世に棲む日日読書記録2 りょう99@笠原良太
下から書いてます。
■2015年1月10日(土)
「世に棲む日日(四)」 司馬遼太郎 文春文庫 読破
第一次長州征伐で恭順して佐幕派になってしまった長州。
外国の連合艦隊に敗れた長州。
しかし野に隠れていた高杉晋作は兵をあげた。
たった80人の挙兵だったがそれが長州をふるわせた。
一転して勢力を拡大したクーデター軍。
高杉晋作のクーデターは成功し長州は尊皇攘夷が吹き返した。
しかし外国を視察してきた伊藤博文、井上馨らの話を聞き
高杉晋作も開国派になっていた。
外国の艦隊によって敗れたが英国(イギリス)が長州を支援してくれるような話もまとまった。
(ちなみに幕府はフランスの支援を受けていた。)
しかしこの話が世間にもれるとまた風向きが変わった。
高杉晋作は命をねらわれまた野に隠れてしまった。
そして第二次長州征伐がおこなわれることになった。
するとやはりあの男が帰ってきた。高杉晋作である。
高杉晋作は幕府の艦隊に船で夜襲をかけた。
幕府の船のかまには火が入っておらず面白いように砲弾があたった。
かまに火が入った頃には高杉晋作の船は去っていた。
幕府の艦隊は退いた。
また高杉晋作は九州の幕府軍にもあっさり勝った。
薩長同盟もなっていた。次の日本をになうのは薩長だった。
高杉晋作は肺結核をわずらい長州の世を見ることなく死んだ。
はやすぎる死だった。
高杉晋作の墓標に書かれた言葉。動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。
10年前にも読書記録を書いてるけど昔の方が文章がかけたな。
頭が退化してるのかなぁ。。
■2015年1月7日(水)
「世に棲む日日(三)」 司馬遼太郎 文春文庫 読破
吉田松陰が説いた尊皇攘夷の思想。
長州は朝廷にとりいったが薩摩、会津に追い落とされる。
禁門の変かな?
長州は巻き返しをはかろうと蛤御門の変をおこすが破れる。
久坂玄瑞はこの時死んだ。
また長州は下関を通る外国の船を砲撃した。
すると長州は外国の四カ国連合艦隊によって敗れた。
吉田松陰門下の高杉晋作、井上馨、伊藤博文はふりまわされた。
井上馨と伊藤博文は英国(イギリス)を視察し開国論者となっていた。
高杉晋作も開国論者となっていて攘夷派から命をねらわれる。
高杉晋作は行方をくらまし、井上馨は攘夷派に襲われ、
伊藤博文は身分が低かったため相手にされなかった。
開国派になったが佐幕派ではなかった尊皇だった。
そして幕府は長州征伐を行うことになった。
長州は恭順し尊王攘夷派は低迷し佐幕派が取って代わった。
高杉晋作が作った奇兵隊は山県有朋がしきっていた。
なんか頭がごちゃごちゃになってよくわからない???
■2014年12月30日(月)
「世に棲む日日(二)」 司馬遼太郎 文春文庫 読破
吉田松陰は再び訪れたペリーの黒船に密航した。
アメリカ(米国)に連れて行ってくれと。
外国に対抗するにはまず外国を見てこなければダメだと思ったのだ。
しかし密航には失敗し浜へ送り返されてしまった。
吉田松陰は獄に入り国元に蟄居することになった。
普通なら死罪になるところを松陰の心意気に感動した米国が寛大な処置をと口をきいてくれたらしい。
国元の長州(山口県)で開いたのが松下村塾である。
確か叔父が開いた松下村塾の名前を受け継いだのだ。
松下村塾ではたくさんの人材が育った。
第一の才に認められたのが久坂玄瑞で(たぶん)
松陰は久坂玄瑞に義兄弟になってくれと妹の文を嫁がせた。
文が2015年NHK大河ドラマのヒロインである。
そして高杉晋作や伊藤利助(博文)などもいた。
高杉の識と久坂の才が組み合ってしごとをすれば
天下におそるるものはないと松陰は言った。
桂小五郎(木戸孝允)などもいたが松陰はあまりふれていない。
江戸に出たときに松陰の方が桂小五郎の世話になったとか書いてある。
しかし松下村塾を開いていたのはわずか3年。
吉田松陰は井伊直弼の安政の大獄で死罪になってしまった。
井伊直弼は悪者だと教えられてきたけど
開国しようとした井伊直弼ははたして悪者だったろうか?
開国論者、佐幕派、尊皇攘夷、明治維新は難しい。
高杉晋作は上海を視察するメンバーに加わり外国の様子を見てきた。
みな圧倒されて外国にたてつくなどもってのほかと思うらしいが
高杉晋作は違った。
幕府を倒して尊皇攘夷をつらぬこうと。
徳川幕府のままでは日本は滅びると思った。
■2014年12月28日(日)
「世に棲む日日(一)」 司馬遼太郎 文春文庫 読破
1975年1月25日発行 457円+税
全4巻。2巻まで吉田松陰が主人公で
3巻から高杉晋作が主人公として書かれていると思います。
幕末から明治維新までの激動期を生きた長州人たちです。
吉田松陰は一度脱藩して江戸で浪人してる時にペリーの黒船がやってきた。
日本は大変驚いた。何年か前にあの清国が英国にアヘン戦争で負けていたからだ。
ペリーはまた来ると帰って行った。
吉田松陰は大砲をたくさんつんだすすんだ外国の舟を見て
自分で外国に行き外国のすすんだ技術を学ばなければと思った。
ひろく世界を偵察しなければと思った。
ペリーが帰ると今度は長崎にロシアのプチャーチンがやってきた。
松陰はロシアの舟に乗るべく長崎に向かう。
しかしプチャーチンはクリミア戦争が始まったらしく帰ってしまっていた。
また松陰は江戸に戻ってきた。
今度は再度やってくるペリーの黒船に乗り込むつもりである。
吉田松陰は佐久間象山を師とあおいだ。
吉田寅次郎松陰は小林虎三郎とともに「象山門下の二虎」と呼ばれた。