三国志読書記録 りょう99@笠原良太

吉川英治著 講談社 全8巻  8回目(2004年に2度7巻8巻は読んでる)

吉川英治さんの三国志は三国志演義などをモチーフにしています。

りょう99こと笠原良太(かさはらよしたか)作成

後からの訂正、書き直しは多くなると思います。
後で地名をちゃんといれたいとか思ってる。。
曹操についてのことも後から入れるかもしれない。。

●2003年11月22日
「三国志 6」 更新 下に書きます。
●2003年11月13日
「三国志 5」 更新 下に書きます。
●2003年11月4日
「三国志 4」 更新 下に書きます。
●2003年10月31日
「三国志 3」 更新 下に書きます。
●2003年10月26日
「三国志 2」 更新 下に書きます。
●2003年10月24日
「三国志 1」 吉川英治著 講談社

三国志は日本の邪馬台国の卑弥呼の頃の中国の物語。
2千年ほど前の中国の物語である。
当時中国は魏、呉、蜀という三国にわかれていた。
邪馬台国の卑弥呼の記述があるのはこの魏の魏志倭人伝である。
漢(高祖、劉邦)の時代が終わりに近づき
戦国時代を経て
魏(曹操、のち軍師司馬懿仲達)、呉(孫堅−孫策−孫権 孫子の末孫)、蜀(劉備、軍師諸葛亮孔明)
の三国に統一されるまでの物語である。
主人公は劉備玄徳、漢の高祖の血を受け継いでいる。
漢の中山靖王の後胤で景帝の玄孫にあたるっということで何度も書いてあります。

●2003年10月24日
「三国志 1」 吉川英治著 講談社

朝廷の権威も落ち世も乱れ世の中は荒れていた。
そんな中、劉備玄徳はムシロやスダレを売って生計を立てていた。
劉備は何年か商いで各地をまわりそれで稼いだ全財産で母が一生に一度でいいから味わってみたいといっていた茶を買う。
親孝行者の劉備である。
当時の茶というのはホントの貴人でしか飲むことができないたいへん高価な物だった。
しかし茶を買ったトコロを黄巾賊(こうきんぞく)に眼をつけられる。
各地に黄巾の乱が起こっていた。
頭の張角が黄色い布を頭にまいていたことから部下がマネしてみんな黄色い布をまいたことから黄巾賊といわれるようになった。
大賢良師張角。弟たちの天公将軍張梁、地公将軍張宝。
劉備は黄巾賊にからまれたがそこを助けてくれたのが張飛だった。
劉備は御礼に大切な父の形見の剣をあたえた。張飛のみずぼらしい剣と交換した。
茶はどうしても母に飲ませたかった。
しかし家に帰って劉備の剣が変わっているのに気づいた母は茶(茶壺)を河の中へ投げ込んでしまった。
そんな子に育てた覚えはないっと。
その剣は父の形見なだけではなく何代もかかって家を受け継いできたもので漢の家系を証明する印綬のような大事な剣だったのだ。
劉備は漢の中山靖王の後胤で景帝の玄孫っということで一度中国を統一した血が流れていたのだった。
母は怒った。おまえは性根まで水飲み百姓になりさがってしまったのかっと。。
劉備は心を新たにするのだった。

そんなおり黄巾賊の被害が大きくなり兵を募るっという立て札がたった。
何人か志願するぞっという者がいた。
劉備は日が暮れるまで誰も人がいなくなるまでずっと立て札を眺めていた。
劉備は母がいるから母を一人残して兵隊にでることは劉備にはできなかったのだ。
そこに声をかけたのが張飛だった。それで劉備も決意した。
はからずも大事な剣が劉備の身にもどってきた。
すでに張飛と義兄弟だった関羽とも会い3人で劉備の家の裏の桃園で義兄弟のちぎりを結ぶ。(桃園の義) 桃の花が満開だった。
母もひきとめることなく劉備を送りだした。
関羽が激を書き何百人か兵を募り義勇軍となり太守劉焉ももとへいった。
黄巾賊を討伐するために各地を転戦することになった。
しかしこの義勇軍は官軍でもないしいくら戦功をあげても何の報償もないばかりか雑軍としかみられなかった。
張飛なども不満をあわらにするがどうしようもなかった。
官軍に対する不満も持つがこないだ戦場で会った曹操っという人は立派な人だったと官軍の中にも眼をみはる人はいるものだっと思う。
ひどい扱いを受けてもそれでも志を通そうとがんばった劉備たちは地公将軍の張宝の首をとった。
そして大賢良師張角が病死した。
すると天公将軍の張梁は謀反されて死んだ。
黄巾賊残党も鎮圧されていった。
ここでまた劉備たちは孫堅に会った。
官軍もみだれきっていると思っていた劉備たちだったが曹操を見て孫堅を見て官軍の中にも立派な人はいるんだと世の中すてたもんじゃないと思う。
官軍は洛陽に凱旋してお祭りさわぎだった。官軍は役職ももらったりした。
しかし劉備たちは悲しい義勇軍だった。
なんの報償もなく洛陽に入ることも許されなかった。
劉備たちはむなしく語る言葉もなかった。
劉備たちが一番戦功をたてたといっても過言ではない。
その頃実権をもっていたのは帝(霊帝)ではなく十常侍という10人の宦官だった。
官の中央は腐敗していて十常侍に賄賂などをおくらないと報償も役職ももらえなかったのだ。
帝に直訴する人がいれば殺されてしまった。
そんなこともあり第二次恩賞がおこなわれた。
それでやっと劉備たちにも恩賞があった。
片田舎の警察署長くらいのものだったが劉備たちはまじめにつとめて領民もついてきた。
そこへ勅使がやってきた。
劉備たちは誠実に接待したつもりだったが勅使は賄賂をよこさないので劉備の罪状をでっちあげて中央に送った。
世の中は腐敗しきっていたのだ。
怒った張飛は勅使を折檻し、劉備は住むところをあやまったっと野に下る。
張飛の知り合いの豪商の家に隠れ住む。
ここで劉備は恋をした。
張飛と関羽はちょっと失望していた。
そこへ豪商の家に巡察がまわってくるという。
劉備はすぐ我に返り張飛、関羽と別れて一度母の待つ家に帰った。またここで落ち合おうっといって。
ところが母はいった。何しに帰ってきたのかっと。明日の朝早くでていけっと。
2,3年で母も出世するなんて思っていない、弱気になってすぐ家に帰ってきてどうするっと。

中央はあれていた。
十常侍に賄賂を送らない人はどんどん退けられていったのだ。
まともな人はいなくなった。
各地で謀反が発生した。
さいわい良かったのが野に隠れていた劉備だった。
豪商から太守へ案内状を書いてもらってまた戦場にでて手柄をたてた。
劉備は平原県の令に任じられた。
天、我に兵馬を養わせむっといって喜んだ。

帝の霊帝が崩御した。
中央は荒れた。
ついに十常侍を倒せっと各地に激がとんだ。
もつれにもつれた末、袁紹などが十常侍を殺した。
新帝と弟の陳留王が洛陽を逃げ出したオリに王の印章(ぎょくじ)がなくなった。
そして激に応じて20万の兵力で中央にあがってきた董卓に実権をにぎられてしまった。
董卓は新帝を廃して弟の陳留王に帝位につがせて政権を牛耳ろうとした。
それに反対した丁原という人がいた。部下に呂布をもっている。呂布は三国志で一番強い武将である。呂布は丁原の養子になっている。
袁紹も反対した。
董卓は呂布に赤兎馬を贈り丁原を殺させ自分の部下にした。
もう董卓に怖い者はなかった。
袁紹も中央を去った。
陳留王が天子になり献帝となった。前の新帝はしばらくして殺されてしまった。
董卓は絶頂だった。
そんなおり曹操が董卓の暗殺に失敗して逃亡した。
途中で陳宮が曹操をつかまえたが陳宮は曹操を助け一緒に逃げる。
ここで曹操という人間を思い知らされる。。
そして自分の国元に帰った曹操は旗揚げした。
曹操はいった。朝廷から密勅を受けてこの地に降ったっと。実際は嘘なのだが。
各地に激をとばした。各地から兵が集まった。
袁紹の元にも激がとどいた。袁紹は曹操が密勅を受けるわけはないっと思ったがやってることが正しければいいだろうっと参加する。
16番目の部隊に北平太守公孫サンがいた。公孫サンの部隊に劉備たちは加わっていた。
首相は袁紹がなった。参謀が曹操。兵糧奉行に袁紹の弟の袁術。
先鋒は孫堅がなった。水関に攻めかかった。
しかし袁術は孫堅に手柄をたてさせたくないっと孫堅に兵糧を送らなかった。
孫堅は華雄に敗れ華雄は勢いにのって本陣の方まで攻めてきた。
次々に強そうな武将が出ていったが華雄にあっとゆうまに切り落とされた。
みんな真っ青になった。
袁紹はこんなことなら国元に残してきた顔良、文醜の2武将をつれてくれば良かったとじだんだふんだ。
そこで大口をたたいた武将がいた。関羽だった。
袁紹が足軽の分際で何をいうって態度だったが曹操が負けたら軍律にてらせばいいと関羽に酒をついだ。
関羽が出ていって静まりかえったと思ったら関羽が華雄の首を持って帰ってきた。
関羽が、では酒を頂戴するっといって飲んだときまだ酒はあたたかかった。
敵は水関を閉ざした。
今度は虎牢関を攻めることになった。
でも呂布が出てきた。
また本陣まで蹂躙されたが公孫サンの陣地を蹂躙したときに呂布の前にたちふさがったのは張飛だった。
長い間雑兵よばわりされつづけた張飛である。千載一遇のチャンスである。
しかし相手は呂布である。関羽が華雄をやったようにはいかない。
関羽と劉備も加わって3人がかりで呂布を追いつめる。
呂布は赤兎馬と飛ばして逃げていった。
これを機会に総攻撃を加えて虎牢関まで迫った。

李儒は洛陽をすてて長安に遷都すべきだと董卓にいった。董卓はすぐ受け入れた。
焦土戦術である。ただではすまない。阿鼻叫喚があった。
異変に気づいて虎牢関を突破したときには洛陽は焼け野原だった。
袁紹は洛陽をとったんだからっとのんびりしている。
曹操は焼け野原の洛陽をとったからといってなんになるっといってすぐ董卓を追うべきだといったが聞いてもらえなかった。
曹操は一人で董卓を追っていった。
でも伏せ勢にあって命からがら逃げ延びる。
袁紹はそれみたことかっと曹操はまだまだ若いなっと笑っていた。
洛陽に帰ってきた曹操は、心に一致する何ものもなければ同志も同志ではないっといって国元へ帰っていった。
孫堅もこないだなくなった伝国のギョクジ(王の印章)を井戸でみつけて本国に帰り遠大の計をめぐらすべきだとバレバレなとこを隠して国元へ帰っていった。
追悼令が孫堅に出ていて途中で劉表に悩ませられる。
孫堅が国にたどりついたときにはわずか数人だったが伝国のギョクジは無事だった。
袁紹に後を処理する力はないとみんな国元へ帰っていった。
劉備も平原に帰っていった。
張飛はいった。馬上で飲み回しの旅なんて洒落ているぞっと。

●曹操のエピソード
許子将っという非常に人物の鑑識に長けた学者がいた。
人相見のようないい加減なものではなく、もっと炯眼(けいがん)な人物批評家だという。
ある日、曹操は許子将を訪ねてみた。
許子将は曹操をみても冷たい目で見て卑しんでろくに答えなかった。
曹操はいった。先生、池の魚は毎度みておいでらしいが、大海の巨鯨は、この部屋でみたことがありませんね。
許子将はいった。豎子(じゅし)、何を言う。お前なんぞは、治世の能臣、乱世の姦雄(かんゆう)だっと。
曹操は、乱世の姦雄だと、結構だ。っといって満足して帰ったという。
曹操についてはひどくて書けないようなことばかり。。。

●曹操のエピソード。
董卓の暗殺に失敗した曹操は国元へ逃げ帰ろうとしていた。
曹操はつかまったが陳宮が逃がしてくれた。2人して逃亡する。
あるところまで来ると曹操の知り合いの家がありそこへ泊まることにした。
主人は客人のために酒を買いにいった。
曹操と陳宮は休んでいると、刃物をとぐ音が聞こえてきた。
また、しばれ、殺せ、などっという声もきこえてきた。
曹操と陳宮はそちらがその気ならと一気におどりでて皆殺しにしてしまった。
するとイノシシがあばれていた。
客人にイノシシでもてなそうとしていたのである。
そそくさと曹操と陳宮はそこをあとにした。
すると酒を買ってきた主人といきちがった。
曹操はうらまれたら困るとその主人も殺してしまった。
陳宮は胸がいたたまれなかったが曹操は平然としている。
戦場に出れば何十、何百の人を殺しているではないかと。
陳宮は曹操を見てこの人こそ天下を救ってくれる英傑かと思い曹操につきしたがったが、
曹操この人こそ天下に害をなす大悪党だとわかったのである。
国元に帰った曹操は密勅をうけてこの地に下ったと董卓を倒すために挙兵した。
もちろん密勅など下っていない。

アラスジで精一杯だな。。

●2003年10月26日
「三国志 2」 吉川英治著 講談社

董卓を倒そうとして総大将になった袁紹だが大兵をようしていたため兵糧に窮した。
都合の良い国を奪ったために公孫サンともつれて戦争になる。
袁紹には顔良、文醜という強い武将がいた。
文醜が公孫サンを追いつめる。
そこを助けてくれたのが旅人の趙雲だった。
趙雲は袁紹につかえていたのだが袁紹を見限って故郷へかえるとこだった。
趙雲の働きもあって公孫サンも優勢になったがまた顔良、文醜などにおいつめられてしまう。
そこをまた助けてくれたのが平原からかけつけた劉備たちだった。
趙雲は思った。主君にするなら劉備みたいな人が良いっと。
しかし劉備は、時が来たら、今は公孫サンを助けてあげて下さいっといって平原に帰っていった。
董卓は中央の威厳を保つために袁紹と公孫サンに和睦をすすめた。
その礼として董卓の元へは莫大な御礼がかえってくるのだった。
この時、公孫サンのはからいで劉備は平原の相になった。

孫堅は劉表にこないだの恨みをそそごうと攻め入った。
孫堅は優勢だったがあっけなく山から落とされた岩石の下敷きになって死んでしまった。
あっけない最後である。
孫堅の息子孫策はつかまえていた敵の武将と孫堅の亡骸を交換してもらった。
そして両国の間に再び乱のおこらぬような協定を結んだ。
孫堅の死で手を打って喜んだのが董卓であった。
これで一つ禍根がなくなったと。
董卓は呂布を養子として位人臣をきわめビウ城に20年の兵糧と800余人の美女を集め栄華を誇っていた。
司徒王允は悲嘆にくれていた。
呂布の上に董卓有り、董卓の側に呂布がついているうちは到底彼らを滅ぼすことはできない。
王允は呂布と董卓をなかたがえさせるために自分の養女貂蝉を涙を飲んでさしだした。
こうである。貂蝉を呂布に与えるっとあざむいてわざと董卓の方へ貂蝉を送った。
貂蝉は2人の気をひき呂布と董卓は貂蝉をめぐって取り合いになりついには呂布は董卓を殺した。
董卓が死んで貂蝉も私の仕事は終わったと自害した。
そういえば曹操に董卓の暗殺を頼んだのも王允だった。
呂布は董卓の残党を討伐しにいったが計りに落ちて呂布の留守を董卓の残党、李カク、郭氾たちに長安をのっとられてしまった。
呂布は袁術を頼って落ちていった。
帝都長安では、李カク、郭氾が政権を欲しいままにした。

曹操は片田舎に隠居していた父を迎えようとしたが
曹操の父が徐州を通りかかったおりに徐州の太守陶謙の部下が金に眼がくらんで曹操の父をおそってしまった。
陶謙は曹操とよしみを結びたいとおもっていて三日三晩曹操の父をもてなして歓待したのではあったが。。
曹操は怒り徐州の陶謙を討つことにした。
劉備は徐州の変を聞き、義のため仁君といううわさのある陶謙を助けに行きたいと思った。
公孫サンは、曹操に恨みがあるわけでもなく陶謙に恩もないだろうっといったが
劉備は、義が廃れた今、義を示すのは今だっといい劉備たちは曹操の包囲網をやぶって徐州城へ入城した。
陶謙は、今の世にも貴君のごとき義人があったかっと涙をたたえた。
劉備は曹操に停戦韓国の手紙を書いた。
曹操は劉備何をいうっという感じだったがちょうど曹操の留守のエン州に呂布が攻め込んだのだった。
曹操は、劉備の貴書には一理あるっと使者にいっていさぎよく撤兵していった。
陶謙は、劉備に自分に変わって徐州の太守になって欲しいといったが劉備は断り近くの小ハイで兵を養いながら徐州の地を守ることにした。
曹操と呂布は血みどろの戦いをしていたが突如飛来したものがあった。
いなごだ。
いなごの被害は大きい。農作物を全部食い荒らしてしまうのだ。
いなごが人間の戦争を休止させてしまった。
陶謙は病に倒れ子供も暗愚なため再三劉備に後をついでくれっと頼んだが劉備は断り続けた。
そのうち陶謙は息をひきとってしまった。
領民たちも劉備に太守になってもらいたいっと集まったので劉備はついに徐州の太守になった。
曹操は自分は予定していた土地に劉備が善政をしいてしまったのでおもしろくなかった。
死んだ陶謙はわが亡父のアダなることは玄徳(劉備)も承知のハズだ。
彼はそれも覚悟の上だろうっと劉備に戦争をしかけようとしたが荀ケにいさめられた。
曹操は各地の賊を退治しながら勢力を盛り返し呂布を破った。
呂布は袁紹をたよろうとしたが、袁紹は呂布のごとき乱賊は殺した方が良いっと言う態度だった。
呂布が最後に頼ってきたのは劉備だった。
劉備は自分の領地に仁をこうてきた人を頭から断れる人ではなかった。
あのとき呂布が曹操の後ろをつかなかったらっということもあった。
張飛は猛然と反対したが呂布は小ハイへ落ち着くことになった。

帝都長安では、李カク、郭氾が依然政事を私し私欲を肥やし悪政ばかり乱発して少しも自粛するところがなかった。
一人の董卓が死んだと思ったらいつのまにか二人の董卓が朝廷にできてしまったっといわれた。
しかし両雄並び立たずっである。2人はいざこざをおこすようになった。
2人は天子(帝)を取り合い血みどろの戦いをするようになった。
長安も廃墟と化した。
天子たちは前の首都洛陽に落ち延びてきた。
前に焼け野原となった洛陽である。みわたす限り草ぼうぼうの野原だった。。
曹操の元へ守護して欲しいと勅使が降った。
曹操は来るべき物が来たっといさんで洛陽にかけつけた。
天子をおってきた李カク、郭氾軍をあっという間にけちらした。
荀ケがいったのである。今、天子を扶くる者は、英雄の大徳であり天下の人心を収める大略であるっと。
曹操のまわりには綺羅星のごとく武将が集まっていた。
文官、荀ケ、弟の荀攸、郭嘉、劉曄、程c
武将、夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、楽進、李典、徐晃、許チョ、典韋
荀ケは、曹操が、貴様は我が張子房(張良)であるっといった人で。
洛陽はその始末なので許昌に遷都した。
曹操もはじめは謙虚だったもののそのうち曹操の権威は絶大になっていった。
いかなる政事も、まず曹操に告げてから後に天子に奏するっという風にならわされていった。
一人除けば一人興る。。。漢家のご運もはや西に入る陽かっという風だった。

曹操は思った。徐州の太守劉備、呂布を小ハイにおいて扶持し、呂布の勇と、玄徳(劉備)の器量が結びついているのはちと将来の憂いかっと。
未然に防止する策はないかっと荀ケに謀った。
荀ケは二虎競食(にこきょうしょく)の計を出した。
ここに二匹の猛虎が、おのおの山月にうそぶいて風雲を待っていると仮定します。
二虎ともに飢えています。
よってこれに他からかんばしい餌を投げ与えてごらんなさい。
二虎は猛然本性をあらわしてかみ合いましょう
必ず一虎はたおれ、一虎は勝てりといえども満身傷だらけとなります。
かくて二虎の皮をえることはきわめて容易となりましょう。
以上、荀ケの説明。。
劉備に勅使を出して呂布を殺せっというものだった。不義者の呂布を殺せっと。
張飛は呂布なんか殺してしまえっという態度だったが劉備は曹操が呂布と自分との間をさこうとしたものだと看破していた。自分と呂布に血みどろの戦いをさせるものだと。。
劉備はいった。呂布が次第に、義を富む人間になるように、温情をもって導いてゆくっと。
次に荀ケは駆虎呑狼(くこどんろう)の計を出した。
豹(ひょう)に向かって、虎をけしかけ虎の穴を留守とさせます。
留守の餌をねらう狼が何者かすぐお察しがつきましょう。
以上、荀ケの説明。。
玄徳(劉備)に袁術を攻めさせるっというものだった。袁術、朝廷に対して違勅の科(とが)ありっと。
留守をねらうのが呂布である。
劉備は罠だとわかっていても勅命に背くことはできなかった。
劉備は袁術に攻め込んだ。関羽をつれていった。張飛を守りで残した。
その留守をやはり呂布が攻め込んだ。
張飛は大酒を飲んで酔いつぶれていたのだ。
酒飲みの張飛である。あんなに留守に酒は飲まないといって約束していたのだが。。
徐州の太守は呂布になった。
呂布の軍師に陳宮がなっていたのが大きい。
曹操が董卓の暗殺に失敗して逃亡したときに曹操を助けた陳宮である。
劉備はいくあてもなかったが呂布も劉備もふびんと思ったか小ハイに住まわせた。
劉備はいった。身を屈して、分を守り、天の時を待つ。コウ龍が淵にひそむのは昇らんがためであるっと。

孫堅の息子、孫策は長沙の地を守りきれない悲運だった。
諸国を漂白して袁術の元へ身をよせた。孫策も成長した。
孫策の母方の叔父を救おうと袁術から兵をかりようと思った。
しかし袁術はどうあっても兵をかさない。
孫策は孫堅から受け継いだ伝国のギョクジを抵当に出して兵をかりた。
袁術には帝位につこうとする野心があった。
だから孫策が伝国のギョクジをもっているのでかわいがっていたのである。
孫策は袁術に3千の兵をかりて戦争にでて江南江東八十一州を平定した。
武将 周瑜、太史慈、程普、黄蓋、韓当、蒋欽、周泰、
文官 張紹、張紘
強気な孫策は袁術に借りた兵は何倍にもして返すから伝国のギョクジを返せっといいはなった。
袁術はなまいきな小僧め、孫策を討ってやろうと思ったがここは一歩自重して北方のうれいをのぞいてから南に攻め込もうっということになった。
北方の憂いとは劉備、呂布のことであった。
袁術ははかりごとを用いた。
呂布に金銀財宝を送ってそれでから劉備の小ハイに攻め込んだ。
でも呂布は劉備の救援にいった。
袁術軍は呂布に不信をならせた。
呂布だってわかっていた。
劉備が小ハイにいることは何の害にならないが劉備がいなくなれば手足がもがれるのと同じことである。もらうものはもらっておいたのである。
そして呂布は自分は元から平和主義者だといって袁術と劉備の仲介にのりだした。
近頃の珍事であった。
袁術はまたはかりごとをめぐらせた。
和睦の御礼といって呂布と姻戚関係を結ぼうとした。
呂布には一人娘がいた。
袁術も子供は一人だった。
呂布の妻は袁術という人は、早晩、天子になるお方だそうですねっといって喜んだ。
袁術が伝国のギョクジをもっていることがすでに伝わっていた。
娘を嫁入りさせればやがて皇妃になれる望みがありましょうっというものだった。
婚姻が成立すれば袁術が劉備を攻めても呂布はもう加勢できないっというものだった。
そんなおり張飛が呂布が買い求めた馬を二百匹奪ってしまった。
チャメッ気たっぷりの張飛である。。
呂布は劉備に宣戦布告した。
袁術がどうこうっとかいう問題ではない。
劉備は曹操を頼って落ちていった。
曹操は、劉備はわが弟分であるっといって賓客の礼をとって酒宴をひらいてなぐさめた。
荀ケは、劉備を殺した方がっといった。
郭嘉は、劉備がまだ無名なうちならまだしも義気仁愛のある人物として名が知られている。劉備を殺しなどしたら名声を一気に失うだろうっといった。
曹操は、予もそう思う。むしろ今逆境にある彼には、恩を恵むべきであるっと。
劉備を予州(河南省)の牧にした。

曹操は張繍と戦った。
曹操はいったん張繍を降伏させたがはかりごとに落ちて惨敗した。
典韋が死んだ。
曹操は泣いた。
曹操の涙を見た将たちはみな感動し、もし曹操のために死ねたら幸福だというような気がした。

呂布、劉備、袁術のあいだは乱れていた。
呂布は袁術と婚姻を破棄し
帝位を僭称しはじめた袁術は大軍勢で呂布に攻めかかってきた。
さすがの呂布も青くなった。


メモをとりながら読むのもさすがに疲れた。。
いくら簡単に書こうと思ってもこれだけの文章にはなる。。
徳川家康ではメモもとったことがないのに。。
昔、日本語入力に三国志人名辞書を入れておきました。。地名はない。。
さすがにもうイヤになった。。。

●2003年10月31日
「三国志 3」 吉川英治著 講談社

皇帝を僭称しはじめた袁術は大挙して呂布をせめた。
呂布はどうにか切り抜ける。劉備も呂布を助けた。
玄徳(劉備)が以前のよしみを忘れず、かつての旧怨もすててわが急使に対し速やかに
愛臣関羽に手勢をつけて救援にかけつけてくれたっと恩を謝した。

皇帝を僭称しはじめたワイ南の袁術を討とうと曹操も腹を決めた。
一度戦争が起こったときに兵を動かすのは常套手段である。
激が劉備、呂布のもとへも飛んだ。
劉備、関羽、張飛は予州の境でまちあわせていた。
曹操は、いつもながら足下の早速な会同を満足に思うっと劉備をねぎらった。
曹操は中軍、玄徳は右、呂布は左。
呉の孫策も南から袁術のワイ南をうかがった。
袁術はこの時水害もひどかったので本城の寿春城をすてて遠く難をのがれてしまった。
曹操軍は水害のため食べ物に苦しんだが寿春城を落とし中央に帰っていった。
曹操は呂布と玄徳にいった。以前のよしみを温めて徐州と小ハイを守り合い、唇歯の交わりを以て新たに義を結びたまえっと。
玄徳は予州を去り元の小ハイへもどった。
曹操はひそかに劉備にいった。君を小ハイに置くのは虎刈りの準備なのだっと。
虎とは呂布である。

曹操の密書を玄徳へ送り、返書をもった密偵が呂布の軍師陳宮につかまった。
劉備と曹操がしめしあわせて呂布を殺すっというものだった。
怒った呂布は劉備の小ハイへ攻め込んだ。
劉備は曹操に救援をこうた。
曹操はいった。劉備を見殺しにしては予の信義にそむく。劉備を助け共にこのさい呂布の息の根をとめてこようと思うっと。
かくして曹操軍がやってきた。
呂布は袁術と婚姻関係を結び二国同盟して曹操にあたろうとするもうまくいかなかった。
かくしてさすがの呂布も滅ぼされてしまった。
呂布は命乞いをしたが劉備はいった。養父の丁原を殺害して董卓に降っておきながらまたその董卓を裏切って洛陽にあの大乱をかもしだしたことですがっと。
かくて劉備はまた徐州をおさめることになるが一度中央にのぼることになった。
劉備は天子に拝謁した。
天子は、世譜によれば正しく朕の皇叔にあたることになる。知らなかった実に今日まで夢にもしらなかった。朕に玄徳のごとき皇叔があろうとはっといって喜んだ風であった。
それから劉備は劉皇叔っと一般によばれるようになった。
それから曹操と劉備の交わりは日をおうほど親密の度をこえ、朝に出るにも車を共にし宴楽するにも、常に席を一つにしていた。

曹操は天子を許田の猟にさそった。
天子は気がすすまなかったが、劉皇叔も共してまいれっと劉備に声をかけた。
朕は、劉皇叔が楽しんでくれれば共に楽しかろうっと。
兎が飛び出した。劉備は見事にしとめてみせた。
帝(天子)は、その日、始終ふさぎがちであったが御眉を初めてひらいて、劉備に朕がそばをはなれないでくれよっといった。
鹿が次に飛び出した。帝は弓をつがえて矢をいったがあたらなかった。
曹操は帝の弓矢をかり鹿を見事いとめた。
公卿百官をはじめ下将校にいたるまで帝の矢がたったのをみて帝が矢を射ったものと思い異口同音に万歳をとなえた。
万歳万歳の声は山野を圧してしばし鳴りやまないでいると
そこへ曹操が馬を飛ばして「射たるは我なり!」っと帝の御前に立ちふさがった。
帝の弓を諸手にさしあげ群臣の万歳をあたかも自身に受けるような態度をとった。
はっと諸人みな色を失い興をさましてしまった。
特に関羽の如きは眼をはり眉をあげて曹操の方をくわっとにらめつけていた。
「帝をないがしろにするにもほどがある!」
無意識に関羽の手は剣にかかっていた。
玄徳ははっとしたように身を移して関羽の前に立ちふさがった。

天子はなげいた。
朕が位についてから一日の平和もなく逆臣のあとに逆臣が出て、
董卓の大乱、李カク、郭氾の変とうち続きようやく都をさだめたと思えば
またも曹操の専横に合い事ごとに廟威の失墜を見ようとはっと。
天子は董承をまねいて密詔をくだした。
曹賊出てより・・・・っという感じの文で曹操をうち破って欲しいっという密勅である。
董承は仲間を集めた。許田の猟のこともあり何人か集まり西涼の馬騰なども加わった。
他にも仲間がいないかっとさぐっていたところ見つけたのである。
漢室の宗族のうちにこの人があろうとは、正に天佑ではないか。
見たまえ、ご列親のうちに予州の刺史劉玄徳の名があるではないかっと。
そのときの関羽の様子を見ていた人もいた。
劉備は密詔を見て泣き義状に名をつらねた。

それから劉備は自ら畑を耕しはじめ、曹操の前で雷がなると箸を投げて驚いてみせたりした。
そんなおり劉備は急に曹操によばれた。
曹操は英雄を嘆じたいっということだった。
劉備は英雄と思われる人を次々にあげていったが誰の名をあげても曹操は真っ向から否定してしまうのだった。
ワイ南の袁術、河北の袁紹、呉の孫策、ケイ州の劉表、益州の劉璋などなど。
劉備はもう他に人はいないといったが曹操はいった。
君と予だっと。
関羽と張飛は劉備がいなくなったので、まさかっと思い門をやぶって駆けつけた。
曹操はいった。
わはははっ。何を戸惑うて。今日は古(いにしえ)の鴻門の会(こうもんのかい)ではないぞっと。
(鴻門の会、項羽と劉邦の時代、項羽が劉邦を殺そうとした会、劉邦を剣の舞とみせかけ殺そうとしてハンカイが間に入って助けた。先に漢中に入ったものを漢中王にするといわれ劉邦が先に漢中に入り後から来た項羽にわびた会、だったと思う、たしか。。)

関羽はいう。曹操の心根には何がひそんでいるか知れたものではない。
劉備はいう。だからわしも努めて畑で百姓のまねごとをしたり雷にわざと箸をおとしたりしてみせている次第だっと。

袁術は自製皇帝の位ももちきれなくなり兄袁紹へ伝国のギョクジを贈って
兄に皇帝の名をとらせ自分は実利をせしめんものと合体運動をおこしていた。
劉備はそれを聞きいった。
曹操の一軍をおかしいただきたいと。
袁術が袁紹の地へいくには徐州の地を通らねばならない。
そこを粉砕してみせると。

劉備は曹操に一軍をかりると足早に徐州の地に帰ってきた。
劉備はいった。
今だからいうがわれ都にあるうちはかごの中の鳥だった。
曹操の気がかわったらいつ何時彼のために死を受けようとも知らなかった。
ああようやく魚が大海に帰り、鳥の青天に帰ったようなここちがする。
曹操の部下の郭嘉は劉備がいなくなったのに気づいていった。
もってのほか。何だって虎に翼をあたえあまつさえ野に放ったのですか。
一体あなたは玄徳を少し甘くみすぎていませんか。
玄徳にいっぱいくわされたのです。
曹操はいった。
しまった。今日のわが失策を百倍にして玄徳に思い知らせてくれるっと。

かねて袁術が袁紹の元へいこうと徐州を通った。
劉備は袁術を襲い徐州の地で滅ぼしてしまった。
伝国のギョクジはかくして曹操の元へわたった。朝廷にかえったのである。

ここで天下で派を争っていたのが曹操と袁紹である。
この二国間が今争いの中心だった。
そんな中あの天子の密詔の義盟が発覚してしまった。
義盟に名をつらねた人たちはことごとく曹操によって殺されてしまった。
もちろん帝(天子)の周囲にもおよんだ。
残ったのが馬騰と劉備である。
劉備は曹操の大群をうけてあっけなく敗れてしまった。
劉備は袁紹の元へ逃げた。
劉備は袁紹の弟袁術を滅ぼしているがそこは外交である。
張飛は他へ逃げ落ちて
関羽は劉備の夫人を守っていたこともあり曹操の包囲を受けて曹操に降伏した。
降将とはいえさながら賓客の礼遇であった。
曹操にとっては日頃の恋がかなったようなまた一挙に十州の城を手に入れたよりも大きな喜びだった。士を愛する曹操である。
三日に小宴、五日に大宴を開いた。
きっと関羽を自分の徳によって心服させて自分の臣下とせずにはおかんっと思った。
曹操は呂布がのっていた赤兎馬まで関羽に贈った。
天子も劉皇叔の義弟かっと親しみをもった。

普段顔にも出さない関羽も、赤兎馬をもらったときには大変よろこんだ。
故主玄徳の行方がしれたときには、玄徳の元へとんでいけるからっということだった。
曹操はそれを聞くと、しまったっとほぞをかんだ。

そのうち天下に派を争っていた曹操と袁紹がとうとう戦争になった。
袁紹の部下の顔良や文醜に誰もあたるべきものがなく曹操軍はおされていた。
そこを関羽が顔良や文醜をあっさり一撃で倒してしまった。
劉備は袁紹の元へ身をよせていたからなんともつらかった。
何度も袁紹に切られそうになったがうまくいいのがれた。
関羽に私がここにいることを知らせてやりさえすれば関羽は日をついでここへやってくるだろうっと。
袁紹はいった。関羽が味方にきてくれれば顔良、文醜が生き返ってくるにもまさる喜びであろうっと。

関羽は劉皇叔(劉備)が袁紹のもとにいることを知って劉備の元へすぐいきたいと思った。
関羽は曹操に暇をもらおうと思ったが曹操はそれをあらかじめ知って門を閉じてしまった。
関羽はしかたなく曹操にもつげず劉備の夫人を車にのせて都を去った。
許可をもらってないので城門を次々と破っていくしかないのである。
かねて関羽が曹操に劉備の身元がわかりしだい劉備の元へかけつけるっと降伏の条件としてあったのだ。

●2003年11月4日
「三国志 4」 吉川英治著 講談社

関羽は赤兎馬に乗り劉備の夫人の車を守護しながら次々に関所を破った。
はや都も遠くなると古城をみつけた。兵士も3千人もいるとか。
たてこもっていたのは張飛だった。張飛のことだから山賊でもやっていたのだろう。
関羽が曹操に仕えて激怒していた張飛だったが、関羽を追ってきた曹操軍を蹴散らす関羽をみて張飛もやはり俺の兄貴だっと一緒に曹操軍を蹴散らす。
張飛が古城にたてこもっていると聞いて徐州の残党たちも集まってきた。
劉備も袁紹の元を脱出し、公孫サンが袁紹に敗れて遍歴していた趙雲もやって来た。
かくして劉備、関羽、張飛、趙雲が集まり涙を流すのだった。
劉備はジョ南を献ぜられて治めることになった。

呉では江東の小覇王といわれた孫策も死に弟の孫権が呉をついだ。

そのうち中央の曹操と北方の袁紹がまた激しく戦争に突入した。
曹操は袁紹の兵糧庫を焼き袁紹を破った。
また許チョがおとりとなり戦っては逃げ袁紹の陣形をくずし
かねて曹操が配備しておいた十隊の兵が袁紹の本陣を一斉におそった(十面埋伏の計)
袁紹は大敗北をとげ血をはいて死んでしまった。

劉備は曹操が袁紹に攻め入ったのを見て留守の許都を襲おうとした。
しかしひるがえって曹操の大群がジョ南にすばやく攻め寄せてきた。
劉備は枯れ葉のごとくやぶれさってしまった。
曹操は、もはやこれ以上痛めつけることはあるまいっと玄徳(劉備)が無力化したのをみとどけて許都に凱旋した。
劉備は、 関羽といい、張飛といい、趙雲といい、みな王佐の才あり、希有の武勇を持ちながら、わしのような至らぬ人物を主と仰いで従ってきたため憂きめにばかりあわせてきた。
それを思うとこの玄徳(劉備)は各々に対して上げる面もない気がするっといって嘆いた。
関羽は、 昔、漢の高祖(劉邦)は、項羽と天下を争って戦うごとに負けていましたが
九里山の一戦に勝って遂に四百年の基礎をすえました。
お気の弱いことを仰せられますなっといって励ました。
劉備は、漢室の宗親、ケイ州の劉表を頼っておちていった。
劉表は、一人の宗親を見捨ててたすけなかったとあれば天下の人が笑うだろうっといて劉備を迎えた。
曹操はそれを聞くと愕然として、しまった、彼をケイ州においこんでしまったのはカゴの魚をつかみそこねて水沢へ逃がしたようなものだっと悔しがった。

翌年、曹操はまた北方へ征伐にでた。
袁紹の息子たちが残っていたのだ。
袁紹の相続争いもあり、内乱もあり、曹操は北方を制覇してしまった。
かくして曹操は中央、北方とすでに中国の3分の1を制覇してしまったのだった。

まだ一国ももたない劉備は劉表のケイ州で賢人とまじわるようになっていった。
ケイ州は後の魏、呉、蜀の中央に位置し多くの賢人が集まってきていたのだった。
司馬徽(しばき)っという人は劉備にいった。
将軍の左右に良い人がいないっと。
劉備はいった。文には孫乾、糜竺、簡雍、武には関羽、張飛、趙雲がいるっと。
司馬徽はいう。関羽、張飛、趙雲は一騎当千の勇ではあるが権変の才はない。
孫乾、糜竺、簡雍たちも、いわば白面の書生で、世を救う経綸の才ではない。
かかる人をようして、あに王覇の大業がなろうかっと。
劉備はいう。今の世に、張良、簫何(しょうか)、韓信のような人物を望む方が無理だっと。
司馬徽はいう。否々、いつの時代でも決して人物は皆無ではない。たたそれを真に用うる具眼者がいないのだっと。
司馬徽はつづける。いま天下の英才はことごとくこの地に集まっている。臥龍(がりょう)か鳳雛(ほうすう)か、そのうちの一人を得給えば、おそらく天下は掌(たなごころ)にあろうっと。
劉備は、臥龍、鳳雛とは誰のことかっと聞くのだが司馬徽はもったいぶって教えてくれないのだった。
それから劉備は徐庶(単福、徐元直)という賢人をみつけ軍師にした。
たかだか何千人の劉備軍だったがそれでも徐庶のおかげで何万もの曹操軍を破ったりした。
しかしその徐庶も曹操に母をとらえられて曹操の元へいってしまった。
徐庶は別れ際に劉備にいった。
あるマチに大賢人がいます。ぜひこの人を訪ねてみて下さい。徐庶の別れの置き土産です。
周の太公望、漢の張子房(張良)などなら彼と比肩できるかもしれません。
すなわち臥龍、鳳雛のうち一人を得れば天下をとれるっといわれた、
臥龍、すなわち諸葛亮、字は孔明であった。

劉備は何度も孔明を訪れるが孔明はいつも不在であった。
関羽や張飛はおもしろくなかった。
3度目にやっと孔明に会うことができ、三顧の礼をもって孔明を迎えた。
広大な領土をすでに治めた曹操と、国はないが孔明を見いだした劉備と、どちらが大きいか、どちらが小さいか、その結果をみるまでは軽々しく即断はできない。
曹操は中央、北方をすでに治めうち破るのは難しい、呉の孫権もすでに南方を治めこれをうち破るのも難しい。劉備はケイ州、益州の蜀をおさえて二国にあたろうっと。
中国大陸は大きすぎて3分割くらいにしたほうがいいと。
すなわち孔明が打ち出したのは天下三分の計であった。

劉備はいった。わしが孔明を得たことは魚が水を得たようなものだっと。(水魚の交わり)
張飛は孔明を見ると、水が来た、水が流れているっなどとあざけっていた。
そのうち曹操軍は夏侯惇を大将として10万の部隊が劉備のまかされている新野にせめてきた。
劉備の兵力はわずか数千しかいない。
張飛はいった。たいへんな野火ですな。水を向けて消したらいいでしょうっと。
夏侯惇は大兵でおしまくってきた。
先鋒の趙雲は孔明のいうとおりいつわっては逃げいつわっては逃げた。
夏侯惇が、兵法の初学にも、難道行くに従って狭く、山河相せまって草木の茂れるは敵に火計ありとして備うべしっと、思い出したときはもう遅かった。
伏兵が現れ、火攻めをうけ、関羽、張飛など、とって返した趙雲など最近劉備の養子になった劉封などなどさんざん曹操軍に追い打ちをかけて大勝利した。
関羽はいった。この作戦は孔明の指揮に出たものであるから彼の功は否みがたい。
張飛はいった。むむ。計は図に当たった。彼奴(きゃつ)もちょっぴり味をやりおる。
張飛はなおいくらかの負け惜しみを残していたが内心では孔明の知謀を認めないわけにはいかなかった。
新野にひきあげていくと彼方から来る車の上に悠然と孔明が乗っていた。
威光というものは争えない。関羽と張飛はそれを見ると理屈なしに馬を降りてしまった。
そして車の前に拝伏し夜来の大勝を孔明に報告した。

その内劉表も病気になってしまった。
劉備は再三ケイ州を治めてほしいっといわれたが劉備は受けなかった。
同じ親族の国を奪うのはしのびがたいっとか劉表には子供もいるのにっという理由による。
孔明も再三劉備にお受けしてはどうかっといったが断る劉備をみて、なるほど仁君であるっといった。
その内劉表も死に子供の劉g、劉jが内輪もめをしだした。内輪もめは前からだったが。。
そこへ今度は曹操自身100万の大群で攻めてきた。
劉jの勢力が曹操に降伏してしまうし劉備も退いていくしかなかった。
曹操軍の先鋒の曹仁、許チョは劉備が退いていった街を占領してそこで休んでイップクして酒を飲んでいた。
そこへ火攻めである。混乱について趙雲、劉封、糜芳などが敵を殲滅し、
曹操軍が火計におちて河に逃げたトコロを関羽があらかじめ作っておいた河のセキを切った。
洪水のような濁流は曹操軍数万の兵を雑魚のように呑み消した。
すべて孔明のはかりごとである。

 

孔明の思い
春秋の宰相管仲、戦国の名将楽毅、こうふたりを心に併せもって、ひそかにわが文武の才幹は、まさにこの二人に比すべし



●2003年11月13日
「三国志 5」 吉川英治著 講談社

孔明の火計により曹操軍は河に逃げた。
それをみはからって関羽があらかじめ築いておいた河のセキを切った。
曹操軍数万は濁流に飲み込まれてしまった。
曹仁や曹洪はこの大難から辛くもまぬがれるもここへ待ち受けていたのは張飛だった。
曹操軍は壊滅した。
ああ愉快、久しぶりで胸がすいたぞ。これくらい叩きのめせばまずよかろうっと張飛はいい、
劉備たちは退却していった。
しかし劉備を慕って数万の民衆が後を追ってついてきた。
劉備は民衆をすててはいけず一日少ししか進むことができなかった。
関羽は、劉表の息子の劉備よりの江夏の劉gの元へ援軍を頼みにいった。
もうひとりの劉表の息子は曹操に降伏してしまったのだ。
劉備が逃げているトコロは見渡す限りの大平原で兵もかくすトコロもなく何の策も用いられないので孔明も劉gの元へ援軍を頼みにいった。
そのうち曹操軍の大軍勢が劉備の元へせまった。
民衆をつれている劉備である。曹操軍に劉備軍は蹴散らされてしまった。
趙雲も曹操に寝返ったらしい。趙雲が曹操軍の方へ行くのを見た人が何人もいた。
殿(しんがり)を果たして張飛が追いついてきたがそれを聞いて
それがホントなら趙雲を刺し殺してくれねばならんっと20騎ばかりの部下をひきつれ張飛は再び後へ駆けだしていった。
すると河に頑丈が木橋がかかっていた。長坂橋っとある。
張飛は裏の林の中に部下をかくし大勢いるようにみせかけて、長坂橋の上にたった一人、馬をたてた。
一人で大軍勢を防ぐ構えである。
趙雲は寝返ったのではなかった。
劉備の長男幼主阿斗(劉禅)の守護を命じられていたので阿斗を見失い曹操軍の中をたった一人阿斗を探してかけめぐっていたのだった。
曹操は山の上から軍の情勢を眺めていたが、ふいに指さして
あれは誰だ?無人の境を行くようにわが陣地を駆け破って通る不適者は。さてはかねて聞く趙雲子龍であったか。狩猟をするように追い込みこれへ生け捕って連れてこいっと。
趙雲も曹操軍全員に目を付けられたらたまったものではない。
ようやく阿斗を見つけた趙雲は死にものぐるいでやっと長坂橋まで逃げ戻ってきた。
張飛も誤解を解いて、はやく長坂橋を渡れ。あとは俺にまかせろっと構えた。
曹操軍何十万の大群が長坂橋まで攻め寄せてきた。
すると一騎の猛者がすごい形相をしてにらめつけている。張飛である。
曹操軍はたった一人の張飛におそれおののいた。
曹操は昔、関羽がいった言葉を思い出した。自分の義弟に張飛というものがある。
張飛に比べれば自分の如きはいうにたらん。彼がひとたび怒って百万の軍中に駆け入るときは大将の首を取ることも袋の中の物を探って取り出すようなものだっと。
曹操はいった。うかと孔明の計にのるな。橋上の匹夫は敵のおとりだ。対岸の林には兵がかくしてあるぞっと。
曹操軍の夏侯覇は、何ほどのものがあるかっと張飛に討ってかかった。
夏侯覇は一撃で張飛に切り下げられた。
またみなおそれおののいて数十万の兵は動揺した。
曹操も士気の乱れをさっしてにわかに諸軍へ、退けっ、っと命令した。
退けっと聞くと軍兵はみな山の崩れるように先を争って逃げた。大混乱だった。
玄徳(劉備)も、わが運命もこれまでっと観念していたところだったが逃げ延びることができた。
曹操も、今をおいて玄徳を討つ時なく、ここで玄徳を逸したら野に虎を放つようなものだっとどこまでも追おうとしたが関羽や孔明が援軍を連れて帰ってきた。
玄徳の生涯の内でもこのときの敗戦行は大難中の大難であった。
関羽はいった。昔、許田の御狩の会し、それがしが曹操を刺し殺そうとしたのを、あの時あなた様がお止めにならなければ、今日、こんな難儀にはお会いなさるまいものをっと。
劉備は江夏に身をよせた。

曹操はケイ州に居座って対呉政策に乗り出した。
呉の魯粛はこう解釈した。玄徳の勢いが衰退したので曹操はたちまち呉へ大群を転じてきたものです。
故に玄徳が強力となれば背後の憂いがありますから曹操は決して思い切った行動を呉へ試みることはできませんっと。
孫権の呉を操っていたのは魯粛っと周瑜である。

孔明はこう考えていた。
呉は遠く曹は近く、結局我々の抱く天下三分の理想、すなわち三国鼎立(ていりつ)の実現を期するには、あくまで遠い呉をして近い曹操と争わさなければならない。
両大国を相討たせて、その力を相殺させ、わが内容を拡充する。
孔明は、わたくし自身、一帆の風にまかせて呉国に下り、三寸不乱の舌をふるって、孫権と曹操を戦わせ、しかも江夏の味方はそのいずれにもよらず、一方の敗れるのを見てから遠大にしてなお万全な大計の道をおとりになるように見せますっといって呉へ使いにいった。
かくして孔明は呉に渡り弁をふるって呉と曹操を戦わせることに成功した。
呉と曹操軍は大河(長江かな)をはさんで膠着状態になった。大戦艦などが建造され船での戦いである。
呉の周瑜と孔明は火計をつかおうとした。
でもこの季節(たしか秋)に北からの風はふいても東南の風がふくことはない。
北岸の魏軍に対して火計をおこなえば、かえって味方の南岸に飛び火し船も陣地も自ら火をかぶるおそれがある。
孔明は、東南の風がおのぞみならばわたくしが風を祈ってみますっと祭壇をもうけて風を祈った。
はたして北風しかふかなかった風が東南の風にかわり旗がみな反対向きにひるがえった。
呉は曹操軍に火計による大攻勢をかけ、孔明は劉備の元へ帰っていったのだった。
趙雲は迎えにきていた。
孔明が呉に行く前に、11月の20日はまさしく甲子にあたります。その日は趙雲に命じて私を待つようにお伝え下さい。必ず東南の風の吹く日に帰りますっといったのだ。
その時劉備はいった。先生、どうして今から東南の風がふくことがわかりますか?
孔明はいった。十年、隆中の岡に住んでいた間は、毎年のように、春去り、夏を迎え、秋を送り、冬を待ち、長江の水と空ゆく雲を眺め朝夕の風を測って暮らしていたようなものですから、それくらいな観測はほぼずれない程度の予見はつきます。
孔明の心中にまた別に自身のあることだった。
毎年冬11月ともなれば潮流と南国の気温の関係から季節はずれな南風が吹いて
1日2日の間、冬を忘れることがある。
その変調を後世の天文学語で貿易風という。
ところが今年に限ってまだその貿易風がやってこない。孔明も長らく隆中に住んでいたので年々つぶさに気象に細心の注意を払っていた。
一年といえどもまだそれのなかった年はなかった。
っでどうしても今年はやがて間近にその現象があるものと確信していたのである。

孔明は夏口に帰るとさっそく指示を出した。
曹操の大敗北は疑いのない。これに応じて一気に曹操軍をたたくのである。
趙雲と張飛に曹操は必ずどこそこへ逃げてくるからそこをたたけっと指示を出した。
でも関羽にだけ何も命じなかった。留守役である。
関羽にとっては心外だった。一度も戦場で遅れをとったことのない関羽である。
孔明はいった。曹操は敗れ逃げ走ってくるだろうから関羽が曹操の首をあげることは袋の中の物をとるほどたやすいことだが、関羽の性情として必ず旧恩に動かされ、曹操の窮地に同情して逃がしてやるのにちがいない。
関羽はいった。なんで、今ふたたび彼を見逃すべきや。万一、私心に動かされたりなどしたらいさぎよく軍法に服しましょう。
趙雲、張飛、関羽は出陣した。
劉備はいった。やはり関羽には留守を命じたほうがよかったろうか。
孔明はいった。天文を見るに曹操の命運はここでつきるとは思われない。
彼にはなお天寿がある。ゆえに関羽の心根に昔受けた曹操の恩に対して今もまだ報じがたい情があるならその人情をつくさせてやるのも良いではありませんかっと。
劉備はいった。先生、あなたはそこまで洞察して関羽をつかわしたのですかっと。
孔明はいった。およそそれくらいのことがわからなければ兵を用いてその要所に適材を配することはできませんっと。

この戦いで曹操軍は大敗北をとげた。(この戦いを世に伝えて赤壁の戦いという)
孔明の指示は確かで曹操はみな孔明のいったトコロに逃げ走ってきた。
趙雲、張飛は曹操軍に大殲滅をくわえて帰ってきた。
曹操の首を捕ったのは関羽だったかなっと話していた。
そこへ関羽が帰ってきた。関羽はオシのようにだまっている。
関羽はやはり悲惨な曹操、曹操軍を見てあわれんで見逃してしまったのである。

そして呉軍と曹操軍がケイ州でやりあっているスキをついて劉備はケイ州の3城を奪ってしまった。
呉軍と曹操軍が城を出てやりあっている留守に関羽、張飛、趙雲が城を奪ったのである。
玄徳はいった。労せずしてとったものはまた去ることもやすし。
3ヵ城の城は先生の計ひとつで余りにやすやすとわが手におちたがそれだけに長久の策を思わねばならんと考えるが。
孔明はいった。三カ所の城が一挙にお手に入ったのも実にわが君が多年の辛苦から生まれたものでやすやすと転げ込んで来たものではありません。
玄徳はいった。でも一戦も交えず一兵も損ぜずにこの中央にわが所を得たのは余りに幸運すぎる。
孔明はいった。ご謙遜です。みな君の御徳と、積年の労苦がここに結集したものです。
はやい話が君にその積徳とご努力が過去になかったらこの孔明ひとりでも、今日、お味方の内にはいなかったでしょう。
玄徳はいった。では先生、どうかさらに、玄徳が労苦をかさね、徳を積んでいく長久の計をさずけてほしい。
孔明はいった。人です。すべては人にあります。領地を拡大するごとにさらにそれを要します。
その地方で賢人の噂の高い馬良、馬謖(ばしょく)などを迎えるのだった。
そしてそこを基盤にして南の4郡を制圧した。
良将、黄忠を得た。
魏延も得た。しかし魏延は孔明が不義者だから切れっといったが、
劉備は、せっかくわが麾下にひさまずいてきたものを、たちまち罪をかぞえて切りなどしたら玄徳の陣門に降をこうものはなくなるだろうっと魏延をかばった。
劉備はケイ州九郡の大半を得た。
孫権の妹と劉備の婚姻もなった。劉備の夫人はなくなっていたのである。
それを聞いた曹操は思わず手に持っていた箸(はし)を取り落とした。放心してしまった。
曹操はいった。これがおどろかずにはいられるか。玄徳は人中の龍だ。彼、平生に水を得ず伸びんとして遂に伸び得ず深く淵にいたものが今ケイ州を獲たとあっては、これ龍が水に会うて大海に出たようなもの。あに、驚かずにいられよう。

臥龍(がりょう)、鳳雛(ほうすう)、一人でも得れば天下が取れるっといわれた、鳳雛ことホウ統も動き出していた。

ホウ統は、鳳凰(ほうおう)の雛(ひな)。
孔明は、臥(ふ)せる龍に似る。

ホウ統は呉に滞在していたが、風采がよくないので孫権は用いなかった。
ホウ統は、孔明の書と呉の魯粛の書をたずさえて劉備の元へ?




三国志名言
士は己を知るもののために死す(5巻じゃないけど。。)

どこかに書いてあったこと
人が重んじなければならないのは、孝、忠、義、である。

●2003年11月22日
「三国志 6」 吉川英治著 講談社

ホウ統は孔明が地方へ巡察へいっている留守に劉備のケイ州に来た。
ホウ統は孔明の書状も呉の魯粛の紹介状もわざと出さなかった。
劉備は、では鳳雛先生か、と心をはずませてホウ統に会ったが、
ホウ統は風体はいやしげだし顔はみにくいときているので劉備もがっかりして片田舎の県令があいていると片田舎へとばしてしまった。
ホウ統はそこの知事に着任してもほとんど役所の事務もしないし訴訟などもほうりだしていた。
当然、その地方民の怨嗟や糾弾や非難の声が聞こえてきた。
濃厚な玄徳(劉備)も、憎い腐れ儒者めっといって張飛に実状をだたして来いっといった。
張飛がその地についてみるとやはりホウ統は酒びたりだった。
張飛がつめよるとその次ぎの日から裁判を始め山と積まれた訴訟も夕方までには1件も残らずかたずけてしまった。
張飛は床に伏して、まだかつて大兄の如き名吏をみたことがないっと先の言を深く謝した。
張飛がいうくらいだからホウ統の裁判はすごかったのだろう。
ホウ統は張飛が帰るとき主君に渡してくれっと魯粛からもらった紹介状を出した。
玄徳は報告を聞きまたその書簡を見て非常にびっくりした。
玄徳はいった。ああ、あやうく大賢人を失うトコロだった。人は風貌ばかりではわからないっと。
そこへ巡視にまわっていた孔明が帰ってきた。
玄徳は間が悪そうにホウ統は片田舎の知事をやっているっというと
孔明は、あのような大器をそんな地方の知事などにやっておいたら暇をもてあまして酒ばかり飲んでおりましょう。わたしからも推挙の一筆を渡してあるのにそれは出しませんでしたか。っといった。
やがてホウ統はケイ州に帰ってきた。
玄徳は不明を謝しなお孔明とホウ統に酒をたまわって心からいった。
昔、司馬徽(しばき)、徐庶先生がもし伏龍(臥龍)鳳雛ふたりのうち一人でも味方にすることができたら天下の事も成ろうっといわれたことがある。
こんな不明が玄徳にその二人までがともに自分をたすけてくれようとは、ああ、思えば玄徳は果報すぎる。慎まねばならん、慎まねばならん。
ホウ統はその日から副軍師に任ぜられた。

魏の都へ細作(密偵)はこうのべた。
決してばかにできないのはケイ州の勃興勢力です。
孔明の下に、関羽、張飛、趙雲の三傑があるトコロへ今度は副軍師のホウ統を加え、
参謀府に龍鳳の双璧が並び、その人的内容はまったくここになったという形です。
ゆえに近頃は、もっぱら兵員拡充と軍需の蓄積に全力をそそぎ、
いまやケイ州は毎日、兵馬の調練、軍需の増産や交通、商業などの活発なこと実にめざましいものがあります。
曹操はそれを聞くと荀攸にはかり西涼の馬騰に劉備を攻めさせようと馬騰を召した。
馬騰は都にきてまず曹操に会いケイ州討伐の任を受け、次ぎの日朝廷に上って天子を拝した。
命は曹操から出ても名は勅命である。曹操の意思は決して天子の御心ではなかった。
帝はいった。汝の祖先馬援は青史にも残る程な忠臣であった。汝もその祖先を辱めることはあるまい。
思え、玄徳は漢室の宗親である。漢朝の逆臣とは彼にあらず。
曹操こそ朕を苦しめ、漢室をくらくしている大逆である。
馬騰、そちの兵はそのいずれを討ちに来たのか。
馬騰、忘れはおるまいな。昔、董承と汝へ降した朕の密勅を。
あのオリは未然に事やぶれたが、この度そちが上洛のゆえを聞いていかに朕が心待ちにしていたかを察せよ。

馬騰は曹操を殺そうとしたがたくらみがばれて馬騰は曹操に殺されてしまった。
このとき曹操の都ではケイ州の劉備が蜀に攻め入りそうだと情報が入ってきた。
曹操はかく聞いて胸を痛めた。
もし玄徳が蜀に入ったら、淵の龍が雲を獲、江岸の魚が蒼海へ出たようなものである。
ふたたび彼を一僻地へ屈服せしめることはもうできない。
魏にとって重大な強国が新たに出現することになろう。
曹操は呉を攻めようかと計った。
そうすれば呉は劉備に協力を頼み劉備は進みに進みえず、退くに退けえず両難に陥るだろうと。
劉備が協力しなければ一気に大群で呉を攻めてしまおうという腹でもある。
魏の30万の大群は呉に迫った。
呉の孫権はこういうときこそ玄徳とのよしみを活かし協力を求めようと思った。
呉の使者に孔明はいった。安んじられよ。呉国の人々は枕を高くして可成り。
もし魏群30万の来るあらば孔明これにあり直ちに彼を撃破せん。
玄徳はいった。軍師、あのような大言を申しやってよろしいのかっと。
孔明は大丈夫ですっといった。
西涼の馬騰がつい先頃、都で殺されたので、本国に残っている嫡男の馬超と語らへば
馬超ひとりでたやすく曹操以下30万の精兵を魏一国に金縛りにできるっということだった。
果たして劉備から使いを受けて西涼の馬超はまたたくまに長安を占領した。
曹操の本軍がやってきたがそれでも馬超軍はなお優勢だった。
曹操は謀をつかった。馬超の部下の一人と仲良くみせかけておきその人に偽書を送り
馬超軍内部で疑いをもたせる作戦だった。
偽書一つで簡単に仲間割れになるものである。曹操に内通者が出て謀反がおこり内乱がおこり一気に馬超軍は曹操軍にやられてしまった。
戒めなければならないのは仲間同士の猜疑である。
味方の中に知らず知らず敵を作ってしまう心なき業である。
曹操は完全なる敵中作敵の計に成功したものといえる。

漢中の張魯は勢力をのばし蜀の国をうかがっていた。
蜀の劉璋は国があやういと思い張松に魏へ使いさせた。魏の曹操に頼ってみようと思ったのである。
張松は思っていた。蜀はとうてい今の暗愚な劉璋では治まらない。
いずれ漢中の張魯に侵略される運命にある。
それで今度の使命を幸いに、もし曹操の人物さえ良かったら蜀の国を曹操にとらせてもよいっと。
しかし張松と曹操は水と油の関係のようにあわなかった。
張松は曹操が気に入らなかった。
人と人との応接は要するに鏡のようなものである。
驕慢は驕慢を映し、謙遜は謙遜を映す。
人の無礼を怒るのは自分の反映へ怒っているようなものといえよう。

張松は帰りにケイ州の劉備の元へたちより劉備を気に入りこの人ならばっと思った。
劉備はいった。蜀の劉璋は漢室の流れをくむ家、血筋においてわが同族、
なんでその国家を犯してよいものぞっと。
張松はいった。そのお考えは小義を知って大義にくらいものと申さねばならん。
元来、劉璋は暗弱の太守、無能の善人、いかにこの時代の大きな変革期を乗り切れましょうや。
現状のままでは、明日にも漢中の張魯に侵されて蹂躙されてしまうしかありません。
劉備はいった。いま予と水火の争いをなす者は曹操だ。
その曹操を敵として戦うに、これまではすべて彼の反対をとって我が方略としていた。
彼が急を以てすれば、我は緩を以てし、
彼が暴を以てすれば、我は仁を行い、
彼が偽りなせば、我は誠を以てしてきた。
それを自ら破るのがつらい。
当然劉璋は滅び去ろう、玄徳、同族の者をあざむいて蜀を取れりといわれては、
予がいままで守ってきた仁義がなくなる。
小利のため大儀を天下に失うはつらいというのだ。
張松は強く蜀へ劉備をいざない帰っていった。

はたして劉備は漢中の張魯を追い払うためと称して蜀へ入っていったのだった。
ホウ統を軍中の相談役として関平、劉封、魏延、黄忠などを連れて行った。
何より大事なのはケイ州の守りである。
留守の隙をねらわれたり不測の事態が生じたとき万全な備えがなくてはならない。
留守に孔明、関羽、張飛、趙雲を残した。

昔青年時代、まだ宮門の一警手にすぎなかった頃の曹操は胸いっぱいの志は燃えていても
地位は低く、身は貧しく、たまたま同輩の者が上官に媚(こ)びたり甘言につとめて立身を計るのを見ると
何たるさもしい男だろうと、その心事をあわれみ、また部下の甘言を受けて人の媚びを喜ぶ上官にはなおさら侮蔑(ぶべつ)を感じ、その愚(ぐ)を笑い、その弊(へい)に唾棄(だき)したものだった。
実にかつての曹操は、そういう風靡(ふうび)たる気概を持った青年だった。
ところが最近の彼はどうだろう。
彼はいつか昔は侮蔑し唾棄し、またその愚を笑った上官の地位になっていた。
しかも今の彼は人臣の栄爵を極め、その最高の身だけにその巧言令色に対する歓びも受け入れ方もとうてい昔の比ではない。
この際、魏公の位に昇って九シャクを加えられてはいかがですかっとすすめられると
すぐその気になって朝廷にそのゆるしを求めた。もちろんその意のままになる。
彼は以後、魏公と称し、出るも入るも九シャクの儀仗に守られる身となった。
これを見た荀ケは悲しんだ。
曹操が、荀ケは我が張子房(張良)であるといった人である。
荀ケはいった。丞相、すこしあなたもお年をお召しになり過ぎはしませんか。
曹操はいった。何故だ。
荀ケはいった。愚に返ったところがお見受けされます。
曹操はいった。予が九シャクの礼を持ったことをいうのか。
荀ケはいった。そうです。功いよいよ高きほど、ご自身は退謙(たいけん)をお示しあるべきです。
しからずんば、せっかく三十余年、旗に漢室への忠誠をかざし口に万民のためと称しながら
結局あなた自身の欲望に過ぎなかったということになりましょう。
弱冠、生死の迷妄を捨て、百戦苦闘、今日を築いてきながら、その精神と節操を
門の飾りや往来の見得などと取り替えるなどは、
実につまらぬ人生の落ちではありませんか。
荀ケは涙をふくんでいさめた。
曹操はぷいっと席を立って、以来荀ケは病と称して自邸にひきこもってしまった。
曹操から呼びにきても、この度はお共できませんっと参加を辞していた。
ついに魏公からのお見舞いであるっと使者がきた。
贈り物をよこした。食べ物らしい器に入っている。曹操自ら之を報ずっという紙がかかっていた。
開いてみると器の中には何も入ってなかった。
荀ケは、お気持ちはよくわかった。ああ。っとその夜、自ら毒を飲んで死んだ。


劉備は蜀に入って張魯や劉璋と戦っていた。
ケイ州の孔明から書簡が来た。
天文をみるとよくない。進軍は慎重に。くれぐれも身命をつつしみ給えっと。
劉備は、あらなつかしの文字、まずそのすみの香、文字の姿に瞳を奪われてから読み入った。
劉備は孔明の書簡に心をとられていた。
ホウ統は嫉妬心に似たものをおぼえた。
彼は彼自身と胸の中で戦っていた。
抑えようもなく心の底にむらむら起こってくる不思議なねたみ心を自ら恥じてうち払おうとつとめていたが、
結果はわれにもなくその理性と反対なことを口に出していた。
すぐ進軍すべきだっと。
進軍しようとするとホウ統の馬が前脚を折ってホウ統は落馬してしまった。
劉備は自分の白い馬をホウ統に贈った。
そして落鳳ハっという険しい道にさしかかったところ、
ホウ統はあれが劉備だっとねらいをつけられ矢のあられにあって
希有の雄才をむなしく抱いておしくもはやくも死んでしまった。

孔明、張飛、趙雲も蜀に入ることになった。
ケイ州の守りは関羽にたくされた。
孔明は関羽にいった。北は曹操を防ぎ、東は孫権と和すようにっと。
その劉備たちの前にたちはだかったのは、漢中の張魯の元へ頼って落ちてきていた馬超だった。
張飛と馬超が激しくやりあうがいつまでも勝負がつかなかった。
馬超は説かれた。
玄徳は仁義にあつく、徳は四海に及び賢を敬い、士をよく用いる、かならず大成する人だ。こういう公明な主を選ぶに何で後ろ暗いはばかりをもつことがある。
第一、玄徳に力を添えて曹操を討つは、大きくは四民万象のため、一身には父母の仇を報じる大孝ではないかっと。
説かれて馬超は玄徳に降った。
玄徳は、ともに大事をなし他日の後世を楽しもうではありませんかっと上賓の礼をとった。
馬超は、いま初めて雲霧を払って真の盟主を仰いだここちがするっといった。

劉備はついに蜀をとり善政をしいた。
劉璋時代の悪政とくらべて新政府の徳をたたえ、業をたのしみ、歓びあう声、家々に満ちた。
予ははじめて予の国を持った。玄徳も万感を抱いた。
蜀の国はじまって以来の栄光が全土にみなぎった。
国ばかりでなくこのときほど、また彼の左右に人の集まったこともない。
軍師孔明、
関羽、張飛、趙雲、黄忠、魏延、馬超、
孫乾、簡雍、糜竺、糜芳、劉封、関平、周倉、廖化、馬良、馬謖、ショウエン、移籍、
厳顔、法正、〜〜〜〜〜〜

この前後、孔明は政堂にこもって新しき蜀の憲法、民法、刑法を起草していた。
その条文は極めて厳であったので法正がおそるおそる忠告した。
せっかく蜀の国の民は今、仁政を喜んでるトコロですから漢中の高祖のように法は三章に約し
寛大になすってはいかがですか。
孔明は笑って教えた。
漢王は、その前時代の秦が苛政、暴政を布いて民を苦しめたあとなので
いわゆる三章の寛仁な法をもってまず民心をなじませたのだ。
前蜀の劉璋は、暗弱、ほどんど威もなく、法もなく、道もなく、かえって良民のあいだには
国家にきびしい法律と威厳のないことが淋しくもあり悩みでもあったところだ。
民が峻厳を求めるとき、為政者が甘言をなすほど愚かなる政治はない。
仁政と思うは間違いである。
孔明はなおいった。
民に恩をしらしめるは政治の要締であるが、恩になれるときは民心が慢じてくる。
民に慢心放縦の癖がついた時、これを正そうとして法令をにわかにすれば
弾圧を感じ、過酷を誹り、上位下位、相もつれてやまず、すなわち相剋して国は乱れ出す。
いま戦乱の後、蜀の民は、生色をとりもどし、業についたばかりで、その更生の立ち際に
峻厳な法律を立てるのは、仁者の政(まつりごと)でないようであるが事実は反対であろう。
すなわち今ならば、民の心は、どんな規律に服しても安心して生業を楽しめるは
有難いという自覚を持っているし、前の劉璋時代とちがって賞罰の制度が明らかになったのを知れば
国家に威厳が加わって来たものとしてむしろ安泰感を盛んにする。
これ民が恩を知るというものである。

曹丞相はもう魏王の位につかれるべきだっといわれるようになった。
噂を聞いて荀攸(荀ケの弟)は固くいさめた。
曹操は、荀攸もまた荀ケにならおうとするのか、ばかなやつだ。っと立腹した。
人づてにそれを聞いた荀攸はいたく気を病んで門を閉じて自ら謹慎したまま遂にその冬病死してしまった。

曹操の娘を宮中に入れて皇后の位についた。
曹操もまた国キュウという容易ならぬ身分を加えた。
そのうち曹操は魏王になった。
曹氏の縁につながりなくんば人と生まれても人にあらずっといわれるようになっていた。

曹操は漢中の張魯を攻めて漢中をえた。

蜀の玄徳は内治の功をあげいよいよ漢中に進行の気勢を示した。
黄忠が活躍し夏侯淵をはふってしまった。
いよいよ劉備と曹操の真っ向勝負が始まった。
まずはじめに蜀の兵が逃げた。
曹操はひきがねを打った。
曹操は蜀の兵の潰走がほんとでないとみたので大事をとったものだった。
ところが魏軍が退くと、果然蜀は攻勢に出てきた。
どうも事ごとに曹操は自分の知恵と戦ってその知に敗れている形だった。
知者はかえって知におぼれるという。
孔明が曹操に対しての作戦は、すべて曹操自身の知を持って曹操の知と戦わせその惑いの虚をつくにあった。
かくて曹操が自負していた知謀もかえって曹操の黒星をますばかりだった。
蜀の名だたる武将、張飛、魏延、馬超、黄忠、趙雲などが圧倒してくるのだった。
魏軍は敗北して曹操も重傷をおって退いていった。
劉備は再三辞退したが孔明などのすすめで漢中王になった。
五虎大将軍として、関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲が任命された。
魏延は漢中の太守に任じられた。
中国大陸はまさに魏、呉、蜀の三国で争われることになった。

曹操は呉に、呉がケイ州を攻めれば魏は呼応して玄徳の側面をつかんっという使いを送った。
使いの満寵はいった。
魏と呉とはもとより何の仇もなく、ただ孔明の策に災いされ、過去数年の戦いを見たものです。
その結果、利を獲たものは、実に、呉でもなく魏でもなく、いまや蜀漢二川の地を占めている玄徳ではありますまいか。
魏王曹操も、非をさとり、貴国と長く唇歯のよしみを結んで、共に玄徳を討たんという意思を抱いております。
ねがわくは、相侵すなく、両国の修好共栄の基礎がここに定まりますように。っと。

かくして魏、呉、蜀、の中央、ケイ州の位置が微妙になってきた。
要所ケイ州は関羽に託されていた。。。

魏では司馬懿仲達が頭角をあらわしてきていた。

 

 

 

●まだ7巻、8巻がありますがこれで終わりにしたいと思います。

はじめ簡単にアラスジを書いて感想を書こうと思っていたのですが、
アラスジばかりに身が入りアラスジになってしまいました。
このアラスジのほとんどは吉川英治さんの言葉であり要所を抜き出し短くしたにすぎません。
吉川英治さんの三国志は奥が深く読めば読むほど味わい深いものがあります。
私が取り上げなかったトコロでも実に味わい深いトコロがたくさんあります。
是非みなさんに吉川英治さんの三国志を読んでいただきたいです。
7巻、8巻は名だたる武将が次々に亡くなっていき最後に残った孔明が亡くなったトコロで終わります。
人が次ぎ次ぎに亡くなっていくのを書くのはイヤなのでここで終わりにしたいと思います。

今の子供たちは三国志のゲーム(真・三国無双1・2・3)などをよくやっているので
是非大人になったときに吉川英治さんの三国志を読んでいただきたいです。
私も1990年頃にパソコンからファミコンに移植された三国志のシミュレーションゲームがやりたくて、
武将とかもおぼえたかったし一生懸命吉川英治さんの三国志を読みました。
私が二十歳頃で夜学の大学に通っていた頃だと思います。
高校卒業した頃に友人がパソコンで三国志のシミュレーションゲームをやるのをみせてもらったのがきっかけでした。
その頃にファミコンで発売された信長の野望というシミュレーションゲームにもはまっていた影響もあります。これもまたパソコンからの移植ですが。
それで三国志や戦国時代の歴史小説から多く読むようになりました。
週刊少年ジャンプを長いこと(10年以上)読んでいたので漫画とゲームと歴史小説の融合がありました。
夜学の大学で経済学を少しならったので政治経済関係の本も結構読んでいたのでそういうのもちょっと融合されました。
どうでもいい話になってきたのでこのへんで。。。

三国志の漫画は「天地を喰らう」しか読んだことはありません。
横山光輝さんの三国志の漫画は昔10巻まで買いました。読んでない。。全60巻くらいですね。