徳川家康 小説26巻 読書記録  りょう99@笠原良太

下から書いています。


■2009年8月17日
「徳川家康」 (26)  山岡荘八著 講談社 一気読みしました。

大阪夏の陣が終わると平和が来ると思われた。
ところが伊達政宗や家康の子忠輝に謀反の疑いがもちあがった。伊達政宗の娘が忠輝に嫁いでいる。
家康ももう74歳、家康が死んだらどうなるかわからなかった。
忠輝は永遠に家康に会うことを禁じられ、60万石だった所領を返還し深谷に蟄居となった。
そのうち家康はてんぷらにあたって死んでしまった。
伊達政宗は家康のもとへかけつけ涙をながした。爆涙であった。これで伊達政宗の謀反の疑いは晴れたと言っていい。
織田信長や豊臣秀吉がなくなると天下は乱れたが家康が死んでも天下が乱れなかったことはすごい。

  

■2009年8月17日
「徳川家康」 (25)  山岡荘八著 講談社

大阪夏の陣がはじまった。
大阪城は裸になりもう籠城できず野戦で行われることになった。
家康は城攻めは苦手で野戦は得意だったが真田幸村が何度も突撃を敢行して家康の本陣を襲った。
家康の影武者は皆逃げてしまったほどである。
家康についている家臣も一人きりというありさまだった。家康も死を覚悟したほどである。
しかし東軍(徳川側)の兵力はあつく西軍(豊臣側)はだんだん追い詰められ真田幸村も死に大阪城には火がまわった。
秀頼の妻で将軍秀忠の娘千姫は秀頼と淀殿の命乞いをするために城から脱出した。
しかしそれは受け入れられなかった。家康は秀頼を助けたかったが将軍秀忠はそれを認めなかった。
秀頼と淀殿は自刃した。または殺されたのかもしれない。
徳川家康の小説も終盤、家康のことをかなり美化して書いてあるような気がします。

   

■2009年8月15日
「徳川家康」 (24)  山岡荘八著 講談社

大阪冬の陣がはじまった。
豊臣家の大阪城には十数万の浪人たちが集まった。
大阪城をとりまいた徳川勢は20万か30万くらいだろうか。
家康は巨大な大砲で大阪城をねらった。また地下を掘って大阪城下までいき爆破させようとした。
大砲の威力は大きかった。2、3発大阪城に打ち込まれると淀殿はじめ皆恐怖におののいた。
これですぐ和議を結ぼうということになった。
和議を結んで大阪城の外堀を埋めることになったが約束に反して内堀まで皆埋められてしまう。
大阪城は裸の城になってしまった。
そしてまた大阪城には浪人たちが集まりだした。勝てば大名。もう後へはひけない。
大阪夏の陣がはじまろうとしていた。

  

■2009年8月11日
「徳川家康」 (23)  山岡荘八著 講談社

家康は莫大な金をもっている豊臣家の金を消費させるために寺を建てさせた。
大仏も作り、秀吉の十七回忌の法要をおこなおうとした。
ところがお寺の鐘に「国家安康 君臣豊楽」という文字を書いたことから鐘名問題がもちあがった。
これは家康の名前を分断して呪ったものだといちゃもんをつけたのである。
家康は自分が生きているうちに豊臣家をどうにかしたいと思ったのかもしれない。
家康が先に死ねば天下がどうなるかわからなかった。
関ヶ原から十数年、また天下は蠢動(しゅんどう)しだした。
大阪城には浪人が入りはじめた。関ヶ原で敗れた浪人たちである。勝てば大名になれるかもしれない。
真田幸村も大阪城に入った。

  

■2009年8月6日
「徳川家康」 (22)  山岡荘八著 講談社

家康も歳をとって権威がにぶったせいか家康の死後をにらんでか家臣の間で勢力争いがまきおこってきた。
それにキリスト教、外国勢力の衝突がからんできた。
ここに魔の城大阪城ではキリスト教信者が集まってきた。
家康にプロテスタントがつき、豊臣家の大阪城にカトリックがついた。
また関ヶ原で家督を奪われ浪人している侍が日本には十数万もいた。
それらが皆大阪城に入るとやっかいだった。
大阪城には秀吉が集めた莫大な金があった。
蟄居させられている真田幸村の元へも大阪城から密使がいったらしい。
伊達政宗なども台風の目になっていた。

   

■2009年8月3日
「徳川家康」 (21)  山岡荘八著 講談社

世界は大航海時代を迎えていた。
マルコポーロが日本を黄金の国と紹介したことから日本を目指して来る国々が多かった。
はじめはスペインやポルトガルが来ていたが最近ではイギリス、オランダなどが来るようになった。
スペイン、ボルトガルはキリスト教でも旧教のカトリックで南蛮人と呼ばれている。
イギリス、オランダはキリスト教でも新教でプロテスタントで紅毛人と呼ばれている。
カトリックとプロテスタントは仲が悪く戦争ばかりしていた。
日本でもカトリックとプロテスタントに憎しみあっているが家康は対等につきあおうとしている。
カトリックはオランダ、イギリスは盗賊の国と呼んで遠ざけようとするが家康は新教の三浦按針を召し抱えて大事にした。
カトリックは布教してその国を植民地のようにして宗徒と兵をあげ植民地にしてしまうような感じがあった。
プロテスタントはその点寛容だったので鎖国をはじめた日本はオランダとは貿易をした(小説ではまだそこまでいってない)
1549年にはじめて日本にキリスト教を広めたのはスペイン人のカトリックのフランシスコザビエルである。
いごよく広まるキリスト教と覚えたものである。
それから60年たちキリスト教の信者は何十万にも増えた。
伊達政宗などは眼が青くて金髪(たぶん)の娘を妾にした。

   

■2009年7月31日
「徳川家康」 (20)  山岡荘八著 講談社

家康は征夷大将軍になり武家の頭領になった。
平氏が滅び源氏も3代で滅び北条氏にとってかわった。
足利幕府も長い乱世を味わいこのあいだ滅んだ。
家康は江戸幕府を開いたが1代で滅ぶことなく長い政権を保つことができるだろうか。
一方、豊臣家は公家の統領となったのだが徳川政権とうまくやっていくことができるだろうか。
秀頼が16歳になれば政権を豊臣家に返すと家康は約束していたのだが
家康は隠居して秀忠に征夷大将軍をゆずる。
これは豊臣家に政権を返さないことをしめしたものだった。
魔の城大阪城では淀殿と秀頼が徳川家に嫉妬して気が狂いそうになっていた。

   

■2009年7月27日
「徳川家康」 (19) 山岡荘八著 講談社

関ヶ原(1600年)に勝った家康は征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開く。
大阪城の秀頼と淀殿にはおとがめなく豊臣家は残った。65万石である。
そしてしばらくして家康は隠居して秀忠に家督をゆずる。
豊臣家では秀頼が16才になれば政権を返してもらえると思ってて
秀忠が家督をついだことは大変ショックであった。
しかも秀忠にも嫡子家光が生まれ秀頼にはたして政権は帰ってくるのであろうか。
家康は秀頼に秀忠の娘千姫をとつがした。亡き秀吉との約束である。
しかし千姫はまだ幼く女になっていない。
それをいいことに秀頼は他の女と女遊びばかりしていた。
そして淀殿はというと男遊びばかりしていた。
大阪城はまさに魔の城だった。

   

■2009年7月23日
「徳川家康」 (18)  山岡荘八著 講談社

関ヶ原の戦い。
家康が東へ上杉征伐におもむくと、石田三成は西から兵をあげた。
石田三成方、西軍10万8千。東軍家康方、7万5千。
西軍の数が上回った。石田三成も直江兼続も真田幸村も西軍が勝つと思ったにちがいない。(幸村は出てこなかったけど)
しかし西軍の半分は山の上で日和見を決め込んで戦いには参加しなかった。
実際に西軍で戦っているのは2万か3万ほど。
しまいには日和見をしていた小早川秀秋の裏切りで東軍の勝ちは決まった。
魚鱗の構えをとった家康に対し、三成は鶴翼の陣をしく。
家康が中心になって特攻するのに対し、三成はまわりからおおいつつんでいくような陣をとった。
外国の専門家がみると西軍の勝ちだという。
しかしおおいつつんでいこうとする山の上の日和見部隊が皆家康になびいていたのでしょうがなかった。
石田三成は首をきられた。
三成は運が悪かっただけなのか。。。

   

■2009年7月20日
「徳川家康」 (17)  山岡荘八著 講談社

秀吉が死んで家康は天下をねらいだした。
三成を隠居させた家康は大阪城に入り政務をとりだした。
そして前田家に為心ありとして加賀征伐を行おうとするが
前田家はまつを江戸へ人質に出しなんなくおさまった。
前田家のことがおさまると今度は上杉家に為心ありとして会津征伐をおこなおうとする。
上杉家は秀吉の死ぬ間際に越後から会津に転封になり城を築いたり国政をみたりいろいろあり上洛もできなかった。
家康の振るまいに対し上杉家老の直江兼続は家康に手紙を送った。直江状とよばれているらしいが。
これはこう家康にいわしめた。
「わが60年に近い生涯でこれほど無礼な手紙は見たことない」
こうして上杉征伐がはじまった。
家康は豊臣家武断派武将をひきつれて会津をめざした。
家康が東国に下った所で石田三成が西から兵をあげた。
毛利家を筆頭にして、毛利は大阪城に入った。
家康は会津行きからとって返し西へむかおうとする。
これは石田三成と直江兼続の策略だったのか、
それとも家康が天下を取るために石田三成をはめたのか。
天地人でどう扱われるか楽しみ。

  

■2009年7月18日
「徳川家康」 (16)  山岡荘八著 講談社

幼い秀頼を残して秀吉は死んだ。
まもなく秀頼を託された秀頼の守り役前田利家も亡くなった。
これで徳川家康が天下人に近づいた。
織田家を奪った秀吉、家康が豊臣家から天下を奪っても文句はいわれないだろう。
ここに一人の英傑がいた。たった一人で家康に立ち向かい豊臣家を守ろうとした石田三成であった。
豊臣家武断派武将たちは、しっぽをふって家康についた。石田三成とも敵対する。
窮地に立たされた三成は家康のふところに飛び込み守ってもらい佐和山城に隠居することになった。

 

■2009年7月16日
「徳川家康」 (15)  山岡荘八著 講談社

明と和議を結ぶことになったが
明から秀吉に「汝を日本国王に封ず」という手紙がきて秀吉は激怒する。
日本は明の属国扱いされたのと思ったのである。日本には天皇もいることだし。
秀吉は明王の娘を差し出すようにともいっていたほどであったがそんなことはありえない。
秀吉は第二次大陸制覇にのりだした。
秀吉はこのころ病んできており最後の意地であった。

国内では秀頼が生まれたため、秀吉の跡継ぎとされていた姉の子関白秀次は窮地にたたされ切腹させられた。
秀次にかかわりある女子供は皆河原で殺された。

晩年の秀吉はキビシー!
秀吉63才で死亡。幼い秀頼を残して。

   

■2009年7月14日
「徳川家康」 (14)  山岡荘八著 講談社

日本を統一した秀吉はとどまることを知らずその勢いは外国にむけられることになった。
明を征服しようと思ったのである。
朝鮮が明まで道案内してくれて簡単に明を征服できると思っていた秀吉。
ところが朝鮮の抵抗ははげしかった。
日本の船団はたびたび李舜臣ひきいる海軍にやぶれ輸送もとどこおった。明の援軍もやってきた。
このため和議を結ぼうということになった。

茶々と秀吉の子といわれる鶴松丸は2才で亡くなってしまった。
秀吉の母、大政所も亡くなった。
秀吉は朝鮮出兵のため九州にいたが大政所が亡くなったおり一時大阪に帰ってきた。
このおり茶々と秀吉は会っているがこのときの子が秀頼である。
しかし日数を考えると(十月十日)どうも秀吉の子ではないようだった。
ちゃんとこの小説にもそう書いてあります。
秀吉にはもう子種がなかったふうにも書いてあります。
大野治長の子らしいと書いてあります。
石田三成説もあるけど三成は朝鮮出兵のため大阪にはいなかったと思います。どうだろう。
鶴松丸も秀吉の子ではなかったとそんなふうに書いてあります。

千利休が秀吉に切腹させられています。
千利休の娘を秀吉に差し出さなかったからとかいろいろ理由があるようです。

15巻になると14巻のことは忘れたように一転して秀頼は秀吉の子供のように書いてあります。

 

■2009年7月9日
「徳川家康」 (13)  山岡荘八著 講談社

家康を家臣に加えた天下人秀吉は小田原征伐を行う。北条氏の小田原城攻めである。
北条氏は小田原城に籠城し小田原評定などといわれる。
秀吉は北条氏を降すと家康を東海、甲信5州から関東8州に転封させる。1590年のことである。家康が秩父神社を再建したのが1592年である。
秀吉は家康を東海から関東へ少し遠くにおきたかったようである。それだけ家康を恐れていたようである。
また関東に家康を置くことは東北のおさえにもなる。伊達政宗とかとくに危なかった。

小田原征伐の前か後か秀吉は検地、刀狩りを行う。
検地により土地、石高をきちんと割り出すと土地の争いがなくなり年貢もはっきりする。戦いがなくなるのである。

秀吉と淀殿(茶々)との間に子供ができる。鶴松丸である。

  

■2009年7月5日
「徳川家康」 (12)  山岡荘八著 講談社

朝日姫を家康にとつがすことに成功した秀吉は、母の大政所を家康のもとに送り家康にやっと上洛してもらった。
家康は上洛に3万の兵をひきつれていった。これには秀吉もはじめは驚いたがたかが3万じゃないかと天下人として恐れる風もなかった。
これで東のおさえをかためた秀吉は九州征伐にのりだす。島津を降伏させた。
だが九州にいった秀吉はキリシタンの動きにびっくりした。キリシタンが一揆を起こし神社仏閣を破壊しているのである。
九州はキリスト教の植民地になりかかっていたようである。キリスト教を広めて植民地みたいにして国をうばうというのはキリスト教徒のおはこであった。またキリスト教は日本人を奴隷として海外に売り渡していたようである。
このころはスペインのキリスト教が勢力をのばしていたようである。
秀吉は大阪に帰ると、キリスト教を弾圧はじめたようである。2週間以内でキリスト教徒は国外退去をいう噂がながれた。

茶々に秀吉の手がついた。父浅井を秀吉に殺され養父柴田勝家を滅ぼしそれと同時に市姫も自害した。
茶々は秀吉のことをどうおもっていたかは永遠のテーマですね。
秀吉の好きだった市姫の娘茶々と結婚できたのは秀吉にとっては満足であったろう。

今週の天地人で茶々を深田恭子が演じていたのが面白い。

  

■2009年7月3日
「徳川家康」 (11)  山岡荘八著 講談社

秀吉と家康の和議はなったが家康は全く上洛してくれない。
家康が上洛してくれれば天下はまたたくまに統一されるのである。
四国、九州を制圧するには東の押さえに家康が必要だった。
九州を攻めているときに家康に攻められてもたまらない。
秀吉は考えた。結婚していた43歳の妹の朝日姫を離婚させて家康にとつがすことにしたのだ。
これが成功すれば秀吉と家康は義兄弟である。
これで家康も上洛してくれるだろうと思う秀吉であった。
理解不可能。。。

この間の天地人で家康と朝日姫が布団を並べて寝てて結構おもしろかった。

家康家臣の石川数正が秀吉にひきぬかれる。

信長の野望などのシミュレーションゲームをやっても婚姻、同盟は必要ですね。

  

 

■2009年6月30日
「徳川家康」 (10)  山岡荘八著 講談社

信長が本能寺で倒れてからほぼ1年で秀吉が信長の地盤をついだ。
織田信孝は切腹させられ、織田信雄は家康に救いを求めた。
ここに秀吉vs家康の戦いがはじまった。小牧、長久手の戦いである。
この戦いは家康の勝ちであった。
だが勝ちすぎてもよくない、家康が秀吉を倒せば日本中の大名と戦わなければならなくなるのだ。光秀と同じ。
そして秀吉と信雄が和議を結んだので家康も戦う理由がなくなり家康も秀吉と和議を結ぶ。
だがこの和議で家康の子を秀吉の養子として差し出すことになった。人質である。
家康の家臣たちは皆不満やるかたない。

  

■2009年6月27日
「徳川家康」 (9)  山岡荘八著 講談社

信長は明智光秀の謀反によって倒れた。
そして秀吉が明智光秀を討ち果たしたが天下は簡単には秀吉にめぐってこなかった。
織田家相続争いに発展したのである。
柴田勝家が織田信孝をかついだのに対し、秀吉は信忠(信長の嫡男、信長とともに死亡)の子三法師をかついだのである。織田信雄もだまってはいない。
柴田勝家vs秀吉、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った秀吉は北の庄で籠城した柴田勝家を滅ぼす。
浅井滅亡後、柴田勝家に嫁いだ市姫は柴田勝家とともに死亡。
市姫の娘、茶々、高姫、達姫は城から出て助かった。
ここに秀吉は織田家相続争いを制したといっていい。まだ信孝、信雄がいるが。

家康は織田家相続争いをよそに甲州、信州に進撃、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5カ国を手に入れる。

 

■2009年6月25日
「徳川家康」 (8)  山岡荘八著 講談社

信長が武田勝頼を滅ぼすと家康は新たに駿河をもらい、三河、遠江、駿河の三カ国を統治することになった。
ここに信長は天下を統一したといっても良い。
ところが明智光秀の謀反により信長はあっさりと殺されてしまう。
秀吉の援軍をいいつけられた光秀はその1万5千の兵を信長の泊まっていた本能寺にむけたのである。
備中高松城を水攻めしていた秀吉はすぐに毛利と和睦して光秀と戦うべくとって返した。
光秀で見方するものはほぼなかった。
皆仇討ちをかかげる秀吉の見方についた。
信長の性格がどうであれ主君殺しはいただけなかったのかもしれない。
光秀は秀吉に敗れ逃走中に土民の手にかかり殺されてしまう。
家康は本能寺の変の直前、信長にもてなされ上洛していた。
信長が光秀に殺されると家康は伊賀越えをして帰郷する。土民に襲われそうになり大変難儀した。
国元に帰った家康は光秀を討とうと兵を繰り出そうとするが秀吉がなんなく光秀を討伐してしまったため甲斐、信濃をめざして兵を進める。

明智光秀は何故信長に謀反したのか?黒幕はいるのか?っと永遠のテーマですね。
光秀が謀反にいたるまでのくだりを読むと光秀もかわいそうだと思うし、何故光秀は天下をとれなかったのだろうか?っと思う。

  

■2009年6月23日
「徳川家康」 (7)  山岡荘八著 講談社

武田勝頼は家康領の長篠に兵を出してきた。
信長は援軍にきて3千挺の鉄砲で武田軍を破った。武田軍はほぼ全滅、再起不能。
これで家康にも余裕が出てきた。
しかし信長はおこないの悪かった家康の嫡男信康と謀反を企んでいた家康の妻築山殿に切腹をいいわたした。
やはり二人は今川の血をひいていたからというのがあるのだろう。
信長は安土城を築き地盤をかためる。また武田勝頼を滅ぼす。上杉謙信も卒中で死亡する。
これで信長は天下を統一したといっていいかもしれない。

 

■2009年6月22日
「徳川家康」 (6)  山岡荘八著 講談社

浅井を滅ぼして近畿をほぼ統一した信長。
浅井を滅ぼして市姫と娘たちを助け出した秀吉はほめられる。浅井領18万石をもらう。
一方、家康は武田勝頼と小競り合いを繰り返す。
築山殿と謀って謀反をくわだてた家康の家臣は誅される。武田軍を岡崎城に導き入れようとしたものだ。

さんざん戦い合った上杉と武田だが信玄が死ぬと勝頼は上杉と和睦を進める。
これで武田軍は集中して徳川軍と戦うことができるようになる。
しかし近畿を統一した織田軍は家康に援軍をおくることができるようになる。

 

■2009年6月20日
「徳川家康」 (5)  山岡荘八著 講談社

家康はたびたび信長の援軍におもむいた。
朝倉攻めでは浅井にそむかれ前後にはさまれて大苦戦をした。
姉川の戦い、浅井朝倉の戦いの勝利には家康は大いに働いた。
しかし、武田信玄との三方ヶ原の戦いでは信長は3千の兵しかおくってくれなかった。
織田の援軍は真っ先に崩れ家康は大惨敗をきっした。
武田信玄の上洛戦である。その数2万7千。家康5千に織田の援軍3千である。負けて当然。
相手は武田信玄である、大惨敗だったが真っ向勝負した男いきはすばらしい。
そして武田信玄は上洛戦の途中死んでしまう。この本では鉄砲の弾にあたったことになっている。
武田軍は撤退していった。家康にとっても織田にとってもこれで武田の驚異はとりのぞかれた。
家康は駿河に兵をすすめる。
ところが家康の最初の妻築山殿が武田と謀略をめぐらし岡崎城に武田軍を導き入れようとする。
築山殿は今川義元の姪で、織田との同盟は気に入らなかったのである。織田は敵国である。
築山殿と家康との子は信康だが、信康の妻が信長の娘(徳姫)だったことも気に入らなかった。
築山殿は武田と組んで家康、信長を倒し、家康の所領を信康につがすようにする。信長の所領も一国もらう約も結んでいる。

  

■2009年6月15日
「徳川家康」 (4)  山岡荘八著 講談社

今川義元が死ぬと、岡崎城にいた今川の武将も逃げ出してしまい、家康はやっと自分の城、岡崎城に入ることが出来た。
そして家康は尾張の信長のもとにいき和睦した。東は家康、西は信長がおさめようと約束する。
さらに信長の娘徳姫を、家康の嫡男信康につかわせた。
ここに家康の正室築山殿(鶴姫、瀬名姫)は今川出身のためおもしろくなかった。
信長は美濃をとり岐阜と改め、浅井長政に妹市姫をつかわすと足利義昭を奉じて京を制圧、義昭を征夷大将軍にした。
一方、家康は一向一揆を治めると今川の領土を侵食しはじめた。家康が遠江を、武田信玄が駿河をねらっている。

  

■2009年6月13日
「徳川家康」 (3)  山岡荘八著 講談社

信長は織田家相続争いを制し尾張をまとめあげる。
一方成人した家康は今川義元の姪の鶴姫をもらい子供もできた。
しかし岡崎城には返してもらえず、その上、最前線で織田勢と戦わされるのは岡崎勢であった。
岡崎勢は苦しい立場にたたされていた。本多平八郎忠勝のくだりは泣いた。
戦国武将たちの夢は京に上洛することである。
武田信玄と上杉謙信が川中島で戦い千日手となると、このすきに今川義元に上洛するチャンスが訪れた。
しかし上洛するには織田の尾張を通っていかなければならない。
ここで最前線にたたされるのは松平元康(家康)の岡崎勢であった。
一方尾張では信長に仕官をはたした台所奉行の秀吉が籠城に見せかけるために味噌買いに走る。
信長は竹ノ内浪太郎などの野武士を見方につけていた。野武士は南朝に見方した勤王の人たちである。室町幕府は敵方である。
信長はもちろん父信秀の代から天皇家には献金を行っていて勤王家だった。それで野武士たちは信長み見方した。
今川義元3万に対し織田勢は2千ほどである。
先鋒の家康は信長の小城を落とした。今川義元もほくほく顔である。
竹ノ内浪太郎は今川義元に酒やにぎりめしなどまいないを贈った。土地の者が新たな支配者に礼のモノを贈るのだった。
勝利を確信している今川義元は田楽狭間(桶狭間付近)で酒を飲み休んでいた。
信長はすでに城を出ている。義元が田楽狭間で休んでいると聞いた信長はいちもくさんに今川義元の本陣を襲った。
今川義元散る。

 

■2009年6月11日
「徳川家康」 (2)  山岡荘八著 講談社

竹千代(家康)は人質として駿府の今川義元のもとへ送られることになった。
しかしどう間違えたのか竹千代は織田家にさらわれてしまう。
織田家をしきる織田信秀は日の出の勢いだった。
織田信秀は竹千代の父、松平広忠に織田家につくように言うが広忠は頑としてそれをうけつけなかった。
信秀は竹千代を斬ろうとしたが、信長が竹千代の身をかばってくれて何かと世話をやいてくれた。三河の弟と何かと眼をかけてくれたのだ。
竹千代(家康)もこのときのことをよく覚えていて、その後、信長に献身的につかえたのだと思う。
まもなく竹千代の父、広忠は戦死し、岡崎の城には今川の武将が入ることになった。岡崎の松平党は今川の植民地みたいになってしまう。松平党は戦いの最前線で戦うことになってしまった。
安城の城を落とし織田信秀の長子信広を捕虜とすると、竹千代と信広との人質の交換が行われ竹千代は岡崎に帰ってきた。松平党は大変喜んだ。
しかしそれもつかの間、今度は今川への人質として竹千代は駿府に送られることになった。

それからまもなく信長の父、織田信秀は亡くなった。卒中だったようである。
織田家相続争いがはじまった。うつけと呼ばれた信長と行儀のよい信行。信行をおす声の方がおおきかった。
信秀の葬儀に信長はひどい身なりで香を信秀の位牌になげつけた。
皆信長の行動に驚いたが、信長一人で主君をなくした尾張を守ろうとしたものであろう。

 

■2009年6月8日
「徳川家康」 (1)小説全26巻  山岡荘八著 講談社

家康の父と母が結婚するところから物語りがはじまります。
父、岡崎城主、松平広忠。母、刈谷出身の水野於大。
そしてこのふたりの子、竹千代(家康)が生まれる。寅(とら)の年の寅の刻の生まれであった。
秩父神社は1592年に家康が再建したものらしいけど、寅の年の寅の刻にちなんで秩父神社の前面に左甚五郎作の虎の彫刻がある。
どうして広忠と於大が結婚することになったのかはよくわからない。
松平家は今川方であり、水野家は織田方につくことを決めたため広忠と於大は離別することになった。
それでも松平家では竹千代を大事に扱ったようである。
だいたい歴史小説は年号で書かれているのでよくわからないのだが、
家康が生まれたのが1542年。武田信玄は22歳。上杉謙信は13歳。信長は9歳であった。