築いたのは秀吉であった。
美濃を征服した信長。岐阜と名付ける。
秀吉は5万石をもらうことができた。
秀吉は三顧の礼をもって竹中半兵衛を軍師にむかえる。
このころ明智光秀が室町幕府将軍足利義昭を信長のもとへつれてくる。
あっというまに京を占領した信長は、足利義昭や朝廷の館を建てる。
秀吉は京都奉行?をまかせられる。
朝倉を討とうと北にむかった信長だが浅井長政に背かれる。
死地に入った信長だったがなんとか逃げ延びる。しんがりをした秀吉もなんとか無事だった。

内容は山岡荘八さんの「豊臣秀吉」とあまりかわらない。
古くから太閤記があるようなので吉川英治さんも山岡荘八さんもそれをモチーフにしたと思うんだけど、まったく同じようなところもあります。
そこが同じ、そこは違うっと読んでいくのがおもしろいです。

 

2005年6月22日
「新書太閤記」 2巻 吉川英治著 講談社

炭薪奉行、城普請奉行などをこなした秀吉は足軽30人の長になることができた。
その頃、静岡の今川義元は京へむかって上洛戦をはじめた。
むろん織田信長の尾張をふみつぶしていく気だ。
私が思うに、今川義元がすすんで来るのに大きな平野はなく山あいの狭い平野を通って来るので
はじめから今川義元がどこを通っているか綿密な情報を収集してどこそこを通るときに山あいからそこ今川義元を直撃できるようにしたんだと思う。兵列ものびきっていたんじゃないかと思う。
もう誰も織田信長をうつけと呼ぶ者はなかった。
秀吉がねねと結婚したのもこのころであった。

 

2005年6月21日
「新書太閤記」 1巻(全11巻) 吉川英治著 講談社

尾張の日吉(豊臣秀吉の幼名)は、いろいろな職の奉公にあがるがすぐどこでも暇をだされていまった。
侍奉公などもするがやはりすぐ暇をだされてしまった。
このへんの秀吉をみてると自分と重なるところがあるような気がする。
最後の奉公先と選んだのは当時うつけっとよばれた織田信長であった。
秀吉は信長の草履取りをまかせられた。大変な出世である。