下から書いてます
■2006年10月5日
「真田太平記」 十二巻 池波正太郎著 新潮文庫
大阪の役の後、家康も亡くなった。
将軍徳川秀忠は関ヶ原の折り真田のせいで関ヶ原の戦いに間に合わなかったことにより
真田を深く恨んでいた。
また大阪冬の陣、夏の陣で次男真田幸村が豊臣方についたことにより徳川方についた長男真田信之は苦境にたたされる。
しかし生き残った忍びの働きなどによりお家断絶をまぬがれ家督を守る。
真田信之は90歳近くまで生きた。
真田信之の妻は家康筆頭武将の本多平八郎忠勝の娘で稲姫である。小松殿とよばれている。
家督が守れたのもそのせいが大きい。
■2006年10月3日
「真田太平記」 十一巻 池波正太郎著 新潮文庫
一度は和議になったもののまたたくまに戦いがはじまった。大阪夏の陣である。
大阪側7万8千、関東側15万5千。
大阪城は冬の陣で和議になったときに堀をすべてうめられてしまったので、
大阪城を出て野戦で戦わなければならない。
野戦の得意な家康。ちなみに秀吉は城攻めが得意。
冬の陣の時もそうだったんだけど夏の陣でも家康が江戸から出てくる途中をつこうとする案があったのだけど真田幸村などが考えた作戦などもほとんどつかわれることがなかった。
豊臣秀頼と淀殿のまわりにはあまり良い人がいなかったのである。
結局大阪城で戦いをすることになった。
決戦は1日で終わる。再び起こる関ヶ原といってよい。
真田幸村軍は家康本陣にせまり家康は1里(4qかな)ほども退いた。
一度は家康も死を覚悟したらしい。
でも家康の軍はあつみがあり幸村の突進もこれまでだった。
真田幸村死亡。。。
秀頼、淀殿死亡。。。
■2006年9月30日
「真田太平記」 十巻 池波正太郎著 新潮文庫
豊臣と徳川の開戦があきらかになると浪人が次々と豊臣秀頼のいる大阪城に入った。
浪人の数はまさに12万ほども入城した。
関ヶ原で負けて家督を奪われた浪人がいっぱいいたのである。長曾我部などなど。
真田幸村も蟄居していた九度山をぬけ大阪城に入った。
幸村は、浪人たちが思い通りに動くように指揮をとる練習をした。
これが浪人たちにはおもしろく士気も上がった。
また幸村は大阪城南方に出城、真田丸をつくる。
豊臣秀頼22か23歳、家康73歳。
ついに戦いははじまった。大阪冬の陣である。
幸村は真田丸に徳川軍を呼び寄せ撃滅させた。
しかし徳川軍が大阪城に打ち込んだ大筒に驚いた淀殿(秀頼の母)はすぐ和議を結んだ。
和議を結ぶと徳川軍は大阪城の堀を全部埋めてしまった。
冬で寒かったからすぐ和議にしたんだろうと考えたことがあったんだけど、
そのことは少し書いてありました。
天海、光秀説なども書いてあったり。
真田太平記は20代の頃に3回くらい読んだのですが文章などほとんど忘れていました。
やはり何回も読まないとダメかな。
■2006年9月28日
「真田太平記」 九巻 池波正太郎著 新潮文庫
成長した豊臣秀頼だが、加藤清正など豊臣恩顧の大名が次々と亡くなった。
加藤清正については徳川が毒殺をつかったという設定になっている。
家康は自分が生きているうちになんとか秀頼をかたづけようと思っている。
そこで豊臣家で建てたお寺の鐘名をもちだした。
国家安康、君臣豊楽。
これは家康の字を安で分割して家康を呪っているものだともちあげたのである。
一気に豊臣家と徳川家の間は険悪になった。
大阪城には浪人が集まりだす。
父、真田昌幸亡くなる。
■2006年9月17日
「真田太平記」 八巻 池波正太郎著 新潮文庫
1610年くらいになったらしい。
関ヶ原が1600年で大阪の役では1615年ですね。
父、真田昌幸は体調が悪くなってしまいました。
「関ヶ原の戦い」はまだあると思っていて家康の首を捕ってやろうと思っていたけど
どうやら昌幸の方が先に死にそうである。
豊臣秀頼はもう19歳になっていて家康が先に死んでいたらおもしろくなったかもしれない。
■2006年9月8日
「真田太平記」 7巻 池波正太郎著 新潮文庫
父真田昌幸と次男真田幸村は中山道を通っていく徳川秀忠を上田で足止めさせた。
交渉を長引かせたり戦ったりと。
そのために秀忠の軍3万は関ヶ原の戦いに間に合わなかった。
真田昌幸、幸村親子はこれで西軍が勝ったと思ったにちがいない。
しかし西軍は負けてしまった。
どんなに無念だったことか。
徳川側についた長男真田信幸の助命嘆願のかいもあり真田昌幸、幸村は
高野山に流されるだけですむことになった。
上杉は会津120万石から米沢30万石、毛利は百数十万石から三十数万石、島津はそのままっと
案外軽い処置だったかもしれない。
関ヶ原の戦いの様子がくわしく書かれていておもしろかったです。
真田は関ヶ原の場にはいなかったからあまり書かれてないかなーと思ってたんだけど。
司馬遼太郎さんの「関ヶ原」もまた読んでみたくなりました。
2年前くらいに読んだかなっと思うのだけど。
後でゆっくり関ヶ原の戦いの検証をしてみたいです。
あと5巻もあるよー(ToT)
■2006年9月2日
「真田太平記」 6巻 池波正太郎著 新潮文庫
秀吉が死に前田利家が死に家康が天下人に近づいた。
前田家は、まつを関東に人質に送り完全に家康に屈した。
しかし家康に屈しない人がいた。
上杉である。会津120万石の上杉景勝は戦いの準備を始めた。
家康は上杉を討とうと秀吉武断派武将をひきつれて東に向かった。
家康が江戸に着いた頃、石田三成が西から兵を上げた。
西軍の旗頭には毛利がついた。毛利は大阪城に入る。
家康はうまいこと秀吉武断派武将を味方につけることができた。
岐阜でこぜりあいになるが東軍が勝った。西軍の岐阜城も一日で落ちてしまった。
東西から家康をはさみうちにする作戦はどうだったのか?
家康にとっては想定内だったのか?
どっちがハメたのか?
あとでゆっくり検証してみたいです。
父真田昌幸と次男真田幸村は西軍につくことに決め、上田で中山道を西にむかう徳川秀忠の軍を迎え撃つことになる。
長男の真田信幸は東軍につき上田城攻めで先陣をつとめなきゃかもしれない。
関ヶ原の戦い前夜。。。
■2006年8月28日
「真田太平記」 5巻 池波正太郎著 新潮文庫
秀吉の子、秀頼が生まれた。
しかし幼い秀頼を残して秀吉は死んでしまった。
朝鮮出兵のさかなであり、皆、朝鮮から退却した。
秀頼の守り役前田利家もまもなく死んでしまった。
これで徳川家康の力が大きくなった。
家康に対抗できる人もいなくなったといっていい。
家康は禁止されていた各大名との婚姻を勝手におこなった。
前田利家がなくなって誰も家康には何もいえなくなった。
石田三成が家康を弾圧しようとするがどうしようもなかった。
秀吉が育てた武将は文治派と武断派にわかれる。
文治派に石田三成、小西行長などがいて武断派に加藤清正や福島正則などがいる。
文治派と武断派は仲が悪く、武断派は皆、石田三成を目の敵(かたき)にしていた。
武断派が皆、家康の味方につくことになります。
何故、文治派と武断派が仲が悪いといえば朝鮮出兵のおり
石田三成が武断派の人たちを秀吉に悪く吹聴したからです。
石田三成からすれば事実をいったまででどっちが悪いかはよくわかりません。
家康の婚姻関係の相手に福島正則がいます。
真田幸村の婚姻関係の大谷吉継は石田三成よりかな。
もうすぐ関ヶ原の戦いがはじまろうとしています。
6巻で真田の活躍が見られるでしょうか?
いままで真田と甲賀の忍者合戦などが書いてあったりします。
■2006年8月24日
「真田太平記」 4巻 池波正太郎著 新潮文庫
秀吉の朝鮮出兵、最初こそ調子よかったものの、
明の援軍が来て、また朝鮮水軍に日本の船団は焼かれ敗北し輸送もとどこおった。
朝鮮出兵といわれているが、秀吉は朝鮮の案内を受け明を倒し天竺(インド)まで支配下におこうと簡単に思っていた。
秀吉が敗れたせいか、たいていの本は誰もが朝鮮出兵に反対し無謀な戦いであったと書いているけど、
実際、当時の世論はどうだったのだろうか。
案外イケイケドンドンだったかもしれない。
西郷隆盛の征韓論、太平洋戦争真珠湾攻撃などの当時の世論とくらべて想像してみるとおもしろいかもしれない。
■2006年8月17日
「真田太平記」 3巻 池波正太郎著 新潮文庫
お盆をはさんでしまったので前半はよくおぼえてないのですが。。
父真田昌幸、長男真田信幸、次男真田幸村。
真田の領地は長野の上田と群馬の沼田である。6万石くらい。
徳川家康は東海から山梨、長野と勢力をのばしていた。
長野の上田城を徳川家康の軍が囲んだ。
しかし真田軍は徳川軍を退ける。真田昌幸の知略により真田大勝利であった。
群馬の沼田城では北条軍を真田軍が退けた。
同盟のかいもあって越後(新潟)の上杉も援兵を送ってくれた。
このころであろうか秀吉は九州まで平定したのは?
秀吉はもはや私闘はゆるさず天下を平定したといっていい。
秀吉が講和にのりだしたせいか真田と徳川は講和を結んだ。
真田家の長男、信幸と徳川家筆頭武将の本多平八郎忠勝の娘、稲姫の婚姻がなる。
(稲姫は最近のゲームにも出てきますね)
しかしこのかわりに沼田城は北条家にあけ渡されることになった。
そして北条が真田家の小城まで攻め落としてしまったことを怒った秀吉は北条征伐をおこなう。
小田原城は落城し北条は滅亡し、沼田は真田家にもどされ、家康が東海から関東に移ってきた。
東北の伊達政宗も秀吉に臣従をちかい秀吉は天下を統一した。
真田家長男、信幸は徳川と婚姻がなったが、一方次男の真田幸村は上杉の元へ行き、さらに大阪の秀吉の元へおくられ、上杉と秀吉の寵愛を受けた。
実際は人質なんだけど、幸村は上杉と秀吉の恩を受け、そう感じた。
関ヶ原で、父真田昌幸と幸村が何故西軍豊臣家側につき、長男信幸が家康についたかわかったような気がします。
幸村と大谷吉継の娘との婚姻の話も上がりました。
大谷吉継は関ヶ原で真っ先に石田三成についた人です。親友同士でしょうか。
日本を統一した秀吉は朝鮮出兵をおこなう。
お盆をはさんでしまったので先に読んだ所はよくおぼえてなくて間違ったこと書いていたらすみません。
■2006年8月7日
「真田太平記」 2巻 池波正太郎著 新潮文庫
本能寺の変、織田信長は明智光秀の謀反によって死んだ。
秀吉はすぐ毛利と和睦して明智光秀を討った。
真田昌幸は織田の武将、滝川一益を追い出し、滝川一益は地元の伊勢にもどっていった。
天下が荒れるのは真田昌幸にとってはのぞむところである。
これを機に真田昌幸は大規模な築城をした。上田城である。(長野)
徳川家康はこれを機に甲州(山梨)を手に入れた。
真田にとっては重大事件である。すぐ近くで徳川家康が勢力をのばしてきた。
また北条の魔の手ものびてきている。
徳川家康と関東の北条は同盟して真田の領地を分割しようとたくらんでいる。
しかし真田は越後の上杉と同盟することに成功した。
真田は長野の上田、群馬の沼田をあわせて6万石あまり、小藩の真田はあっちについたりこっちについたりといそがしい。滅びなかったのが不思議です。
秀吉は織田一族をことごとくほうむりさり、大阪城も築きもはや天下人であった。
秀吉と家康の一度きりの戦い、小牧、長久手の戦いで家康が勝っている。
■2006年8月5日
「真田太平記」 1巻(全12巻) 池波正太郎著 新潮文庫
武田信玄、上杉謙信が死に、織田信長、徳川家康が勢力をのばしてきました。
秀吉は織田の配下で中国地方で毛利と戦っています。
織田信長が、長野と山梨の武田信玄の息子武田勝頼を滅ぼすあたりから物語がはじまります。
長野と群馬の一部(上田や沼田など)を支配していた真田幸村の父、真田昌幸は勢力争いにまきこまれていきます。
勢力争いは武田信玄、上杉謙信、北条などが争っていた昔からあったんだけど。
武田勝頼が信長に滅ぼされて真田の支配地に信長の武将、滝川一益がまわされてきました。
真田昌幸は滝川一益の支配下に入ります。
そんなおり本能寺の変が起こります。
真田の忍びの視点から物語りが書いてあります。
1巻127ページに秩父の地名が出てきます。
(真田の忍びが)雁坂峠を越えて、武州の秩父へ抜けた。っという文章です。