竜馬がゆく 読書記録 2010年 りょう99@笠原良太

下から書いてます


 

■2010年3月26日
「竜馬がゆく」 8巻(完) 司馬遼太郎著 文春文庫

土佐藩提議の大政奉還案は他の雄藩が賛同して足並みがそろわなければ
幕府に圧力をかけることはできない。
このため陸援隊隊長中岡慎太郎は奔走した。ときに海援隊隊長竜馬もでかけていく。

竜馬「徳川幕府は三百年の泰平を仕遂げた。この功は百万年後も日本人の忘れ得ざるところでしょう。
   しかしもはや、屋台骨は腐り、雨漏りがし、人間の居住にたえない。補修の仕様もない。
   もしこのまま放置すれば、柱は折れ梁は落下し、住む者はことごとく圧死します」
幕臣「いや、補強の方法はある」
竜馬「幕府を中心とする郡県制度でありますな。」
幕臣「知っているのかね」
竜馬「大名を取りつぶし、抵抗する大名はフランスの軍資金、武器、軍艦をもって攻め潰し、
   そのあとで軍県制を布こうとするお考えでありますな。
   しかしそれをなされば諸大名は抵抗する。内乱がおこる。途方もない内乱がおこる。
   しかもフランスが日本を武力平定するかたちとなる。
   英国はだまっていますまい。かならず抵抗する大名側に味方し、
   同量以上の軍資金、武器、もしくは軍隊まで送り込んで、この六十余州を戦場と化してしまいましょう。
   されば英仏の戦いでござる。英仏いずれかが勝てば、勝った方が日本をとりましょう。この点いかが」
幕臣「きっとそうなる。そのような結果は招くべきではない」
竜馬「さればいっそ、屋敷を補強なさるよりも、別の場所に新築したほうが日本のためによろしかろう」
 政権を朝廷に返上せよとい意味である。
竜馬「徳川家への忠節ということはわかる。武士としてはそうありあたいものですな。
   しかしいま日本の武士に必要なのは、主家に対する忠義ではない。愛国ということです。
   古来、武士は、主家あるを知って国家あるを知らなかった。
   忠義は知っているが、日本を愛することを知らない。
   日本六十余州のみが唯一の世界であったときはそれでよかったし、それでこそ世界に冠たる
   日本武士道はできあがった。しかしいまやそれが邪魔になっている。
   外国がいる。この島国のまわりをぐるりと取り囲み、隙あれば侵略し属邦化しようとしている。
   日本人が有史以来、はじめて国際社会のなかの自分というものを、
   否応なく発見させられたのが、こんにちの状態といえる。
   この前古未曾有の時代に、鎌倉時代や戦国時代の武士道で物を考えられてはたまらぬ。
   日本にとっていま最も有害なのは忠義ということであり、もっとも大事なのは愛国ということです。
竜馬はそろそろ鉾をおさめようとした。議論に勝つということは相手から名誉を奪い、恨みを残し、
実際面で逆効果になることがしばしばあることを、この現実主義者は知っている。

日本は幕法によって徒党を組むことは最大の罪になっている。
ところが驚いたことに英国にしろ米国にしろ公然と徒党を組み徒党が正論をおこし、
他の徒党と大論議をたたかわせて一国の政治を動かしている。それが議会というものだ。
おれも幕府を倒した後、その議会というものを作る。
議会を作ることが倒幕の最大の理由だ、と竜馬はいう。

薩長は倒幕論が占めている。あくまで武力で徳川家をつぶす気である。
そこへ土佐藩から大政奉還案が出された。あくまで平和りにことをおさめようとした。
大政奉還案が出されるとともに薩長および土佐藩も兵士を京に上げ革命を断行しようとした。
徳川慶喜はついに大政を奉還した。
感動した竜馬もつかの間、中岡慎太郎とともに暗殺されてしまった。

竜馬が提示した新政府役員表に竜馬の名前がなかった。
「世界の海援隊でもやりましょうかな」と竜馬はいったという。
竜馬が生きていれば。。。

誰が竜馬を暗殺したのか?黒幕は?っといろいろ考えさせられますが
見廻り組の人が斬ったということですが、
あくまで倒幕派の薩摩は軟弱な大政奉還案を出した竜馬を!という説もあるとかないとか。

      

■2010年3月24日
「竜馬がゆく」 7巻 司馬遼太郎著 文春文庫

幕府は頭脳を必要とした。
この幕府崩壊の危機をくい止めるためには、よほどの頭脳が必要であろう。
勝海舟が将軍の直命によってふたたび起用され江戸から大阪へのぼってきた。
幕府中興の方策について秘密があるという。
その秘密とは驚くべきものだった。
 「長州征伐のために幕府はフランス皇帝ナポレオン三世より六百万両の軍資金、
 七隻の軍艦を借りるつもりである。
 すでに先方の内諾を得、実現のはこびになっている」
というものであった。
勝は愕然とした。ヨーロッパ列強がアジアを植民地化する場合にやってきた常套手段なのである。
衰弱した政府に金と軍隊を貸して反乱軍を討伐させ、そのかわり利権を獲得してしまう。
フランスへの見返りにしては、横浜に日仏合弁の大製鉄工業をおこすこと、
北海道全土を貸代すること、などを用意しているようであった。
長州をつぶしたあと、その仏国の兵力、資力をもって逐次、
薩摩、土佐、越前など幕府に反抗的な諸侯を討ち、武力で制圧してしまってから
一挙に三百大名を廃し、郡県制度をしき、徳川家の威権を神祖家康公の昔にもどすつもりである。
勝の胸中、この案が実現したころには日本は滅び、
フランスの植民地に成り果てているであろうということであった。
もっともこの大構想はすでに幕閣の公然たる秘密となっており
その内容は「滅ぼされる」はずの越前、薩摩、長州、土佐あたりの諸侯に
ことごとく洩れてしまっている。
幕末これらの諸侯や志士が幕府を見限るにいたった契機の最大の一つはこの構想であったといっていい。

勝海舟が呼ばれたのは長州との戦後処理のための調定のためであった。
長州は兵をおさめ、幕府も矛をおさめた。
第二次長州征伐、幕府が負けた戦いであった。
ちなみに幕府側にフランスがつき、薩長側にイギリスがついた。
どっちが勝っても植民地にされなくて良かった。

「戦の一字」と中岡慎太郎は繰り返した。
嘉永、安政以来、あらゆる救国の思想が出た。
尊王論、攘夷論、開国論、そしてその複合思想。
が、もはや出尽くし、思想では日本は救えぬというところまできた。
日本の諸悪の根源である徳川幕府を倒す以外にない。
協調論もある。公武合体論というのがそれだ。
が、そういう思想は、一見妥当に似てじつは世を惑わし
混乱せしめるのみであり、百害のもとである。
戦の一字あるのみ。
幕府を軍事的に倒す以外に道はない。と中岡はいった。
中岡「海援隊の本拠は長崎におくか」
竜馬「貿易の中心だからな」
中岡「陸援隊の本拠は京都におく、京都を占領すれば天下の事はなる」
中岡は陸援隊をクーデター部隊という内容に解釈しているようである。
むろん竜馬の構想もそのとおりであった。    

中岡の血の中にある遺伝的思想は
「自分は藩から苗字帯刀をゆるされた身分であるが藩主の家来ではない。
自分の唯一の主人は天皇である」
ということであった。土佐の郷士(下士)の代表的思想といっていい。
竜馬は若い頃は天皇に対して中岡的情熱を持ち、その政治的理想も中岡的で、
「天皇を唯一の上(かみ)と仰ぐ絶対君主国家こそ日本の明日の姿であるべきだ」
と思いつづけていたが、ここ数年、アメリカ風の共和制に興味を持ちはじめ、
「日本はなるほど天皇のもとに統一されるべきである。しかしその統一革命のための流血は
天皇のために流されるべきではなく、日本万民のために流されるべきである」
という思想にかわりはじめていた。
明治風の言葉でいえば中岡は国権主義者であり、竜馬は民権主義者であるといえるだろう。
竜馬が維新史の奇跡といわれるのは、この倒幕以前にすでに共和制度に夢み、
自由民権思想を抱いていたということであろう。

とにかく時勢は動いている。
天皇の死、少年帝(明治)の践祚(せんそ)、さらにその前には将軍家茂の死、慶喜の襲職がある。
これらが同時にきた。時代が変わったという気分は百姓、町人にまでひろがった。
この世の気分というのは竜馬の好きな「時運」という言葉にあたるだろう。
この時運という洪水を巧みに導けばあるいは回天の奇跡と成るかもしれない。
いままで佐幕的態度を頑守してきた土佐藩が大いに狼狽したのも
この時期の変化を肌で感じたからに相違ない。
かれらは新方向に決定したとき、新方向の尖兵に立たせるために竜馬と中岡を利用しようとした。
竜馬の海援隊、中岡の陸援隊の結成を藩が大いに受け入れ、むしろ藩が懇請するかたちをとった。
ふたりの脱藩の罪は許され、竜馬はまた土佐藩の籍にもどった。
正式に亀山社中が海援隊となる。船の借金を土佐藩が払ってくれた。

竜馬の商法は大いに盛っている。
たとえば丹後(京都)の田辺藩とも取引が成立した。
田辺藩は三万三千石の小さな藩で、この小さな藩でも藩吏を長崎に派遣して
貿易で利を得たいと躍起になりはじめたというのは、やはり時勢であろう。
田辺藩士が長崎に来るとすぐ竜馬のもとへ訪ねてきたのは、竜馬の海援隊が
「諸藩の武家商法あっせん所」といった印象を世間にあたえていたからであろう。
これら小藩の出張官が、ぞくぞくと竜馬のもとへやってくるようになりはじめていた。
「心得た、心得た」と竜馬は、それらの藩が外国に売ることができる物産の相談に乗ってやり
またそれを買い入れてくれる外国商人をさがしてやった。
(便利な機関ができたものだ)
と小藩にとっては大いに都合がいい。
その上、都合のいいことに「それらの物産は拙者のほうで運んで進ぜよう」
と海上運輸まで引き受けてくれることであった。
小藩のほうでは大いに喜んだし、竜馬の方もこのおかげでいよいよ繁盛のきがしがみえてきた。

海援隊の船は風帆船一隻だけだったのだが蒸気機関の船を一隻手に入れることができた。
蒸気船を手に入れたことで、海援隊は活況を呈した。
「まったく波のようなものだな」
とあまり詠嘆的なことをいわぬ竜馬がこのときばかりはしみじみといった。
人の運命には波がある。
ついこないだまで船もなく金もなく水夫まで解雇しようとしていた竜馬の結社が
いまは風帆船一隻、蒸気船一隻もつ身になった。
幕府や雄藩ならいざ知らず、民間で二隻の西洋船を持っているのは
竜馬の海援隊しかないであろう。
「瀬戸内海を圧するに足る」
と竜馬は思った。

ところが喜びもつかの間、その蒸気船で大阪にいく途中、
紀州藩の大型船と衝突してあっさり沈んでしまった。
紀州藩の方が悪いようであった。
竜馬はいった。「事件は法と公論によって解決したい」
 「日本はこれからこの種の衝突事故が増えてくる。その良き先例とするために、
 両者だけのいいかげんな妥協は致すまい、ということです。
 すべては法と公論による。あくまでそれを原則として解決していく、ご異存はござるまいな」
場合によっては武力に訴えるつもりだが、それまで竜馬の得意な「万国公法」をもって
押して、押して、押しまくるつもりであった。

この竜馬の船と紀州藩船明光丸の衝突事件は、日本の近代海運史上最初の事件であった。
これ以前にはない。
始末を国際法でつけようというのが竜馬のこの悲境から跳躍したあらたな希望であった。
紀州藩はむろんのこと、すべての日本人は万国公法などは知るまい。
海事裁判という概念も知らないだろう。
それを教え込み、説き伏せ、ねじふせ、その上に賠償金を取り、日本の海難事故に
「法」
というものをうち立てようとするのが、この瞬間から燃え上がった竜馬のエネルギーであった。
竜馬は後の処理を土佐藩でやるというのでこの処理をまかせた。
賠償金8万3千両もらう。なかなかもらえた方だと思う。

話は政治にもどる。
竜馬に一案があった。「大政奉還」という手だった。
将軍に政権を放してしまえと持ちかける手である。
驚天動地の奇手というべきであった。
もし将軍慶喜が、家康以来十五代三百年の政権をなげだし
「政権を朝廷に返し奉る」
という挙に出れば薩長の流血革命派は、ふりあげた刃のやりどころに困るであろう。
その間に一挙に京都に天皇中心の新政府を樹立してしまう。
その政府は賢候と志士と公卿の合議制にする。
(はたして政権を慶喜がなげだすかどうか)
この一瞬、幕府は消滅して、徳川家は単に一諸侯の列にさがるのである。
そういう自己否定の道を慶喜はとれるだろうか。
人間、自分で自分の革命をおこすということは不可能にちかいものだ。
将軍が自ら将軍でなくなってしまうことを自分でやるかどうか。
人情おそらくそうではあるまい。
たとえば慶喜が個人としてそういう心境になったとしても
慶喜をとりまく幕府官僚がそれをゆるさないだろう。
しかし、と竜馬は繰り返し思った。
日本を革命の戦火からすくうのはその一手しかないのである。

竜馬は船中八策なるものを考えた。
「第一条 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づべき事」
この一条は竜馬が歴史にむかって書いた最大の文字というべきであろう。

「第二条 上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機よろしく公議に決すべき事」
この一項は新日本を民主政体にすることを断固として規定したものといっていい。
余談ながら、維新政府はなお革命直後の独裁政体のままつづき、
明治二十三年になってようやく貴族院、衆議院より成る帝国議会が開院されている。

以下六条、省略

この船中八策は竜馬の考えたものだが、後藤象二郎を通して土佐藩主山内容堂の耳に入りこれをすすめることになった。

   

■2010年3月21日
「竜馬がゆく」 6巻 司馬遼太郎著 文春文庫

おもえば薩摩は長州を仇敵視してこんにちまできた。
禁門の変、蛤御門の変、そして先般の長州征伐、
とひきつづいておこった大事件の加害者役はつねに薩摩であり、
被害者役はつねに長州であった。
長州は完膚なきまでにたたきつけられた。

西郷はあくまでも薩摩主義だった。
薩摩藩の実力をもって諸侯を京にあつめ、
雄藩の合議による臨時政権をつくる。
それが西郷のいわば理想だった。
その理想のじゃまになるから長州をたたくのである。

竜馬の理想は幕府をたおすということでは西郷と一致している。
次の政体は天皇を中心とする、ということでも一致している。
しかし西郷の革命後は天皇を中心とした諸藩主の合議制であった。
むろんその下に士農工商という階級がつく、温存される。
竜馬はちがっている。天皇のもとにいっさいの階級を雲散霧消させることであった。
大名も消す、公卿も消す、武士も消す、いっさいの日本人を平等にする、ということであった。
こういう思想はもっとも鋭敏な勤王志士たちのあいだでも、おそらくまだ受け入れられないであろう。
なぜならば西郷は明治になってからも、武士の廃止に反対する薩摩志士団にかつぎあげられて
ついに明治10年の西南戦争をおこし、不幸な死をとげるにいたるのである。

竜馬は西郷にいう
「薩摩と長州と連合すれば天下が動く、あの一件もうしつこくは申さぬ、考えて下さりましょうな」
西郷「しかし長州はどうです。こっちが良いとしても長州人は承知すまい、
   なにしろわれわれは、薩賊といわれている」
竜馬「左様、長州人は難しい、しかし私の同国人の中岡慎太郎という者がいる。
   これはいま長州にいて、かの国の有志の信望があつい。
   拙者が薩摩を代理して、慎太郎が長州を代理して
   たがいに手をとって奔走すれば成らぬことではありますわい」

竜馬は長崎に亀山社中という会社をつくることになる。
長崎はわしの希望じゃ、やがて日本回天の足場になる、といった。
竜馬の「会社」はすでに薩摩藩を大株式に入れることに成功している。
あと長州藩を入れたい。
金がもうかることなら薩摩も長州も手をにぎるだろう。
と竜馬は政治問題が難しければ、経済でその利を説くつもりであった。
要するに政治的には薩長を同盟させて、倒幕に時勢を転換させるとともに、
「倒幕会社」として長崎で両藩の資金資材持ち寄りの会社をつくり
大いに軍事金をかせぐ一方、外国製の銃砲を両藩にもたせ幕府を倒してしまう。
新政府ができれば、これを国策会社にして世界貿易をやる。

薩長同盟、要は長州の桂、薩摩の西郷を説けばよい。
このふたりさえ手をにぎればあとはなんとかなる。

長州藩は幕府と戦う、十中八九、長州の負けだ。が勝つ法はある。
軍艦と洋式銃砲を買い入れることだ。
桂「わかってる、しかし、買えぬものはどうにもならぬ」
当然なことだった。日本の公認政府は幕府である。潜在政権は京都朝廷である。
そのふたつから敵として扱われている長州藩に外国商社が兵器を売ることはできない。
「薩摩藩の名目で買えば良い」
竜馬は薩摩藩から商売をまかされている。
竜馬の亀山社中が軍艦を買えば、薩摩藩が買ったと同じことではないか。
それをそのまま長州にまわす。
アメリカ合衆国では南北戦争が済んだ。
戦時中に大量につくりすぎた銃砲の始末にこまり、武器商人が上海にやってきて、
そういう銃砲をどんどん港の倉庫に積み上げている。
それをごっそり長州藩が買い入れて幕府と対抗すれば
火縄銃しかもたぬ幕軍なんぞはいっぺんに吹き飛ぶ。
桂「ほんとうにそれができるか」
できる、竜馬が土佐の連中を中心に亀山社中をつくったのもそれがためだ。
竜馬の亀山社中を中心に薩長が手をにぎる。
つまり、まず商いの道で手をにぎる。
それでお互いの心底がわかれば、同盟ということになる。

竜馬の亀山社中は薩摩の名義で軍艦と最新式の銃を買い長州に渡した。
この銃は幕府が一発撃つ間に十発も撃てた。
買った軍艦の操作は亀山社中がすることになった。
その年、薩摩では米が不作であった。
長州藩ではお礼に薩摩に米をおくることにした。
しかし第二次長州征伐が行われるときに長州から血のような米をもらうことは薩摩にはできなかった。
その米を長州に返すわけにもいかず亀山社中がもらいうけることになったようだ。
そしてついに京で竜馬のたちあいによる桂と西郷の会談により薩長同盟がむすばれた。

その夜、坂本竜馬が京に入り何かをしているということで幕府側は大いに警戒していた。
竜馬が寺田屋に泊まっていることをつきとめると寺田屋を100名あまりが取り囲んだ。
このときお風呂に入ろうとした竜馬の恋人おりょうがこれに気づき裸で竜馬に知らせにいったといのは有名な話。
乱闘になるが竜馬はピストルをもっていた。しかし刀をピストルで受けた時に親指をきられる。
動脈をきられ血ですべってピストルの弾もいれられなくなってピストルを捨てて逃げる。
なぜか刀はつかわなかった。
薩摩藩邸から兵を出してもらって竜馬は保護された。
薩摩屋敷でかくまってもらい療養することになった。
おりょうが献身的に竜馬の世話をして、竜馬はおりょうに一生ついてこい、という。
それから薩摩に良い温泉があるというので竜馬はそこでおりょうと療養することになった。
日本ではじめての新婚旅行といわれている。

竜馬は、亀山社中を、日本を海から応援するという意味で、海援隊にしようと考えた。
残念だったのはせっかく手に入れた船が沈没してしまったことであった。
しかしこないだたしか長州に買った軍艦で第二次長州征伐で長州に味方して戦うことになった。
竜馬も軍艦に乗ってなかなか活躍したようだ。
しかし特に眼をひいたのが高杉晋作がひきいた平民部隊の奇兵隊であった。

たった今、竜馬の眼前で、平民が長い間、支配階級であった武士を追い散らしている。
革命はきっと成る、という意味の感動と自信が竜馬の胸をひたしはじめた。
「天皇のもと万民一階級」というのが竜馬の革命理念であった。
「アメリカでは大統領が世襲ではない」ということが竜馬を仰天させ、
「その大統領が下女の暮らしを心配し、下女の暮らしを楽にさせぬ大統領は次の選挙で落とされる」
という海外の話が竜馬の心に徳川幕府転覆の火を点ぜしめた。

  

■2010年3月17日
「竜馬がゆく」 5巻 司馬遼太郎著 文春文庫

この時期の長州藩の異常過熱は
浪人志士団の暴発をよび、池田屋の変を誘発し
さらに池田屋の変は、それに憤慨した長州藩兵の大挙上洛となり
幕府の第一次、第二次長州征伐、
竜馬の海援隊の活躍というように関連していく。

池田屋の変、新撰組によって池田屋で長州志士らが斬られる。
長州藩が激怒した。
もはや自重論は影をひそめ、武力陳情論が勢をしめ
いそぎ京にむかって軍勢を進発させることになった。
幕末争乱の引き金がひかれた。
ひいたのは新撰組であるといっていい。
長州は京を包囲した。
蛤御門にせまった長州を薩摩藩がふせいで破った。

竜馬は神戸で形成を観望している。
長州はかわいそうだ。蛤御門で負けるわ、
負けた直後に四カ国艦隊が来襲して
下関を砲撃されるわ、ふんだり蹴ったりだ。
のほほんと天下を観望してるのは薩摩だ。

土佐では、山内容堂の大殿様が利口の大天狗で
正論を弾圧しているために皆脱藩する。
それが長州に奔り、京へ入って、変あるごとにたおれていく。
土佐脱藩浪士の死屍、巷に満ちている。
いつかその霊のむくわれる時がこなければ、怨恨、天地をかけめぐるだろう。

竜馬の勝海舟とともに経営している神戸海軍塾は
内実は勝の私立学校だが幕府の補助がでている。
学生賄料として三千両出ているのである。
そのくせ、この塾から池田屋の変で闘死する者が出たり
蛤御門の変で長州藩とともに戦う者が出たり、
長州の敗残兵をかくまったりしていて
あたかも反乱軍養成所といった観がある。
幕府ではこの塾の現状に眼をひからせ、塾生の名簿の提出を命じたりしてきていた。
勝も竜馬も「その必要はござらん」とこばんだという。
すると、いきなり勝に江戸召喚を命じてきた。
事実上の学校閉鎖令であった。

「さあどうするえ?」と勝が聞くと竜馬は勝のおもいもよらなかった案を言い出した。
軍事会社をつくる、というのである。つまり私設艦隊である。
金や軍艦は、いわば「株」として諸藩から出させ
平時は通商をして利潤を分配し、いざ外国が攻めて来た時は艦隊として活躍する。
勝はひざを打った。同時に、竜馬という男の不思議な頭脳にあきれもした。
それができれば、西洋で行われている「会社」というものを
日本で誕生せしめる最初となるし、しかも独創的なことは、
戦争と通商の浪人会社なのである。
その上、大株主として薩摩藩を考えています、と竜馬はいった。
勝は、薩摩藩お抱えという名義にしてもらえば?と思った。

神戸海軍塾の諸藩士たちは国へ返させ浪士たちは薩摩藩邸でめんどうを見てくれることになった。
竜馬も薩摩藩邸でやっかいになり西郷隆盛とも仲良くなっていた。

第一次長州征伐がおこなわれ長州は敗れる。
長州藩は恭順の姿勢をとったことにより何人かの家老の切腹だけて許される。
そして長州藩でも佐幕派が体制を占めることになった。
桂小五郎は行方をくらまし、高杉晋作は地下で活動した。
蛤御門でも第一次長州征伐でも大いにはばをきかせたのは薩摩藩であった。
長州は薩摩藩をたいそう恨んだ。

  

■2010年3月14日
「竜馬がゆく」 4巻 司馬遼太郎著 文春文庫

勝海舟は竜馬を塾長にして神戸軍艦総連所を作った。
諸藩士や浪人たちが航海練習生になるためにぞくぞくと神戸にやってきた。
各藩では軍艦を買ってもまだ動かせる人がいないのだった。
しかし船がなかった。要は軍艦、汽船だ。
これがなければ海軍塾のかたちもつかねば海運貿易会社もできない。
せめて一隻あれば、塾生に練習させる一方、商売ができる、という構想だ。
株式も諸大名から募集し「会社」は自立できるようになる。
商売がうまくいけば幕府から借りる艦船の損料も払えるようになるし
あたらしい艦船もどんどん買えるようになるだろう。
一隻の軍艦さえ手に入れば、それをふくらませていって、二隻、三隻とふやし
やがて幕府を倒してやろうと思っている。
その軍艦を幕府からひきだそうというのだから竜馬は奇術師のようなところがある。
そして一隻、勝海舟のおかげで幕府から艦船をもらいうけることができた。

京では勤王の長州藩が勢力をのばしていた。
いま浪士団が長州藩とともに武力で京都を占領し京都政権をうち立てようとした。
しかし長州藩と薩摩藩は仲が悪い、犬猿の仲である。
薩摩藩は会津藩と手を組み長州藩を京から追った。

隠居していた土佐藩の山内容堂は勤王藩の長州藩が京から駆逐されると政治の座にもどり
土佐藩の人事をがらりと変えてしまった。
吉田東洋暗殺後、大いに威をふるった武市半平太のクーデター内閣はこのとき瓦解してしまった。
容堂は旧吉田東洋派の人物を藩政に復活させ、このさい勤王派の息をとめ根絶させようとした。
武市半平太は投獄された。そして切腹させられてしまった。
竜馬にも帰国命令が来たが竜馬はそれに従わなかった。自動的にまた脱藩の身になった。

長州藩は京を失脚し、武市は捕まり、薩摩藩は会津藩と盟約したりして
浪人たちは指導者を失い、背景を失い、野に捨てられた犬同然になってしまった。
その上、去年までは存在しなかった新撰組、見廻組といった非常警察団が、
いよいよ組織と活動を大きくし始めており、
かれら勤王浪士はそういう団体のえじきになって見つかれば斬り殺される。
金もない。すっかり窮迫してしまっているのである。
自然、いままでかれらの眼からみれば「変わった動きをする男」としか印象されなかった竜馬が
武市、久坂玄瑞、桂小五郎の去ったあとの新しい指導者として眼をつけられるようになった。
(時勢は変わったものじゃな)
竜馬はそれがおかしい。
浪人たちが毎日何人も竜馬に会いに来るようになった。

長州藩のあわれさは、それほど朝廷からきらわれているのも知らず
「わが藩こそ勤王第一」ということを誇りに、藩の存亡を賭け、全藩発狂したのではないかと
おもわれるほどの異常な行動をつづけていた。
幕府に鉾先を向けたかと思うと、外国に対しても向けた。
長州藩馬関(下関)海峡を航行する外国艦船は無警告砲撃をうけた。

外国の艦隊が長州に仕返しにくるという。
長州は惨敗するのだが、「陸戦ならば」と日本中の武士は思っていた。
刀槍をとって戦えば日本にかなうものはいないと。ところが。。。

幕府も長州征伐の準備をはじめていた。

    

■2010年3月12日
「竜馬がゆく」 3巻 司馬遼太郎著 文春文庫

薩摩藩主島津久光は軍兵千余人をひきいて京都にのぼり京都の天皇を背景にして幕府の正道を正す、という。
これをきき九州方面の浪士が、今、ぞくぞくと、京、大坂にむかって集まりつつあった。
島津久光を、倒幕派浪士団が、大阪、伏見で待ってかつぎあげ一気に京で兵をあげようというのである。
もっとも久光はその手には乗らない。
この当時、まだ幕府は強勢で、久光は倒幕思想などもっておらず、
今度の上洛も武力を背景に江戸政権にむかって強力な発言権をもとうというだけのことであった。

薩摩藩の勤王派の志士たちは、寺田屋に集まり京都の幕府機関である所司代屋敷に斬り込んで
所司代を血祭りにあげ天皇を奉じて錦旗をあげ、さらには島津久光を説いて薩摩の兵を味方に入れ
京都を占領したのち天下の勤王諸侯、諸有志によびかけ参軍せしめ江戸幕府を討って
一挙に政権を朝廷にもどそうという壮大な計画をたてていた。
しかしその計画を聞いた島津久光は同じ薩摩藩士たちに寺田屋を襲撃させる。
寺田屋騒動である。

竜馬は京の長州屋敷でやっかいになっていた。
脱藩したものの例の「京都義挙」が、雨上がりの虹のようにはかなく消えてしまった。
竜馬は江戸に下り、5年ぶりに千葉道場をおとずれやっかいになる。
すると千葉道場の千葉重太郎は竜馬を誘い海軍幕臣の勝海舟を斬りにいった。
しかし勝海舟に会って話をきくうちに竜馬は勝海舟に弟子入りしてしまった。
勝海舟に船のことを教わろうと思ったのである。
竜馬艦隊を持つことが竜馬のつたない夢であった。
船、これのみが生涯の念頭である。
船を持ち軍艦をもち、艦隊を組み、そしてその威力を背景に幕府を倒して
日本に統一国家をつくりあげるのだ。
独創的な倒幕方法である。
そして竜馬は勝海舟の口利きで脱藩の罪を許されまた土佐藩に籍を置いた。

長州藩に攘夷促進の密勅がくだり長州の勤王党は鬼の首をとったようにこおどりした。
密勅降下ということでにわかに長州藩の活気が強くなった。
幕府と同格という気分が全藩士にみなぎった。

武市半平太は、天皇の「内旨」というものを得た。
これによって武市は17歳の少年藩士をかつぎ兵をひきいて京にのぼることになった。
土佐藩主も薩長両藩主とともに大いに公武(朝廷と幕府)の間を周旋するように、との勅語を受けた。
この瞬間から土佐藩の重みは幕末政局のなかで他藩を圧するものになり
薩長土という並称はこのときからうまれた。
天皇好きの武市半平太のよろこびたるや、人は「半平太、狂死せんとした」といったほどである。
武市は、京都の公卿工作を進め、ついに薩長両藩とともに「京都守護」という内勅をもらうまでこぎつけた。
武市は、京における尊皇攘夷の志士群の重鎮となっていた。
過激公卿のあいだにも人気があり、かれらを攘夷へ、倒幕へと指導している。
武市は暗殺団さえももっていた。
暗殺も政治行為の一つにはちがいないが、古来、暗殺をもって大事をしあげた人物はいない。
古今、一流の人物で暗殺に手段を訴えた者があるだろうか。
天誅、といえば聞こえがよいが、暗い、暗ければ民はついてこない。

攘夷、すなわち勤王。
開国、すなわち佐幕。
というのが当時の図式である。

日本の国力で列強の軍を撃ちはらえるわけがないのだが、
天皇はそれができると信じ、公卿もそれを信じ、
かつ武市ら攘夷志士が朝廷を焚きつけて
日本政府である幕府に、それを朝廷から強要されている。
あわれなのは幕府だ。
「できませぬ」
とはいえず、一方では外国と条約を結んで、なしくずしの開国をしつつ、いっぽうでは朝廷に対し
「いつかわやりまする」 
と対内外交をしているのである。
「期限はいつにする」
と朝廷は脅迫同然にせまっている。
その朝廷を背後であやつっているのが、長州藩と土佐藩武市派である。
幕府がもし攘夷はできぬといえば倒してしまう。
倒幕の口実はそれにする、というはらである。

勝海舟が神戸に海軍学校を作るというので竜馬は奔走して浪士を生徒に引っ張り込んだり金の無心に飛び回る。

  

■2010年3月10日 
「竜馬がゆく」 2巻 司馬遼太郎著 文春文庫

その当時の日本の政界、論壇は開国と攘夷、幕府と朝廷、将軍継嗣問題などで割れるような騒ぎだった。

竜馬は江戸での剣術修行を終え土佐に帰ってきた。竜馬24歳。
北辰一刀流千葉門の免許皆伝である。
家をついでいる実兄は次男坊の竜馬のために剣術道場を建ててくれるというが竜馬はいやだった。
この若さで道場の先生におさまり、嫁をもらい、子を産んで田舎剣客で一生を終わるなどは、どう考えても退屈だった。

一足先に土佐に帰った武市半平太は「瑞山塾」というのを開き下士が多かったが土佐勤王党を立ち上げていた。
武市半平太は剣でも一流だが学問でもこの男の右にでるものは土佐藩参政の吉田東洋ぐらいのものだった。
竜馬も学問がしたいといいだした。近頃の珍事であった。
竜馬はいった。「学問が必要じゃとわかった。古今の書を読み、かつ西洋の書も読みたい。
読んで、わしがこの手でこんな腐った天下をなんとか動かしてくれようと思うちょります。」
が、半平太は学問の害をも見抜いていた。せっかく型破りにうまれついてきた竜馬が、
腐れ学問でたたの人間になってしまうのは惜しい、と思った。
しかし学問をせねば人と議論をしたり考えたりするときに用語が少なくて困るのである。学問にはその利がある。
武市は「ほどほどにやることだ」といった。
竜馬は「これだけは読めという書物を教えてくれ」といった。
武市は「やはり歴史を読め」といった。
竜馬は「史書か、日本外史とか史記とかゆうもんは乙女あねの講義でさんざんに読まされたぞ」
武市は「では資治通鑑(しじつがん)を読め」といった。
中国の史書である。古代帝国の周の威烈王からかぞえて千三百年の中国史である。
武市の説では歴史こそ教養の基礎だというのである。
歴史は人間の智恵と無智の集積であり、それを煮詰めて発酵させれば、すばらしい美酒が得られる、と武市はいうのだ。

次に竜馬は洋書を読みたいといった。
しかし武市は洋書はよまない、洋夷の書はきらいであった。攘夷論がまきおこっている時期である。
日本はオランダ(蘭)とは交易していたので蘭学者に学ぶのがよいだろうということになり竜馬は蘭学者の元を訪れる。
オランダには、将軍や大名や武士などおらず、議会というものがある。憲法というものもある。
竜馬にとって大驚異であったのは、その憲法というものが、国の最高のとりきめであり、
国王といえどもこれに服せざるを得ず、さらに議会が国政の最高の権威で、法律を決め、内閣を人選する。
しかもその議会をつくりあげるものは、人民の選挙である、という点であった。
それだけではない、政治というのは人民の幸福のために行うというたてまえが、竜馬をびっくりさせた。
日本では、政治は、徳川家や諸大名の繁栄とその勝って都合のためにあるのだということは、
上は将軍から下は百姓にいたるまで信じてうたがわない。
天皇好きの武市半平太や、倒幕論者の桂小五郎さえ、百姓町人のために奮起する、という気持ちはもっていない。
(おどろいたなあ)
竜馬のこのときの感動が、日本歴史を動かすにいたるのである。

その頃、土佐藩をしきっていたのが佐幕派の大人物、参政吉田東洋であった。
そもそも上士はほとんどが佐幕派である。
下士は土佐藩に恩義はないし、上士も下士は仲間だとも思っていない。
下士はあたりまえのように勤王倒幕に動き脱藩して土佐をとびだしていくことになる。
武市半平太の土佐勤王党はほとんとが下士で政治にも参加できず、尊皇攘夷をかかげ土佐をとびだしていく。
しかし武市は吉田東洋を切り、クーデターをおこし土佐藩を土佐勤王党で牛耳ろうとする。

竜馬は動き出した。剣術詮議を名目に長州にいってみた。
長州の長井雅楽は、
「幕府を助け大いに開国貿易主義をとり西洋の文物を取り入れ
船をたくさん造って五大州を横行し、国を富ませたのちに日本の武威を張る」っという考えだった。
竜馬はそのとおりだと思ったが竜馬は倒幕論者である。
久坂玄瑞は、
「長州、水戸、薩摩、土佐は佐幕派が牛耳っている。
志ある者は一せいに脱藩して浪士となり、大いにそれらを糾合して義軍をあげるほか策はない」といった。
竜馬は、俺も脱藩するかっとちらと思った。

そんなおり、薩摩の島津久光が大軍を率いて京に入り、天子を擁して幕府の正道を正す、の報が流れた。
脱藩してこの軍に加わった方が良いのではないかっと脱藩する者が相次いだようである。
竜馬も、こんなろくでもない土佐藩を捨ててひろい天下に躍り出たい、
狭い土佐よりも広い世間の方が大きな絵がかけるだろうっと思い始めた。
竜馬はついに脱藩してしまった。
ちょうどその頃、武市半平太の土佐勤王党は吉田東洋の暗殺に成功する。
武市半平太は脱藩するよりも土佐藩を勤王化して土佐藩一体となって行動する道を選んだのである。

武市半平太は土佐を牛耳ることができるのか?
竜馬にも吉田東洋暗殺の疑いがかかるが。。

竜馬が脱藩したせいか結婚していた乙女ねえさんは離縁している。

   

■2010年3月9日
「竜馬がゆく」 1巻(全8巻) 司馬遼太郎著 文春文庫

幕末、土佐(高知)の坂本竜馬の物語。
竜馬の家は郷士である。
土佐には複雑な身分制度があった。
関ヶ原で負けた長宗我部の家来たちの子孫が郷士。NHKドラマではか下士としているようだ。
そして関ヶ原で勝って土佐を与えられたのが山内氏である。山内氏の家来たちの子孫が上士である。
上士は藩公にお目通りもかなうが下士ではお目通りもかなわない。下士は下士である。
また上士と下士は仲が悪い。下士が上士にたてつくことはゆるされない。
竜馬の家は下士だが商売をやっていて金持ちで上士の家も金をかりにくるくらいだった。

竜馬ははな垂れで12歳になるまで寝小便をし寺子屋からもみはなされ通うことをことわられたが
そんな竜馬をきたえ教育したのが三つ年上の姉、乙女であった。
乙女は身長が5尺8寸もあり、坂本のお仁王さまといわれて城下でも有名であった。
14歳になり剣術道場に通い出した竜馬はにわかに顔つきまでかわり、
なんと19歳にして異例の目録をもらうまでにいたった。
ゆくゆく城下で剣術道場でもひらかせようと江戸へ修行にいくことになった。
大流儀の千葉周作の北辰一刀流がよいだろうということになり竜馬は江戸にきた。

竜馬はみるみる上達し千葉道場の塾頭になる。
同じ土佐の武市半平太は鏡心明智流の桃井春蔵道場の塾頭。
長州の桂小五郎(木戸孝允)は神道無念流の斎藤弥九郎道場の塾頭。
江戸の3大道場で位は桃井、技は千葉、力は斎藤といわれている。
皆、剣を通じ知り合いになっていく。
そんなおりであった、ペリーの黒船がきたのは。
江戸は戦争状態になり各藩は江戸の防備を命ぜられた。
竜馬も武市半平太も土佐藩邸につめ、海岸の防備についた。
日本中、攘夷論で沸騰しどこからともなく尊王攘夷論がもちあがった。
土佐で人望のある武市半平太も尊皇攘夷をかかげ運動していく。
しかし武市半平太は上士ではなく下士であった。正確には白札という身分を買い下士より少し身分がいい。
下士では藩の要職につくことはできない。剣術道場を開くくらいが限度であった。

剣術の他流試合で竜馬が桂小五郎に勝つところで一巻は終わり。

斎藤道場の娘、千葉さな子がいい味出してます。
NHKドラマでは恋愛ドラマのようになっている。
千葉さな子は生涯独身を通し竜馬とは婚約者だったと語っていたという。

後年、竜馬が口ぐせのようにいったというセリフ
「衆人がみな善をするなら、おのれひとりだけは悪をしろ。
逆もまたしかり。英雄とは、自分だけの道をあるくやつのことだ。」