新史太閤記読書記録 りょう99@笠原良太

下から書いてます。


■2012年3月17日
「新史太閤記」 下 司馬遼太郎著 新潮文庫

秀吉は兵糧攻めや水攻めなど城攻めが得意である。
それに反して家康は城攻めが苦手で野戦が得意である。
秀吉は毛利領を水攻めをしていた。
そんなおり明智光秀の謀反により信長が本能寺で倒れたことを知った。
秀吉は毛利を水攻めしていたのだが、
信長が死んだことを毛利が知る前に毛利と和睦すると中国大帰しをおこなった。
明智光秀から見ると毛利と戦っていた秀吉がこんなにはやくもどってくるわけがないと思った。
秀吉のこの早さがなければ明智光秀は次期政権を作っていたかもしれない。
しかし秀吉は帰ってきた。信じられなーい。
山崎の合戦で秀吉は光秀に勝ち光秀は逃げるところを土民に殺された。
この後織田家相続争いに発展する。
世継ぎの織田信忠も亡くなってしまったので相続争いが激化する。
織田信長の子には織田信孝、織田信雄などがいたが、秀吉は信忠の長男のまだ3歳の三法師を担いだ。
柴田勝家などは織田信孝を担いだが、秀吉は幼児の三法師を担いで織田家を奪う考えである。
賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家を破ると織田家相続争いも片付いたかに思われた。
ところが伊勢の織田信雄は徳川家康に助けを求めた。
秀吉と家康の尾張での小牧、長久手の戦いがはじまった。これは家康の勝ちに終わった。
秀吉は戦略を変え、伊勢の織田信雄を責め降伏させた。家康は国元に帰った。
秀吉は家康に上洛してもらいたくて朝廷から官位をもらってやったりしたのだが家康はがんとして上洛してくれない。
秀吉は妹の朝日姫と秀吉の母を家康のもとにおくりやっと家康に上洛してもらった。
ここまででこの小説は終わっている。まだ北条征伐や朝鮮出兵などあるのだが。

  

■2012年3月12日
「新史太閤記」 上(全2巻) 司馬遼太郎著 新潮文庫

秀吉は小さい時から猿に似ていた。皆に猿、猿といわれていた。
秀吉は農民の子だが口減らしのためか寺にいれられた。
そのせいか字も書けるし銭勘定もできた(ホントかはわからない)
しかし悪賢しかった秀吉は寺をおいだされ、お金を針にかえ各地を放浪した。
今川家の松下家で奉公したりもした。
しかし猿ににている秀吉はいじめられて松下家で暇をもらって地元の尾張に帰った。
尾張では織田信長が支配していたが秀吉は信長が気に入り直訴して家来にしてもらった。草履取りである。
信長は秀吉がなにかと気が利くのでだんだん重宝がるようになった。秀吉はどんどん出世した。
信長は桶狭間で今川義元を破り天下取りの階段を登りはじめた。
しかし川向こうの美濃をとるのには苦戦した。美濃をとるには川向こうの墨俣に城を築かなければならなかった。敵陣である。
誰もできなかった墨俣に秀吉は城を築いてみせた。秀吉の活躍がはじまった。
墨俣に城を築いたのには野武士をつかった。各地を放浪した秀吉は野武士の蜂須賀小六と昵懇になっていたのだ。
秀吉は諜略して美濃の地侍たちを味方につけていった。なんといっても竹中半兵衛を味方につけたのは大きい。
秀吉のおかげか信長の実力か稲葉山城を降して美濃をとることができた。美濃を岐阜と改めた。
岐阜をとると信長の力を頼んで足利義昭をともなって明智光秀が仕官してきた。
信長の妹市姫と近江の浅井長政に嫁がせると足利義昭がきてわずか2ヶ月で京を占領して足利義昭の館を建て将軍につけた。
そして京都守護職についたのは秀吉だった。

この調子で書くとかなりの長文になるのでこれくらいにしておこうと思う。
重要なことをあげておくと、朝倉攻めの時に浅井に背かれしんがりをしたけどなんとか助かった。
浅井の城をおとし、秀吉が北近江をもらいうけたこと。
柴田勝家とそりがあわないこと。上杉攻めでケンカして近江に帰って信長に怒られる。
竹中半兵衛につぐ軍師として黒田勘兵衛を得て毛利責めをすすめたこと。