三国志7巻8巻読書記録 りょう99@笠原良太

三国志 全8巻 吉川英治著 講談社 より  9回目(2005年前半に1〜6巻は読んでる)

りょう99こと笠原良太(かさはらよしたか)作成

2004年6月14日更新 8巻おわり
2004年6月13日更新 8巻はじめ
2004年6月12日更新 7巻おわり
2004年6月11日更新

2004年6月10日更新
2004年6月 9日更新

三国志 7巻   

救民仁愛を旗として起こったのが蜀の劉備玄徳であり、
漢朝の名をかり王威をかざして覇道(はどう)ををいくもの魏の曹操であり、
江南の富強と士馬精鋭を蓄えて常に遡上(そじょう)を計るもの呉の孫権であった。

魏の曹操、呉の孫堅、蜀の劉備。
3国に統一された中国大陸。
その3国の中心地ケイ州をめぐって3国が争われることになった。
ケイ州は関羽にまかせられていた。

魏の曹仁が関羽のいるケイ州に攻め込んできた。
関羽は曹仁を軽くおいはらい逆に魏の領国にまで攻め込む勢いだった。
皆、関羽が攻めて来ると関羽の名前を聞いただけで逃げ出してしまうのだった。
このとき司馬懿仲達は、呉に関羽の後ろをつかせようと献策し使者を出した。

呉は関羽の留守のケイ州に攻め込もうとすると以外にも守りは堅かった。
呉は関羽をあざむくため、まだ無名だった陸遜にケイ州攻略をまかせることにした。
関羽は大いに笑い喜んで呉方面の兵力をさいて魏の方面へ動かしていった。
呉は兵力が薄くなったトコロを一気にケイ州本城まで攻め込んで奪ってしまった。

関羽はかねて孔明から
北は曹操を防ぎ、東は孫権と和すようにっといわれていたことを忘れていた。
呉の孫権の世子の一人息子と関羽の娘の婚姻の話ももちかけられたが、
犬ころの子に、虎の娘をやれるかっとつっぱねてしまったのだった。
魏と呉、両国に攻め立てられ、呉の大軍に囲まれ関羽の最後となった。
赤兎馬は呉の武将にあたえられたが関羽が死んだその日から草を食べなくなってしまった。

以上、7巻130ページまで。。


曹操もすでに65歳である。
戦陣にある日は、歳を知らない曹操でも、少し閑になじみ栄耀贅沢をほしいままにしていると、どこが痛む、ここが悪いと、とかく体のことを訴える日がおおくなった。
どうも近頃体調がすぐれないのは関羽の霊でもたたっているのではないかっと思うようになった。
なにかもののけにとりつかれているらしい。
毎晩うなされて、とりみだして乱心するというようなことまであった。
ついに曹操もショウソウしきって死んでしまった。
曹操、彼のために惜しむものは、晩年にいたって、忠良の臣の善言に耳をかさず
ついに魏王を僭称し、さらに、漢朝の帝位をもうかがうまでに増長したことにある。
彼が若年から戦うごとに世の群雄に臨む秘訣してかかげた「尊朝救民」は
為にまったく自己が覇権をにぎるだけの虚言にすぎなかったことを晩節のときにきて
自ら暴露していることであった。
英雄も老いれば愚にかえるかっと長嘆直言した良臣も、いまは多く九泉の下へ去っている。

曹操の後をついだのは長男の曹丕であった。
曹丕が魏王についてから不思議な吉事がつづいた。
鳳凰(ほうおう)がまいおりたっとか。麒麟(きりん)があらわれたっとか。龍が出現したっとか。
今、吉祥があいついだ。これは魏が漢に変わって天下を治めよ、っという啓示に他ならぬものである。よろしく魏王にすすめ、漢帝に説き奉らせて受禅の大革をおこなうべきである。
っと勝手な理屈をつけて帝位を魏に奪う大陰謀を公然と議するようになった。
麒麟も鳳凰も龍も、遠い地方に現れたものではなく、どうやらこれら重臣たちの、
額と額の間から出たものらしかった。
魏臣は帝(献帝)にせまった。
おそれおおいことですが、もう漢朝の運気はつきています。
御位を魏王に譲り給うて天命におしたがいあらんことを。
帝はあってなきものがごとく、帝のまわりには一人の人もいなくなってしまった。
この上は魏王に世を譲り、朕は身を隠して唯ひたすら万民の安穏をのみ祈ろうと思う。

勅使は魏王宮に降った。
曹丕は詔書を拝すや、直ちに譲りお受けせんっと答えそうな様子に、
司馬懿仲達はあわてて
いけません。そう軽々しくお受けしてはっとたしなめた。
たとえ欲しくてたまらないものでもすぐ手を出してはいけない。
何事にもいわゆる再三謙辞して、しこうして受く、っというのが礼節とされている。
まして天下の誹りをくらますには、より厳かに、その退謙と辞令を誇大に示すのが
策を得たものではないでしょうか。
司馬懿仲達は眼をもって、そう主君の曹丕にいったのである。
曹丕は再三辞退して三度めにそれを受けた。
曹丕すなわち魏帝となり、以後国名を大魏と号した。
献帝は田舎に落ちていった。そして翌年亡くなってしまった。

以上、7巻180ページまで。。


関羽の悲報を聞き寝込んでしまった劉備だった。
しかし呉への復習心がふつふつとわき上がってくるのだった。
そのうち曹操の死の報も聞こえてきた。
長年の好敵手を失ったむなしさと、我もまた60歳、
やがて自分の上にも必然来るべきものを期せずにいられなかった。
劉備は、自分の眼の黒いうちに呉を征し、魏を滅ぼして、理想の実現を見ようとする気が、老来いよいよ急になっていた。

曹丕が大魏皇帝の位についたという報も聞こえてきた。
何たることだっと痛憤して、日夜、世の逆しまを痛恨していた。
都を追われた献帝は、その翌年、地方で亡くなってしまったという沙汰も聞こえた。
劉備がさらに嘆き悲しんでまた寝込んでしまった。

そんなおり漁師が、網をかけていたらこんなものがかかったとしらせてきた。
黄金の印章であった。印面にはこう書いてあった。
受命于天 既寿永昌  (めいをてんにうけて、きじゅえいしょう)
孔明は一目みると大変驚いて、
これこそ本当の伝国のギョクジである。洛陽大乱のときになくなったものだろう。
曹丕に伝わったのは、そのため朝廷が後から作ったものだろう。
漢朝の宗親たるわが君が、進んで漢の正統を継ぐべきであると、天の啓示されたものにちがいない。
孔明は劉備にいった。
孔明 「今こそ、皇帝の御位について、漢朝の正閏(せいじゅん)を正し、祖廟(そびょう)の霊をなぐさめ、またもって万民を安んずべき時でありましょう。」
劉備 「そちたちは、予をして、末代までの不忠不義の人とするつもりか」
孔明 「逆子曹丕と、わが君とを同一視するものではありません。彼の如き大罪を、いったい誰がよく懲らしますか。景帝のご嫡流たるあなた様以外にはないではございませんか」
劉備 「まだ一つの王徳も施さないうちに、たとえ後漢の朝は滅んだにせよ、予がそのあとを襲ったら、やはり曹丕のような悪名を受けるであろう。ふたたび言うな。予にはそんな望みはない」
孔明は黙然と退出して、寝込んでしまった。
劉備は孔明のおみまいにいった。
孔明 「紛乱の暗黒を統べ開き、万代にわたる太平の基をたてるは、天に選ばれた人のみがよく為し遂げることで、志さえたてれば誰でも為し能うものではありません。不肖臣亮が櫨を出てあなた様につかえたのは全くその人こそあなた様をおいて他にないと信じたからでした。」
劉備 「よくわかった。予の思慮はまだあまりにも小乗的であったようだ。予がこのまま黙っていたら、かえって、魏の曹丕の即位を認めているように天下の人が思うかも知れない。軍師の病がなおったらかならず真言を容れるであろう。」
劉備は、ギョクジをうけ、蜀の皇帝たる旨を天下に宣したのであった。
国は大蜀と号した。
大魏に大魏皇帝たち、大蜀に大蜀皇帝がたったのである。

劉備は呉に対して関羽の仇を討つべく行動を起こした。
いまはその時ではないっと反対者がおおく、孔明も反対したが、張飛にもせかされ、
蜀軍75万は呉にむけて成都を発した。
ところが張飛は急に無理な陣ぶれを発したことから部下に反感をかい寝首をかかれてしまった。
実におしむべきは張飛の死であった。
好漢おしむらくは性情粗であり短慮であった。
張飛55歳であった。

あっ。張飛が。。。っと劉備は、めまいをおぼえて危うく根絶しそうになった。
悲嘆にくれていると、張飛の子、張苞が、先鋒の端にお加え下さいっとやってきた。
悲しみのうちにも一つの歓びと、大いに気をとりなおした。
そこへ、関羽の子、関興もやってきた。
劉備は涙を新たにするのだった。

以上、7巻200ページまで。。


張飛の子、張苞、関羽の子、関興、2人を先鋒にして呉の国に攻め入った。
張苞、関興の2人はまた連戦連勝であった。
虎の子に犬の子なしっである。
張苞、関興も父同様に義兄弟のちぎりをかわした。

呉では国家の柱になる人間が今、欠けていた。
いままで周瑜、魯粛、呂蒙などにひきつがれていたが周瑜、魯粛はもとより呂蒙もなくなってしまっていた。
ここに国家の柱として総司令官として抜擢されたのは、やはりまだ無名の陸遜だった。
皆、陸遜では無理だ。これで呉の国も終わりだっと陸遜を嘲笑するのであった。
陸遜の最初の命令は、
攻め口をかたく守り、敢えて進まんとするなかれ。一人出て戦うもこれを禁ずっであった。
皆、陸遜に対して非難囂々(ひなんごうごう)であった。

蜀軍の方では、その主力を水軍に移しはじめていた。
呉の本土へ深く攻め入り、有無なく、呉王孫権との決戦を心に期していた。
毎日百里以上も呉へ前進した。
蜀軍は八百余里のあいだ、江に添い、山に拠り、いまや四十数カ所の陣地をむすび、その先陣は船行続々呉へ攻め下っていた。
国元に残っている孔明はその報を聞き
孔明 「ああいけない。誰がそんな作戦をおすすめしたのか。漢朝の命数すでに尽きたか」
   「なぜそのように落胆なされますか?」
孔明 「水流にまかせて攻め下るは易く、水をさかのぼって退くは難い。これ一つ。またソウ原をつつんで陣屋をむすぶは兵家の忌み、これ二つ、陣線長きに失して力の重厚を欠く、これ三つ。禍をさけたまえと、極力お諫め申し上げてくれ」

   「蜀を破る法とは?」
陸遜 「それは今、天下に孔明よりほか知るものはないであろう。幸いに、この先陣に孔明はいない。これ天が我に成功を与えるものだ。」
出て戦うことをしなかった呉軍はいっせいに大攻撃にうつった。
待っていた東南の風。劉備のまわりそこかしこに火が迫ってきた。
ここに立って初めて、玄徳は陸遜の遠大な火計の全貌を知ったのである。
もはやこれまでっと思われた時、そこへ現れたのは留守に残してきた趙雲だった。
孔明がこの危機を見通して趙雲を援軍によこしてくれたのだった。
劉備は白帝城に退いて入ったときには75万の大軍がわずか数百騎になっていた。
全軍総崩れにおちてからは、7百余里をつらねていた蜀の陣々も、洪水に分離されたように、その機能も連絡も失ってしまい、各個各隊思い思いに、呉軍に蹂躙されるほかなかった。
まさに全滅であった。
劉備は、丞相(孔明)の言葉にしたがっておれば、今日のような憂き目には立つまいにっといって嘆いた。
劉備は白帝城を永安宮と読んで再び蜀に帰ることはなかった。

陸遜は深追いをして劉備をどこまでも追いかけるようなことはしなかった。
まだ陸遜に不審を抱く者もいたが、
魏軍がこの蜀呉の戦争の虚をついて呉に迫ってきたのだった。
陸遜は、やはり思ったとおりだと、すぐさま魏に対して準備したのだった。
呉軍は、蜀に大勝利したいきおいそのまま魏軍を破った。連戦連勝だった。
曹丕も退却していった。

以上、7巻276ページまで。。


劉備の病状は篤かった。
成都に帰って、ゆるゆるご養生あそばしてはっとすすめられたが
劉備は、この敗戦をなして、何で成都の臣民にあわせる顔があろうぞっといった。
病はようやく危篤にみえた。孔明はかけつけてきた。
劉備は孔明にいった。
太子劉禅は、まだ幼年なので将来はわからない。もし劉禅がよく帝たるの天質をそなえているものならば、御身が補佐してくれればまことに歓ばしい。しかし、帝王の器でない時は、丞相、君みずから蜀の帝となって、万民を治めよ。
孔明は拝泣して、手足のおくところも知らなかった。何たる英断、何たる悲壮な遺詔であろう。
太子が不才ならば、汝が立って、帝業を完うせよというのである。
孔明は龍床の下に頭を打ちつけ、両眼から血を流さんばかり哭いていた。
ここに劉備も亡くなってしまった。劉備63歳であった。

玄徳の死は影響するところ大きかった。
誰よりも喜んだのは魏帝曹丕で、
この機会に大軍を派せば、成都(蜀の首都)もおとすことができるのではないかっといった。
「孔明がおりますよ」っと軍師の一人のカクはその軽挙にはかたく反対した。
するとひとり起って、蜀を伐つは、まさに今なり、今をおいて、いつその大事を期すべきかっと
魏帝の言に力を添えた者があった。
司馬懿仲達であった。
司馬懿は、蜀を5方面から大軍をもって攻め込もうとする案をたてた。
南蛮から孟獲、魏の2路から魏軍、呉から、地方のえびす勢(北方?)
5路50万という攻め口を防ぐことはできないだろうっというものだった。
孔明も一時この国難にひきこもってしまったが、一路に趙雲、また一路に馬超、などと一路一路つぶしていき、呉とは逆に蜀呉同盟を成立させてしまった。

蜀呉同盟に怒った曹丕は呉に攻め込んだ。
このとき魏軍はまた火計をうけ全滅にちかい被害をうけた。
なんでもこのときうけた魏の損害は曹操時代の赤壁の大敗にも劣らないものであったという。

蜀では、
魏が大敗して兵力を損じ、呉とは同盟があるので、
孔明はここでたびたび反乱をおこす南蛮を討伐しにいき
南蛮王孟獲が服するまで7度捕獲しそのたび逃がした。
ついに孟獲も心から服し南蛮は王化に服した。

曹丕が40歳の若さでなくなってしまった。
曹丕の太子曹叡が大魏皇帝の位についた。

司馬懿仲達はここに西涼の兵をまかされることになった。
辺境の西涼をまかされた司馬懿に誰もなんともおもわなかったが、
それを聞くと、一人愕然として唇をむすんだ人があった。ほかならぬ孔明であった。
いやもう一人驚きをなして孔明のもとを訪れた者があった。馬謖であった。
馬謖 「司馬懿仲達。あれは魏一国の人物というよりは、当代の英雄と私はみておりましたが。」
孔明 「後日、わが蜀に憂いをなす者があるとすれば、おそらく彼であろうよ。大魏皇帝を曹叡がうけたことなどは、心にかけるまでもないが。」
馬謖と孔明は策をねった。
いわゆる、司馬懿仲達は謀反の兆しがあるっと世上に流布したのだった。対敵国内流言策であった。
これは徹底しておこなわれ成功した。
要するに司馬懿に兵馬を持つ地位を与えたからいけないのだっと司馬懿は官職をはがれ、その場から故郷に帰されてしまった。
孔明はいったい物事に対して余り感情をあらわさない人であるが、これを聞いたときは、
「司馬懿が西涼にあるあいだは、如何とも意をのべがたしと観念していたが、今はなんの憂いかあらん」
っと限りなく喜悦した。

孔明は、魏を討つべく準備した。
魏は強大である。今討たなければ、あとから彼を覆すのは不可能であるばかりか、わが国が自滅するしかない。
蜀の人口は、魏の三分の一、呉の半分。
孔明の心中には惨たる覚悟が誓われていた。誰よりも魏の強大を知っている。我亡き後は誰が蜀朝を保たん、我なくして蜀なし、っと信じていた。
魏は曹操以来、今日もなお人材に富んでいる。これに反して蜀は今、関羽、張飛の武将もなく、帝は若く、朝臣は多く平凡であった。これらの点も孔明の惨心をひとしお深刻ならしめているものであった。
とどまっていれば自滅するしかないのであった。。

 

以上、7巻終了。ちょっとまだ書き直したいような。。


三国志 8巻

蜀の孔明は魏に攻め込んだ。
趙雲、張苞、関興などの活躍により連戦連勝であった。
趙雲は、張苞、関興の活躍を見て、ああ大きくなったものだなあ。張飛も関羽も地下で満足しているだろうっと思った。

ここで孔明の計りにおちなかった一人の魏の将がいた。
趙雲と一騎打ちもしたが、趙雲が逃げ出してしまうほどで、
孔明も計りにおちていのちからがら退却するほどであった。
姜維であった。
孔明は、自身侮蔑するが如く、唇をかんでつぶやいた。
「思うに、一人の姜維にすら勝つことができない人間に、何で魏を破ることができよう。」
孔明は本気になって姜維を計りにかけついに姜維をつかまえた。
孔明は姜維にいった。
「自分が隆中の草廬(そうろ)を出てからというもの、久しい間、つねに天下の賢才を心のうちでさがしていた。それはいささか悟り得た我が兵法のすべてを、誰かに伝えておきたいと思う願いの上からであった。しかるにいま御身に会い、孔明の日頃の願いが足りたような気がされる。以後、わが側にいて、蜀にその忠勇を捧げないか。さすれば孔明もまた報うるに、自分のうんちくを傾けて、御身に授け与えるであろう。」
すなわち姜維は、この日以来、孔明に師事し、身を蜀におくことになったのである。
孔明は、「姜維を得たのは、鳳凰を得たようなものだ。」っというほどであった。

ここに孔明は連戦連勝であった。
孔明は必勝をきして、長安をうばい、洛陽までくだしてしまおうと思っていた。
魏では、孔明の相手としてはじめから大将が不足だったことをさとり、
野に隠れていた大人物をあげ、これに印綬をくだして孔明にあたらせようとした。
その人とは他ならぬ司馬懿仲達であった。
先年、敵の反間に乗せられ給い、流言を信じて彼を追放したことは、かえすがえすもおしいことであった。
司馬懿がたった。
孔明は、それを聞くと愕然として首をたれて青ざめてしまうほどであった。
馬謖 「丞相、いかがなさいました。何をそんないお驚き遊ばすのですか。タカが司馬懿ごときに。」
孔明 「いや、そうではない。わが観るところでは、魏で人物らしい者は、司馬懿一人といってもよい。孔明のひそかに怖るる者も実に司馬懿仲達一箇にあった。」

司馬懿がたった上は、街亭という一高地があんぜられた。
街亭は漢中のノドにあたる。街亭をとられれば、兵糧運送の途はここにとぎれるのである。
司馬懿ならこの街亭にすぐ眼をつけるはずであった。
馬謖が強く街亭の守りを志願するので、まだ若いと思いながらもかわいがっていた馬謖にまかせることにした。
ところが街亭の要道を守れっという孔明の命令に反して、山の上に陣取ってしまったために司馬懿に囲まれて水の手をきられたことにより馬謖は大惨敗を喫してしまった。
街亭をとられると糸がほぐれるように、次々と蜀の部隊は司馬懿にやぶられて孔明のいる城にまで攻め寄せてきた。あっという間であった。
孔明は4門をあけ、琴をひいていた。
琴のねを聞いて、司馬懿はぶるぶると身をふるわせた。
「退けっ。退けっ。」
「4門を開き、あの態らく(ていらく)は、我を怒らせ、我を誘いいれる計略である。迂闊すな。相手は諸葛亮。計りがたし計りがたし、退くにしくはない。」
魏の大軍は夜通し次々と退いていった。

蜀の兵も漢中に退いた。
司馬懿はあとで、孔明の城には弱兵が2千人ほどしかいなかったことを知った。
司馬懿は何万もの大軍であった。
初めて、孔明の計りと知った司馬懿は、
「我勝てり、併しついに、我孔明に及ばずであった。」っとかこった。

漢中に帰った孔明は馬謖を処罰しなければならなかった。
馬謖 「高きに拠ってって低きを視るは勢いすでに破竹。っと兵法にもありますから」
孔明 「ばかっ。生兵法。まさに汝のためにあることばだ。汝は、汝は、死刑に処す。」
かわいがっていた馬謖である。
馬謖の首をみて孔明は、
孔明 「ゆるせ、罪は、予の不明にあるものを。」
っと面(おもて)を袖(そで)におおうて、床に泣き伏した。
(・・・哭いて馬謖を斬る・・・)

以上8漢122ページまで。


蜀呉同盟はなおケンザイであった。
魏が呉を侵すときは、蜀は直ちに、魏の背後を脅かさん。もしまた、魏と蜀とが相戦う場合は、呉は魏の側面へ向かって側面からこれを撃つの義務を持つ。
魏と蜀の街亭の戦いが開始されるや、呉は当然、魏の側面へ向かって軍事行動をおこさなければならない立場であった。
ようするに蜀と魏の戦争をみて呉は魏に向かって攻め込んだ。
魏も蜀に大勝したいきおいそのまま呉に向かって攻め込んだ。
これは呉の大勝に終わった。
司馬懿はまだ総大将ではなく、総大将が敗れてしまい司馬懿の軍も不利をうけて敗退した。

趙雲がなくなった。
すでに劉備、関羽、張飛なく、五虎大将軍、関羽、張飛はじめ、馬超、黄忠、趙雲ももうなかった。
蜀では軍師孔明を筆頭に、張苞、関興、魏延、姜維などが主に活躍をみせていた。

孔明は魏の敗退をみて再び魏に侵攻した。
座して滅びんよりは、むしろ出でて討つべきである。
蜀から出てくるにはいつも兵糧の問題があった。
道がきわめて険阻なため兵糧の輸送が大変なのであった。
司馬懿はそこに眼をつけ持久戦を叫んだ。
それでもまた司馬懿は総大将ではなく司馬懿の意に反して孔明に戦いをいどんだ将はみな帰って孔明の計りにおちた。
敵の計を用いて敵を計る機をつかむ。孔明のおはこであった。
こないだの街亭の戦いのように兵糧輸送の道を断たれる前に孔明は退却した。

蜀魏両国の消耗を喜んで、その対戦のいよいよ長くいよいよ酷烈になるのをねがっていたのは、いうまでもなく呉であった。
この時にいたって呉王孫権は、宿年の野望をついに表面にした。
すなわち彼もまた魏や蜀にならって、皇帝を僭称したのである。

孔明は孫権に使者を送りいった。
「いま貴国の強兵を以て魏をせめられるならば、魏は必ず崩壊を兆すであろう。わが蜀軍が不断に彼を打ち叩いて、疲弊に導きつつあるは申すまでもありません。」
呉帝(孫権)「どうしたものだろう、蜀の要請は。」
陸遜  「修好の約ある以上、容れなければなりますまい。けれど、多くを蜀に労させて、呉はもっぱら虚をうかがい、いよいよという時、洛陽へ入場するのものは、孔明より一足先に、わが呉軍であれば最上でありましょう。」

孔明は3度目のキ山出兵を決行した。
呉の陸遜も魏へ攻め入ろうとする気配をみせていた。
総大将の曹真は愕然として、総兵之印をとりだして、たって司馬懿におしつけた。
蜀の諸葛亮孔明と、魏の司馬懿仲達とが、堂々と正面切って対峙するのは、実にこのときをもって最初とする。
この戦いは孔明の勝ちであった。
孔明はいつも司馬懿の考えの上を行った。
敵の計を用いて敵を計る機をつかむ。司馬懿をもってしてもまだ孔明はその上をいっていたのである。
司馬懿は懲りてそれきり容易に動かなかった。
孔明 「うごく敵は計り易いが、まったく動かぬ敵には施す手はない。かかるうちに味方は運送に、兵糧の枯渇に当面しては、自然、形勢は逆転せざるを得まい。」
孔明はやむなくまた退却することにした。
この戦いで張苞が死んでしまい実に残念なことであった。
この戦いの後に司馬懿はいった。
「彼(孔明)の神謀は、とうてい、人智を以て測りがたいものがある。」

以上8巻199ページまで。


孔明は4度、キ山に出た。
孔明と司馬懿は再び対峙した。
正々堂々陣法を以て戦うことになった。
司馬懿は混元一気の陣を布いた。
孔明は八卦の陣を布いた。
もちろん司馬懿は八卦の陣を破る方をしっていた。
孔明の布いた陣には八つの門がある。名付けて、休、生、傷、社、景、死、驚、開。
開と休と生の三門は吉、傷と社と景と死と驚の五門は凶。
すなわち東の方の生門、西南の休門、北の開門、この三面より討って入れば、この陣かならず敗れ、味方の大勝を顕(あらわす)すものとなる。
司馬懿は、八陣の吉門を選んで猛攻を開始した。
けれど孔明の一扇一扇は不思議な変化を八門の陣に呼んで、攻めても攻めてもそれは連城の壁をめぐるが如く、その内陣へ突き入る隙が見いだせなかった。
そのうち魏軍は諸処に分裂をおこし皆捕虜になってしまった。
孔明は捕虜を裸にし顔に墨をぬって追い返した。
司馬懿は怒って総攻撃を加える勢いに出た。
ところが、このとき、はからざる後方からさかんな喊声と攻め鼓を聞いた。
いつのまにか迂回してきた、蜀の姜維、関興が後方におめきかかってきたのだった。
司馬懿の惨敗であった。

しかし司馬懿は手をこまねいているばかりではなかった。
蜀の国で流言をながしはじめたのだった。
たれいうとなく、孔明はやがて漢中に一国を建て自らその主となるハラらしい、などという風説が立ちはじめた。
劉禅(劉備の子)は、孔明を召還してよびもどした。
孔明は天を仰いで大いに嘆き、落涙長嘆してやまなかったという。
いま戦況は我に有利に展開し、ようやく長安をのぞむ日も近からんとする時にこの事あるは、そも天意か、はた蜀の国運の未だ開けざる約束事か。
孔明は、めくらましに退くほどカマドの数をふやしていき、兵を損じることなく蜀に帰ることができた。
劉禅は孔明に会うと、初めて疑いを解き、全く朕のあやまりであったと深く後悔していった。

流言を流していた内官をつかまえた。
内官 「戦いがやみさえすれば、暮らし向きも気楽になり、諸事以前のような栄耀がみられると存じまして、つい・・・。」
孔明 「もし蜀が卿らのような考え方でいたら、戦いはわれから避けようとしても、魏からおしつけてくるし、呉からももちこんできて、好むと好まざるとにかかわらず、蜀境の内において、今日の戦争をしなければなるまい。しかもその戦いは敗れるにきまっており、その惨禍は、キ山へ出て戦う百倍もひどいものをみただろう。魏や呉の兵に家も国土も蹂躙され、永く呉の奴隷に落とされ、魏の牛馬にされてこきつかわれるは知れたこと。今日の不平と、その憂き目と思い較べて、いずれがよいと欲しているか。」
孔明 「しかし、恐らくこれは敵国の謀略だろう。いったい、わが軍、官、民の離反をかもすような風説は、誰からでたのか。卿らは誰から聞いた。」
その出所をだんだんたぐってみると、苟安という者であることが明瞭になった。
保安隊がその住居へ捕縛に向かったが、苟安はすでに魏の国へ逃げうせていた。

孔明は5度キ山に出た。
孔明は軽く司馬懿を翻弄するのだった。
しかし、またすぐ退却することとなった。
魏と呉の間に秘密条約がむすばれた形跡ありとつたわったからであった。
しかし国元に帰ってみると、虚報だったことがわかった。
その報を伝えた李厳は、軍需増産の実績がはなはだあがらないので、科(とが)を丞相孔明に転嫁(てんか)しようとしたものだった。

関興が病没して、すでに関興、張苞なく孔明の落胆はおおきかった。

孔明は3年間内政につとめ6度キ山に出た。
司馬懿は孔明の計をみぬき勝利した。
孔明がかくの如き計をあやまったことはめずらしいことであった。
日頃の自身も少なからず動揺をあたえられたに違いない。
孔明は蜀呉同盟を思い出し、呉に魏の側面をついてもらうように使者を出した。
その後、孔明はおかえしとばかりに司馬懿を計におとし勝利した。
さそいだされて大敗北をとげた司馬懿は一にも守備、二にも守備と、かたく守ってあえて戦うことをしなかった。
それでもまた兵糧輸送をめぐって戦いになりまた司馬懿は孔明の計りにおちて、たった一騎カブトを落として逃げ落ちるほどであった。
蜀の将はこの勝ち戦から帰ってきていった。
「敵の兵糧2万石ろかくしました。」
「司馬懿を追いつめ追いつめ、こっぴどく懲らしめてやりました。」
「そうか、よくこそ」っと孔明は各自の者へ向かって賞賛といたわりを惜しまなかった。
けれど彼の心中には、ぬぐいきれない一抹のさびしさがあった。
いまもし関羽の如きものがいたら、こんな小戦果を以て、誇りにするのはおろか、到底、満足はしなかったろう。かえって、
「丞相からこれほどの神謀を授かりながら、肝腎(かんじん)な司馬懿を取り逃がしたことは、なんとも無念であります。申し訳有りません。」
っと慚愧叩頭(ざんきこうとう)して、その罪をわびてやまないに違いない。
ああ関羽なし、張飛なし、また幾多の旧幕僚もいつか減じて、ようやく、蜀中人はいなくなった。
口には出さないが、孔明の胸裡にある一点の寂寥(せきりょう)というのは実にそれであった。
ああ、人がいない。。。

以上8巻288ページまで


呉は、蜀呉同盟というものがあるので、蜀から要請されるとムゲに出兵を拒むこともできない。
っで、出兵はするが、魏へあたってみて、「これはまだ侮れぬ余力がある」っと観たので、陸遜は、さっさと引き上げてしまった。

蜀と魏の戦争はいまだ続いていた。
魏の陣営は、まったく守備一方に傾き、みだりに敵を刺激し、令なく戦線を越ゆる者は斬らんっという厳戒までふれているほどであった。
うごかざるを討つは至難である。孔明も計のほどこしようもなかった。
司馬懿 「勝算がない。いかに心を砕いても、孔明に勝ち得る虚が見いだせない。正直、今のところ、わしは唯、負けぬことに努めるだけで精一杯だ。」
ところがしばらく小競り合いをくり返すうち、魏軍の勝利がおおくなった。
戦えば必ず勝ち一ヶ月も続いた。蜀の兵は弱くなっている。
司馬懿 「多年、うれいをなした蜀の根を断つは、今日にあるぞ。」
っと全軍で一大決戦をいどんだ。戦えば必ず勝つのである。
蜀軍はひとのみにされた。まさに魏軍は無人の境を行くが如きはやさと激しさであった。
司馬懿 「まて、この地形はいぶかしい。」
谷中に引き込まれているような、「引き返せ。」っと叫んでも、狭い谷口に次々と大軍が押し入ってきて引き戻ることはできなかった。
時こそあれ、一発の轟音が谷のうちにこだました。
っと思うと、断崖の上から驚くべき巨大な岩石が山をふるわせていくつも落ちてきた。
そして谷口は、累々たる大石に大石を重ねて封鎖されてしまった。
そして、4方から飛んできた火矢は、いつのまにか、谷中を火の海にした。
孔明は1ヶ月も前からわざと負け続け、必勝をきっしてこの谷へ司馬懿を導きいれたのである。
谷には、柴をつみ、爆薬をしかけてあったのだった。
魏の兵の大半は焼け死んだ。
司馬懿も生をあきらめきっていたところ、時しも大夕立が降ってきた。
ために谷中の火もいちどに消えてしまった。
司馬懿 「夢ではない。天佑だ。」
司馬懿は、谷中を脱出していきのびることができた。
この日、魏の失った損害というものは、物的にも精神的にも、開戦以来、最大なものといえる程であった。
しかし、この戦果をみてもなお、蜀軍のうちには、ただ一人、天を仰いで、痛涙に暮れていた人がいる。いうまでもなく孔明その人である。
孔明 「事をはかるは人にあり。事をなすは天にあり。ああぜひもないかな。」
彼が、司馬懿を捕捉して、今日こそと、必殺を期していた計も、心なき大雨のために、谷の火は一瞬に消え、まったく水泡に帰してしまった。 
孔明のうらみは如何ばかりであったろう。

以上8巻317ページまで。。


司馬懿はまた守りに徹してでてこなくなった。
両軍は以前、退陣のままだった。
孔明は持久戦に便利な五丈原に出てきた。
司馬懿は持久戦をもってすればいささか自身があったので喜んだ。
魏の陣営ではうごかざる間にも、驚くべく兵力を逐次加え、今では蜀より8倍にたっする兵力を結集していると思われた。
寡兵の蜀陣としては、誘ってこれを近きに討つ。その一手しか断じて他に策はなかったのだ。
しかし司馬懿はそれを看破している。
さすがの孔明も全く無反応な辛抱強い敵に対しては計のほどこしようもなかった。
孔明は司馬懿に女性の服を送った。
「大軍をかかえながら、足下の態度は、腐った婦人のように女々しいのはどうしたものか。武門の名をおしみ、身も男子たるを知るならば、出でていさぎよく決戦せずや。」
司馬懿は使者に聞いた。
司馬懿 「孔明はよくねむるかの。」「食事はどう。」
使者  「朝ははやく起き、夜は夜半に寝、軍中のお務めに倦(う)むご様子もみえません。お食はごく少なく、一日数升を召し上がるにすぎません。」
司馬懿は使者が帰ると、「孔明の命は久しくあるまい。あの激務と心労に煩わされながら、微量な食物しか摂っていないところをみると、あるいはもういくぶん弱っているのかも知れない。」

使者が帰ってくると孔明は様子を聞いた。
孔明 「司馬懿、彼はわが命数まで計っている。」
事実、孔明は病んできていたのである。
孔明は、夜空を見上げた。「ああ、美しい」っと秋空の天を仰ぎ見ていたが、突然、何事かに驚きうたれるように、寒気が催してきたっといって内にかくれた。
孔明 「こよい、何気なく、天文を仰いで、すでに我が命が旦夕にあるを知った。」
またある夜、不思議なながれ星があった。
三つもだ。そして二つは還った。一つは蜀の軍営におちたきりだった。
司馬懿は陣外に出て空を仰いでいた。
おそらく孔明は危篤におちているものとおもわれる。
あるいは死は今夜中かもしれない。
天文をみるに将星もすでに位を失っている。
孔明は病床からみえる北斗星のひとつを指さして、
「あれ、あのこうこうとみゆる将星が予の宿星である。見よ見よ、やがて落ちるであろう。」
一夜、司馬懿は、天文をみて愕然とし、また、歓喜して叫んだ。
司馬懿 「孔明は死んだ。」
今、北斗を見るに、大なる一星は、昏々と光りをかくし、七星の座はくずれている。
こんどこそまちがいない。今夕、孔明は必ず死んだであろう。
司馬懿は総攻撃をかけた。
司馬懿 「孔明のいない蜀軍は、これをふみつぶすも、これを生け捕るも、これを斬るも、自由自在だ。こんな痛快なことはない。」

しかし目の前に現れたのは、あの孔明の四綸車であった。
司馬懿 「孔明はいきていた。孔明、なおあり」
っと驚愕、狼狽して我先に馬を返したので、
魏の大軍は、そのすさまじい怒濤(どとう)のすがたを急撃に押し戻されて、
馬と馬はぶつかりあい、兵は兵をふみつぶし、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の大混乱を現出した。
蜀の諸将と、その兵は、思うまま、これに鉄槌(てっつい)をくわえた。
司馬懿はどこまでもどこまでも逃げていったのであった。
(・・・死せる孔明、生ける仲達を走らす・・・)

あの四輪車の孔明は後で聞くと木像であった。
孔明はやはりなくなっていたのだ。
司馬懿はいった。
「真に彼や天下の奇才、おそらくこの地上に再びかくの如き人をみることはあるまい。」

蜀の国は姜維がなお保ち続けるのであった。。。

孔明が死んで30年後。蜀は魏に滅ぼされる。

その後、魏では司馬懿の孫、司馬炎がクーデターをおこし実権をにぎり晋を建国しました。
司馬炎は呉も滅ぼして中国を統一しました。
(三国ことごとく司馬懿に帰す)

おわり


是非、吉川英治さんの三国志を読んでいただきたいです。