下から書いてます
■2008年5月7日
「私本太平記」 8巻(完結) 吉川英治著 講談社
九州から上洛してくる足利尊氏は新田義貞軍を圧倒。
楠木正成は湊川で善戦するも味方はわずか千人、大軍の足利尊氏には及ばなかった。
ここに楠木正成は散ったが、なにか真田幸村とかぶって見えました。
まもなく新田義貞も滅亡。
後醍醐天皇は吉野にのがれここに南朝がはじまる。
ここに天下は治まったかに見えたが足利尊氏も内輪もめ、内乱になやませられる。
昨日の味方も今日の敵という感じで、はやくも応仁の乱を見てるようだ。
そんななか、足利尊氏も病没。後任のこととか時代背景とかあまりよく書いてないのでよくわからない。
終章の「黒白問答」は有名なんでしょうか。
戦いがあるとやはり兵糧に悩ませられますね。
やはり現地調達はあたりまえで皆暴徒とかします。
■2008年5月3日
「私本太平記」 7巻 吉川英治著 講談社
九州に落ちた足利尊氏は勢力を盛り返して数万の兵と数千の船で上京する。
それを迎え撃つのは新田義貞、楠木正成等である。後醍醐天皇、大覚寺統側である。
たった5百人で落ちていった足利尊氏が、九州で数万の兵、数千の船を集めて盛り返して来るというのはすごいですね。
でも足利尊氏はいつの時代だったか明治時代であったか逆賊扱いされて評判悪かったんですよね。
反対に楠木正成は天皇家に忠誠を尽くして皇居に楠木正成の像があるくらいだけど。
有楽町で働いていたときに、よく楠木正成の像の近くにお弁当を食べにいきました。
■2008年4月27日
「私本太平記」 6巻 吉川英治著 講談社
建武の新政、何がいけなかったのだろうか。
鎌倉は北条の残党に奪取させられる。
足利尊氏は朝廷の許可を得ないまま鎌倉を再奪取する。
朝廷は思いのままにならない足利尊氏を逆賊として討とうとした。
朝廷は新田義貞を東国に派遣して尊氏を討とうとした。
それをむかえうった尊氏は新田義貞をやぶり京に迫った。
京でも尊氏が優勢だったが兵糧不足や、奥羽から駆けつけた北畠アキ家の勢いに敗れ尊氏は九州筑紫に船で落ちていった。楠木正成もいたしね。
しかし尊氏は持明院統から新田義貞らを討つ院宣をもらうことができた。これで逆賊ではなくなる。
朝廷に味方しようと奥羽、陸奥から京までかけつけたというのはすごいですね。
■2008年4月24日
「私本太平記」 5巻 吉川英治著 講談社
幕府にそむいた楠木正成などを倒そうと上京した足利尊氏だが、
ひるがえって後醍醐天皇に身方して幕府の機関、六波羅を攻める。
幕府軍のほとんどは楠木正成の千早城を攻めていて六波羅の守備は手薄である。
関東では尊氏に呼応して新田義貞が兵をあげる。
尊氏が六波羅を破ると、新田義貞も勢いづき鎌倉の幕府を滅ぼす。
足利尊氏と新田義貞は群馬、栃木あたりで領土の境を隣にしていて、いさかいしていたこともあったが、ともに源氏ということもあり鎌倉幕府を打つのは協力した。
戦いが終わり武士に変わりまた天皇が政治を行うことになり後醍醐天皇は武士に領土をあたえるなどの恩賞の沙汰を出したが、天皇の身内に近い人が重い恩賞をもらい武士の不満が高まる。
150ページ、秩父の地名
■2008年4月21日
「私本太平記」 4巻 吉川英治著 講談社
楠木正成は千早城に籠城して数万の幕府軍に囲まれる。
しかし城は落ちない。
後醍醐天皇は隠岐の島を脱出、各地で幕府に対し反乱がおきる。
千早城を攻めている幕府軍も撤退する隊も出てきた。
楠木正成の思い通りの展開になってきた。
足利尊氏は幕府を倒そうと決める。
■2008年4月17日
「私本太平記」 3巻(全8巻) 吉川英治著 講談社
後醍醐天皇は兵を挙げ笠置城にこもった。
どうして誰に対してどういう意味で兵を挙げたっというのがあまり書いてないのだけど
幕府に対して兵を挙げたものだと思う。勝てる採算があったのかよくわからない。
後醍醐天皇から再三の召しに応じてやっと悪党楠木正成も兵を挙げた。
しかし後醍醐天皇の笠置城は何万の幕府軍に包囲されやぶれる。
楠木正成も赤坂城で善戦するもやぶれる。
後醍醐天皇は隠岐の島(島根県沖)に流され楠木正成は死んだと噂された。
兵を挙げるもはじめから籠城戦でよく意味がわからない。
そしてまた楠木正成は単独兵をあげた。各地動揺する。
■2008年4月14日
「私本太平記」 2巻 吉川英治著 講談社
足利尊氏の妻の兄、北条?赤橋守時が執権の位についたことから尊氏は執権の義弟となり権威がました。
しかしこの2巻では尊氏のことはほとんど書かれておらず楠木正成のことが結構書かれています。
この楠木正成もどこの争いにも知らん顔をして加わらず隠棲していた。
執権北条氏の権威もかげりが見えていた。鎌倉幕府の権威も落ちていた。
しかし朝廷も内輪もめが続き、大覚寺統と持明院統が対立し、
幕府はかわりばんこに天皇をたてるように調停していた。
かわりばんこというのも、おかしなものでちゃんとそれが守られなくなり、双方対立した。
今は大覚寺統(のちの南朝)の後醍醐天皇が位につき威勢がよく、持明院統(のちの北朝)に位をゆずる気はなかった。
■2008年4月12日
「私本太平記」 1巻(全8巻) 吉川英治著 講談社
足利尊氏を主人公として書かれているようです。
足利氏に代々伝わる遺言、置文、
「7代の孫、かならず天下を取り、時の悪政を正し、また大いに家名をかがやかさん。」
しかし7代目の家時はそれがかなわず切腹。
そしてまた遺言を残した。
「3代の後の子に、我に代わって遠祖の遺託を為しとげてよ」
その3代目が尊氏である。